煤けた金貨と死にたがりの人魚姫 ~落ちこぼれの元山賊が生意気人魚を救って、救われたら~ 作:ソバカススキー
「でも、頼むから。お願いだから、コイツだけは殺さないでくれ」
━━誰かが、何かを言っている。
「前に、したい事は何かって聞いたんだよ」
ダリルに体を押さえつけられ、石が振り上げられたところまでははっきりと覚えている。その後、何か大きな衝撃があって、体が激しく引っ張られたような気がして。
「……アンタは、そういう人なのか」
そして今。自分を庇うように、大きな背中が立ちはだかっている。
大きな、というのは言い過ぎかもしれない。怒りからか怯えからかは分からないがそれは少し震えていて、お世辞にも頼もしい背中とは言い難い。
━━それでも、なぜかその後ろは安心できて。ずっと死にたくて、ようやくそれが成し遂げられそうだったのに、なぜか失敗したことに安心してしまう自分がいて。
勇んで駆け出したその背中に対して、人魚は知らずのうちに両手を組んで祈っていた。
━━どうか、彼が勝ってくれますように、と。
***
隙が見つからない、というのがリヒトの率直な感想だった。
駆け出して殴り掛かった拳は容易く受け止められ、挙句の果てにそのまま片手を捻り上げられそうになり、胴を蹴りつけることで無理矢理体を引き離して距離をとる。
「━━ッこの!」
「当たるワケねぇだろ、バカがよ!」
再び走り出すも、突き出した拳は容易く逸らされてお返しとばかりに顔面へ痛烈な一撃が繰り出される。もんどりうって仰向けに倒れたリヒトの上へ
「━━ッ!」
リヒトは咄嗟に首を捻ってその拳を避け、顔の代わりに地面を殴りつけさせた。地面に力一杯拳を叩きつけて痛めたのかダリルの顔が微かに歪み、好機と見たリヒトは全身を無理矢理跳ね上げてマウントポジションから脱し再び距離をとる。
そうして大きく肩で息をしながら、お互いに睨み合う。
「……おい、てめぇ。いい加減にしろよ、なぁ?」
心底うんざりしたようにダリルが言い捨てる。
「なんでそんなに必死になれるんだ?死ぬのも不老不死になるのも、所詮は他人の命だろ?そのためにそこまで傷ついて、ボロボロになって。お前は何を得られるんだ?」
続けて投げかけられたその問いに、リヒトは何を分かりきった事を、ときっぱりと答える。
「自己満足━━って言っちまえばいいか。まあ、命の恩人をみすみす死なせる奴がどこにいるってんだよ」
自己満足。リヒトが走り出した理由なんて、言ってしまえばただそれだけだ。
連れ去られた人魚が、死にたいと言っていた人魚が、それでもしかし本当にそう思っているとは思えなくて。だから自分勝手に走り出して、自分勝手に助けて、自分勝手に真意を問い質そうとしている。
だからまずは━━ここを切り抜けなければならない。
「こんくらい空いてりゃまあ、問題ねえか」
「……?何を……」
ダリルとリヒトの間、彼我の距離はおおよそ5m強。
呟き、そして懐へ手を入れる。このまま殴り合っていても埒が明かないどころか、そこまで喧嘩の強い訳でもないリヒトでは殴り倒されてそのまま殺されてもおかしくない。
だからリヒトは、初めからある切り札を隠し持って来ていた。切り札というのが大げさであれば
それまでの有利不利なんてひっくり返して、無理矢理ゲームセットまで持っていける反則級の道具。
━━元アジトの小屋で偶然見つけた、爆発の魔道具である。
「ッてめ」
「ちょっと痛てぇだろうが、我慢してくれよ!」
懐から取り出された銀色の筒を見ると、その後の展開を予想したのかダリルは顔色を変えてリヒトへと走り出した。
それを投げさせない、あるいは投げられる方向を変えるための吶喊だったのだろうが━━それでも、リヒトが筒を投げる方が早い。
そうして大きく振りかぶって、投げる。
その動作の結果を見届けるより早く、リヒトはダリルに背を向けて走り出していた。逃げる際には人魚を力ずくで抱え上げ、きゃ、と小さく悲鳴が漏れる。
「おい!
