ケネディ家の朝
朝の光が東の窓からゆっくりと差し込み、ケネディ家の小さなキッチンを淡く照らしていた。
目覚ましのベルが鳴るよりも少し前に目を覚ましたレオンは、寝癖のままの髪を手ぐしでかき上げながら、コーヒーメーカーのスイッチを押す。
静かに、でも確かに、今日もまた一日が始まる。
彼は手際よくパンケーキの生地を混ぜながら、耳を澄ます二階の子ども部屋からは、まだ気配がない。
「よし、今のうちだな」
小さくつぶやくと、フライパンに生地を流し込んだ。
数分後、焼き上がったパンケーキを皿に盛りつけ、レオンは静かに階段を上った。
子ども部屋のドアをノックもせずにそっと開ける。
「カイル、メーヴ、起きる時間だぞ」
囁くような声で、彼は二人のベッドに近づいた。
赤毛の兄カイルは毛布を頭までかぶって小さく唸り、黒髪の妹、メーブは目を細めながらも先に身体を起こした。
「…パンケーキの匂い」
「バレたか」
レオンは笑って、手を軽く叩いた。
朝食を囲むテーブルでは、言葉少なでも穏やかな時間が流れていく。
「今日、英語のスピーチあるの」
メーヴがナイフとフォークを持ちながら言うと、カイルが肩をすくめる。
「また満点取る気だな」
レオンは、子どもたちの会話に耳を傾けながら黙ってコーヒーをすする。
そんな日常の音の中に、かすかな胸の痛みが混ざっていた。
かつては、もうひとつ違う声も、そこにあった…。
彼女がいた。
彼女と共に、ふたりの赤ん坊を育てていた日々。
慣れない育児に右往左往しながら、彼女が片手でミルクを作り、レオンはもう片方の子どもをあやしていた。
夜中に泣き止まない双子に途方に暮れ、互いに交代で寝るようにしていたあの頃。
彼女の笑い声、赤ん坊たちの柔らかい髪、ミルクの匂いと洗濯物の山。
たいへんだったが、確かに『家族』という名の時間がそこにはあった。
……でも、今は。
レオンはエプロンを外し、ため息をひとつこぼすと、出かける準備を始める。
「早くいかないと遅刻だぞ。スピード違反せずに、気をつけて行けよ」
「うん、行ってくる!」
「今日は私が車を運転する番ね。カイルが休みだとバイクで行くんだけど…」
「メーヴ、カイル。遅れるなよ」
二人はバッグを背負って、赤のハマーH2で走っていく。
その背中を、レオンはドアの影から静かに見送った。
小さく笑みを浮かべた彼の顔に、ふと陰りが差す。
あの子たちは、いずれ真実に触れる日が来る。
それでも、今だけは…せめて今だけは、
「普通の」日常を生きてほしい。
彼はドアを閉め、ゆっくりと腰にホルスターを装着する。
訓練場での指導が待っていた。
もう第一線ではない。だが、教えるべきことはまだ山ほどある。
手帳に挟まれた、まだ幼い双子と彼女の写真が、ひらりと落ちた。
レオンはそれを拾い上げると、そっと手で払ってから胸ポケットにしまった。
「…また、守れるかな」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
ワシントンD.C.。
空は晴れ、遠くからホワイトハウスの屋根がかすかに見える午後、ウェンデル・スタンリー大学のチャイムが鳴り響く。
校庭に面したガラス張りのホールから、メーヴ・ケネディが濡れた髪を絞りながら出てきた。競泳の練習を終えたばかりで、まだ水着の跡が肩に残るタンクトップ姿が眩しい。
ジムバッグを軽く肩に担ぎ、栗色の瞳で遠くの方を見やった。
「おい、メーヴ!そっちに兄貴いたら呼んどいてー!」
グラウンド横の人工クライミングウォールから、誰かが呼んだ。メーヴは小さく頷き、タオルで髪をまとめる。
「またパルクール組と壁のぼりしてるのね…カイルってば、放課後ぐらい少しはリラックスしたらいいのに」
だが、その声には呆れというよりも、どこか微笑ましい響きが混じっていた。
まもなく、背後から軽やかな着地音と共に彼女の肩にひょいと手がかかる。
「俺のこと呼んだ?」
「…バカ」
振り返れば、赤毛に青い瞳の少年──カイル・ケネディが、やや息を切らしながら立っていた。
制服のシャツを腰に巻き、タンクトップのままなのも部活後ならでは。汗で髪が乱れているが、それすら絵になる。
