鼻を突く消毒液の匂い。遠くで鳴るチャイムの音…
次に悠人が目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは見慣れた教室の天井ではなく、保健室の白い天井と、それを隔てる薄いカーテンだった
「……ん……」
「お、悠人! 気がついたか!」
横から聞き慣れた声がして、視線を向けると、そこにはパイプ椅子に座って心配そうにこちらを覗き込む健太の姿があった
「健太……。俺、どうしたんだっけ……」
「どうしたもこうしたかよ。急に青い顔して倒れたんだぞ。先生と一緒にここまで運ぶの大変だったんだからな?…あ、もう少ししたら親御さん来るって」
健太は呆れたように息をつきながらも、どこかホッとした表情を見せた。悠人はまだ少し重い頭をさすりながら、倒れる直前の会話を思い出す
「……ああ、ごめん。……あのさ、さっきの『スパイダーマン』の話なんだけど」
「え、今それ?」
「いや、悪い。あれ、よくよく思い出したら、最近見た『夢』だったわ…すげーリアルだったから、つい本当の話だと勘違いしちまって……変なこと言って悪かったな」
悠人が申し訳なさそうに苦笑いして謝ると、健太は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、勢いよくツッコミを入れた
「――っ、今それいいから! っていうかどんな夢だよ!?
そんな映画タイトルから設定まで完璧な夢なんて、お前どんだけ想像力豊かなんだよ!」
「あはは、だよな……自分でもびっくりだわ」
健太の激しいツッコミに、悠人は心の中で「そうだよな、普通はありえないよな」と自嘲気味に同意する…
この世界にまだスパイダーマンはない。だが、代わりと言っては何だが――この世界には本物の「魔法」と、それゆえの残酷な「運命」が存在する…
「まあ、意識がはっきりしてるならいいけどさ。もうちょっと休んでろよ。先生には俺から言っとくから」
「サンキュ、健太。助かるよ」
健太が保健室を出ていき、再び静寂が訪れる。悠人は枕元にあった自分のスマートフォンを手に取り、操作すると、クラス名簿に目を通した
「…(あった!『マギアレコード』の魔法少女!!当時は中学二年生だから…あと一年時間がある!!)」
溢れ出した前世の記憶が、今の状況と合致していく。
ここは神浜市立大附属中学校
このまま時間が経てば、魔法少女まどかマギカの外伝のマギアレコード編の主役である環いろはが妹を求めて神浜市に向かい、あのアリナ・グレイやマギウスの翼が暗躍し、神浜という街が魔法少女たちの巨大な舞台へと変貌していくはずだ
それが一年後…まだ、取り返しのつかない悲劇の多くが、動き出す前の段階
「(俺に魔法は使えない。でも、この『記憶』がある。……これから何が起きるか、誰がどんな運命を辿るか、俺だけは知っているんだ)」
何もせず、ただのモブとして物語を見過ごすか。それとも、スパイダーマンのように「大いなる力」……ではないが、「大いなる知識」を持って、運命に抗うか
答えは、決まっていた
「……よし。……折角だから変えてやる…知ってて何もしないなんて事したくないし、やるからには、絶対に変えてやる」
そのためには、まず情報を整理し、自分が今できることを洗い出さなければならない。神浜から二木市、そして見滝原
自分が介入できるポイントはどこか
だが――
「……う、……やっぱ、まだ頭が……」
思考を巡らせようとした途端、記憶の逆流による反動か、再び猛烈な眠気が悠人を襲った
無理もない…
一気に十数年以上の人生の記憶を取り込んだのだ
脳が休息を求めて悲鳴を上げている
「……とりあえず、今は寝る……! 体力が戻ってからが、本番だ……」
悠人はそう呟くと、再び重くなった瞼を閉じた
一分一秒が惜しいはずなのに、今は抗えない眠りの中へと沈んでいく
次に目覚めるとき、自分はただの「悠人」ではない
この物語の結末を書き換える「イレギュラー」として、新しい朝を迎えるのだと確信しながら…