もしユメ先輩が居なくなった直後のホシノが現代のアビドスに来たら 作:気弱
シロコが放った「ホシノ先輩はセリカに甘い」という言葉は、セリカの心に、小さな、けれど決して消えない火種のようなモヤモヤを残していた。
(……そんなわけないじゃない。いつも通りだし、なんなら私ばっかり小言を言ってるし…そんな私が子供みたいだから見られてるだけよ、きっと)
そう自分に言い聞かせて、いざ意識してホシノを観察してみると、確かに他の後輩に向ける視線とは何かが違う気がする。頭を撫でる時の手つき、ふとした瞬間に向ける眼差しが、どこか遠い日の記憶を懐かしむような、深い慈しみの色を帯びているのだ。
「……ねぇ、ホシノ先輩。ちょっといい?」
放課後、部室を出た廊下で、セリカは意を決してホシノを呼び止めた。
ホシノは「うへ? なあにセリカちゃん、おじさんへの愛の告白かなー?」とのらりくらりと躱そうとしたが、セリカの真剣な、どこか不安げな表情を認めると、ふっと眉尻を下げて微笑んだ。
「……話したいことがあるの」
「……そっか。そんな顔されたら、もう逃げられないねぇ」
ホシノは近くの自動販売機へ足を向けると、ガコン、と音を立てて温かいココアを二つ買った。
「はい、これ。……座って話そうか」
手渡されたココアの熱が、セリカの指先をじんわりと温める。それは、かつての時間軸で、ホシノが1年生の頃にセリカから貰ったものと同じ、優しい温度だった。
「……私、シロコ先輩から言われたの。ホシノ先輩は、私にだけ甘いんじゃないかって」
セリカはココアの缶を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「もしかして私、そんなに頼りない? いつも怒ってばっかりだから、面倒くさい後輩だと思われて……気を遣われてるの?」
「ああはは、逆だよ、セリカちゃん」
ホシノは夜空を見上げて、遠い日の、あるいは「遠い未来」の記憶を辿るように目を細めた。
「私ね、昔……ちょっとだけ、迷子になったことがあるんだ。誰も信じられなくて、大人も大嫌いで、一人で勝手に絶望して、周りの手を全部振り払ってた時期」
セリカは息を呑んだ。今の柔和な「ホシノ先輩」からは想像もつかない姿。けれど、それはまさに、かつてホシノが独りで背負っていた孤独そのものだった。
「その時、私の手を一番に、迷わずに握ってくれたのが……セリカちゃんだったんだよ。君がくれたココアが、君が話してくれた不器用な優しさが、私の凍りついた心を溶かしてくれたんだ」
「えっ……? でも私、そんなこと――」
「ん、そうだね。今のセリカちゃんにはそんな記憶はない。でもね、私にとっては、君は『私を救ってくれた恩人』なんだ。だからかな、セリカちゃんが怒ってるのを見ると、なんだか安心しちゃうんだよ。あぁ、この子は今日も元気で、真っ直ぐで、優しいままだなーって」
ホシノはそっとセリカの頭に手を置いた。今度はからかうような仕草ではなく、心の底からの親愛を込めて。
「甘やかしてるんじゃなくて、見惚れてるだけ。……君が、アビドスの良心としてそこにいてくれることが、私には何よりの救いなんだよ」
セリカの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
理由は分からない。けれど、ホシノの言葉の端々に宿る「絆」の重さが、ココアの熱さ以上に胸を焦がした。
「……ずるいわよ、先輩。そんなの、反則じゃない……」
セリカは顔を隠すようにココアを啜った。甘くて、少しだけ切ない、至福の味。
(……やっぱり、ちょろいのは私の方じゃない)
