【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
春の嵐が過ぎ去った後の警視庁特命係には、淹れたての紅茶の香りと、それには不釣り合いな「非日常」の気配が満ちていた。
杉下右京は、チェス盤の横に広げたタブレット端末を凝視していた。画面には、FBIのフォックス・モルダー捜査官から送られてきたばかりの、機密解除がされた古い捜査ファイルが映し出されている。
「……なるほど。ケンタッキー州上空で起きた航空機墜落事故。回収されたフライトレコーダーには、物理的には説明のつかない『9分間』の空白が記録されていた。……生存者の腕時計だけが、地上と9分間のズレを生じていた、ですか。」
右京は、眼鏡を丁寧に拭きながら独り言を漏らす。
「モルダー捜査官によれば、これは単なる時間の遅延ではない。
高エネルギーのプラズマ、あるいは『向こう側』のテクノロジーによる、局所的な時空の編集……実に興味深いですねぇ」
そこへ、勢いよく扉が開いた。息を切らせた亀山薫が飛び込んでくる。
「右京さん! 聞いてくださいよ、また美和子のネタなんですがね ……いや、今回はマジでヤバいですよ。
新宿のカフェで『神隠し』未遂が起きたんです!」
「はいぃ?亀山くん。落ち着きなさい。……神隠し未遂とは、穏やかではありませんねぇ」
「新宿のオフィス街にあるカフェ『クロノス』で、客全員の腕時計が突然『10分間』進んだっていうんです!
スマホのデジタル時計は正常なのに、アナログの針だけが、パッ、と十分後に飛んだらしくて……」
右京の瞳に、好奇心の光が宿った。
「……アナログ時計だけが、ですか。
スマホのようなデジタルデバイスではなく、機械的な歯車を持つものだけが影響を受けた。
亀山くん、その客の中に身体に異変を訴えた人はいませんでしたか? 例えば、覚えのない日焼けのような『火傷』とか」
亀山は目を見開いた。
「な、なんで分かるんですか!? そうなんですよ! 数人の客が、首筋や腕にひどい赤みを訴えて、病院に担ぎ込まれたんです。
医者は『強い紫外線を浴びたような症状』だって言ってるらしいですけど、地下のカフェでそんなはず……」
「Xファイルのケースと同じですねぇ」
右京は席を立ち、上着を手に取った。
「モルダー捜査官のレポートにある、航空機内での現象と酷似しています。
強烈な光――『ホワイト・フラッシュ』と共に、時間は消失し、肉体には高エネルギーによる放射線状の火傷が残る。……亀山くん、そのカフェへ行きましょう」
二人は特命係を飛び出し、新宿の高層ビル群の足元へと向かった。
カフェ『クロノス』は、再開発計画によって周囲を巨大なビルに囲まれた、谷間のような場所に位置していた。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、右京は足を止めた。
「……感じませんか、亀山くん。この微かな『静電気』を」
「うわっ、本当だ。髪の毛が逆立つ感じがしますよ。……右京さん、あそこ! 壁の時計を見てください!」
カフェの中央に掛けられた大きな振り子時計。その針は、現在の時刻よりも「十分」進んだ位置で止まっていた。しかし、振り子は今も、左右に揺れ続けている。まるで、目に見えない時間の濁流を無理やり漕ぎ進もうとしているかのように。
右京は床に膝をつき、特定のテーブルの周囲を観察し始めた。そこには、熱で溶けたような微細なプラスチックの破片と、正体不明の「結晶化した砂」が散らばっていた。
「……10分間のロスタイム。そして、この空間に残された高エネルギーの痕跡。
亀山くん。どうやら我々は、説明のつかない超常現象を、この新宿で目撃しているようですよ。」
右京がテーブルの下から拾い上げたのは、ひどく歪んだアナログ式の時計だった。その文字盤は熱で黒ずんでいたが、針は「午前三時」を指して固着していた。その時、カフェの照明が激しく明滅し、地響きのような重低音が響き渡る。
「右京さん! 来ますよ、あの『ホワイト・フラッシュ』が!」
眩いばかりの白い光が、カフェの密閉空間を埋め尽くした。
網膜を焼くような白光が収まった後、カフェ『クロノス』を支配したのは静寂だった。
亀山は、顔を覆っていた腕をゆっくりと下ろし、激しく瞬きを繰り返した。
「右京さん、今の……何だったんですか?
目の前が真っ白になって、一瞬、自分の体が透けて見えたような……」
「おやおや。亀山くん、無事ですか?」
右京は、光を浴びる直前と全く同じ姿勢で床に膝をついていた。しかし、その手元――先ほど拾い上げた「歪んだ時計」は、先ほどとは異なる鈍い光を放っている。
「今のはモルダー捜査官のXファイルにあった『ホワイト・フラッシュ』……高エネルギー放射による空間の励起現象でしょう。
見てください、あそこを。」
右京が指差した先。カフェの隅、壁際に一人の老人が座っていた。
作業着にルーペを首から下げたその姿は、周囲のモダンな内装から浮き上がっている。
老人は、手元の小さな歯車をピンセットでいじりながら、何かに怯えるように周囲をキョロキョロと見渡していた。
「……お客さん?」
亀山が声をかけ、近寄ろうとした瞬間。
「待ちなさい、亀山くん!」
右京の鋭い声が飛ぶ。
「彼の足元を。……影がありません。そして、彼が触れているテーブルの質感を見てください。『透過』しています。」
亀山が息を呑む。老人の腕は、大理石のテーブルを通り抜け床の中にまで埋まっていた。まるで、そこにあるべき重力や物質の境界を無視しているかのようだった。
「これって、まさか幽霊ですか!?」
「いいえ。……もっと物理的なものです。モルダー捜査官のレポートにあった、『物質透過現象』。
特定の周波数のエネルギーを浴びた物質が、異なる時間軸の座標に固定されてしまった……いわば、過去の『残像』が、今現在の新宿に出現しているのですよ。」
右京は老人の名札を読み取った。『時計修理技能士・土田』。
右京の脳内にある過去の未解決事件のデータベースが、瞬時に一つの記録を弾き出した。
「土田良三さん……。この場所――かつては古い時計店が立ち並ぶ路地裏でしたが、そこで起きた轢き逃げ事件の被害者です。
遺体は発見されましたが、彼が肌身離さず持っていたという『時計』だけが、現場から消えていた……」
老人の残像は、何かを必死に訴えるように口を動かしたが、音は一切漏れてこなかった。ただ、彼が指差す先――そこには再開発で建てられた、このビルの「配電盤」があった。
「あの配電盤が、何かに関係しているっていうんですか?」
亀山が問いかけると同時に、再び地響きが轟いた。
「亀山くん、あの配電盤を調べてください。
土田さんが命を落とした瞬間、彼は何かを『目撃』し、それを時計の中に封じ込めたのかもしれません。……そして今、このビルの強力な磁場が、その封印を解こうとしている。」
右京が手に持つ歪んだ時計の針が、カタカタと音を立てて逆回転を始めた。そこへ、騒ぎを聞きつけたビルのオーナー、三ツ谷という男が、警備員を引き連れて現れた。
「何をしている! ここは私の私有地だ。すぐに出て行きたまえ!」
三ツ谷の顔は青ざめ、その視線は右京の手元にある時計に釘付けになっていた。
「おやおや。……随分と、この古い時計が気になるようですねぇ」
右京は、三ツ谷の腕に巻かれた高級時計が、10分進んだまま激しく震えているのを見逃さなかった。
「……どうやら『過去』が、この新宿で息を吹き返そうとしているようですよ。」