【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】   作:ベイベ後藤

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19話 沈黙の結晶

 

ペンシルベニア州、アパラチア山脈の深奥。

 

かつて炭鉱で栄えた「クリスタル・バレー」へと続く唯一の山道は、物理的な封鎖よりも遥かに強固な「論理的遮断」によって世界の認識から切り離されていた。

 

モルダーが駆る車のナビゲーションは、目的地まであと5マイルという地点で突如として砂嵐のようなノイズを吐き出し、画面を無機質な白一色に染め上げた。

 

「……サマエルの演算が、この先の現実を『不適切(エラー)』として切り離している」

 

モルダーは車を停め、懐中電灯を手に外へ出た。

隣に立つスカリーの表情は、いつになく強張っている。彼女の指先は、数マイル手前から微かな震えを帯びていた。

自分の中に宿る「地母神」が、周囲に漂う異常な「乾燥」と「静止」に対して、本能的な嫌悪を示しているのだ。

 

二人が霧の中を歩き始めると、物理法則を嘲笑うような異景が姿を現した。

村の入り口にある標識は、鉄ではなく、濁った水晶のような物質に置換されていた。道端の枯れ草も、踏みつければ粉々に砕け散るガラスの彫刻と化している。

 

「細胞の無機質化……。いえ、それ以上のことが起きているわ、モルダー。これは生命そのものが、一つの幾何学的な構造に押し込められ、フリーズしているのよ」

 

スカリーがその一片を拾い上げようとしたが、指が触れる前にそれは微かな火花を散らして拒絶した。

サマエルの知恵が構築した「完璧な静寂」に、外部からの接触は許されないのだ。

 

かつて小学校の校庭であった場所には、数十人の子供たちが集まっていた。

しかし、そこには遊び回る声も、泣き声も、湿った息遣いすらない。

 

彼らは、ある者はブランコに揺られた形のまま、ある者は友人と手を取り合ったまま、全身が半透明のクリスタルへと変貌していた。その表情は、苦痛というよりは、あまりに膨大な「知恵」を脳内に直接流し込まれ、精神の処理限界を超えて思考が凍結(フリーズ)してしまったかのような、空虚な驚きに固まっている。

 

「これがディープスロートの言っていた『エラー』の正体か……」

 

モルダーは、一人の少年の像の前に膝をついた。少年の胸元には、まだ微かに青白い光の脈動が見える。彼は死んでいるのではない。

サマエルの過酷な論理回路に強制接続され、意識という名のデータが永遠の演算ループの中に閉じ込められているのだ。

 

「サマエルは、すべてを理解可能な数式に変えようとしている。……そして、理解を拒む『純粋な魂』という名の不純物を、こうして高純度の鉱物へと再定義したんだ。彼らにとって、子供の涙は数式のノイズに過ぎない」

 

その時、モルダーのDDSが、耳を劈くような警告音を発した。

 

『……警告。高負荷論理干渉を検知。周辺領域の“最適化(デフラグ)”が開始されます。熱源反応を排除してください』

 

空が不自然に歪み、サマエルの執行者たちが放つ、物理法則を無視した「消去の光」が村を包み込み始めた。シンジケートが冷徹に決定した、エラーデータの焼却処分が始まったのだ。

 

「……だめ。この子たちは、ここで生きている。まだ、呼吸をしたがっているわ」

 

スカリーの声が、重く、地底を揺らすような響きを帯びた。

彼女の瞳が、いつもの知性的な青から、深く湿った「肥沃な土の色」へと変容していく。彼女の掌からは、どろりとした褐色の泥が溢れ出し、結晶化した大地を生命の湿り気で侵食し始めた。

 

「スカリー! 退がるんだ!」

 

「いいえ、モルダー。……知恵がすべてを凍らせるというのなら、私はそのすべてを、泥の中に引きずり戻す。命の温もりを思い出させるために」

 