人魚を横抱きにしたまま逃げ出し、一目散に出口を目指す。必死に走り、洞窟の外に転がり出た瞬間。
━━刹那、耳をつんざくような爆発音が響いた。
「っ!!」
背後からの爆風に吹き飛ばされ、リヒトは咄嗟に人魚を抱きかかえて守りながら地面へ転がった。爆発の威力で洞窟の天井が崩れたのか、雷が落ちたような音を立てて洞窟が落石で埋まっていき、辺りに砂埃が舞う。
「━━早く、逃げ……ッ!」
立ち上がろうとして、リヒトの踏ん張ったその足に激痛が走る。呻き声をあげてうずくまり、そして痛んだ元━━足に目をやると。
「ッ……、飛んできた岩、か……!?」
右足のふくらはぎの中ほどに、片手より少し大きい程度の岩が生えているのが見てとれた。爆風で勢いよく飛ばされたのだろうか、尖ったそれは足の深いところまで突き刺さっているようで、動こうとする意志とは反対に強い痛みで足をその場に縫い付ける。
それでも、ぎり、と歯を食いしばって痛みに耐えながら歩き出そうとする。けれどふくらはぎの大きな傷は事実としてそこにあり、歩き出したその足を絶え間なく痛めつけてきた。
「……なんで。なんで私を助けたのよ」
そうしてリヒトが悪戦苦闘していると。
その体の下で、ぽつりと人魚が呟いた。
「……ぁあ?」
「助けてほしいなんて誰が頼んだの?」
怪訝そうなリヒトの唸りには答えず、絞り出すように人魚は続ける。心の奥底から這い出るようなその声は、どうしようもないほどに澱んでいた。
「もうすぐで食べられるはずだったのに」
人魚の言葉には、煮詰めすぎてドロドロになったジャムのような気分の悪さが詰まっている。
「ようやく、死ねそうだったのに」
立ち上がろうとして四つん這いになったリヒトと、その体の下で横たわったままの人魚。単純な位置関係で言えば上と下で、お互いバカみたいに見つめあっていた。
「やっと━━やっと全部償って、終わりに出来そうだったのに!」
「━━ッてめぇ、黙って聞いてれば……」
言いかけたリヒトを遮るようにして、堰を切ったように人魚は叫ぶ。
「お願いだから終わらせてよ!お願いだから放っといてよ!」
お願いだから、と人魚は言うが。
いつまでも終わらない叫びは、自らを絶えず切りつけているような悲痛さを孕んでいて。リヒトには、どうしても痛々しい響きをもって聞こえた。
「━━お願いだから、もう諦めさせてよ!」
そうして絞り出した最後の言葉にはもはや涙すら混じっていた。
そしてその言葉の後には、重い沈黙が降りる。
「……何がお願い、だよ」
「……?」
その沈黙を破ったのは、リヒトの呟いた低い声だった。
「お前は死にたいだの何だの言ってるけどよ……気に食わねえんだよ、それ」
「━━気に食わないって、そんな程度の事であなたは私を生かしたわけ!?」
「俺には到底、お前が死にたがってるようには見えねえんだよ!」
吠えるようにリヒトは言い放つ。人魚は面食らった様子でしかし反論しようと口を開いたが、それを言い切る前にリヒトの怒声に掻き消される。
「死にてえならもっと辛気臭く生きろ!もっと陰気に、全部に絶望した顔で生きろってんだよ!」
「━━ッ、なに勝手なことを」
「それができねえんだろ!?楽しくて笑えてきちまうんだろ!?好きな事もやりてえ事も山程残ってんだろ!?」
リヒトは覚えている。
楽しそうに笑いながら話していた姿を。捕ってきた兎の肉に齧り付く姿を。
はじまりのあの日に、海を見てみたいと言っていた事を。
「お前は言ってたよな!『海が見たい』って!」
だから。
