【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
10話 パイン・バレンズの共鳴
ニュージャージー州パイン・バレンズ。
全米有数の人口密集地帯に隣接しながら110万エーカーにおよぶその広大な松林は情報の光を拒絶する「空白地帯」であり続けている。
酸性の茶褐色の川が流れ、ねじ曲がったピッチパインが重なり合うこの森は1735年以来、馬の頭とコウモリの翼を持つ怪物「ジャージー・デビル」の領土であった。
かつては古臭いUMA(未確認動物)の伝説に過ぎなかったその存在が今、デジタルの衣を纏い凄惨な現実として再定義されようとしていた。
「モルダー、見て。これは生物学的な損壊の範疇を超えているわ」
遺体安置所の青白い蛍光灯の下、ダナ・スカリーは眉をひそめて検死報告書を指した。検死台に横たわるのは、キャンプ中に襲われた大学生の無残な遺体だ。
腹部は巨大な「何か」に抉り取られていたが、その切り口はレーザーで焼いたように滑らかで、組織の周辺からは微細なシリコンの結晶が検出されていた。
「伝説の怪物が『OS』を積み替えたのさ、スカリー」
フォックス・モルダーはスマートフォンを掲げた。画面の中では、ジャックフロストが液晶の端でスケートをするように滑り回っている。
「フロスト、被害者の端末に残されていた破損データを復元してくれ」
「ヒーホー! お安い御用だホー!……でもモルダー、このデータすごく『冷たい』ホー。古い機械の油みたいな、嫌なノイズが混じってるホー」
フロストが演算を開始すると液晶にノイズまじりの動画が映し出された。
夜の森、逃げ惑う若者の背後で赤く光る「LEDの瞳」が霧を切り裂く。次の瞬間、肉が弾ける音ではなく高電圧の火花が散るような電子音と共に動画は暗転した。
「これはDDS(悪魔召喚プログラム)による実体化ではないわね」スカリーが鋭く指摘する。
「DDS特有のバイナリ・サインが見当たらないわ」
「ああ、もっと質が悪い」
モルダーは窓の外の霧を見つめた。
「誰かがネットの深層に流した『怪物の再定義コード』を、この土地が勝手に読み込んでしまったんだ。アメリカ人が200年以上抱いてきたジャージー・デビルへの『恐怖』という名の信仰が、デジタルという触媒を得て暴走を始めたんだよ」
二人は現地へと向かった。霧が深く立ち込める森の入り口で車を捨て湿った腐葉土を踏みしめて深部へと進む。
足元の泥濘には巨大な割れた蹄の跡が刻まれていた。しかし、その足跡の底には銀色のハンダのような液体が溜まり周囲の植物を不自然に枯らしている。
「ジャック、周囲の電磁波に異常はない?」
スカリーが問いかけると、彼女が持つ端末のフロストが激しく明滅した。
「あるホー! 異常だらけだホー! 森の木々がすべてアンテナになって、空から巨大な『概念データ』をダウンロードしてるホー!」
その時、霧の向こうから金属が擦れるような咆哮が轟いた。樹木がなぎ倒され、その異形が顕現する。
馬の頭蓋骨を模したチタン製の頭部、黒い光ファイバーが束ねられた首、そしてホログラムのノイズを纏い、引き裂かれたマントのように翻るコウモリの翼。
「ジャージー・デビル……デジタル受肉体か」
モルダーが銃を構える。だが、怪物の瞳から放たれた赤いレーザーが地面を爆ぜさせ、二人は左右に飛び退いた。
「ヒーホー! 防御陣展開だホー!」
フロストが画面から這い出し、二人の周囲に青白い電磁バリアを張る。怪物の鋭い爪がバリアを叩くたび、火花が散り、フロストが苦悶の声を上げる。
「ダメだホー! あいつ、この土地に蓄積された200年分の『恐怖のログ』をエネルギーにしてるホー! 僕の出力じゃ追いつかないホー!」
