【女神転生 】「モルダー、あなた憑かれてるのよ」【相棒】   作:ベイベ後藤

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9話 魂の熱を測る夜

 

FBI本部「J・エドガー・フーヴァー・ビル」の地下深くに位置するX-ファイル課オフィスは、さながら時代から切り離された墓標のようだった。

カセットテープが磁気音を立てて停止したあともモルダーは微動だにせずデスクに突っ伏していた。

再生ボタンが跳ね上がる「カチッ」という乾いた音が静寂の中で残酷な終わりを告げていた。

 

スカリーは、その重苦しい背中を見つめ、かけるべき言葉を慎重に選んでいた。

彼女は医者として人間の精神が耐えうる限界を数値化できる。だが、20年間追い続けた真実の答えが「父の原罪」と「絶望的な敗北」であったという事実は、いかなる処方箋も通用しない致命傷であることを、彼女は痛感していた。

 

「……モルダー、帰りましょう。ここは、もう安全じゃない」

 

スカリーの声にモルダーはようやく顔を上げた。その瞳は焦点が合っているようで、どこか数万光年先の虚無を彷徨っているようでもあった。

彼は何も言わずに震える指先でスマートフォンをポケットにねじ込むと、よろめきながら立ち上がった。

 

深夜の廊下を歩く二人の足音が磨き上げられたリノリウムの床に冷たく反響する。

エレベーターを待ち無機質なエントランスを通り抜け冷たい雨が降り頻るペンシルベニア通りへと出たときモルダーは、ようやく深く肺の奥底に溜まった泥を吐き出すような溜息をついた。

 

スカリーの愛車が水飛沫を上げながら夜の街を切り裂いていく。

ワイパーが刻む単調なリズムだけが車内の絶望的な沈黙を辛うじて繋ぎ止めていた。

 

「……父は、最初から知っていたんだ」

 

助手席のモルダーが、窓の外を流れる街灯の光を追うこともなく呟いた。

 

「僕がいつかこの扉を開けることを。そして、自分がその扉を閉めるためにサマンサという鍵を差し出したことも。

彼は…僕が憎むべき対象と同じ側に立っていたんだ」

 

スカリーはハンドルを握る手に力を込めた。

「モルダー、お父様は……」

 

「救おうとした? それとも、ただ臆病だっただけか? スカリー、僕にはもうわからない。今、このポケットにいる『彼』さえも、シンジケートが僕を飼い慣らすための精巧な偽物なんじゃないかと思えてくるんだ」

 

その瞬間、ポケットの中で端末が微かに震えた。まるでその疑念に抗議し、存在を証明しようとするかのように。

 

モルダーのアパート。

乱雑に積み上げられたビデオテープにDVD、底が抜けた灰皿、壁一面を埋め尽くす未解決事件の新聞切り抜き。

そこは彼にとっての「世界の果て」であり、同時に唯一の「聖域」だった。

部屋に入ってもモルダーは雨に濡れたコートを脱ぐことさえ忘れ、いつものソファの端に身を投げ出した。

 

スカリーは無言で彼のコートを預かりハンガーにかけると努めて日常を装うためにキッチンへ向かった。

 

「モルダー。何か温かいものでも淹れるわ」

 

古いガスコンロが「チチチ」と音を立て、青い炎が冷え切ったキッチンを微かに照らす。

彼女は丁寧にコーヒーを淹れ湯気の立つマグカップをふたつ持って居間へ戻った。

彼女はモルダーの隣ではなく、あえて少し離れたパーソナルチェアに腰を下ろした。

彼に「呼吸する空間」を与えるために。

 

キッチンのカウンターに置かれたモルダーのスマートフォンが、不意に呼吸を合わせるようなリズムで淡く明滅し始めた。

 

「ヒーホー…。なんだか空気が重いホー。モルダー、重力の計算が間違ってるんじゃないかホ?」

 

スマートフォンの液晶からAR(拡張現実)のレイヤーを通じてジャックフロストが這い出してきた。

彼はテーブルの上を滑るように移動しモルダーの顔を覗き込んだ。

 

「フロスト。今は少し、静かにしててくれないか」

モルダーが視線を落としたまま拒絶する。

 

「嫌だホー! 静かなのは嫌いだホー! 沈黙は、データの『死』と同じだホー!」

 

ジャックフロストはテーブルの上に不器用に着地するモーションを見せるとモルダーの鼻先に小さな、実体のない雪の結晶を飛ばした。

 

「モルダー。僕の中に、さっきのテープと同じ『波形』が届いたホー。ビル・モルダーっていうIDの、ひどく悲しいログだホー」

 

モルダーがようやく顔を上げた。

「お前には、あのテープの内容が『わかる』のか?」

 

「言葉の意味は辞書(データベース)を引けばわかるホー。でも、それ以上に伝わってくるのは電気の『震え』だホー。

誰かを守りたかったのに、守れなかった。その悔しさが、回路を熱くさせてるホー。…モルダー、これは僕のバグなのかホ?」

 