「飯を食って笑ってられたよな!俺と話してて笑ってくれたよな!お前にはそうやって笑える理由があるんだろ!?━━なら、まだお前には幸せになる種があるんだよ!」
人魚は幸せになれる。
死んでしまえば、そいつはもうそこで終わり。もう不幸に遭う事も無いだろうが━━同時に、その先にありえたかもしれない幸せすらも手放してしまう。
まだ何かを楽しめるのに。まだ笑えるのに。もっと楽しめて、笑えるかもしれない何かすら捨ててしまう。
「いいか、お前は俺を助けてくれた!俺の命を救ってくれた!ああそうだよ、助けたいのも死なせたくないのも全部俺のエゴで、ワガママだよ!でもな━━」
リヒトはそこでひとつ息をついた。そうして、深く息を吸い込んで。
「命の恩人をみすみす死なせる奴がどこにいるってんだよ!」
力の限りに言葉を叩きつける。
「いいか、よく聞け!自分じゃ笑えねえんなら俺が笑わせてやる!人生は楽しいんだって、そう思わせてやる!」
人魚ひとりだけで無理なのであれば、その支えに自分がなる。
死にたいと言うのなら、生きたいと思うほどに笑わせる。
そして、何よりも一番言いたいことは。
「━━俺がお前を幸せにするから!だから、生きてくれよ!」
言い切った、その後。二人の間には重い沈黙が落ちた。音がするとすれば、それは二人以外のものばかり。
さわさわと風が木々を撫でる。
小鳥が短く鳴いて飛び立った。
――から、と小石の崩れる音がした。
音のした方向はちょうど、先程転がり出てきたばかりの洞窟の入り口あたり。
「ッ!?」
リヒトは弾かれたように顔を上げた。岩が刺さったままの足が痛むのも構わずに立ち上がり、今度こそ、人魚をその背にしっかりと隠す。
「んだよ、てめぇ……気付きやがって。」
その目線の先で、ダリルが忌々しげに吐き捨てる。それには答えず、リヒトは静かにその目を見据えて問いかけた。
「ダリルさん。やっぱり、諦めてはくれねえのか?」
「ああ。無理だ。諦められねえよ」
「…………」
「俺はそこの人魚を殺して食いたい。お前は人魚を殺されたくない。どこまで行っても平行線だ」
平行線。
決して交わらず、妥協点など見つからない。そう言い放ったダリルと、それを静かに聞くリヒト。
「……なら。やるしか、ねえんだよな?」
「はっ。下っ端風情がよく言うぜ」
だから戦うのだと。そう言って――リヒトは駆け出した。
「はっはぁ!いきなりかよ!」
「じゃねえと勝てねえんだよ、察しろクソが!」
騙し討ちのように走り出して突き出した拳はしかし、体勢を下げられて避けられ。お返しとばかりに飛んできた左のフックは立てた腕で引っ掛けて押し留める。
「――ッ!」
リヒトが視線を腕から前に戻した瞬間、ダリルが右腕を振るっているのが見え――咄嗟にその胴体を蹴りつけ、強引に距離を取る。
「……てめぇにゃ無理だよ。喧嘩の経験も、体のデカさもまるで違ぇんだから――」
「『だから諦めろ』って言いたいのか?」
遮るように言ったリヒトに、ダリルは僅かに目を見張った。
「そうだよ、分かってんじゃねえか。俺だって多少なり関わっちまったお前を殺すのはしのびねえ。だから、黙って消えてくれりゃあそれでいい」
「はっ。『しのびない』なんてよく言うぜ。そんな事思ってもないクセに」
「――なんだ、バレてたか」
当たり前だよ、と吐き捨てる。
そして、吐き捨てた勢いのまま再び駆け出し、顔面へ渾身の握り拳をぶち当てる━━と見せかけて、なかば転ぶようにしながら、相手の足元へ飛び込む。転ぶように、とは言ったが、八割がた転んだようなものである。
