煤けた金貨と死にたがりの人魚姫 ~落ちこぼれの元山賊が生意気人魚を救って、救われたら~ 作:ソバカススキー
リヒトが目を覚ますと、眼前には深い青空が広がっていた。太陽は既に高く昇っており、おそらく時間は昼を過ぎた頃だろうかと思考する。
「…………?」
たっぷり時間をかけて記憶を遡り、現状把握に努める。確か自分は逃げていて、森を走っていて━━
「ってぇ……どこだ、ここ?」
持っていたはずの弩はどこかに行ってしまったようで、持っているものと言えば服と腰に提げた粗末なナイフ一本だけ。どうやらどこかの湖岸に打ち上げられているらしく、散々冷えた体とあちこちにぶつけたり引っ掛けたりしてできたであろう傷がズキズキとその存在を主張していた。
「助かった、ってことでいいのか……?」
全身が濡れているのはどうしてかと考え、そして谷底の川に落ちたことを思い出した。あの高さから落ちて生きているのはともかく、身体に大きな欠損ができている様子も無いのはどうしてだろうかと考える。別に自分は特別頑丈にできているとは思えないし、かと言って実は自分は既に死んでいて、ここは死後の世界であるという風にも思えない。死後の世界がここまで緑に溢れた明るい場所だと言うのなら、また話は変わってくるが。
「まあ、それにしてはずいぶんと生き生きした風景だけどな……」
視界の隅では一羽の鳥が鳴きながら飛んでいき、湖をぐるりと取り囲む深い森の木々がさわさわと穏やかな風に揺れる。あまりにも牧歌的で穏やかな空気感が流れる場所だった。
とりあえずここが具体的にどこなのかの把握だけでもしよう、そう思って立ち上がろうとしたリヒトだったが、その動きは上半身を起こしたところで投げかけられた声に押し止められた。
「あら、ようやく起きたの?随分とお寝坊さんなのね」
呆れたようなその声に振り返ると、目線の先には湖の水面から上半身を覗かせた赤毛の女がいた。見た目からすると歳の頃は十六か十七くらいだろうか、そばかすが特徴な笑えば絵になるだろうと感じる顔つきの彼女は、しかし仏頂面で岸に頬杖をついてリヒトを眺めていた。
そして何より。彼女の特筆すべき特徴は、水面の下に見えるその下半身にあった。
その下半身には人間の足の代わりに鮮やかな青色の鱗に覆われた魚のヒレがついていて、水中で貧乏ゆすりでもするかのようにゆらゆらと揺れていた。
「…………人魚か、アンタ」
人魚。
不老不死の力を持つと言う、亜人の一種。
だが、リヒトの記憶が正しければ━━
「……人魚ってのは、随分と前にいなくなったと聞いてたんだがな」
「あら、もし絶滅したと思ってたならごめんなさいね。期待を裏切っちゃったかしら」
「ああいや、別にそういう訳じゃないが……」
確かに、リヒトの知る人魚はとうの昔に絶滅したとされている。だが、その実それはただ単に目撃例が少ないだけであったのだろう。こうして目の前に生きている以上、そう捉えるしかない。
「それで……アンタが俺を助けてくれたのか?」
「まあ、そうね。あなた重いし、乙女の細腕で水から引き上げるのは大変だったのよ?せいぜい感謝しなさい」
「そりゃどうも、助かりました」
「なーんか、気持ちが篭って無さそうな……まあいいわ。どういたしまして」
素直に頭を下げると彼女は薄い胸を張って仏頂面のままで、しかし微かに笑った。その笑みはどこか温かさを感じさせるもので、リヒトは少しだけ彼女の印象を良くする。けれどその笑みもすぐに霧散してしまい、あとに残ったのは相変わらずの不機嫌そうな表情だけだった。
「……それで、アンタは何者なんだ?どうして俺を助けてくれたんだ?」
「質問が多いわねえ……まあ別にいいけど」
人魚はため息を一つ吐くと、気だるげに赤い髪をかきあげて答えた。
「お願いがあるの」