「何回言ったらわかるの、シャワーぐらい浴びてから来なさいって」
「シャワーは帰ってから!それより帰りにスタバ寄る? 今日マンゴームースケーキあるって!」
「あんた…本当に食べ物でしか動かないのね」
下校途中、ふたりが歩く道には、同じ学校の生徒たちがぽつぽつと集まってくる。
そんな中、ひときわ派手な声が後ろから飛んできた。
「ねえねえ、あんたらって本当に双子なの?」
声をかけてきたのは、メーヴと同じクラスのレイラ。
明るくて人気者だが、少しだけ噂話が好きなタイプ。
隣には彼女の彼氏であるエディもいる。
カイルが振り返って、肩をすくめた。
「またその話か。何度目?」
「だってさ〜!カイルは赤毛で青い目、メーヴは黒髪に茶色の目だし。顔も全然似てないじゃん。しかも性格も」
「正反対って言いたいんでしょ?」
メーヴが口を挟んだ。
「まあ、確かに。でもね、それでも本当に双子なの。ほら、証拠見せる?」
カイルはスマホを取り出し、ロック画面を開いてギャラリーをタップした。
そこには、病院で撮られた生後すぐの赤ん坊二人の写真があった。
片方は青い目の小さな赤ちゃんがギュッと拳を握っていて、もう片方はつやつやした黒髪の赤ちゃんが静かに眠っていた。
看護師の腕の中で並んで写る、ケネディ家の双子の誕生の瞬間だ。
「うっわ…マジだ」
「うわ…この赤ちゃんの頃のメーヴ、めちゃ可愛い。ていうかカイル、赤ちゃんの時からうるさそうな顔してる」
「うるさかったらしいよ。ずっと俺だけ泣いてたんだって」
「そうそう。父さんに聞いた。父さんはアイルランドとイタリアにルーツがあるから、男の子が生まれたらWilliam(戦士)ってアイルランドの名前にしたかったらしいけど、あんまりきれいな青い目だったからKyle(海峡)ってアイルランドの名前にしたって。」
カイルが嬉しそうに続ける。
「小さい頃はCle(クレ)って呼ばれてた。Kyleの短縮形。アイルランド語だとCaileになるから」
メーヴはふっと目を細め、少しだけ遠い記憶に思いを馳せるようにつぶやく。
「……でも、なんか、ほんの少しだけ覚えてるんだよね。あの腕に抱かれてた感じ。父さんじゃない腕。すごくあったかくて、優しかった気がする」
その一言に、カイルの表情がわずかに変わった。
笑っていた口元が、ふと引き締まる。
「……メーヴ、また夢の話?」
「ううん、なんでもない。ただの気のせいだと思う」
カイルは、無言のままスマホをポケットにしまった。
誰も言葉を挟まなかったが、彼の中では何かが静かに揺れていた。
それでも、明るい午後の空の下。
ふたりは笑顔を作って、友人たちと歩き出す。
何も知らないふりをして。
『DSO訓練セクター 13時』
ワシントンD.C.、DSO訓練施設『セクターE』・・・政府直属の精鋭養成区画。
機密区画であるこの地下エリアでは、日々、極限状態を想定した実戦訓練が行われている。
鋼鉄の扉が音もなく開き、黒い訓練用スーツに身を包んだ男が足音なく入室した。
レオン・S・ケネディ。
元DSO屈指のエージェント。
現在はバイオテロに対抗する特殊作戦組織DSOの実戦教官。
今や伝説と呼ばれる現役のエージェントであり、部下たちからは、畏怖を込めて「ケネディ教官」と呼ばれている。
訓練生たちは一斉に姿勢を正す。
だが、レオンは一瞥もせず、無言で端末を操作した。
『第7班、模擬戦訓練を開始する。CQC(近接戦闘術)本日は『死角からの制圧』がテーマだ』
突如、訓練ホールのライトが落ちた。
真っ暗な空間に、わずかな非常灯の赤い光だけが灯る。
「君たちはこの部屋にいる『標的』を制圧するのが任務だ。生き残りたければ、目を使うな。耳と肌で“死”を感じろ」
それが合図だった。
床が震える。影が走る。
訓練生がひとり、息を呑む間もなく背後から抱えられ、床に叩きつけられた。
「後ろが甘い」
声は低く静かで、皮肉さえ含まない。
だが、背筋に氷の刃が突き立つようだった。
気がつけばレオンは、部屋の中央に立っていた。
誰もその動線を見ていない。
「DSOエージェントに感情はいらない。『撃てなかった』理由は、君が死ぬ理由にはならない」
