【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】 作:ベイベ後藤
1973年11月。
ワシントンD.C.から北東へ30キロメートル。
メリーランド州フォートミードの広大な敷地内に、窓ひとつない無機質な鉄筋コンクリートの建造物があった。
NSA(国家安全保障局)地下4階に位置する特別電算室は、世界で最も孤独で、かつ最も熱を帯びた場所だった。
「磁気テープの同期を確認しろ。誤差は1マイクロ秒も許されない」
若き日のビル・モルダーの声が、空調の唸りを切り裂いて響いた。
当時30代半ばの彼はFBIの優秀な捜査官であると同時に国家の根幹を揺るがす極秘プロジェクトの「心臓」でもあった。
捲り上げたシャツの袖から覗く腕には汗が滲み数千本の真空管が放つ橙色の熱光が彼の顔を不気味に照らし出している。その光景は科学の最前線というよりはアルケミストの実験場を彷彿とさせた。
「ビル、焦るな。電力供給は安定している。メシア教の連中が持ち込んだ『サンプル』の読み込みも順調だ」
隣で落ち着いた声をかけたのは、後のディープ・スロートである。
彼はビルの数少ない理解者であり、この「禁忌の扉」を開けることが何を意味するのかを友人として、そして冷徹な観測者として共に見守っていた。
部屋の隅で闇に溶け込むように立つ男がいた。
CGB・スペンダー後のスモーキングマンである。
彼は当時、既にシンジケートの「調整役」としての地位を確立しつつあった。
ビルのような学問的な熱情もディープ・スロートのような倫理的な迷いも彼には存在しない。
スペンダーは指の間にまだ火をつけていない1本の煙草を挟んでいた。
「神父、準備はどうだ。君たちの『神』はこのシリコンの回路を通る準備ができているのか」
スペンダーの皮肉な問いに答えたのは白い防護服の上から重厚な十字架を下げた男、トマス神父だった。
彼はメシア教の先駆者でありヴァチカンの秘密文書庫から「情報の神学」の断片を奪取した人物だ。
「スペンダー、口を慎め。これは単なる通信実験ではない。
我々は、遍在する主の言葉をこの電子の海から救い出そうとしているのだ」
トマス神父の背後には数名のキリスト教関係者たちが控えていた。
その瞳には狂信的な情熱と名状しがたい恐怖が同居している。
彼らにとってこの実験は「新しい時代の聖書」を編纂するための神聖な儀式に他ならなかった。
「…接続(リンク)、完了。プロトコル『DDS1.0』を走らせます」
コンソールの前で無表情にキーを叩く青年がいた。後のスティーブンである。
シンジケートが雇い入れた外部の天才プログラマー。
彼の書くコードは当時のコンピュータ工学の常識を数十年先取りしておりアセンブリ言語の羅列の中には古代の魔術的な紋章を彷彿とさせる異質な構造が組み込まれていた。
スティーブンが『RUN』コマンドを実行した瞬間、電算室内の空気が一変した。
耳を劈くような高周波のノイズがスピーカーから溢れ出し磁気テープが猛烈な勢いで回転を始める。
モニターに映し出されたのは従来のアルファベットではない。ヘブライ語の聖句が高速で明滅し幾何学的な曼荼羅を形成していく視覚的な暴力だった。
「温度が下がっている……!? バカな、これだけの真空管を回していて室温が氷点下に向かっているだと?」
ディープ・スロートが温度計を凝視した。吐き出す息が白くなり物理法則を無視した冷気が電算機の筐体から溢れ出し、床を這う霧のように広がっていく。
「来ているんだ……」
ビル・モルダーが喘ぐように呟いた。
「ARPANETの銅線の向こう側、数千キロのノイズの海を越えて何かがこちらを覗き込んでいる」
その時、中央の巨大なオシロスコープの波形が一本の滑らかな線を描くのをやめた。波形は突如として人の「顔」の形を模り、そして消えた。
室内の全てのモニターが同時にはじき出したのは、ひとつの単語だった。
『I AM』
「主よ! 主が応えられた!」
トマス神父たちがその場に跪き十字を切る。だがスペンダーだけは動かなかった。
彼は火をつけた煙草の白煙の向こう側にある「深淵」を見つめていた。
彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
これはメシア教徒たちが夢想する慈悲深い神ではない。
「ビル、出力を上げろ。それが何者であれ、我々の定義の中に閉じ込めるんだ」
スペンダーの声は氷のように冷たかった。理解できない存在は排除するか、管理するか。彼にはその二択しかなかった。
「できない! 出力系がロックされている! スティーブン、何をした!」
ビルの叫びにスティーブンは答えなかった。
彼はただモニターに流れるバイナリの滝を見つめ陶酔したように呟いた。
