もしユメ先輩が居なくなった直後のホシノが現代のアビドスに来たら 作:気弱
翌朝。アビドス高等学校、対策委員会の部室は、さながら激戦を終えた後の「野戦病院」のような惨状を呈していた。
「い、痛い……指一本動かすだけで、全身が悲鳴を上げてるわ……」
セリカが机に突っ伏したまま、震える声で零す。その指先さえ、昨日の反動でピクピクと痙攣していた。
「ん。……階段を上るのに、5分かかった。……人生、最大の危機。呼吸する筋肉すら痛い」
クロコとシロコも、ソファから転げ落ちたまま、打ち上げられた魚のようにピクリとも動けない。
「ひぃん……ホシノちゃん、やりすぎだよぉ……。私、腰が砕けちゃった……」
ユメ先輩が情けなく畳の上でのたうち回っていると、ドアが軽やかに、そして冷酷なほど爽やかに開いた。
「おっはよー、みんな! なんだか景気が悪いねぇ?」
そこには、昨日あれだけ縦横無尽に動き回ったとは思えないほど、肌も艶々で足取りも軽いホシノが立っていた。その手には、不気味な蛍光色を放つ「特製プロテイン(ホシノ配合・劇薬仕様)」を人数分抱えて。
「……っ、ホシノ先輩。……今日は、パトロール、お休みですよね……?」
アヤネが必死に眼鏡を直しながら、最後の希望を込めて尋ねる。しかし、ホシノはニヤリと、最高に意地悪で冷徹な笑みを浮かべた。
「何言ってるのさ。筋肉痛の時こそ、体を動かして乳酸を流さないとね! 題して『ホシノ流・超回復リカバリー訓練』、始めるよー!」
「「「「「嫌だぁぁぁぁぁ!!」」」」」
「はい、まずは砂漠を全力疾走10往復! ほら、遅い人は私が後ろから盾で効率よく突っついちゃうよ?」
「無理! 本当に無理だから! 筋肉が千切れる音がしてるのぉぉ!」
ユメ先輩が涙を流しながら走り出すが、ホシノは鼻歌を歌いながらスキップするようにその後ろをついていく。
「ん。……ホシノ先輩、絶対、……確信犯的に楽しんでる」
「ん。……昨日の、復讐……。執念深い、おじさん……」
シロコとクロコが恨みがましい視線を送るが、ホシノは「あはは、何のことかなー?」と、どこまでも澄み渡るような笑顔を崩さない。
そこへ、ただならぬ騒ぎを聞きつけた先生がやってきた。
「みんな、どうしたんだい? なんだか、いつも以上に必死というか……形相が凄まじいけれど……」
「あ、先生! 助けて! ホシノちゃんが、ホシノちゃんが鬼になっちゃったの!!」
ユメ先輩が救いを求めて先生の足元に縋り付こうとした瞬間、ホシノがスッと影のようにその間に割って入った。
「先生。……今、大事な訓練中だから。邪魔、しないでくれるかな?」
ホシノは先生にだけ見える絶妙な角度で、ペロッと茶目っ気たっぷりに舌を出し、ウィンクした。
「……昨日、私を『チョロい』って言ったみんなにお仕置き中なの。……先生も、一緒に仲間入りしたい?」
「い、いや……私は遠慮しておくよ」
先生は、ホシノの背後から立ち昇る「絶対に逆らってはいけない」という漆黒のオーラを察知し、本能的に後退りした。
「……ふふ。先生は、後で私の部屋に来てね? 肩、揉んであげるから」
そう囁いた時のホシノは、いつもの「可愛い私」だった。けれど、向き直った瞬間にその表情は再び「冷徹な鬼教官」へと切り替わる。
「ほら、みんな! 先生に見とれてないで、あと5往復! 終わったら、次は私が独自開発した『地獄の全身ストレッチ』が待ってるからねー!」
「ひぃぃぃぃん!!」
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結局、夕方まで「回復訓練」という名の拷問は続き、対策委員会のメンバーは昨夜以上に真っ白に燃え尽きることになった。
