あなたを生かす、呪いになれたら   作:端取合

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悪い子だあれ


幕間 呪詛、あるいは祝福について

 扉の向こう側で、声がする。

 少女の声だ。柔らかであるのに、揺らぐことのない声だ。

 底冷えする冬の静けさのような緊張のなか。重くのしかかる緊張の源である老人の言葉を遮って、その拒絶は深く響いた。

 

「違います」

 

 少女は告げた。

 大きく張り上げたわけではない。悲痛な訴えであったわけでもない。

 

「私の弟は()()なんて呼ばれる存在なんかじゃありません。両面宿儺の器なんて名前でもありません」

 

 穏やかに。たおやかに。

 それでも凛と、言葉を紡いで。

 

「私の家族の、……――」

 

 ただひたすらに真っ直ぐで、どこまでも真摯に。

 聞いている側のほうこそが、何かに急き立てられるような声音で。

 

 

「虎杖悠仁です」

 

 

 少女は高らかに告げた。

 再びの沈黙が訪れた部屋は一枚隔てた向こうの出来事だ。

 耳をそばだてていたからには内容は分かるが、どうしようにも姿は見えないのだ。知覚できるのは声音と物音のみ。当然表情は見えることはないし、室内がどういう状況であるのか、正しいことは分からない。

 ただ、叱咤にも近しい厳かな老人の、人間を人間として換算しなかった物言いに、ひとりの少女が勇ましく切り返しただけのこと。

 呪いの王と呼ばれる両面宿儺を、件の少年――虎杖悠仁は身に宿している。

 呪術師にとって、その事実がどれほどの恐怖であるか。どれだけ脅威を孕んだものであるか。特に血筋に歴史を持ち、両肩に責任を乗せた呪術師であれば、その意識をことさら強く持つ。

老人――楽巖寺伸嘉の言い分も一蹴できるものではない。

 例えるのなら、いつ爆発するかもわからない核爆弾が隣にある日々だ。

 安全性が保障されているからとて、世の中には「絶対」というものは存在しない。息をするだけでも脅威に怯え、心が恐怖にすり減ることは目に見えている。

 呪術界の寵児である五条がどれほど器の価値を説こうと、何かあれば直ちに抹殺するのだとしても、生きているだけでこの世すべてを脅かす存在であることに変わりはないのだ。同じ呪術師であるからこそ、気に食わなくとも五条の強さは理解している。では有事の際に動けるのがあの男以外しかいない場面が来るとすれば、誰が世界を守ると言うのだ。

 当然、呪術師は動く。事によっては総動員されるかもしれない。しかしながらその戦力を以てしても両面宿儺を抑えきれない可能性があることも考慮されなければいけない。

 考えるだけで甚大な被害だ。これまで築いてきた呪術界の歴史も潰えてしまう。

 

 だからこそただの人間だとは思わない。

 だからこそ百千万億のために一を殺す。

 

 長く呪術師として生きてきた楽巖寺は〝呪い〟の何たるかをよく知っている。故に価値を天秤に掛けて最も安全性の高い選択肢を取る。

 この先を思えばこそ。

 未来を憂うからこそ。

 両面宿儺の器を、十全の力を持たぬうちに未完成のままで殺したい。しかれども、どんなに呪術師が両面宿儺の器だと断定しようとも、どれほど呪術師にとってこの世から抹消したい存在であろうとも、忘れてはいけない事実がある。

 

 虎杖悠仁という人間が、少女の家族であるということ。

 虎杖悠仁という人間が、確かに人間であるということ。

 

 誰かにとっての他人が、誰かにとっての身内であるように。誰かにとっての有象無象が、誰かにとっての掛け替えのないものであるように。

 少女が口にしたのは、つまるところそういう言葉だった。

 

 

 

 

 

「……狙ったのかねぇ」

 

 軽く眉根を寄せて、家入硝子は誰に聞かせるでもなく呟いた。

 軽い調子で「さ、悠仁を追うよ。皆も気になるでしょ?」なんて唆した五条悟は、この会話を聞かせたかったのだろうか。

 だとしたら、随分と悪趣味な野郎だこと。

 五条のことは学生時代から知っている。なにせ机を並べた人間だ。そんじょそこらに転がる顔に騙されてくれるような人間に比べれば、よっぽどその性根も破天荒さも頭に入っていたというのに。

 隣で頭を抑えた庵歌姫も同様だろう。自らの慕う先輩が呆れたように眉を顰め、苦虫潰したように唇を浅く噛んでいた。なんてことのないふうを装った自分とて、生徒たちがいなければ舌打ちのひとつでも鳴らしたに違いない。

