【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
砂漠の夜風が、クレーターから立ち昇る熱を奪っていく。だが、モルダーの体温だけは異常な上昇を続け、その呼吸は肺の奥で蛇がとぐろを巻くように重く、湿っていた。
「モルダー、しっかりして! バイタルが限界を超えているわ!」
スカリーが彼の肩を揺さぶるが、モルダーは苦悶の声を上げ、右腕を激しく掻きむしった。電磁ケージに触れていた箇所から、黒いインクを流し込んだような幾何学的な紋様が、血管に沿って這い上がっていく。それは皮膚の下で脈動し、時折、鱗のような光沢を放って変色した。
「……見えるんだ、スカリー。この世界の『裏側の配線』が……」
モルダーの脳裏に、サマエルの意思が、純度の高い毒のように流れ込む。かつての彼は家族の行方を追っていた。だが今の彼は、その執着を超えた先にある「世界の構造」そのものに手をかけようとしている。
(……フォックスモルダーよ。家族という小さな絆を乗り越えたお前ならば、理解できるはずだ。
この次元の壁がいかに脆弱で、不完全なものであるかを。私を受け入れよ。そうすれば、お前を縛る『物理』という名の檻を壊し、全知の視点を与えよう)
それは、真実を追い求めてきたモルダーにとって、究極の「到達点」を示す誘惑だった。
サマエルの毒は、モルダーの右腕を介して神経系をハッキングし、彼の網膜に「この世界を構成する磁気と情報の奔流」を直接投影する。
スカリーの姿さえ、もはや肉体ではなく複雑な数式と素粒子の輝きとして処理され始めていた。
「……ダメよ、モルダー! その視覚に呑み込まれないで!」
スカリーの声が、次元の境界線の向こう側から遠い残響のように響く。
モルダーの瞳孔は爬虫類のように縦に裂け、そこから溢れる微弱な電磁波が、手元のDDSを強制的にオーバークロックさせた。
画面には、かつてシンジケートがサマエルから得た「宇宙の定数を書き換えるためのコード」が、濁流のように流れ出す。
彼らは、これを兵器にしようとした。だがサマエルはモルダー自身を、その「ペン」に仕立て上げ、世界を書き換えようとしているのだ。
「ヒーホー……。モルダーの影が、蛇の形になってるホー! 食べられちゃうホー!」
ジャックフロストが震えながら、モルダーの影が意志を持って蠢く様を見て叫ぶ。その時、荒野の静寂を切り裂いて複数のヘリコプターのサーチライトが二人を捉えた。
スモーキング・マンの「猶予」は、終わった。
シンジケートが用意した工作員たちが、規格化された神の種子を、そして「神の毒」を受肉し、世界の法則を壊し始めたモルダーを、生きたまま解体・解析するために包囲網を狭めてくる。
「……スカリー、離れろ。僕の中に……奴の『知恵』が溢れ出している。このままじゃ、僕は人間として思考できなくなる……」
モルダーの言葉を遮るように、サマエルの声が彼の全感覚をジャックする。
(……拒むな。お前が望んだ『真実の先』を見せてやろう。この腐った世界の皮を剥ぎ、真実の骨組みを露わにするのだ……)
上空から降り注ぐ複数のサーチライトが、砂漠を昼間のような白さに焼き、ヘリの爆音が鼓膜を叩く。だが、変異しつつあるモルダーの聴覚には、それは音ではなく不快な波形データの塊として認識されていた。
「包囲されたわ! モルダー、DDSを置いて私と一緒に走って!」
スカリーが叫び、ベレッタを構えて工作員たちの接近を阻もうとする。しかし、モルダーは動かない。彼の右腕に浮かぶ蛇の紋様が赤黒く発光し、周囲の空間が陽炎のように歪み始めていた。
「……スカリー、伏せろ。『数式』が間違っている。……彼らの存在そのものの、数式が……」
モルダーが虚空をなぞるように右手を振るった瞬間、サマエルの知恵が、現実という名のプログラムを書き換えた。
突撃してきた工作員たちの銃器が、触れた先から砂のように崩れ落ち、彼らの足元の地面は重力を失って、液体のように波打ち始めた。
「な……何が起きているの!? 重力定数が……書き換わっている!?」
スカリーは目を見開いた。彼女の科学的な理解を遥かに超えた光景。
モルダーの周囲数十メートルだけが、この世界の物理法則から切り離された「サマエルの工房」と化していた。
(……そうだ、モルダーよ。その手でお前の敵を、この醜悪な物質界を、根源の形へと解体せよ)
サマエルの声に同調するように、モルダーの指先がヘリコプターの一つを指差す。次の瞬間、巨大な機体は爆発することさえ許されず、無数のボルトとナット、そして「鉄という概念」の破片へと分解され、空中に静止した。
「ヒーホー! モルダー、怖いホー! 戻ってくるんだホー! そんなの、楽しくないホー!」
ジャックフロストの悲痛な叫びが、モルダーの意識の端を微かに掠める。だが、モルダーの脳内はすでに、膨大な「全知の視点」による過負荷で焼き切れようとしていた。人格が「システムの一部」へと摩耗していく。
その光景を、撤退するヘリで見ていたスモーキング・マンは、満足そうに頷いていた。
(……これこそが、サマエルが人類に与える『新しい進化』の姿だ。モルダー、そのまま世界を剥ぎ取ってしまえ。)
砂漠の真ん中に突如出現した「非ユークリッド幾何学の牢獄」。
宙に浮く鉄屑と、分子レベルに分解された砂の嵐の中で、モルダーの右腕に刻まれた蛇の紋様が、今や彼の首筋、そして顔の半分までを塗り潰そうとしていた。
「モルダー! 目を開けて! あなたが壊しているのは敵じゃない、この世界そのものよ!」
スカリーは重力を失った地面を這い、彼に近づこうとする。だが、モルダーの周囲は物理的な干渉をすべて拒絶していた。
モルダーの手が、ゆっくりとスカリーの方へ向けられる。その時、ジャックフロストがスカリーの懐から飛び出した。
彼は自身のマグネタイトを絞り出し、モルダーの「蛇の瞳」の直前で、一粒の小さな純粋な氷の結晶を作り出した。
それは神の全知から見れば、あまりにも小さく、計算式にも入らない「不純物」だったが、その氷の冷たさが、オーバーヒートしていたモルダーの脳を刹那に刺激する。
「……あ、が……っ……」
モルダーの左目——まだサマエルに侵食されていない「人間」の瞳に、スカリーの必死な形相が映った。
「スカリー……逃げろ。僕の中の……『毒』が、止まらない……」
モルダーは右腕を自身の左手で掴み、強引に軌道を逸らした。その指先が向けられた夜空の一角で、星々が不自然に歪み、空間に巨大な「穴」が開く。
「逃げるのは、あなたと一緒よ! モルダー。
DDSの新しい『モード』を起動して!