「……なんだ?金でもせびろうってんなら、生憎だがそれは無理ってもんだ。なんせこちとら実家から勘当された山賊だ、渡せるものなんて命以外には何も持ってねえよ」
「別に、何か欲しくてやった訳じゃないわよ。お願いっていうのはそういうんじゃなくて……」
皮肉げに答えると、人魚は少し不機嫌になったように返した。
「?そういうんじゃなければ何だよ?…………まさかお前、俺の体を!?」
「んなわけないでしょ!?こら手で胸隠すな、アンタが隠すならせめて股間でしょうが!」
身を抱くようにして隠した格好を一言で一蹴され、そして乙女らしからぬツッコミにやや面食らう。先程言っていたのは何の細腕だというのか。
「……こほん。まあ、それはそれとして。お願いを言うわよ」
「んだ、俺の体じゃねえのか」
「話が進まないからツッコまないわよ。まあ、一言で言えば」
すげなく言い放つと人魚はそこで一度言葉を区切って、真正面からリヒトを見つめて続けた。
「━━私を食べて、殺してくれないかしら?」
告げられたその問いかけに、リヒトは少しの間息が詰まったようになって答えられなかった。
食べる━━脳裏にあのフードの男とそれに食い散らかされた山賊たちの姿が浮かび、反射的に込み上げた吐き気を必死になって飲み下す。
「……なんだ、冗談にしても笑えねえな。そういうのはいいから、早く真面目な話を━━」
「冗談じゃなくて、真面目に言ってるのよ」
遮るように人魚がぴしゃりと言い放つ。その目があんまりにもまっすぐに見据えてくるので、リヒトはそこから目を背けてしまいそうになった。
まっすぐだけれど、それでもリヒトを見ているようで見ていない、どこか熱に浮かされたような視線。
病的な、とでも言った方が相応しそうな目だった。
「━━そ、そうだよ。俺らまだお互いの名前すら知らないじゃねえか、せめてそれだけでも教えてくれよ。じゃなきゃいきなりそんな事言われても困るっつーか、意味が分からねえよ」
「ああ、そうだったわね。でもあなた、これから食べる相手の名前なんて知ってどうするの?むしろ知らないほうが心置きなく食べられると思うのだけれど?」
「━━━━」
人魚はこてん、と首をかしげる。子供っぽくかわいらしいその動きとは裏腹に、言い放たれた言葉にはひどく冷え切った残酷な響きが籠っていた。
「勘違いしているようだから言っておくけれど、別にあなたのために死んであげようだなんて殊勝な考えで言ってるわけじゃないわ。むしろ逆ね」
「逆って……」
「私は単に死にたいだけ。だから殺してって言ってるの」
今まで――と言ってもたった二十年程度だが――生きてきた中で、そこまで直截的に死にたいと言われたのは初めてだった。
冗談混じりでもなんでもなく、ただただ純粋な願いとして発されたその台詞に思わず絶句する。
「━━━━そうかよ。なら頼むから俺の知らないところで、俺を巻き込まずにやってくれ。とにかく俺はお前を食ってやる気はねえよ」
「そうはいかないわよ。私たち人魚の特性、あなただって聞いたことくらいあるでしょう?」
「……不老不死、ってやつか?」
「そうね。一応訂正しておくと、不老じゃなくて老化が遅いだけなんだけど。まあ、それはどっちでもいいわ」
「それでその、不老不死ってのがどうしたって言うんだよ」
「だから言ったでしょう。私は死にたいのよ。でも、不死だから自分では死ねない。だからあなたに殺してもらいたい。おわかり?」
まるで子供に言い聞かせるような声色で、淡々と、しかしはっきりと言う。
「?待てよ。不死だってんなら、俺が食べたところで死ねないんじゃ━━」
「いいえ。死ねるのよ」
そう言い切る人魚。迷いないその口調にはどこか吹っ切れたような嫌な響きがあった。
「『人魚の肉を食べると不老不死になれる』って話、聞いたことはない?」