足を取られてバランスを崩し倒れたダリルが立ち上がるよりも早くその身体を抑え込み、その上に跨って動きを押しとどめる。
いくら自分よりも力が強いとは言え、動きの始点となる関節を固め、更に一人分の体重がまるまる乗っているのだ。そう簡単に振りほどけやしない。
だから今、このタイミングで。人魚に向かってリヒトが叫ぶ。
「おい、人魚!」
そう言って、リヒトは少し言葉に詰まった。
だってそうだろう。こんな、言ってしまえばよそよそしいとも取れるような風にしか呼びかけられないのだから。
それでも。
それでも、今しかないと思うから。
「お前は!本当に死にてえのか!?」
真正面から問いを投げつける。
言葉は問いかけの形をしているが、その内実はどちらかと言えば懇願にも近かった。
ただ、生きて欲しい。死なないで欲しい。
だって――
「お前は!生きたいんじゃねえのか!?」
――自分はまだ、彼女の名前すら知らないのだから。
そうして、僅かな沈黙の後。
「……死にたく、ない。」
ぽつり、と。
人魚が呟いた。
「あの湖に帰りたい」
「ああ!」
「明日もお魚を食べたい」
「そうだ!」
「いつか、海を見てみたい」
「もっと!」
呟いたその声は段々と大きくなり、ついには叫ぶような声にまでなって。
「私は、死にたくない!」
そうして、力の限り言い放って。それまで彼女が纏っていた陰鬱な空気が全て消えた、そんな気配がした。
リヒトの体の下で、ダリルが息を呑むのが感じられる。
「――ッこの!離しやがれクソが!」
そしてそれに呼応するかのようにダリルが激しく体を捩るが、リヒトは抑える力を緩めない。
「なんで!なんでお前はそこまで俺の邪魔をしやがんだ!」
「うるせぇ……!」
抑えつけられた下でダリルは喚き、藻掻く。
「とっとと退け、離しやがれ!」
「うるせえって言っ――」
「お前はあの日に俺を見捨てて逃げて!それで生き残ったんだろうが!」
その言葉を聞いた瞬間、リヒトの力が僅かに緩んだ。気迫に押されたのか理由こそ分からないが確かに力が抜けたところを、ダリルはこれ幸いと抜け出し、リヒトへ掴みかかる――
「させるわけないでしょう?」
ことはできなかった。
蛇めいてうねる水の縄が軽く振った人魚の指先から現れ、飛んでいったそれは過たずダリルの両手両足を縛って地面へ引き倒す。
「――っど、どうだ!見たか!?」
「あんたは何もやってないでしょうが。なーに自慢げにしてんのよ」
手足を縛られ身動きの取れなくなったダリルを見て咄嗟に勝ち誇るリヒトと、そんな彼に呆れた様子で声をかける人魚。対してダリルはそんな二人を見上げて吠えた。
「んだてめぇ、食われるんじゃねえのかよ!ふざけんじゃねぇ!」
「いい加減諦め――」
「――テメェらまで、俺を見下しやがって!」
一際大きな声でそう言い放つと、ダリルはそれきり大人しくなった。
叫び疲れたのか観念したのかは分からないが、そうして沈黙した彼に、人魚は静かに語りかけた。
「……ダリル、って言ったかしら。あなたはもう、私を食べないと誓える?」
その言葉は、リヒトにとってもダリルにとっても予想外なもので。けれど後に続く展開は容易に想像できた。
「あ、ああ!誓う、誓える!」
「そう。なら――」
「おい待て。まさかお前、コイツを逃がそうとか思ってるんじゃ無いだろうな!?」
「あら、よく分かってるじゃない。そのまさかよ」
