【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
春到来。警視庁特命係の部屋には、場違いな高揚感が漂っていた。
杉下右京は、チェス盤の横に広げたタブレット端末を食い入るように見つめている。
画面に表示されているのは、アメリカ連邦捜査局(FBI)のフォックス・モルダーから送られてきたX-File――『生物学的テレポーテーションにおける量子の揺らぎと、意識の局所性について』。
「……なるほど。多世界解釈における『観測者』の役割を、動物という純粋な意識体に求めたわけですか。
相変わらずXファイル課には、突拍子もない資料が眠っているのですねぇ。しかし実に興味深い仮説です。」
右京が満足げに独り言を漏らし、紅茶のカップを口に運ぼうとしたその時。
ドタン、と景気のいい音を立てて扉が開いた。
「右京さーん! 聞いてくださいよ。美和子のやつ、また妙なネタを拾ってきましてね」
入ってきたのは、亀山薫だ。フライトジャケット姿に鼻の頭に汗を浮かべている。その表情は、困惑と好奇心が半々に混ざり合っていた。
「おやおや、亀山くん。美和子さんの耳は、相変わらず感度が良いようですねぇ」
「それが笑い事じゃないんですよ。なんでも、武蔵野の端っこにある『ワンワンパーク・ムサシ』っていう大きなドッグランで、神隠しが起きてるって噂なんです」
「はいぃ?神隠し、ですか」
「ええ。ドッグランで遊んでたワンちゃんたちが、飼い主の目の前で一瞬だけ『パッ』と消えて数秒後に、また同じ場所に戻ってくるっていうんです。しかも戻ってきた犬たちの毛に、変な砂が付いてるらしくて……」
右京の手が止まった。
「……その砂、どんな色をしていましたか?」
「え? ああ、美和子が撮った写真だと、雪みたいに真っ白で、ものすごく粒が細かい砂だったそうです。
東京の土じゃないことは確かですよ。」
右京は、ゆっくりと立ち上がりチェス盤の横の資料を指し示した。
「亀山くん。モルダー捜査官が送ってくれた資料がこれです。
ニューメキシコ州で見つかった、特定の周波数に反応して次元の壁を透過する『白い砂』。もしそれが武蔵野のドッグランに現れたのだとしたら、これは単なる見間違いでは済みませんよ」
「はぁ!? 次元……? またそんな、モルダー捜査官みたいなこと言わないでくださいよ、右京さん!」
亀山は呆れ顔を見せたが、右京の瞳に宿る「好奇心の炎」を見て、すでに自分の運命を悟った。
この男がこうなった時、特命係が動かないはずがない。
「……これは、直接確認しに行くほかありませんねぇ」
「……やっぱりそうなるのか。分かりましたよ、行きましょう!」
二人は連れ立って特命係を飛び出した。
武蔵野の郊外、かつての米軍基地の跡地を転用した広大なドッグラン施設『ワンワンパーク・ムサシ』。
平日の午後ということもあり、数組の飼い主が犬を遊ばせていたが、その表情にはどこか不安げな色が混じっている。
右京は、目撃例が集中しているという、ドッグラン最奥部の「大型犬エリア」へと足を進めた。そこは古い雑木林に隣接しており、風が抜けるたびに、カサカサと不自然な乾燥した音が響く。
「亀山くん。見てください、あそこです」
右京が指差した先。フェンスのすぐそば、一本のクヌギの木の周囲だけ、空間が陽炎のように微かに歪んでいる。そこへ、一頭のゴールデン・レトリバーがボールを追いかけて走り込んで来た次の瞬間。
ゴールデン・レトリバーの姿が、映像のノイズのように一瞬だけブレたかと思うと、音もなく「消失」した。
「うわっ! 消えた! 本当に消えましたよ右京さん!」
亀山が叫び、拳銃……ではなく、咄嗟に近くのフリスビーを構える。
その三秒後。
再び空間が歪み、ゴールデン・レトリバーが何事もなかったかのように姿を現した。
犬は、きょとんとした顔で身体を振るったが、その黄金色の毛並みには、真っ白い砂が、薄化粧のように付着していた。
