【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】   作:ベイベ後藤

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11話 ゴースト・イン・ザ・シャフト

 

冷たい雨が錆びついた選炭機を容赦なく叩いていた。

ウェストバージニア州ケルビン。

かつて「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭がこの町に黄金期をもたらしたが、三十年前の大落盤事故を境に時は止まった。

今や主要な坑道は分厚い沈黙と鉄格子で封鎖されケルビンは地図から剥落する日を待つだけの巨大な墓標と化している。

 

モルダーとスカリーが訪れたのは煤けたネオンが力なく明滅する町に一軒きりのダイナーだった。

 

一歩足を踏み入れれば古い油の匂いと、行き場を失った停滞感が肌にまとわりつく。

客たちは煤汚れた作業着を脱ぐことも忘れ虚空を見つめては泥のようなコーヒーを啜っていた。

その眼差しは目の前の現実を通り越し、床下―地中深くにある「失われた昨日」を懸命に追いかけているようだった。

 

「モルダー、見て。あの人もよ」

スカリーが窓の外を指差した。

 

土砂降りの雨の中、一人の老婆が傘もささずに立ち入り禁止の鎖が張られた坑道の入り口に向かって歩いていく。その足取りは危ういが横顔には最愛の家族に再会するかのような柔らかな慈愛が灯っていた。

 

「彼らはみんな地下から響く『音』に耳を傾けているんだ、スカリー」

 

モルダーは、ポケットの中で淡く明滅する端末を取り出した。

 

「ヒーホー…。この町の地面、すごく心音がうるさいホー。規則正しいリズムが、町中の人の脳波を揺さぶっているホー…」

 

画面の中でジャックフロストが不快そうに耳を塞ぐ。

 

「ノッカーか」とモルダーが呟く。

「鉱山に住む地霊の伝承だ。本来は壁を叩いて落盤を知らせる『警告者』だが、この町ではその概念が致命的な変質を遂げている。

彼らは警告を聴いているんじゃない。自分たちが最も欲する『過去の記憶』を、その音の中に幻視しているんだ」

 

その時、ダイナーの床底から震えるような振動が伝わってきた。

――コツ、コツ、コツ。

それは心臓の鼓動よりも深く、聴く者の記憶の蓋を無理やりこじ開けるような響きだった。

 

スカリーが、ふとマグカップを持つ手を止めた。瞳から焦点が消え遠い記憶の色に染まる。

 

「……パパ?」

唇から、無意識にその言葉が漏れた。

 

「スカリー!」

モルダーの鋭い声に彼女はハッと我に返った。

 

「……何でもないわ。ただ、今の音が…パパがよく書斎で考え事をしながら叩いていた、あのペンのノック音のように聞こえて。少し、混乱しただけよ」

 

「気をつけろ、スカリー。この町のノッカーには、人々の執着が異常なまでの質量を与えてしまっている。炭鉱を失い、家族を失い、それでもこの土地に縋り付こうとする人々の切実な祈りが、単なる地霊を『偽りの安らぎを与える怪物』へと押し上げてしまったんだ」

 

モルダーはまだ、この怪異の背後に潜む大きな意図には気づいていなかった。

ただ目の前の濃密な「想念」に、ただならぬ警戒を強めるだけだった。

 

「行こう、スカリー。あの老婆を連れ戻さないと、彼女は音の源に自分から吸い込まれてしまう」

 

坑道の入り口は、巨大な怪物の口のように暗く沈んでいた。二人はガスマスクを装着し、ライトの光で闇を切り裂きながらその深淵へと足を踏み入れた。

 

坑内は雨音さえ届かない隔絶された沈黙に包まれていた。だが、その静寂の底であの音だけがより肉体的な重みを持って響き続けている。

 

――コツ、コツ、コツ。

 

「……また聞こえるわ」

スカリーが震える手で壁の岩肌に触れた。

「聞こえるでしょう、モルダー。これは岩が軋む音じゃない。間違いないわ。パパが、私を呼んでいる。海軍少将としてではなくただの父親としての、あの親密なリズムで。パパ、そこにいるの?」

 

彼女が暗闇の奥へ吸い寄せられそうになった瞬間、フロストが警告を発した。

 

「ヒーホー! やばいホー! スカリーの精神波が不安定だホー! 地下の深いところにある『概念の核』が、彼女の記憶を直接引き摺り出そうとしているホー!」

 

その時、さらに深い場所から地響きのような音が鳴り響いた。

 

――コツ、コツ、コツ。

 

今度は一人ではない。何百、何千という「叩く音」が重なり合い、共鳴となって坑道を揺らした。それは、この炭鉱に命を捧げ地下に眠る無数の鉱夫たちの消えることのない執着が具現化した咆哮だった。

 

前方から泥と石炭の塵が渦を巻き、異形を形成し始めた。

小さな子供ほどの背丈だが、その腕は異常に長く岩をも砕く巨大な拳を持っている。

人々の祈りが肥大化させた地霊、ノッカーだ。

 