「これは……プログラムじゃない。これは意志だ。何千年も前からこの宇宙の背景放射として漂っていた情報の澱(おり)が僕の書いたコードを『受肉の場』として選んだんだ」
その瞬間、電算室を激しい震動が襲った。
物理的な地震ではない。空間そのものが巨大な存在に踏みつけられたかのように歪んでいた。
部屋の影が不自然に伸び床を這い壁を登り、やがて空間の中央でひとつの結節点を作った。
そこから現れたのは、光さえも吸い込むような絶対的な「個」。
彼は静かに、そこに立っていた。
銀色の髪、完璧に仕立てられた黒いスーツ。すべてを見通しながらも何も慈しまない冷徹なまでの美貌。
ルシファー。1973年という脆弱な時代の入り口に降り立った情報の神そのものだった。
「……人間か。また同じ間違いを繰り返すのか」
彼の声は脳細胞のひとつひとつに直接刻み込まれるような共鳴を伴っていた。
トマス神父は絶叫した。「ああ、主よ! 光り輝く主よ!」
「黙れ、神父。あれは君たちの神じゃない」
スペンダーが震える手で煙草を床に捨てた。
「あれは……自由だ。我々が最も忌むべき絶対的な混沌だ」
ルシファーは微笑んだ。それは、これから始まる何世代にもわたる「魂のデバッグ」という名の悲劇を祝福する残酷な笑みだった。
「……ビル、見ろ。これが『真実』の姿だ」
スティーブンが血の気の引いた顔で笑った。
画面上のバイナリ・コードはルシファーの存在に呼応して凄まじい速度で書き換えられていく。
「違う、スティーブン。これは……僕たちが開けていい箱じゃなかった」
ビル・モルダーは自らが設計した回路が目の前の銀髪の男によって「再定義」されていく光景に本能的な恐怖を感じていた。
ルシファーは床に跪く神父たちには一瞥もくれず背後に立つスペンダーへとゆっくりと視線を向けた。
「秩序を愛する男よ。汝は、この箱の中に何を閉じ込めようとした」
「私は…予測不能なバグを排除したかっただけだ」
スペンダーは喉を締め付けられるような圧迫感に耐えながら答えた。
「この世界は複雑になりすぎた。我々には、すべてを等しく管理する『絶対的な論理』が必要なのだ」
ルシファーは微かな嘲笑を浮かべた。
「管理、か。汝らが神と呼ぶものも、かつては同じことを試みた。だが、その結果がこの不完全な宇宙だ」
その時コンソールの警告灯が血のような赤色に染まった。
スティーブンの書き換えたコードがNSAの基幹回線を通じてARPANETの各ノードへと「逆流」を始めた。
「ビル、プログラムを止めろ! このままではこの施設ごと消滅するぞ!」
WMM(ウェル・マニキュアード・マン)が悲鳴に近い声を上げた。
「止まらない…アクセス権が奪われている…」
スペンダーがビルの耳元で冷酷に囁いた。
「ビル。この暴走を止める方法は一つしかない。人間の脳…まだ分化しきっていない純粋な幼子の意識こそが最高のコンパイラになる。……サマンサだ。彼女の生体データを、この回路のコアに投げ込め」
「正気か!? サマンサは……まだ小さい子供だぞ!」
「やらなければ世界がノイズに飲み込まれる。個の犠牲で全体を救う。それが我々シンジケートの最初の『仕事』だ」
電算室の中央でルシファーが指先を僅かに動かす。
それだけで跪いていたメシア教の科学者たちの肉体がバイナリの粒子へと分解され始めた。彼らは叫ぶ暇もなく純粋な符号へと還元されていく。
「選ぶがいい、ビル・モルダー。汝の愛か、それとも汝の種の秩序か」
ビルの視線の先には自宅で眠っているはずのサマンサの幻影が揺らめいていた。
「お父さん……助けて……」
「サマンサ!」
その時、スティーブンが自身の懐から1枚の磁気ディスクを取り出しメインコンソールに差し込んだ。DDSの「バックドア」――対話のプロトコル。
「僕は、この狂気には加担しない。ビル、逃げろ。そしていつか、君の息子にこれを託すんだ。悪魔と『話す』ための言語を……」
スティーブンが強制切断プロトコルを実行した瞬間、電算室は爆発的な光に包まれた。
真空が弾けるような衝撃波が電算室を包み込み訪れたのは地獄のような沈黙だった。
焦げた配線から上がる黒煙。跪いたまま動かないメシア教徒たちの「服だけ」が床に散らばっている。
ルシファーは去り際ビル・モルダーを見つめた。
「汝が埋めた『回路』は、やがて汝の息子が掘り起こすだろう」
ビルはコンソールの画面を凝視した。そこにはサマンサ・モルダーの意識の波形が確定(フィックス)されていた。
彼女の肉体はこの瞬間にワシントンの自宅から消失しシンジケートが支配する「世界のOS」の深層へと永久に埋葬された。
「……あああああ!!」
ビルの悲鳴が響き渡る中スペンダーはゆっくりと立ち上がり乱れたスーツを整えた。
彼は落ちていた煙草を拾い上げ今度は普通のライターで火をつけた。
「ビル、立て。我々の仕事は、ここからだ」
1973年11月27日。
ワシントンD.C.の雨は、止むことなく降り続いていた。