 含みのある笑みで少年少女のちょっとした好奇心を突ついておいて、なのに煽ったあとは放置しやがって。

 扉の前で思い思いに聞き耳を立てた生徒たちの、それぞれの顔に刻まれた表情を見やる。

 涙を流している子。唇を噛んでいる子。俯いて肩を震わせる子。瞼を閉じた子。口元を覆った子。――様々な反応に、然りと家入は頷いた。

 

 虎杖悠仁は誰が何と言おうが両面宿儺の器だ。

 当の本人が善人であっても事実が覆ることはない。

 

 呪いを祓うことを生業にする呪術師にとっては嫌悪すべき存在だ。過去呪物の器となった人間がいなかったわけではないが、それでも両面宿儺という〝呪い〟はあまりにも巨悪だった。祓うことすらできない、封印でようやっとの代物。そんなものがあろうことか受肉した。

 呪術界の規定に則れば排除されて然るべきである。

 交流会前の挨拶の時点ですでに京都校とは一悶着起こしている。しかも交流会の最中には呪霊討伐に従って殺そうともしている。楽巖寺の指示であったのだとしても、従ったのなら「虎杖悠仁を殺すことに同意する」ということに他ならない。

 

 けれど。

 薄い扉を挟んだ向こう側で、少年は泣いた。家族である少女に縋って生きたいと願って、それでも宿儺とともに死ぬのだと、少年は決めていた。渦中に身を置くが故の途方もない覚悟を、年不相応の責任感とともに少年は抱えていた。

 

 極めつけは。

 呪術界に蔓延った悍ましく、なれど現実としてある所業の数々を在るかもしれない未来の可能性として、一般家庭に生まれ育った少女が語った。生きたくて、それでも地獄への道のりを歩むと決めた少年に、傍にいると少女が言った。

 

 情だ。

 まぎれもなく情だった。

 

 死と手を取り合って踊りながら、転ばないよう生きている自分たちにとって、どうしても希薄になりがちなそれ。

 

 命の危機を共有するからこそ育まれる絆がある。

 より強く、固く結びついていく同族意識もある。

 

 しかしおおよそ負の感情から生まれた繋がりは、同時に目的のためなら手段を選ばない側面があることもまた事実だった。もちろんお涙頂戴な美しい絆もあるだろうが、常に残酷さを強いる世界だ。血縁者同士とて言動には裏―――計算、策謀、戦略、戦術、利益、打算――があるような、黒い薄情に濁っている。そうしなければ次に進めなかったのもあるし、そうしなければ守れなかったのもある。

 ある種逃げにも似たこの世界の根幹に、無償というものは存在しない。

 存在するとしても世間一般での無償よりも煤けているに違いなかった。失いたくないから縛るような、喪いたくないから仕舞うような、そんな情だ。本人の意思すら踏みつけて、潰して、砕いて、そうして閉じ込めて納得する。もしくは可愛さ余って憎さ百倍で嫌悪するか、いっそ無関心で何事もなかったことにしてしまう、そんな情だ。

 だというのに。

 ありありと感じさせられた、温かな絆。無垢とは言わずとも、純粋に相手を思い思われた、その姿に確かに情を見た。正しいと表現するには語弊があったけれど、お互いに向けった想いが、あまりにも対等なものだったから。

 だからこそ。

 

 自分たちが殺そうとしたのが。

 器という化け物などではなく。

 ただの人であるのだと知って。

 

 ――どれほど心臓を絞めつけられたことだろう。

 

 家入はいい。歌姫もいいだろう。

 楽巖寺は当然のこと、夜蛾も五条も、いざとならばそれらすらも切り捨てられる。

 

 ――では、生徒たちは?

 

 呪術師と言えど、まだまだ子どもだ。

 呪術界の子どもは子どもではないというが、少なくとも家入から見る京都校の生徒たちは、感情を理性で取り繕うことはできても、割り切れることはない甘さを持っていた。普通であれば美徳とされる感性も、呪術師として生きるのならばこれほど酷なことはない。

 育ち盛りのやわい情緒へとしがみつかれては。

 

(この子たちはきっと、もう虎杖悠仁を簡単には殺せまいよ)

 

 これが悪趣味ではなく何というのだ。

 じりじりとせり上がってくる熱は、煙たさが恋しくなったからだ。家入は口寂しさを誤魔化すように、音にもならない舌打ちをひとつ喉の奥で飲み込んだ。

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