「……まあ、それくらいは。だけどそんなの、結局はただの迷信なんだろ?」
「いいえ。迷信なんかじゃなくて事実よ。肉だけじゃなくて、血を飲むのでもある程度の効果はあるし――持ち主が死にかけてたりしたら、それだけで不死性が移ったりもするらしいわ」
唖然とする、というのはまさにこういう事を言うのだろう。まるで明日の天気について話すように、何でもないふうに語る姿を見て、リヒトは咄嗟に返す言葉が出なかった。
少し間を置いて、気になっていた事を尋ねる。
「…………だいたい、なんで死にてえんだよ」
「それは知らないといけない事かしら?名前と同じように、知らない方が食べやすいと思うのだけれど」
その返答に、返す言葉が思いつかずぐっと喉が詰まる。
「そもそもあなた、どうしてそんなに私を食べようとしないの?こんな森の奥で、殺したところで誰にバレる訳でもないのに」
リヒトが沈黙していると、心底不思議に思ったように人魚が尋ねてきた。
「私を食べればあなたは不老不死になれる……かは分からないけど。やったところで損は無いはずよ?」
「……そりゃ確かに、そうかもしれねえけどよ」
「でしょう?なら早く、切るなりして食べて━━」
「でも、食わねえよ」
確かな熱を持って言う人魚の言葉はしかし、リヒトの一言で遮られた。
今度は人魚が唖然とする番だった。口を開いては何か言いかけてやめ、そして何度かそれをした後に言葉を続けた。
「……なんで、食べないのよ」
「簡単な話だ。気に食わねえからだよ」
つい先程、目の前で人が食べられるというあまりにもショッキングな瞬間を見せつけられてしまったために、リヒトは殊更に人の生死について敏感になっていた。だからかは自分でも分からないが、自ら死にたいと言う人魚のその態度が、どうにも気に食わなかったのである。
━━それに、『誰かを殺す』なんてのはリヒトの信条にこれ以上無いくらい反していた。
だって、死んでしまったらソイツはそこで何もかも終わってしまうのだ。リヒトはそうして誰かを終わらせるというのが、何より嫌だった。
それに、なにより━━
「アンタ、『死にたい』って言ってるけどよ。本当に死ぬ気なんか無いだろ?」
「━━分かったようなことを言わないでちょうだい。不愉快だわ」
「でもそうだろ?もし本当に死にたいんなら、こんなとこ━━」
言いかけたリヒトの声はしかし、人魚が指を軽く振った事で唐突に打ち切られた。
「……これはまた、随分なご挨拶だな」
「あなたが余計な事を言うからよ。反省しなさい?」
口を噤んだリヒトの周囲━━中空に現れたのは、矢の形をした水の塊。それが一気に数十本、全てがリヒトに狙いを定めていた。
「……都合が悪くなりゃ魔法で脅しか。そりゃまた随分と育ちのよろしいことで」
「……ええ、そうね。ちょっとばかり短絡的だったわ」
リヒトが皮肉っぽく言うと、頭が冷えたのか人魚はふっと指を下げる。それと同時に現れた矢もまた姿を消し、張り詰めていた空気も緩やかに霧散した。
「それであなたはどうするつもりなの?私を食べないって言うのなら、もうここには用が無いでしょう?故郷にでも帰る?」
「……残念ながらそうはできねえんだよ」
故郷に帰る、というのは端から選択肢に無い。勘当された実家に帰るのは気が引けるし、かと言って他の街に行こうにも身元を保証できる物を何一つ持っていない時点では市門を通れるかどうかすら怪しい。
どうしようか、とリヒトが頭を悩ませていると。
「……なら、いい案が思いつくまでこの辺でしばらく暮らす?」
「この辺って……野宿はまあ、いいとしてもよ。動物とか魔物とか、その辺は危なくねえのか?」
「かよわい乙女な私が暮らせてる時点で、それについては答えられてると思うのだけれど」
「なるほど。精神が図太くておっかねえ奴じゃないと生きてけない場所、と」