食い入るようにダリルが答える。それを聞いて満足げに答えながら人魚が再び指を振ると、ダリルの手足を縛る水の縄が消滅した。けれど同じタイミングでいくつもの水の矢がダリルの頭を狙う形で出現し、迂闊には動き出せないような牽制となる。
「このままゆっくり後ろを振り向いて、私たちから離れなさい。そして、二度と近付かないこと。分かった?」
「わ、分かった。もう二度と、お前らには関わらない」
ダリルは立ち上がりコクコクと頷くと人魚の言う通り振り向いて一目散に駆け出して行き、崩れた洞窟の隙間から中へ入っていった。
人魚はダリルが見えなくなってもしばらくの間警戒していたようだったが、少しして魔法を全て消し、緊張を解すように小さく息を吐いた。
しかし、それを見て黙っていられなかったのはリヒトである。ダリルを追おうにも今更になって足が酷く痛みだし、つんのめって膝をつく。
「━━っ!なんで殺さねえんだよ!?今ここで逃がしたら、アイツは絶対にまたお前を━━」
そうして膝立ちの体勢でリヒトが言いかけた言葉はしかし、静かな人魚の声で遮られた。
「私は殺せない。殺したくない。それが誰であっても、私なんかが奪っていい命じゃないと思うから」
「お前……んな事言ったって」
「食べるために私を殺そうとした彼を、あなたは否定したんでしょう?ならどうして、食べる訳でも無いのに彼を殺す私を肯定できるの?」
人魚にそう返され、リヒトは言葉に詰まる。
リヒトがダリルを殺そうというのも、人魚を殺したくないというのも、言ってしまえばただの自分勝手な理屈だ。だから、そうして真正面から問い掛けられると何も言えなくなる。
「自分は死にたくないのに、他人なら死んでもいいとは私は思えない。他の人がどう思うかとかじゃなくて、これは私の問題。私の考えなの」
「――ああ、分かったよ」
反論を諦め、どっかとリヒトはその場に座り込む。今の人魚に何を言ったところで、自分の思うように動いてはくれないだろう。
――それに。自分で生きる事を肯定した人魚に、誰かを殺させたくはない、という気持ちも少なからず存在した。
「あー……んじゃあ、帰るか」
ガシガシと頭を掻き、足の怪我を庇いながら立ち上がる。湖に戻れば多少なり傷の手当てはできる。
そうして人魚を抱えようとした時、ぽつりと人魚か呟いた。
「……私の名前。メロウよ」
「……は?」
あまりにも脈絡の無い言葉に、リヒトの口から思わず間抜けな声が漏れる。対して人魚――メロウの方はと言えば、少しばかり気まずそうに、しかしまっすぐリヒトの目を見て再び、今度は言い聞かせるように言った。
「だから、名前。メロウよ、メ・ロ・ウ」
「━━、」
「何よその顔?あの日、あなたが教えろって言ったんじゃない。忘れたとは言わせないわよ?」
そう言われて、リヒトの脳裏に人魚と出会ったあの日の事が思い出された。
確かにあの日、自分は人魚に名前を教えてくれと言っていた。
「━━いや、そうだな。すまん。ちょっと意外というか……なんだ、いい名前じゃねえか」
「意外って何よ……まあいいわ。じゃあ次はあなたの番ね。名前、教えてくれる?」
今の今までそれを覚えていたメロウの意外な律儀さと、このタイミングで自己紹介というのがなんだかおかしくて。少し呆けていたが、リヒトも辛うじて言葉を返す。
そして同時に、自身もメロウにきちんと名乗っていないという事を告げられて。
だから、これはあの日の再現なのだ。
死にかけたリヒトをメロウが救った日。
生きようとするメロウをリヒトが掬いあげた日。