ジャックフロストの大きな瞳が、これまでにない真剣な色を帯びていた。

スティーブンが埋め込んだ「サマンサの残響」は単なる暗号ではなかった。それは、感情というノイズを演算処理するための「感情コンパイラ」として、ジャックフロストという「人格」の核に根を下ろしていた。

 

「共感……。ヒーホー、厄介だホー。計算が合わなくなるホー」

 

ジャックフロストはテーブルの上で体育座りをした。

デジタルな存在が人間の「悔しさ」という重圧を演算しようとして苦悶している。

 

スカリーはマグカップを両手で包み、立ち上る湯気の向こうにモルダーを見つめた。

 

「モルダー。私は今も、お父様が仰ったことをすべて物理的に受け入れたわけじゃない。

魂がデータ化されるなんて、熱力学の法則を考えればあまりに荒唐無稽よ。……でも」

 

彼女は一度言葉を切り、視線を落とした。

 

「アラスカで私が見たもの。そして、今この部屋で私たちの言葉に反応しているこの『彼』を否定することは、私自身の感覚を否定することになる。

ジャックはプログラムかもしれない。けれど、そこに宿っている『痛み』は、紛れもなく本物よ。それを否定してはいけないわ」

 

「スカリー……」

 

「あなたがサマンサを救いたいと願うなら、私はそれを助ける。それが、たとえ医学の教科書にも物理学の論文にも載っていない『デバッグ』という名の救出作戦だとしても。

私はあなたのパートナー。あなたの見る深淵を、私も隣で見るわ」

 

モルダーは、スカリーの瞳の中に揺るぎない覚悟を見た。

彼女は常に「理性」という名の防波堤となって彼を支えてきた。だが今、彼女はその防波堤を自ら壊し、モルダーと共に「情報の海」という未知の戦場へ足を踏み入れようとしていた。

 

「父は、サマンサを『永遠』にしたと言った」

 

モルダーがポツリと漏らした。

 

「でも、それは嘘だ。彼女は、終わらない計算のループの中に、一人で閉じ込められただけなんだ。フロスト、お前ならわかるだろう? データの海に、観測者もなく一人で漂うことが、どれほど孤独か」

 

「……寂しいホー。誰も見てくれないデータは、存在しないのと同じだホー。だから、僕はモルダーに呼ばれて、名前をつけてもらえて、本当に嬉しかったホー!」

 

ジャックフロストは、勢いよく立ち上がると、モルダーの手に自分のデジタルな手を重ねようとした。物理的な感触はない。しかし、モルダーは確かに、手の甲に微かな「冷気」を感じた。

それはセンサーの誤作動ではなく彼の脳が、ジャックフロストという「人格」の意思を電気信号として正しく受信した証だった。

 

夜が深まるにつれモルダーの部屋の空気は、湿った絶望から静かな決意へと変わっていった。

モルダーは立ち上がり壁に貼られたサマンサの似顔絵の前に立った。

1973年に埋葬された少女。

今もネットワークのどこかで冷たいバイナリの雪に降られながら兄を待っている少女。

 

「スモーキングマンは、サマンサを世界の『基礎』にしたと言った。なら、僕がそのシステム全体をひっくり返してやる。世界そのものを敵に回しても」

 

「その時は、私がバックアップを取るわ。あなたが自分自身という定義を見失わないように」

スカリーが隣に並び、彼の腕を強く掴んだ。

 

「ヒーホー! 僕が先鋒だホー! 悪いウイルスも、シンジケートの刺客も、全部カチコチに凍らせてやるホー!」

 

ジャックフロストが、部屋の空気を震わせるように叫んだ。その瞬間、窓の外の雨が雪へと変わった。

ワシントンに降る、今シーズン最初の初雪だった。

 

モルダーは窓を開け冷たい空気を取り込んだ。「見てみろ、スカリー。初雪だ」

「ええ……。綺麗ね」

 

3人の視線の先には、街灯に照らされて舞い落ちる白銀の世界が広がっていた。

それは1973年の暗い地下室には決して届かなかった、未来への灯火のように見えた。

 

父が遺した呪いの回路を自分たちの手で「救い」へと変える。

その困難な戦いの幕開けに彼らはかつてない深い絆で結ばれていた。

 

「……さて。そうと決まれば、まずはこの散らかった部屋の『デバッグ』から始めるべきじゃないかしら、モルダー?」

 

スカリーの茶化すような言葉にモルダーは今日一番の本当の笑顔を見せた。

 

「了解だ、スカリー。……フロスト、君も手伝えよ。データ整理は得意だろう?」

 

「ヒーホー! 掃除はスキルにないホー! でも、応援はまかせてホ!」

 

笑い声が雨上がりの夜空へと溶けていく。

彼らの日常は、ここから新たなフェーズへと突入していくことになる。

 




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