訓練生のひとりが、恐怖に駆られてレオンに模擬ナイフを振るう。
一拍。
刹那、レオンの身体がぶれた。
避けたのではない。
動線を消して、斜め後方に滑り込んだのだ。
「遅い」
訓練生が床に倒れる。
手首が、取られていた。
「ここでは遠慮も手加減も通用しない。なぜなら本番では、相手が遠慮なしで殺しに来るからだ」
沈黙が走る。
「今日の訓練は、君たちに、死んでも文句の言えない目にあってもらう。それが、命を預かる任務につく者の条件だ」
彼の声は、淡々としていた。
怒鳴らず、脅さず、ただ事実を突きつけるような調子だった。
だが…その静けさこそが、最も恐ろしいのだと、誰もが本能で知っていた。
『DSO訓練セクター・13時30分』
訓練ホール内の空気は張り詰めたままだった。
ライトは未だ赤いまま。非常灯のみ。視界の半分が闇に溶けていく。
数名の訓練生が汗だくで息を切らし、床に膝をついている。
「立てないなら任務には出せない。負傷しても動け、痛くても考えろ」
レオンの声が響くたび、訓練生たちは顔を上げる。
彼の言葉は、決して鼓舞ではなかった。
ただ事実だった。
その時だった。
後方で訓練生の一人、女性の訓練生、イーサが足を取られ、模擬敵の一撃で壁に叩きつけられた。
「くっ…!」
口元から血が滲む。
だが彼女は、模擬銃を落とさず即座に構え直した。
「よし。今の判断は及第点だ」
レオンは一歩も動かない。
ただ、冷ややかに言葉を落とす。
「敵の一撃で感情をこぼすな。流血より、1秒の判断遅れの方が多くの命を奪う」
訓練生たちの表情が次第に強張っていく。
疲労と恐怖の中で、次に自分が何を問われるのか…誰もがそれを測っていた。
その中で、若く才能ある訓練生、コナーが前へ出た。
「教官、模擬敵は機械です。人間相手にはもっと間があるはずです、現実的じゃありません」
一瞬、空気が凍った。
レオンはその場で、ゆっくりと振り返る。
彼の目は、冷たい水面のようだった。
「なるほど、コナー。君は『現実』を知っているのか」
「いえ…ただ、判断基準に論理性が足りないと…」
彼の声が揺れ始める。
その瞬間だった。
レオンが消えた。
否…瞬時に距離を詰め、コナーの懐に入り、模擬ナイフで首元すれすれにブレードを当てていた。
「間を測る前に、君の喉は裂けている」
静かな声が耳元で響いた。
レオンの手はまったく震えていない。
その冷酷な所作に、訓練生たちの全身が粟立った。
「君たちがこれから直面するのは、『バイオテロ』という異常事態だ。人間相手ですらない。怪物だ。時間はくれない。言葉も通じない。慈悲もない」
ナイフを下ろし、レオンは後ろを向いた。
「なのに、君たちが一秒迷うことに、俺は論理性を感じない」
重い沈黙が流れる。
「以上で本日のCQC訓練は終了。午後は実地追跡、GPSと音響センサーを無効化しての夜間偵察。食事は各自で20分以内に済ませろ。フィールドでは二度と取れない時間だ」
彼の言葉を最後に、訓練生たちはそれぞれ退室していった。誰一人、会話はなかった。
[newpage]
『訓練後・観察室』
レオンは監視室に戻り、訓練の記録映像を確認していた。
戦闘データ、心拍数、反応速度。
すべて数値として表れていく。
だがその目は、どこか遠くを見ていた。
ふと、彼は胸ポケットから一枚の写真を取り出す。
十数年前の写真…まだ小さかったカイルとメーヴが、並んでベビーカーに座っている。
「お前たちの方が、今のやつらよりよほど気配に敏いんだよな…」
二人が赤ん坊の頃、さんざん寝かしつけに手を焼いたのを覚えている。
抱いてあやして、やっと眠ったと思いベビーベッドに寝かせた途端に目覚めて大声で泣きだす。
ベビーベッドが背中に近づいた途端に泣き出す双子の背中には、接触防止のセンサーが着いているに違いない、と嘆いたものだ。
自分も彼女もフラフラになりながら、一晩中あやしたのを思い出す。
「大きくなったな…」
そう呟き、微かに口元を緩める。
だが、それはほんの一瞬だった。
次の訓練の予定表を開いた彼の表情には、再び容赦ない教官の仮面が戻っていた。