デジタルなノイズを纏いながら実体化するその異形。しかし、その目は怒りに満ちているのではなくひどく悲しげに濡れていた。

 

「あいつ……泣いているのか?」

モルダーが銃を構える手を、一瞬躊躇わせた。

 

その隙を突くように、ノッカーが巨大な拳で壁を叩いた。衝撃波が坑道を駆け抜け、スカリーは抗いきれぬ幻覚の奔流の中に飲み込まれていった。

 

「スカリー、あれは攻撃じゃない。…飽和しているんだ!」

 

モルダーは崩落する岩片を避けながら叫んだ。老婆の肩に触れるノッカーの巨大な手は、彼女を傷つけようとしているのではない。

それは、今にも決壊しそうな「情念の重み」を誰かと分かち合おうとする悲痛な救いの希求だった。

 

「フロスト、解析しろ! この怪異が引き受けているものの正体を見極めるんだ!」

 

「ヒーホー! 意識の密度が濃すぎるホー! これ、ただの霊気じゃないホー。町の人たちが何十年も積み上げてきた『未練』や『謝罪』が、この地霊を霊的な澱の集積地に変えて、巨大な記憶の墓標を作り上げているホー!」

 

本来、質素な「警告者」であったノッカーはDDSがもたらした変異により町全体の無意識を吸い上げる「壊れた記憶の器」へと変質していたのだ。

 

「スカリー、彼女を離せ! その老婆は、町中の悲しみを一身に引き受ける『感情の導管』にされている!」

 

モルダーの呼びかけに、スカリーが正気に戻った。彼女は幻視していた「パパ」の背中を振り払い、老婆をノッカーの手から引き剥がそうと抱きかかえる。

 

「フロスト、この歪みを正せ! 溜まりすぎた情念を大地へ還すんだ。今のノッカーは、他者の悲しみという猛毒に侵されて焼き切れる寸前だ!」

 

「了解だホー! 『忘却の解放』だホー! ヒーホー!」

 

フロストが画面から飛び出し、情念の渦巻く中心核へと飛び込んだ。

 

「冷たい、冷たい忘却の呪文を流し込むホー! みんな、思い出は心の中に仕舞っておくんだホー!」

 

フロストの叫びと共に、ノッカーの身体から濁流のような光の奔流が噴き出した。

かつてこの地で死んでいった鉱夫たちの顔、笑い声、そして永遠に癒えぬ後悔。

それらが電子の火花となって坑道の壁へと吸い込まれていく。

 

ノッカーの巨体は、光を吐き出すたびに縮んでいった。

岩のように武骨だった腕は細くなり、代わりに本来の、古い伝承にあるような小柄な―地霊の姿へと戻っていく。

 

最後の光が大地へと還っていった瞬間、坑道を支配していたあのリズムが止まった。

 

――コツ……。

 

最後の一打。それは静かで、穏やかな「警告」の音だった。

 

ノッカーは老婆に小さく頷くと、そのまま岩壁の奥へと溶け込むように消えていった。

 

ガスマスクの奥でスカリーが荒い息を整える。腕の中の老婆は、長い苦しみから解放されたように穏やかな寝息を立てていた。

 

地上に戻ると雨は小降りになっていた。

老婆は無事に保護され、ダイナーに集まっていた人々も、まるで憑き物が落ちたようにそれぞれの家へと帰っていった。

しかし、その背中はどこか以前よりも小さく老いて見えた。

縋るべき幻影を失った彼らにとって現実はより冷酷な姿で戻ってきたのかもしれない。

 

「モルダー、あのノッカーという存在は人々が『そうあってほしい』と願う姿を反映していたのね」

 

車中でスカリーが静かに言った。

その瞳には、まだ微かに「パパ」の名残を追った痛々しさが刻まれている。

 

「ああ。天使も悪魔も、人間の意識というキャンバスに描かれた絵に過ぎない。

だが、その絵に何万、何億という人間が執着という筆で色を重ね、祈りという名の熱を与えれば、それはキャンバスを突き破って現実へと受肉するんだ」

 

モルダーはハンドルを握り闇に沈むケルビンの町をバックミラーで見つめた。

 

「パイン・バレンズの怪異、そしてこの町のノッカー。

これらはまだ土地の記憶に根ざした小さな神話に過ぎない。

だが、もしアメリカ全体が、あるいは全世界が共有するような、より巨大な『概念』が悪魔として目覚めたら…」

 

「それは、システムを書き換える程度では済まない災厄になるわね」

 

モルダーは答えず、ただアクセルを踏み込んだ。

 

彼が予感しているのは、個人の追憶などよりも遥かに強欲で、冷徹な神話の誕生だった。

その恩恵なしには生きられない、現代社会の血液そのものが形を成したような異形。

 

黒いセダンは、ウェストバージニアの深い夜を抜け東へと向かう。

向かう先は欲望の電磁波が光の奔流となって渦巻く、鉄とガラスの摩天楼―ニューヨーク。

 

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