「リヒト・スウェ……いや、リヒトだ。ただのリヒト。改めて、よろしく」
そう言って差し出したリヒトの手を、人魚がゆっくりと握り返す。
その手にはいつかの握手と違って微かな、しかし確かな温もりが籠っていた。
***
「畜生、あの野郎……拾ってやった恩を……忘れやがって……」
ダリルがリヒト達から逃げ出した直後。
崩れ落ちた洞窟で、しかし崩落を免れた空間の中。彼は痛む足を引き摺って歩いていた。
目指すは、リヒトの入ってきた入り口とは反対に設けていた非常用の出口。万が一の時のために用意していたそれを使う事になるとは不本意の極みだったが、それでも命があるだけ良しと考える。
なぜなら。
「まだだ。まだ、アイツを食うまでは、終われねぇ……」
欲しいから。
人魚の肉が欲しい。永遠の命が欲しい。
だから、まだ生きていたい。
「なに、この位はどうって事ねえ。こっからだ、こっからまたやり直すんだ……」
何度失敗しても、命さえあればまた成り上がれる。
あのいけ好かない
「俺は、俺はもっとデカい男になるんだ……デカくなって、偉くなって、誰も俺を見下さないような……!」
かつて自分を見下してきた者への、人魚を連れ去ったリヒトへの、こんな所で燻っている自分への、言い出せば際限なく溢れ出る怒り。
ふつふつと湧き上がるその激情の中に、何か黒いものが蠢いているような気がして。
それが芽吹こうとした、その時━━
「なぁんダ。こんなところにいたんダ」
ばつん、と肉の弾けるような音がして、唐突にダリルの視界が横倒しになる。転んだのだと気付くのに数瞬、そこから脚が空転を続けている事に気付くまで更に数瞬かかった。何かに引っ掛けたかと思って下を見ると、そこには。
━━━━片足が
引きちぎられたように波打つ断面と、そこから覗く白い骨――片足が無いというその事実に気づくと共に、猛烈な痛みが脳内に押し寄せてくる。
「ッ、ぐぁぁあぁぁぁあ!」
「あーあー、うるさいうるさイ。ちょっと静かにしてヨ」
そして頭上から投げかけられたのは、確かに聞き覚えのある声。
「っクソ、てめぇは……あの時の……!」
「ん、覚えててくれたんだネ」
目深に被ったフードと、その下から覗く真っ赤に輝く目。
間違いなく、あの日山賊団を壊滅へと追い込んだあの化け物である。
「なんだ、今更俺を食いに来たってのか?しつこい野郎は嫌われるぜ?」
ダリルの精一杯の悪態には答えず、化け物はグリン、と頭を真横に傾けて、倒れ込んだダリルの顔を覗き込む。
「――なるほド。君、欲しがりさんなんだネ」
「?それはどういう――」
意味深なひとり言。ダリルはその真意を問おうとしたが――それを言い切るより早く、化け物の口が開く。
「じゃア――いただきまス」
いや、開いたのは口だけではない。
開いた唇は口の両端を通り越して頬までが大きく裂け、明らかに異常な形へと拡大していく。
ダリルが見たのは、獲物を丸呑みする蛇の口――それを馬鹿みたいに大きく、そして禍々しく拡大したような、全てを呑み込む大穴だった。
ぐあ、と開いたその口が近付く。
生きたい。
死にたくない。
走馬灯めいて体感時間が引き伸ばされる。そんな中でしかし、単純な欲求が心を支配し、最後にダリルの頭を過ぎった言葉は一つだけだった。
「俺はまだ、何も手に入れてな――」
ばつん、と。
後には、静寂だけが残った。
***
そして、人間が誰もいなくなった後、血痕の広がる洞窟で。
「――食べ残したものは、早く片付けないとネ」
赤い目の化け物はひとり、小さく呟いた。