「モルダー、物理攻撃が効かないわ。あれは情報の投影よ!」
スカリーが叫びながら怪物の動きを注視する。怪物の胸部、肋骨のように組まれた回路の隙間に、一箇所だけ激しく発熱し蒸気を噴き出している接合点があった。
そこには周囲のメカニカルな部品とは明らかに異質な、古びた「真鍮製の歯車」が埋め込まれていた。
「あれが『核』だ。デジタルとアナログの矛盾した接点!」
モルダーはフロストに命じた。「フロスト! 僕の弾丸に冷却コードを乗せろ。あの歯車の回転を情報の凍結で止めるんだ!」
「了解だホー! 命がけのデバッグだホー!」
フロストがモルダーの腕を伝い銃身に冷気のデータを流し込む。
銃身が真っ白に凍りついた瞬間、モルダーは狙いを定めて引き金を引いた。
放たれた「氷結弾」は怪物の胸部で回る真鍮の歯車を正確に射抜いた。
火花が止まり、怪物の動きが静止する。激しいデジタルノイズと共にホログラムの肉体が崩壊を始めた。
「……ヒー、ホー……」
フロストが力尽き、画面の中へ消える。
怪物の巨体は、最後にはその「真鍮の歯車」だけを地面に残して霧の中へと霧散していった。
静寂が戻った森でモルダーはその歯車を拾い上げた。
一見アンティークの時計部品のようだが、その表面には機械が刻んだ回路図ではなく、人間の手で延々と彫り続けられたような狂気すら感じる緻密な幾何学模様が刻まれていた。
「モルダー、これは証拠品としてラボに回すべきよ。異常な磁界の発生源だった可能性があるわ」
スカリーの言葉にモルダーは首を振った。
「いや、これはただの機械じゃない。……フロスト、お前があの怪物を『解析不能』だと言った理由がようやくわかったよ」
画面の中のフロストが、疲弊しながらも不思議そうに首を傾げる。「ヒーホー? どういうことだホー?」
「お前はあいつを『データ』として扱おうとした。だが、あいつを動かしていたのは演算ではなく、この土地に200年降り積もった『畏怖』……つまり、概念そのものだったんだ。DDSは、ただのきっかけに過ぎない。重要なのは、その裏にある物語だ」
モルダーは拾い上げた歯車を光に透かした。
「人間が何を信じ、何を恐れ、何に跪くか。その感情の質量が、悪魔という実体に『力』を与える。
高位の悪魔になればなるほど彼らは、自分たちの神話的背景や文化的プライドを重んじるはずだ。
アメリカという国で、キリスト教系の悪魔が影響力を持つのは、人間の信仰という上乗せがあるからなんだよ。
彼らは単なる符号じゃない。人間が作り上げた『神話』という名の重力に縛られ、同時に守られている」
「ヒーホー……。概念……。僕が『雪の妖精』だって信じてもらえればもらえるほど、僕の氷は冷たくなるのかホー?」
「そういうことだ、フロスト。お前がただのピクセルデータの塊じゃないのは、人々がお前という存在に『ジャックフロスト』という物語を与えたからだ。そしてこの森の怪物は、その物語を歪んだ形で利用され、暴走させられた犠牲者だったんだ」
スカリーはモルダーの言葉を精神分析の一種として受け入れようとしたが、その真鍮の歯車が放つ抗い難い「存在感」までは否定できなかった。
「悪魔は自分たちに対する人間の『敬意』や『畏怖』を糧にする…。だとすればモルダー、私たちはとんでもなく危険な扉を開けてしまったことになるわね。テクノロジーが神話を『再起動』させてしまった」
「ああ。これからの戦いはパッチを当てるだけじゃ済まない。僕たちは、アメリカが抱える『信仰』そのものと対峙することになるかもしれない」
モルダーは歯車をポケットに深く沈めた。パイン・バレンズの霧は完全に晴れ、そこにはただの静かな森が広がっていた。だが、モルダーの脳内には目に見えるデータの裏側に広がる、巨大な「概念の海」の地図が描かれ始めていた。