【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
メリーランド州を走るスカリーの車を、猛烈な嵐が叩きつけていた。
ラングリーが割り出した座標は、ワシントン近郊の寂れた教会跡。かつては敬虔な信者が集ったであろうその場所は、今や蔦に覆われ、文明の終わりを待つ亡霊のように沈黙している。
スカリーは車を降り、懐中電灯を手に礼拝堂へと足を踏み入れた。ステンドグラスは割れ、瓦礫の間を冷たい風が通り抜ける。だが、その静寂の底から、彼女の耳は異質な音を捉えていた。重低音のハミング。それは何十台ものサーバーが発する、電子の咆哮だった。
「……捨てられた教会が、デジタルの檻に変えられているというの?」
スカリーが祭壇の裏に隠された隠し扉を見つけたその時、背後で微かな羽ばたきのような音がした。
「……スカリー捜査官。あなたの探している答えは、地下にはありません」
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。煤けたコートを纏い、影に顔を沈めたその男の背後で、稲妻がステンドグラスを白く染める。その一瞬、男の背後に巨大な「翼」の影が投影されたように見えたのは、目の錯覚だろうか。
「あなたは誰? なぜ私の名前を?」
「私は、ただの観測者だ。……だが、君が胸に下げているその十字架と同じものを、私もかつて知っていた。
スカリー捜査官、今起きていることは、単なるハッキングではない。かつて秘密結社ミレニアムが夢想した、聖書に基づく世界秩序の再構築……その『電子的な実験』が、あの地下で行われている」
スカリーの指が、ペンダントの十字架に触れる。
彼女の理性は、目の前の男を不審者として排除せよと命じている。だが、彼女の内に眠るクリスチャンとしての直感が、この男が「向こう側」の使いであることを告げていた。
「ギメルという男が、アルカディアを統治している。彼は、科学で千年王国を築こうとしているわ」
「ギメルは、ただの『器』に過ぎない。彼らが求めているのは、人間の魂を完全にデータ化し、罪も苦痛も存在しない管理されたエデンへと隔離することだ。だが、それは神の救済ではない。……スカリー捜査官、君は『奇跡』を信じるか? それとも、目の前の現実という名の重力に従うか?」
男はそう言い残すと、霧が立ち込める礼拝堂の奥へと消えていった。
一方、アルカディア。
モルダーは、サマンサに導かれギリシア建築を思わせる白亜の円形劇場の階段に座っていた。
サマンサは、モルダーに昨夜の続きを話すようにせがんでいたが、モルダーの意識は先ほど湖面に見えた「ゆらぎ」から離れられずにいた。
「……ねえ、兄さん。聞いているの? ここでは、父さんも母さんも、あなたが一番幸せだった、あの頃の姿で待っているのよ。……自分を責め続ける毎日に戻る必要なんてないの」
モルダーは、サマンサの柔らかな頬に手を触れた。温かい。だが、その温もりは一定すぎて、生命の鼓動が持つ不規則な揺らぎが欠けている。
「……サマンサ。君は、夜空を見上げて宇宙の広さに恐怖を感じたことはないか? 答えのない問いを投げ続けて、絶望したことは?」
「そんなの、時間の無駄だわ。ここではギメル様が、すべての答えを与えてくださるもの」
「……答えがあることは、救いじゃない。真実は、誰かに与えられるものじゃなく、自分でたどり着いて奪い取るものだ。たとえその真実が、僕の心を粉々に砕くものだったとしてもね。」
モルダーがそう呟いた瞬間、劇場の空間が激しく歪んだ。
青空に巨大な「ノイズ」の走査線が入り、白亜の壁が崩れ落ちて0と1の数字の羅列が剥き出しになる。
『……エラー。被験者フォックス・モルダーの意識に、致命的な拒絶反応を確認』
空からギメルの冷徹な声が降ってきた。サマンサの姿が、ビデオテープの早送りのようにブレ始める。
「兄さん……行かないで! 外は暗くて、冷たいのよ!」
「……すまない、サマンサ。君は、僕が見たかった夢だ。だが、僕の相棒は、そんな甘えを許してくれないんだ」
モルダーが立ち上がったその時、崩壊し始めたアルカディアの地平から、巨大な「白い光」が溢れ出した。それは、ギメルのシステムが放つ光ではなく、もっと根源的なスカリーが祈りの中で求める「神性」の輝きに似ていた。
教会跡地の地下。
スカリーは、無数のケーブルが這い回るサーバー室の中心に辿り着いた。そこには、一つのカプセルの中で眠る、若すぎる青年の姿があった。彼こそが、アルカディアの主、ギメルの「肉体」だった。