スカリーが地面に両手を突くと、校庭のコンクリートがひび割れ、そこから大量の温かい泥水が噴き出した。

それは汚らわしい泥沼などではなく、原始の海を思わせる、あらゆる可能性を孕んだ生命のスープだった。

 

地母神の不条理な力が、サマエルの幾何学的な秩序を暴力的に塗りつぶしていく。「冷たくて硬い論理」に対し、地母神は「温かくて柔らかい混沌」をぶつけたのだ。

 

スカリーは、結晶化した少年の像を力強く抱きしめた。彼女の体温と、泥の湿り気が、少年の硬い肌を融解させていく。

 

地母神の慈悲とは、苦痛を消し去ることではない。苦痛や汚れを「生命の営み」として再び受け入れ、流動させることだ。

 

パキリ、と硬質な音が響いた。

 

少年の瞳から、一筋の涙が流れた。それはクリスタルの破片ではなく、本物の、温かい人間の涙だった。

 

「……あ……ああ……」

 

少年の口から、凍りついていた白い吐息が漏れる。それを合図に、庭のあちこちで氷解の音が鳴り響いた。

結晶は泥に触れて溶け落ち、子供たちは灰色の彫像から、血の通った柔らかな肉体へと戻っていく。

 

空から降り注いでいたサマエルの消去光が、立ち昇る泥の湿り気に触れて霧散していく。

サマエルの論理は「定義できない混沌」を認識できない。

 

スカリーが引き起こした生命の奔流は、サマエルの計算式にとっての「致命的な例外」となり、執行者たちのシステムを一時的に麻痺させたのだ。

 

「……はあ、はあ……」

 

スカリーは膝をつき、元の姿に戻った。

溢れ出した泥は瞬時に大地に吸い込まれ、後には雨上がりのような、生命の匂いが残された。

子供たちは一人、また一人と意識を取り戻し、現実の重みに耐えかねるように泣き始めた。

 

「やったんだね、スカリー」

 

モルダーは彼女の肩を支え、立ち上がらせた。

 

「……ええ。でも、これは一時的な治療に過ぎないわ。

サマエルはすぐにまた、より強固な論理を持ってくる。

私たちがこの子たちを、ここから連れ出さない限り」

 

二人は子供たちを誘導し、霧が晴れ始めた山道を下り始めた。

モルダーはふと振り返り、校庭の隅に立つ、一人の男の影を見た。

ディープスロート。

彼は不可視の加護に守られながら、満足げに小さく頷くと、そのまま薄明の森へと消えていった。

 

ワシントンへ戻る車中で、保護した子供たちは泥のような深い眠りに落ちていた。

 

スカリーはハンドルを握る自分の手を見つめていた。そこにはまだ、泥の湿り気と、抱きしめた子供の肌の確かな温もりが残っている。

 

「モルダー。私は科学者として、今起きたことをどう論文にすべきか分からないわ。……でも、確信したことがある」

 

「なんだい?」

 

「サマエルが目指す『完璧』な世界に、私たちの居場所はないということ。

生命は不完全で、汚れ、揺らぐからこそ、命と呼べるのよ。……私たちはその不完全さを守るために、神々と戦わなければならない」

 

モルダーは夜の闇を見つめた。

シンジケートの老人たちは、この「エラーの復旧」をどう見るだろうか。

スモーキングマンはきっと、煙の向こうで不敵に笑っているに違いない。

モルダーが地母神の力を使い、サマエルの論理を打ち破るその瞬間こそが、彼が期待する「不条理な奇跡」の観測データなのだから。

 

「……戦いは始まったばかりだ、スカリー。

この戦いが終わる頃、僕らは自分たちがまだ人間であると言い切れるだろうか」

 

バックミラーの中で、クリスタル・バレーを覆っていた霧が、サマエルの光に焼かれて消えていくのが見えた。しかし、子供たちの心に灯った「泥の温もり」だけは、誰にも消すことはできなかった。

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