「あらあらあら。つまり私はそういう奴だ、と言いたいわけね分かったわやっぱり死になさい」
「お前ノータイムで水矢撃つんじゃねえよ!殺す気か!?」
「チッ外したか…………イヤね、ちょっとした冗談じゃないの。そんな本気にならないでほしいわ」
「目がマジだったぞお前……それに舌打ちしたのもハッキリ聞こえたからな!わざとだろ!」
地面に横倒れになって喚くリヒトの周囲には、囲むように細い穴がいくつも空いていた。言わずもがな、先程の脅しの際の水矢が放たれた結果である。身震いしながら反論するリヒトに対して、人魚はそれでも強気な姿勢を崩さずに続ける。
「冗談はさておき。動物の事なら、この辺にいるのは草食の動物ばっかりだから危険は無いわよ?もちろん狼とかも出ないって訳じゃあないけど、あいつらは火を焚いてれば怖がって近付いてこないし」
お前の方がよっぽど危険だよ、と言いかけたリヒトはしかしグッと堪えて言葉を飲み込んだ。それを言ってしまえば同じ事の繰り返しで話が進まないからである。
「んじゃあ、住むのはそれでいいとして……そんで、俺はお前を食ってやれない。それを悪いとは思っちゃいねえけど……さすがに命の恩人に対してそればっかりは不義理だとは思ってる」
「それなら食べてほしいんだけど……まあいいわ。それで?」
「その……だから、なんだ。俺に出来ることなら何かさせてくれよ、ってことだ」
頬を掻きながら、そっぽを向いて答えるリヒト。目を合わせないのは気恥しいからだが、それがどうしてか━━それを考えようとして、途中でやめた。
「とにかく。何かやって欲しい事とか、持ってきて欲しい物とかねえか?」
「そうね……笑わない?」
「笑わねえよ。何でもほら、言ってみろよ」
「━━海が見たいのよ、私に」
言われ、ぽかんと口を開けるリヒト。笑わないかという前置きがあったのだからもっと大それた、夢見がちな望みかと思っていたのだが、思ったより現実的なそれが返ってきて反応が遅れる。
「海って……現地に行けばいいじゃねえかよ。この川を泳いでけば海に繋がってたりするんじゃねえの?」
「そうじゃないから言ってるのよ。少しは考えてからものを言いなさい。そんな頭だとお魚にも劣るわよ」
「一言余計じゃねえか?」
「この湖はずっと山の方から、雪解け水が流れ込む川だけに繋がってるの。上っていけばそれぞれ細い川に枝分かれしてるけど、それも全部山に繋がってる━━それに、私が生まれて育った場所も、海には繋がってなかったの。だから私、海を見た事が無いのよ」
どこか遠いところを見るような目をして言う人魚。真剣かどうか、と言うのではなく、どこか切なげな空気を纏っていた。
だからという訳では無いが、それを聞いたリヒトはぐっと息が詰まったように感じた。茶化すような気はとうに失せ、真剣にどうすれば海へ連れて行けるかを考え出す。
「海……連れて行こうっても、担いでいくのは現実的じゃあねえしな……」
「━━じゃあ。食べてくれる誰かが現れるまで、私の話し相手になってくれない?」
「いいのか?時間さえかければ海まで行けると思うんだが」
「いいわよ。別にそこまで本気で海が見たいわけでもないし」
「なんだそりゃ。……まあ、お前がいいなら構いやしねえけどよ」
そうは言ったものの、実際にはありがたい申し出だった。このままここで暮らすだけというのも退屈極まりないから、何かしらやる事━━目標が欲しいところだったのだ。
「じゃあ、決まりね。話し相手として、私が死ぬまでよろしくお願いするわね」
「……おう。よろしく」
そう言って差し出された人魚の手を、リヒトはゆっくりと握り返した。その手がひどく冷たく感じられたのは彼女が水に浸かっていたからなのか、それとも別の所以か、リヒトには分からなかった。