セリカは恥ずかしさを誤魔化すように、熱くなった顔を伏せたままホシノの腕を軽く叩いた。
「……もう! なんかずるいですよ、先輩は! 変なことを言わないでください!」
ホシノは、いつものようにセリカの頭を優しく撫でた。
「あはは、ごめんね。でも、セリカちゃんは、私にとって本当に大事な『良心』だからさ。これからも、その真っ直ぐな怒りで私をたくさん叱ってね」
セリカは何も言わず、ただ心の中で「はい」と小さく頷いた。
夜のアビドスに、二つの小さな缶の温もりが灯っていた。
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しかし、感動的な余韻は、部室の扉を開けた瞬間に霧散した。
戻ってきたホシノと、まだ頬を赤く染めたままのセリカを待っていたのは、明らかに「物理的な温度の低い」三人の視線だった。
「……ん。おかえり、ホシノ先輩。……そしてセリカ。……二人きりで、楽しかった?」
シロコが静かに、けれど逃げ場のない圧力を込めて問いかける。
「え、あ、いや……ただの悩み相談というか……」
セリカがしどろもどろになる中、アヤネが冷たい光を放つ眼鏡を指で押し上げた。
「……セリカちゃん、隠さなくて結構です。今のホシノ先輩の顔……あれはただの後輩に対する顔じゃありません。『一番のお気に入りを見つめる、慈愛に満ちた顔』です。……私の目は誤魔化せませんよ?」
「あらあら〜」
ノノミがホシノの背後に音もなく忍び寄り、逃げ場を塞ぐようにその肩を優しく掴んだ。「ホシノ先輩? 私たち後輩はみんな平等に大切だと思っていましたけど……やっぱりセリカちゃんだけは『特別』なんですねぇ? なんだか、胸の奥がチクチクしちゃいます」
「あ、あはは……ノノミちゃん、笑顔が怖いよぅ……」
ホシノは冷や汗を流しながら、助けを求めて視線を泳がせた。しかし、部室の隅では秘密の共有者であるユメ先輩と、すべてを察したクロコがソファに深く腰掛け、お菓子をつまみながらこの惨状を高みの見物と決め込んでいた。
「ユ、ユメ先輩! クロコちゃん! 助けてよぉ、後輩に食べられちゃう!?」
ホシノの必死の訴えに対し、クロコは無表情に親指を立て、ボソリと呟く。
「……ん。ホシノ先輩、モテモテ。自業自得。……頑張って生き残って。先輩の尊厳が散る姿、しっかり記録に残しておく」
「あははー! ごめんねホシノちゃん、お姉さんは止められないかな♪」
ユメ先輩は楽しそうに手を振りながら、どこか遠い目をして笑った。「あの子たち、ホシノちゃんが自分たちに見せない『特別な顔』をセリカちゃんにだけ向けたのが、よっぽど悔しかったんだねぇ。……ふふ、若いって良いねぇ♪」
ユメ先輩の言葉が、嫉妬の炎に油を注ぐ決定打となった。シロコ、アヤネ、ノノミの三人が一歩、また一歩と距離を詰める。
「ん。先輩。……白状して。セリカと、何の話をしたの? 私たちの知らない、その『特別な感情』の正体を教えて」
「そうです、先輩。今日という今日は、納得のいく説明を……いえ、私たちにも同等の『特別』を供給していただきます!」
「ふふ、先輩? 逃げても無駄ですよ〜。私たちが満足するまで、今日は帰しませんからね♪」
「ひ、ひぃぃぃぃ! 先生ぇ! 誰か助けてぇー!!」
アビドスの夜に、愛されすぎた先輩の絶叫が空虚に響き渡る。
一方のセリカは、みんなの嫉妬の激しさに圧倒され、「……だから、そんなんじゃないってばぁ……」と真っ赤な顔でしゃがみ込むしかなかった。
結局、その夜ホシノが解放されたのは、全員に「セリカちゃんにしたのと同じくらい、あるいはそれ以上の」熱い抱擁と感謝の言葉を一人ずつ捧げた後、日付が変わる頃だったという。