【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
アルカディアの空には、移ろう雲も、容赦なく照りつける太陽も存在しない。ただ、大気そのものが柔らかな乳白色の輝きを放ち、永遠の午後を思わせる穏やかな光が世界を満たしている。
モルダーは、どこまでも澄み渡った巨大な湖のほとりに立っていた。
水面は鏡のように静止し、背後に広がる深い森林の緑を鮮やかに映し出している。
古代遺跡の神殿を彷彿とさせる優雅な円柱が並ぶ回廊を抜け、モルダーは草を踏みしめて歩いた。
耳を澄ませば、そよ風に揺れる木の葉の触れ合う音や、色彩豊かな小鳥たちの囀りが聞こえる。すべてが調和し、すべてが安らぎに満ちている。
現実世界を支配する「エントロピー」という概念すら、この場所では機能していないかのようだった。
「兄さん、そんなに険しい顔をしてどうしたの? ここにはもう、あなたを傷つけるものは何一つないのに」
傍らに立つ少女――サマンサが、いたずらっぽく笑ってモルダーの袖を引いた。
彼女の姿は、あの悪夢のような夜に失われた子供のままではない。もしもあの時、何も起きずに成長していたら……というモルダーの願望を具現化したような、瑞々しくも清らかな娘の姿だ。
サマンサに導かれ、モルダーは湖を見下ろす大理石のベンチに腰を下ろした。
「……サマンサ。ここは、あまりにも完璧すぎる。
人間同士の醜い争いも、悪魔との遭遇も、生命を脅かす要素も一切ない。……だが、不自然だ。
真実というものは、もっと泥にまみれていて、痛みを伴うものじゃないのか?」
「真実? それは、現実という名の不完全な世界が、自分たちの欠陥を正当化するために作った言葉よ、兄さん」
サマンサは、モルダーの手に自分の手を重ねた。その温もりに触れた瞬間、モルダーの脳裏を支配していた「捜査官としての懐疑心」が、まるで霧が晴れるように薄れていく。
スカリーの鋭い眼差し、ローン・ガンメンの騒がしい基地、FBIの冷たい廊下に立ってこちらを見つめるスキナー副長官。それらが、遠い前世に見た質の悪い映画のように、色彩を失い始めていた。
「ここは、ギメル様がすべてを管理してくださっているわ。
科学技術の粋を結集させた、この千年王国のテスト・ケース……私たちはここで、ただ『幸福』という役割を演じるだけでいいの。
不必要な記憶、悲しいノイズは、すべて『フィルター』にかけて消してくれるわ」
「ギメル……。このエリアを統治しているという奴か」
「ええ。とても優秀で、慈悲深いお方よ。……ねえ、兄さん。あんな『悪い夢』はもう忘れて。あなたは、ずっと真実を探していた。でも、本当の真実とは『あなたが今、幸せであること』そのものなのよ」
サマンサの瞳は、湖の青さを写して透き通っていた。その瞳の中に、モルダーは自分自身の姿を見た。孤独でもなく、疑惑に苛まれることもない、ただ「兄」として平穏の中にいる自分を。
彼の心に空いた穴が、アルカディアの甘美な静寂によって、一滴ずつ満たされていく感覚があった。
現実世界、メリーランド州。
ローン・ガンメンの基地は、理想郷とは対極の、混沌とした熱気に包まれている。
「……ダメだ、暗号化の階層が深すぎる! ゲートを一つ突破するたびに、アルゴリズムが自己増殖して、新しい迷宮を作ってやがる!」
ラングリーが叫び、空のコーヒーカップを床に叩きつけた。モニターには、モルダーのバイタルデータが絶え間なく流れている。心拍数は安定しているが、それは「健康」を意味してはいなかった。
「スカリー! モルダーの脳波を見てくれ。デルタ波が異常に優位だ。……これは深い睡眠状態じゃない。彼の意識が、システム側の論理構造に『浸食』され始めている証拠だ。
……このままだと、彼のアイデンティティはアルカディアの住民データに書き換えられる。そうなれば、彼は二度とフォックス・モルダーには戻れない!」
スカリーは、モルダーの冷たい手首を握り締め、必死に理性を保とうとしていた。
彼女の科学的な脳は、目の前で起きている事象を「電子的な洗脳」であると定義していたが、心はそれ以上の危機感を感じていた。
「バイアーズ、物理的なサーバーの所在は特定できたの?」
「……ああ、ようやくパケットの往復から座標を割り出した。ワシントン近郊の教会の跡地。おそらく地下深く潜ってるはずだ。だがスカリー、そこは通常の手段じゃ入れない。
……ギメルという管理プログラムが、物理層と論理層の両方から厳重にプロテクトをかけている」
「私が行くわ。……バイアーズ、あなた達はここでモルダーの接続を維持して。
彼が『自分』を完全に手放さないように、現実の情報を送り続けて。」
スカリーが立ち上がったその時、ラングリーのメインモニターが不意に漆黒に染まり、白銀の幾何学的な紋章が浮かび上がった。
『……招かれざる客へ。理想郷の静寂を乱すことは、罪である』
スピーカーから流れる声は、若々しくも絶対的な自信に満ちていた。
「ギメルか!」
『私はギメル。科学技術による千年王国の番人である。
……スカリー捜査官。君がやろうとしていることは、彼の救済ではない。せっかく得られた安らぎを奪い、彼を再び『苦痛という名の真実』へ引きずり戻そうとする……それは友情ではなく、傲慢ではないか?』
「……痛みも苦しみもない場所が理想郷だというのなら、それは機能停止した機械と同じよ」
スカリーは、モニターを真っ直ぐに見据え言い放った。
「モルダーが求めているのは、与えられた幸福じゃない。……どんなに残酷でも、自分の足で辿り着く真実よ。道を開けなさい、ギメル。FBI捜査官として、あなたの『千年王国』に介入させてもらうわ」
スカリーは上着を掴み、外へと飛び出した。
アルカディアの湖畔。
サマンサと語らうモルダーの耳に、微かなノイズが混じった。
小鳥のさえずりの合間に聞こえる、キーボードを叩く音。そして、コーヒーの匂い。
「……兄さん? どうしたの?」
サマンサが不安げに顔を覗き込む。モルダーは湖の青さを見つめながら、静かに答えた。
「……いや。今、誰かに名前を呼ばれたような気がしたんだ。」
その瞬間、完璧に澄み渡っていた湖の水面に、わずかな、だが決定的な「ゆらぎ」が生じる。
モルダーは、サマンサの瞳を見つめていた。
その瞳の奥に、わずかな違和感――デジタルな走査線のようなものが走るのを、彼の本能が見逃さない。
「……サマンサ。君の瞳に、星が見えない。僕が見ていた夜空の星が。」
「……星? そんな遠くて冷たい光、ここには必要ないわ」
サマンサの笑顔が、冷たく映った。