ホシノに逆らうこと——それは、アビドスにおいて死よりも恐ろしい結末を招くのだと、全員の脳裏に深く刻み込まれたのであった。
「はい、10往復終了ー! みんな、まだ息が上がってるね。根性が足りないよ?」
ホシノがパンパンと手を叩き、砂漠に倒れ伏す面々を見下ろす。そこへ、心配そうな顔をした先生が、キンキンに冷えたスポーツドリンクとタオルを持って駆け寄ってきた。
「みんな、大丈夫かい…? ほら、クロコ、無理しちゃダメだ。足を痛めてないか?」
先生は膝をつくと、砂まみれのクロコの脚を丁寧に確認し、筋肉をほぐすように優しくマッサージを始めた。
「……ん。……ありがと、先生。……少し、楽になった」
クロコが少しだけ頬を染め、先生に寄り添う。それを見たシロコも「ん。先生、私も。ここ」と、先生の反対側の肩に甘えるように頭を預けた。
「よしよし、シロコも頑張ったね。セリカも、ほら、水分をしっかり取って。……みんな、本当によく頑張ってるよ。ホシノも、これくらいで勘弁してあげたらどうかな?」
先生が慈愛に満ちた、聖母のような笑顔でホシノを見上げる。
しかし、その瞬間。現場の空気がピキリ、とガラスが割れるような音を立てて凍りついた。
ホシノの視線は、先生が優しく触れているクロコの脚と、先生に無防備に甘えるシロコたちの姿に釘付けになっていた。
(……な、なにそれ。……先生、私にはそんな顔してくれないのに。……なんで、私じゃなくて、みんなをそんなに優しく介抱してるの……?)
胸の奥で、どす黒く、ドロドロとした熱い感情が渦巻く。
それが「嫉妬」という名の猛毒であると自覚するには、今のホシノはあまりにも余裕がなかった。
「……へぇ。先生は、みんなにそんなに甘いんだ」
「え? ホ、ホシノ?」
先生がホシノの放つ異様なプレッシャーに気づき、顔を上げた時には、もう遅かった。
「……みんなー、朗報だよ。先生が『みんなはまだ頑張れる』って太鼓判を押してくれたから、メニューを追加しまーす! 次は、盾を持った私を相手に、全員で30分間の鬼ごっこ。一回でも捕まったら、さらに追加で腹筋100回ね」
「「「「「ええええええ!? 先生、余計なこと言わないでよぉ!!」」」」」
「ちょっと待って、ホシノ!? 私はそんなこと言って——」
先生が慌てて止めようとするが、ホシノは先生の手をバシッと冷たく払い除けると、その顔を至近距離まで近づけた。
「……先生。先生は、向こうで休んでて。……これは、アビドスの『教育』だから。……口出し、禁止」
その瞳は、もはや獲物を狙う猛禽のそれだった。
先生は、ホシノが自分に向けた「冷たい独占欲」の塊に気圧され、それ以上何も言えなくなってしまった。
「さあ、みんな! 逃げないと、おじさん……じゃなくて『私』が本気で捕まえに行っちゃうよー!?」
そこからの30分間は、まさに砂上の地獄絵図だった。
先生に優しくされたクロコたちが、嫉妬に燃えるホシノのターゲットとして集中的に追い回され、砂漠には絶望の絶叫がこだまする。
結局、その日の訓練が本当に終わった時、対策委員会のメンバーは「先生、もう二度とホシノ先輩の前で私たちに優しくしないで……お願いだから……」と泣きながら懇願することになった。
夕暮れ時。一人で部室に戻るホシノは、自分の手のひらをじっと見つめていた。
(……あんなの、私じゃないみたい。……でも、先生がみんなに触るの、……なんか、我慢できないくらい嫌だったんだもん)
無自覚な嫉妬の炎は、まだホシノの胸の中で静かに、けれど熱く燃え続けていた。