「……白い砂。間違いないようです。そして、この空気の振動。……亀山くん、あそこを見てください」
右京が視線を向けたのは、ドッグランのフェンス越しに建つ、一軒の古びたプレハブ小屋だった。そこには、今は亡き「国立量子物理研究所・分室」の看板が、錆びついたまま掲げられていた。
「あそこから、何かが出ていますねぇ。……この世界と『向こう側』を繋ぐ、強引な呼び声が」
右京は、未知の真実に向かって静かに歩き始めた。
亀山は「勘弁してくださいよ……」とボヤきながらも、頼もしい足取りで、その背中を追いかけていく。
上空では、春の柔らかな日差しが、一瞬だけ不自然な色に明滅した。
錆びついたフェンスを回り込み、特命係の二人は「国立量子物理研究所・分室」跡地の敷地へと足を踏み入れた。
雑草が生い茂るアスファルトの先に建つプレハブ小屋は、窓ガラスが割れ壁のあちこちに不気味な青白い「焦げ跡」が残されていた。
「……右京さん。ここ、本当に立ち入って大丈夫なんですか? なんか、嫌な予感がするんですけど」
亀山は、周囲を警戒するように見回した。
「おやおや、亀山くん。君の『嫌な予感』は、得てして真実に近づくための重要なセンサーですよ。……さあ、行きましょう!」
右京は躊躇なく小屋の扉に手をかけた。
電磁ロックが破壊された形跡がある。中へ入ると、そこは外観からは想像もつかない、最新鋭の量子コンピューターと、旧時代の真空管デバイスが奇妙に融合した、異様な空間だった。
部屋の中央には、真鍮製の装置が鎮座していた。装置からは、先ほどのドッグランで感じたものと同じ、空間を微かに振動させる「低い唸り」が響いている。
「……これは、量子のもつれを強制的に増幅させるための、加速器の一種ですか」
右京は、装置に接続されたモニターに映し出された数値を凝視した。そこには、数式とグラフ、そして一頭のラブラドール・レトリバーの画像が表示されていた。
「レオ。……私のレオ」
背後からの声に、亀山が咄嗟に構えをとる。
奥の部屋から現れたのは、ボロボロの白衣を纏った、痩せこけた老人だった。かつて、この研究所に在籍していた、量子物理学の権威、土門博士。
彼の瞳には、狂気と悲しみが奇妙なバランスで宿っていた。
「レオは、死んでいない。……ただ、『死ななかった世界』へ行ってしまっただけだ」
土門博士は、右京たちの存在を無視するように、装置のレバーにしがみついた。
「レオ……。博士の愛犬ですか」
右京の穏やかな声に博士は、ゆっくりと視線を向けた。
「五年前だ。ドッグランからの帰り道、暴走したトラックに……。
私は、彼の死を認めない。量子力学の多世界解釈によれば、事故が起きなかった世界も、確かに存在するはずだ!」
「博士。気持ちは分かりますけどね、その実験のせいで、今のドッグランにいる犬たちが神隠しに遭ってるんですよ!」
亀山が、博士の前に一歩踏み出した。
「神隠し……? フフ、そうか。向こう側のレオを呼び戻そうとするエネルギーが、こちらの犬たちの量子的状態を不安定にしているのか。……だが、それももうすぐ終わる。扉は、開かれる!」
土門博士がレバーを引き下げると、装置が激しい咆哮を上げ始めた。
部屋中に「青白い霧」が立ち込め、先ほどの「白い砂」が、雪のように宙に舞い上がる。
「亀山くん、装置を止めるのです! このままでは次元の裂け目が、この場所一帯を飲み込みかねません!」
「了解! ……博士、悪いけど、これ以上はさせられねぇ!」
亀山が装置に近づこうとした、その時。
青白い霧の向こう側から、「ワン!」という、力強い犬の遠吠えが響いた。
亀山の目の前を、半透明の黒い影が、まるで矢のように駆け抜けていく。それは、死んだはずのラブラドール、レオの姿だった。
「レオ! ……そこにいるのか、レオ!」
土門博士の声に呼応するように、装置の振動は、臨界点を越えプレハブ小屋の天井を突き破って、武蔵野の空へと「青い光の柱」が伸びた。