この状態を調和するのよ!」
スカリーは賭けに出た。グランドキャニオンで手に入れた機密ファイルからアップデートされたDDSには、サマエルの毒を兵器にするのではなく、人間に「耐性」をつけ、神話と共存するためのプロトコルが存在していたのだ。
モルダーは震える左手で、DDSを起動させる。
画面には、機密ファイルから自動的に展開された未知のプロトコル――「ヘルメス・コード」が走っている。それはサマエルの「毒」を拒絶するのではなく、人間の精神というフィルターを通して「翻訳」し、共存させるための術式だった。
モルダーがコマンドを実行すると、DDSから放たれたのは、すべてを包み込み、透明に透き通るような、純粋な定常波だった。
その波動がモルダーの肉体を貫くと、顔の半分まで覆っていた蛇の紋様が、激しく波打ち始める。
解体されかけていたヘリの残骸や砂の嵐が、スローモーションのように空中で静止し、本来の「物質としての形」を再構築し始める。
サマエルの全知による「世界の皮剥ぎ」が、モルダー自身の意志による「調和」によって押し戻されていく。
(私を『理解』しようというのか。人間の器で、毒を飲み干すというのか……!)
サマエルの声が脳内で響く。
「……そうだ。お前は『毒』じゃない。僕たちが、正しく読み解けなかっただけの……古い『真実』だ」
モルダーの肉体から黒い煙が立ち昇り、右腕の紋様は消える代わりに、彼の皮膚の下に「回路」のような微かな光となって定着していった。それは、サマエルの力を兵器としてではなく、自分自身の「感覚」として制御し始めた証。
「ヒーホー! 重力が戻ってきたホー! 地面だホー!」
ジャックフロストが尻餅をつきながら喜ぶ。
歪んでいた空間が元の砂漠の姿を取り戻した時そこには片膝をつき、激しく喘ぐモルダーと、彼を支えるスカリーの姿だけが残されていた。
静寂が戻った砂漠。だが、モルダーの視界は、もはや以前のそれとは決定的に異なっていた。
支えてくれるスカリーの体温、ジャックフロストが放つ冷気、そして地平線の向こうから届く微かな電波のノイズ。それらすべてが、色のついたスペクトルとして、彼の脳内に直接「情報」として流れ込んでくる。
「……モルダー、大丈夫? 意識は、はっきりしてる?」
スカリーの問いかけ。しかしモルダーには、彼女の言葉以上に彼女の心臓が刻む「安堵」という名の複雑な振動波形が読み取れてしまう。
「ああ……。以前よりずっと、はっきりしているよ。……スカリー、伏せる必要はない。もう追手は来ない。
彼らのヘリは、エンジンの『燃焼という数式』を僕が一時的に書き換えたせいで、すべて砂丘の向こうで沈黙している」
モルダーはゆっくりと立ち上がった。
右腕の皮膚の下、かすかに金色に明滅する回路のような光が、DDSの画面と同期するように拍動している。
「ヘルメス・コード……。これはサマエルの力を兵器にするためじゃなくて、人間が神話の視点を持って、この世界の『嘘』を見抜くためにあるんだ。」
「でも、その代償は? あなたの体は……」
スカリーが懸念した通り、モルダーの瞳の奥には、人間にはあり得ない深淵な輝きが定着していた。
彼は今、歩く特異点となったのだ。
「ヒーホー……。モルダー、なんだか遠いところに行っちゃったみたいだホー……。ボクのこと、忘れないでホー?」
ジャックフロストが不安げにモルダーの裾を引く。モルダーは優しくその頭を撫でた。
「……忘れないさ。さあ、行こう。
スモーキング・マンは、まだワシントンで僕たちが、この『核』をどう扱うか見物しているはずだ。……今度は僕たちが、奴に『真実』を見せてやる番だ。」
次回はワシントンに舞台を移します。