【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
ニューヨーク、マンハッタン。
鉄とガラスの峡谷が切り取る空は、排気ガスと数千万人の欲望が吐き出す熱気によって常に鉛色に濁っている。
ここでは一秒間に数億回もの取引データが光ファイバーの神経系を駆け抜け実体のない「数字」が世界の均衡を冷徹に支配していた。
物理的な地殻変動よりも遥かに速く、激しく、人々の運命を瞬時に塗り替えていく情報の嵐。この場所において、もはや「信仰」は伝統的な教会の十字架の下には存在しなかった。
スカリーが手元のスペクトルアナライザーの画面を凝視しながら愕然とした声を上げた。
「モルダー、見て。マンハッタン上空の電磁スペクトルが異常な数値を叩き出しているわ。可視光線の外側で街全体が見えない『黄金の雲』に覆い尽くされている。これは……都市規模のエネルギーの飽和状態よ」
マンハッタンへと向かうクイーンズボロ橋の上で、モルダーは窓の外に広がる摩天楼の群れを見上げた。
夕闇に沈むビル群は、窓のひとつひとつが獲物を待つ獣の眼のように不気味な黄金色のオーラを放ち、一定のリズムで脈動している。
「ここは世界で最も『数字』という名の偶像が拝まれている場所だからね、スカリー。かつての神話が森や泉に宿っていたのなら、現代の神話は光ファイバーの網目と、サーバーラックの排熱の中に宿る。
パイン・バレンズの怪物が古い寓話の残滓だとしたら、今ここにあるのは膨張し続ける欲望がリアルタイムで産み落とした怪物だ」
スマートフォンの画面の中では、ジャックフロストがかつてないほど怯えた様子で液晶の隅に身を潜めていた。
「ヒーホー…。この街のデータ、すごくギラギラしてて痛いホー。みんなの『もっと欲しい、もっと欲しい』って叫びが、何層もの電子の地鳴りになって脳幹を揺さぶるホー…。これ、僕みたいな小さな妖精じゃ近づくだけで回路が焼き切れちゃうホー…」
「フロスト、お前が感じているのは数千万人の執着が電子の海に書き込んだ『共通の祈り』の質量だ。
彼らは天の神に救いを求めているんじゃない。隣人より一桁多い数字を、自らの口座という名の祭壇に刻むことだけを願っている。
その身勝手な祈りの集積が今、臨界点を超えて物質的な歪みを産み出し始めているんだ」
今回の捜査依頼主は、ウォール街の頂点に君臨する巨大投資銀行「ギデオン・トラスト」だった。
変人(Spooky)モルダーと噂されてはいるが摩訶不思議な事件が発生すると彼に協力を頼みに来る人間は少なくないのだ。
「論理が通じなくなった現実主義者ほど怪物と対話できる狂人を必要とするものだ」とモルダーは自嘲した。
彼らにとってモルダーは救世主などではない。自分たちの富を守るために雇った使い捨ての「毒消し」に過ぎないのだ。
ギデオン・トラスト本社のロビーを抜けた先、専用エレベーターが最上階のディーリング・フロアに到着した瞬間、二人は物理的な「重圧」に圧倒された。
そこはもはや洗練された投資銀行のオフィスではなかった。
窓はすべて重厚な金色の遮光フィルムで覆われ外界の光を完全に遮断している。
広大なフロアに並ぶ数百のディスプレイからは猛烈な速度で流れる金色の数字が溢れ出し人々の顔を病的なまでの輝きで照らしていた。
「……何、これ。呼吸が苦しいわ。空気に金属の味が混じっている」
スカリーが口元を押さえ、眉をひそめる。
フロアにいる社員たちは、誰一人として捜査官たちの侵入に気づかない。
彼らは取り憑かれたようにディスプレイを凝視し、一心不乱にキーボードを叩いている。その姿は「仕事」をしているというより、神託を受け取り、それに応答する狂信的な儀式の最中のようだった。
異常なのはその「質感」だった。タイピングを続けるトレーダーの指先は、生身の皮膚ではなく、鈍い光沢を放つ金属へと変貌していた。
関節が動くたびに「チリ、チリ」と微細な電子火花を散らし、皮膚の下には血管の代わりに繊細な基板の回路が浮き上がっている。
「モルダー、これを見て。彼らの皮膚の下…毛細血管に沿って、微細な磁性体が逆流しているわ。これは医学的に不可能な現象よ」
スカリーは、すでに腰から上が黄金の彫像のように硬質化しつつある若い社員の首筋をペンライトで照らした。
その瞳からは理性の色が消え、眼球そのものが磨き抜かれた金貨のように無機質な光を反射している。
「生体マグネタイトだ、スカリー。人間の脳や神経系に含まれる微量な磁気エネルギーが、この端末群を通じて強制的に吸い上げられ濃縮されているんだ。…ここは銀行なんかじゃない。人間の精神エネルギーを変換する、巨大な『霊的収奪機構』、あるいは魂の鋳造所だ」
「ヒーホー! そういうことだったのかホー! このギラギラした黄金は、みんなの『魂の輝き』を絞り出した後のカスなんだホー! この人たち、自分自身を市場(マーケット)に売って、中身を全部空っぽにしちゃったんだホー!」
フロストが震える声で叫んだその時、フロア中央の巨大なメインモニターが激しいノイズと共に歪み、一頭の巨大な「黄金の雄牛」の輪郭を形作った。
