【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】   作:ベイベ後藤

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短編Vol.6 The Devil in the Detail

 

 

 ニューハンプシャー州の朝は、ミルクを流し込んだような濃い霧に包まれていた。

フォックス・モルダーは、ワシントンD.C.の「熱」を脱ぎ捨てるために、この地を選んだ。

エアコンの唸り声さえ聞こえない、国道沿いの寂れたモーテル。

 

 彼の休暇を彩るはずの釣り竿やマウンテンバイクは、セダンのトランクに放り込まれたまま一度も動かされていない。代わりに、彼が窓際の小さな木製テーブルに広げているのは、かつての事件で押収された古びた、しかし強烈な重みを持つ一冊の魔導書だった。

 

『The Practice and Philosophy of Demonology』(魔術と悪魔信仰のすべて)

 

 茶色く変色したページを捲るたび、過去の「教員」の記憶が、煤けたインクの匂いと共に蘇る。

 

 当時、クローリー高校の教師たちが自分の保身と欲望のための代償として凄惨な死を迎えた。その惨劇の最中にあって、超然とした存在感を放っていた女性、フィリス・パドック。

彼女は「一緒に仕事ができてよかった」という言葉を黒板に残し、霧の中に消えた。

 

「……『悪魔は、契約という名の論理を好む』か」

 

 モルダーは、掠れた文字をなぞった。

かつての事件で、彼はパドックを「悪魔そのもの」と定義したが、今なら少し違う解釈ができる。

彼女は悪魔そのものではなく、偽物の信仰を罰する自浄作用だったのではないか。

 

 ふと、窓の外に目をやると、霧はさらに深まり、視界のすべてを白く塗り潰していた。

この異常な静寂。まるで、現実のノイズが何らかの「意図」によって遮断されたかのようだ。

 

 モルダーは、何かに導かれるようにジャケットを羽織り、部屋を出た。

モーテルに併設された古いダイナー兼カフェのテラス席。そこだけが、霧の海に浮かぶ孤島のように静かに佇んでいた。

 

 彼はコーヒーを注文し、霧に煙るテラスの端に座る。

何気なく向いた隣のテーブルに気配を感じた。

そこには、以前と変わらぬ姿の女性が座っている。

 フィリス・パドック。

彼女は、何も言わずにカップを見つめていた。

 

 カフェのテラスを包む霧は、もはや気象現象の域を超えていた。すぐ隣を走るはずの国道の走行音さえ聞こえず、世界には陶器のカップがソーサーに触れる微かな音だけが響いている。

 

「……お会いできて光栄だ、パドック先生。

あの日、黒板に残された文章は褒め言葉として受け取っておくよ。」

 

 モルダーは努めて冷静に、しかし視線は逸らさずに語りかけた。

隣の席のパドックは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には感情の揺らぎなど一片もなく、ただ深い森の奥にある湖のような静謐さだけが湛えられている。

 

「あら、モルダー捜査官。熱心な生徒は嫌いじゃないわ。でも、あなたが今読んでいる本……それは少々、解釈が古すぎると思わない?」

 

 彼女は、モルダーがテーブルに置いた『魔術と悪魔信仰のすべて』を指先で示し、微かに口角を上げた。その仕草は、かつて教壇で生徒を諭していた時と同じだった。

 

「古い、か。確かに現代の悪魔は、山羊の角や硫黄の臭いよりも、電子の海や情報のノイズを好むようだ。だが、本質は変わっていないはずさ。

『人間の身勝手な欲望』があなたたちを、この世界へ招き入れる招待状になる、という点はね」

 

「欲望、ね……。あの高校の連中は、サタニストだと自称していたが、その信仰は実にふざけたものだった。だから、罰した。

……悪魔とは、人間が吐き出した『矛盾』を食らって形を成す、鏡のような存在なのよ」

 

 パドックがカフェ・オ・レを一口啜ると、周囲の霧が一際濃く、重くなった。

モルダーは、背筋を凍りつかせるような感覚を覚えながらも、問いを重ねる。

 

「鏡、か。だとしたら、今の僕の目には……あなたは、どう映るべきなのかな」

 

「今のあなたは、鏡を見る必要なんてないでしょう? あなたはもう、皮を剥がされた世界の真実を視てしまったのだから。……でも、気をつけて。真実を知ることは、神に近づくことではないわ。むしろ、神から遠い『荒野』へ踏み出すことなのよ」

 

 パドックの言葉は、予言のように重くテラスに沈殿した。

彼女は、モルダーがワシントンで経験した変容を、その「眼」を通じてすでに見抜いているようだった。

彼女が語る「荒野」という言葉が、モルダーの記憶の底にある、ある不吉な影を呼び覚まそうとしていた。

 

「……荒野、か。僕が向かっているのは、真実という名の出口ではなく、終わりのない砂漠だというのか」

 

 モルダーの問いに、パドックは椅子に深く背を預け、悪戯っぽく目を細めた。

彼女の視線が、モルダーのジャケットのポケットから覗くDDSの端末へ向けられる。

 

「それからモルダー捜査官、その機械に頼りすぎるのは感心しないわね。

あなたは少し、コミュニケーションというものを疎かにしているんじゃないかしら?」

 

「コミュニケーション? 僕が、悪魔と……茶飲み話でもしろと言うのか」

 

 モルダーの皮肉に、パドックは楽しげに肩を揺らした。

 

「そうよ。会話にならない獣のような下級の存在は別として、あなたに興味を持って近づく者は、その『問答』を何より重要視しているの。

彼らが何を欲し、何を厭うのか。その本質を正しく視ること。それを放棄して、ただ機械的に処理しようとするのは、せっかくの知性に対する侮辱だわ」

 

 彼女は身を乗り出し、まるで内緒話でもするように声を落とした。

 

「逃げてはならないの。悪魔との対峙は、常に「thrilling」な交渉でなければ。

相手の本質を掴み、言葉を交わし、合意に至る……そのプロセスこそが、あなたの『力』になるのよ。

……まあ、たまには法外な要求をされるかもしれないけれど、それもまた趣があると思わない?」

 

 パドックの言葉に含まれた奇妙なユーモアに、モルダーは一瞬、呆気に取られた。

 

「真実を知ることは、神に近づくことではないわ。むしろ、神から最も遠い『荒野』へ踏み出すこと。……その荒野であなたを助けるのは、機械の演算ではなく、積み重ねた対話の記憶かもしれないわよ」

 

 その言葉を最後に、強烈な突風がテラスを駆け抜けた。反射的に目を細め、再び開いた瞬間、目の前の風景は一変していた。

 

 国道の走行音が遠くから届き、霧は朝日に溶けかけるように薄れている。

隣のテーブルには、主を失ったカップだけが置かれ、そこにはパドックの姿も、彼女が啜っていたカフェ・オ・レの余熱さえも残っていなかった。

 

 モーテルの自室に戻ると、モルダーはパドックの忠告を反芻しながらDDSを起動した。

電源を入れると、液晶画面に不自然なノイズが走る。

 

「……何だ、これは」

 

 モルダーが画面を操作して情報の階層を潜っていく。システムの裏側には、本来そこに存在しないはずのものが揺らめいていた。

 





元になってるのはシーズン2の14話です。とても印象に残っています。
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