「……科学で天国を作ろうとしたのね、ギメル。でも、神の領域はバイナリデータでは計れない」
スカリーが、キーボードに指をかけた時、彼女の背後に、先ほどの男――天使の符号を背負った観測者が再び現れた。
「スカリー捜査官。そのエンターキーは、理想郷を破壊する雷となる。……君の信仰は、この偽りの平穏を終わらせる勇気を持っていますか?」
スカリーは迷わず、十字架を握りしめながら、そのキーを叩いた。
エンターキーが叩かれた瞬間、教会地下のサーバー室は物理的な振動に見舞われた。
無数の冷却ファンが悲鳴を上げ、カプセルの中で眠るギメルの肉体が激しく痙攣する。
スカリーが目にしたのは、モニターに奔流のように溢れ出すエラーログの赤色と、それに抗うように輝きを増す「白い光」だった。
「……システムが自壊を始めたわ。モルダー、聞こえる? 戻ってきて!」
スカリーの叫びは、現実世界のローン・ガンメンの本拠地、そして電子の海を越えてアルカディアの深層へと届く。
アルカディア。
空がガラス細工のように粉々に砕け散り、その破片が地面に突き刺さる。
美しかった湖は真っ黒な虚無へと変わり、小鳥のさえずりは不快な電子のノイズへと変質した。
モルダーの目の前で、サマンサの姿が激しく明滅している。
「兄さん、助けて! 暗いの……何も見えない!」
彼女の叫びは、もはや少女の声ではなく、歪んだ音声合成の塊となっていた。
モルダーは、彼女の細い肩を抱き寄せたが、その感触は砂のように指の間から零れ落ちていく。
「サマンサ、しっかりしろ! ……ギメル、止めるんだ! 彼女を消すな!」
『……警告。被験者フォックス・モルダー、理想郷の論理を否定した報いを受けよ。アルカディアは、その不完全な『個』を排除し、完全な『無』へと再構成する』
ギメルの声は、もはや若者のそれではなく、巨大な機械が軋むような恐ろしい響きを帯びていた。
足元の芝生が剥がれ落ち、下層に隠されていた剥き出しの回路が青白い放電を繰り返す。
モルダーは、崩れゆく円形劇場を走り抜けた。逃げ場などどこにもない。だが、彼の視線の先に、周囲の崩壊に侵食されない「一点」が見えた。それは、空間にぽっかりと浮かぶ、古ぼけた木の扉だった。
FBIの地下にある見慣れた、だが今の彼にとっては唯一の「本物」へと続く門。
「……あそこだ。あそこに、彼女がいる」
モルダーは、サマンサの手を引き、瓦礫の山を飛び越えた。だが、扉の前に一人の影が立ち塞がる。それはギメルのアバターだった。
『フォックス・モルダー。君の旅は、ここで終わる。……この扉の先にあるのは、真実などではない。孤独と、絶望と、決して癒えることのない喪失の再演だ。それでも行くというのか?』
ギメルの背後に、モルダーがこれまでの人生で味わってきた様々な挫折が、ホログラムのように投影される。奪われた妹、亡くした父親、闇に葬られた証拠、信じる者をあざ笑う政府の陰謀。
「……ああ。そこには、僕を呼ぶ人間が待っている」
モルダーは迷わず、ギメルに向かって突き進んだ。
教会跡地の地下。
スカリーの背後に立つ「観測者」は、荒れ狂う電子の嵐の中で、静かに微笑んでいた。
「スカリー捜査官。門が開きました。……ですが、偽りのエデンを壊した罪、その責任を負う覚悟はありますか?」
「私はFBI捜査官よ。責任なら、いつもバッジと一緒に背負っているわ」
スカリーは、カプセルに手をかけ無理やりハッチをこじ開けた。中から溢れ出した冷却液が彼女の靴を濡らす。
ギメルと呼ばれた青年が、苦しげに瞳を開いた。その瞳はサファイアではなく、血の通った、怯える人間のものだった。
「助けて……僕は、ただみんなを……幸せに、したかっただけなんだ……」
「……あなたの実験は終わりよ。現実に戻りなさい」
スカリーが、青年の手を掴んだ瞬間、教会全体を揺るがす大爆発が起きた。
ローン・ガンメンの本拠地。
ラングリーのモニターが、最後の一閃を放って暗転した。
「接続、切断されたぞ! モルダー! 戻ってこい!」
バイアーズとフロヒキーが駆け寄る。
暗闇の中で、一人の男が深く、長い溜息をついた。
「……スカリー。コーヒーを、一杯淹れてくれないか」
モルダーが、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、かつての鋭さと、そしてこの世界が持つ不確かな「光」が戻っていた。だが、安堵は長くは続かなかった。
モルダーの手には、見慣れない一輪の花が握られていた。