ウォール街の象徴であるチャージング・ブルを模したその異形は、光ファイバーの尾を激しく振り、溶けた金のような瞳で二人を見下ろした。
「……ようこそ、フォックス・モルダー捜査官。そして、ダナ・スカリー捜査官」
スピーカーを通さない、鼓膜を直接震わせるような重低音が響く。
それは数万人の強欲を合成したような、厚みのある不気味な声だった。
「私を解析しようと無駄な努力をする必要はありません。
私はあなたたちが一分一秒を惜しんで追い求め、祈り、跪いてきた概念そのもの。マモン。この街の王であり、価値の裁定者です」
マモン。強欲を司る魔王の名を冠したその異形は、前脚で仮想の地を力強く蹴った。それと同時に、フロア中のディスプレイが一斉に切り替わった。
そこに映し出されたのは、モルダーがこれまでの人生で一度も目にしたことのない、驚愕の光景だった。
ノイズにまみれた古い極秘文書の断片、宇宙の深淵を捉えた未知の解析画像、そして―かつてモルダーが幼い日に目の前で失った妹、サマンサの記録と思われる膨大なデータ群。
モルダーの視線が、モニターに釘付けになる。
そこには彼が幾度となく夢に見た、しかし現実には決して手が届かなかった光景がデジタルな精密さで再現されていた。
サマンサの生体認証データ、あの日失われた時間の正確な座標、そして政府の奥底に眠る「プロジェクト」の全容。
「モルダー、見ちゃだめ! 目をそらして、それは…それはあなたの心を壊すための毒よ!」
スカリーが叫び、モルダーの肩を激しく揺さぶる。だが、モルダーの指は震えながら磁石に引き寄せられるようにモニターへと伸びていく。
彼の指先からは、いつの間にか空気に舞う黄金の粉塵が吸い込まれ、微かに金属的な光沢が皮膚を侵食し始めていた。
彼の中にある「真実への執着」という名の情熱が、マモンの提示した概念と共鳴し、肉体を情報の海へと引き摺り込もうとしていたのだ。
「私の演算能力は、この惑星に存在するあらゆる隠蔽の壁を透過する」
雄牛の瞳が、慈愛に似た傲慢さで輝く。
「この真実のデータを対価に、この『収奪』を見逃しなさい。
あなたが人生のすべてを賭して孤独と嘲笑に耐えながら追い求めてきた答えを、私はすでに導き出した。
これは、この宇宙で最も正当な『交換』だとは思わないか?
捜査官よ、これ以上何を望む必要がある。無価値な他人の命か、それとも生涯の渇きを癒やす唯一の雫か」
モルダーの脳裏に、幼いサマンサの背中が浮かぶ。あと一歩、あと一言あれば届いたかもしれない真実。それが今、指先ひとつで手に入る。目の前の黄金の像たちは、自ら進んでこのシステムに組み込まれた者たちだ。彼らを助ける義理がどこにある?
スカリーは、モルダーの黄金化しつつある手首を自らの両手で強く、痛いほどに掴んだ。その肌の冷たさと硬質さに、彼女は言いようのない戦慄を覚える。
「モルダー……お願い、正気になって。あなたは、こんな冷たい数字の塊の中で彼女を再構成したいの? 彼女が望んだのは、こんな死んだ黄金の世界での再会なの? 答えて、モルダー!」
スカリーの叫びが、黄金に満ちた静寂を切り裂く。
モルダーの瞳の中で金色の数字の羅列と、スカリーの必死な眼差しが激しく衝突し、精神の火花を散らす。
「……すまない、雄牛さん」
モルダーの声は、ひどく掠れていた。彼は憑き物が落ちたように大きく息を吐き出すと、ゆっくりと、しかし確固たる意志を持ってモニターから手を離した。指先の黄金の輝きが、わずかに退いていく。
「君の提示した見積もりは完璧すぎて、逆に『情熱』という項目の欠損が目立つ。
僕が求めているのは、君のような整理されたアーカイブ―死体置場じゃない。生きている人間の、泥臭く、不完全で、痛みを伴う真実だ。交渉は決裂だ。…返品不可の、強制終了(シャットダウン)といこうじゃないか」
「残念だ、フォックス・モルダー。お前は『価値』の真理よりも、朽ちゆく肉体の感傷を選んだ。ならば、その肉体ごと我が祭壇の礎となるがいい」
黄金の雄牛の瞳が、凍てつくような白熱を放った。
それと同時にフロアに点在していた黄金の彫像たちが、一斉に軋んだ音を立てて動き出した。
社員たちが、今は感情を喪失した防衛プログラムの末端として二人を包囲する。
「モルダー、退いて!」
黄金化した社員たちが、生体マグネタイトを引き抜くための青白い火花を指先から散らし壁のように押し寄せる。絶望的な物量攻勢のさなか、モルダーは懐からDDS介入デバイスを抜き放った。
しかし、その時だった。
狂乱の渦中、モルダーの視界の端で空間が静かに「反転」した。
黄金の輝きが急激に彩度を失い、時間が極限まで引き延ばされたような奇妙な静寂が訪れる。
襲いかかろうとしていた黄金の像たちが、空中で静止した映画のワンシーンのように固まった。
「……交渉の席で声を荒らげるのは、二流の商人がすることだ。そうは思わないかね?」
背後から響いたのは、仕立ての良いスリーピース・スーツを纏った男の落ち着いた知性を感じさせる声だった。
男は優雅な手つきで懐中時計を確認し、ゆっくりとパイプを燻らせている。
その立ち姿は、この世の物理法則を嘲笑うかのように毅然としていた。
長くなるので分割します