上空の雲が渦を巻き、そこから目も眩むような「白い穴」がゆっくりと開き始めた。
プレハブ小屋の天井を突き破った「青い光の柱」が、武蔵野の夜空に巨大な「白い穴」を穿った。そこから溢れ出したのは、現世のものではない、冷徹な重力の奔流だった。
プレハブ小屋の壁が軋み、量子コンピューターがショートして火花を散らす。
「おやおや。重力の位相同期が始まってしまいましたか。……このままでは、この場所を中心とした半径数キロが、向こう側の世界に丸ごと飲み込まれますよ」
右京は、狂い始めた計器を凝視しながら、冷静に状況を分析した。
「そんな冷静に言ってる場合ですか右京さん! 博士、レオ! ……博士、しっかりしてください!」
亀山は、重力に抗って這いつくばりながら、土門博士の白衣を掴んだ。
博士は、天井の穴を見上げ、虚空に向かって手を伸ばしていた。
「……レオ。レオ、そこにいるのか! ……私は、行く。彼のいる、死のない世界へ!」
土門博士の身体が、青白い霧に包まれ、ゆっくりと浮かび上がり始めた。
「博士! 行っちゃダメだ! 向こうの世界に行けば、あんたは……!」
亀山が叫ぶ。その時、彼の目の前を、再び「半透明の黒い影」が駆け抜けた。それは、穴に向かって吸い込まれていく博士の身体を、必死に押し戻そうとしているかのようだった。
「はいぃ? ……亀山くん、博士を離してはなりません! 博士、レオは、あなたを連れて行こうとしているのではありません。
……彼は、あなたをこちらの世界に留めようとしているのですよ」
右京の声が、重力の唸りを切り裂いた。
「なに……? レオが、私を?」
土門博士の動きが止まった。
「多世界解釈によれば、向こう側のレオは、こちらの世界のあなたとは異なる時間軸を歩んでいます。
……彼にとって、あなたは五年前に死別したはずの存在。あなたが穴へ飛び込めば、二つの時間軸が衝突し、両方の世界が崩壊する。
レオは、自分の存在を賭して、あなたの、そしてこちらの世界の日常を守ろうとしているのです!」
右京の論理は、土門博士の狂った悲しみを正確に貫いた。
「……レオ。……お前は、私を守ろうと……」
土門博士の瞳から、狂気が消え、代わりに膨大な後悔と、深い慈しみが溢れ出した。
その瞬間、装置が臨界点を超え、白い砂が渦を巻いて亀山のフライトジャケットを切り裂こうとした。
「右京さん! もう限界だ! これ以上は……!」
「亀山くん、主幹ブレーカーを破壊するのです! 」
「了解! ……博士、悪いけど、これ以上あんたを悲しませるわけにはいかねぇ!」
亀山は全身の体重をかけ、重力を切り裂いて制御盤に飛び込んだ。
警棒を逆手に持ち、主幹ブレーカーのレバーへと叩きつける。
「うおおおおおお! 砕けろぉ!」
瞬間、地下施設を埋め尽くしていた青い光が、断末魔のような高音を立てて弾けた。
武蔵野の郊外。かつてのプレハブ小屋は、崩壊し、跡形もなく消え去っていた。後に残ったのは、焦げ付いた土壌と、呆然と座り込む土門博士、そして特命係の二人だけだった。
上空の「白い穴」は消え、春の柔らかな日差しが、何事もなかったかのように雑木林を照らしている。
「……終わったんですね、右京さん」
「ええ。……どうやら、レオの忠誠心が、現世の論理を凌駕したようですねぇ」
右京は、博士の横に落ちていた「一片の布」を拾い上げた。それは、五年前に事故現場に残されていたという、レオが愛用していた、古びた首輪の端だった。
数日後の特命係。
亀山が、美和子特製の「青いおはぎ」を右京のデスクに置いた。
「右京さん、これ食べて元気出してくださいよ。」
「おやおや、これはまた独創的なおはぎですねぇ」
恐る恐るおはぎを見つめる右京と、それを苦笑いで見守る亀山。
特命係に、いつもの雰囲気が戻ってきた。
上空では、澄み渡った青空が何事もなかったかのように東京を見下ろしている。