【完結】その日、合歓垣フブキは警察に成った   作:曇りのち晴れ男

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第二話 先生と事件の日

 ヴァルキューレ警察学校・生活安全局の事務所は、今日も静かだった。

 書類は片付いているし、無線もやけに大人しい。

 

 先生と初めて出会った日から数日。私たちは時々会う仲にまでなっていた。

 先生自身ヴァルキューレによく手伝いに来てくれるようになって、私も仕事中に先生と一緒にのんびりサボっ……過ごしている。

 

 私は椅子に深く腰掛け、机の端に置いたドーナッツを頬張っている。

 うーん、相変わらずおいしい。いくらでも食べられそうだ。

 

「……そんなにまったりしてて、いいのかい?」

 

 先生の声に、私は口をもぐもぐさせたまま顔を上げる。

 私の見た先生の顔は、引いているような、困っているような。

 

「ほら、ちゃんと連絡受けれる体制だし。大丈夫だって」

 

「そういう問題かな……来ても連絡とらないくせに……」

 

 私はドーナッツを飲み込んでから、少しだけ勿体ぶって言った。

 

「ねぇ、先生~。警察が暇なのは、なんでだと思う?」

 

「うーん……人手が飽和してる、とか?」

 

「不正解」

 

 私は指を一本立てて、得意げに続ける。

 すこし腹が立ったのか先生はむっとしわを寄せている。

 

「それはね、町が平和だからだよ。あとむしろ人手不足だよ?」

 

「……なるほど。前向きだね」

 

 先生は少しだけ呆れたように「あっはは」と軽く笑った。

 その音を聞いて、私はまたドーナッツに手を伸ばす。

 

 そのとき、無線が短く鳴った。

 

『──街中で口論発生。場所は中央通り付近。付近の生徒は対応願います』

 

「……う~~~ん」

 

 その無線に返事をする人はいない。どうやら私しかいないようだ。

 私が無線を取るのを渋っていると先生が私の肩に手を置き頭の上から言った。

 

「はい、めんどくさがってないで行くよフブキ」

 

 私は腰を上げ、無線へ返答をし装備を整える。

 ……まぁ、私も先生とお出かけできるならやぶさかではないかな。

 

「じゃあ先生、軽いお散歩だね」

 

「本当に軽く終わるといいけど」

 

 事務所を出て現場に向かった。

 

 ■■■

 

「それじゃ、もうお互い言いっこなしね。あ、発砲もやめてね~」

 

 制服を着崩した生徒同士の言い争いは、いつも通りだった。

 聞くと肩がぶつかっただけで言いがかりをつけてきて、そこから戦闘になったとか……。街中で流れ弾も危ないから、もうやめてほしいものだ。

 話を聞いて、なだめて、少しだけ注意して。

 私も巻き込んだ戦闘になったのは少し予想外だったけど……。

 

「特に君、街中で対物ライフルなんて撃つのはもうやめてね……ほんとに……」

 

 いや、『予想外』どころか武器性能の差で少し死にかけたのは内緒だ。

 数分後には、何事もなかったように人通りが戻る。

 

「いや~、今回も先生のおかげで助かったよ」

 

「結局戦うのはフブキだ。フブキが頑張ってくれるから僕も的確に指示が出せるんだよ」

 

 最初に会った公園で行った戦闘のように、先生は私が戦闘になると後方から最善の攻め方を教えてくれる。これがなかなか的確で、私としても非常にやりやすい。

 今回のように言い争いをなだめようとして戦闘になることはこれまでもちょくちょくあった、それがまぁ大変。だけど先生が来てからは比較的最低限のダメージのみで突破できるようになった。

 

「普段先生がいない時の戦闘でもある程度『先生ならこう言うだろうな』っていうのが思いつくから、本当に助かってるんだよ?」

 

「あっはは、じゃあいつかフブキは指示を出す隊長さんになれるね」

 

先生は茶化すように言ってくる。

 

「隊長だなんて、突撃任務があるわけじゃないんだし……もっと適任がいるよ。私は怠けものだし」

 

「回答しづらいからノーコメントでいい?」

 

 二人で見合い私は笑う。先生の困った顔が面白すぎてしばらく笑いが止まらなかった。

 先生もそんな私の笑いにつられてかそのうち一緒になって笑っていた。

 

『現在、電子機器の異常が発生している可能性があります。少しでも疑いがある方は――』

 

「平和ですね~」

 

「よもや平和じゃないニュース流れてるけど……」

 

「まぁ、公安局にでも任せれば――」

 

 そう言いかけた、そのときだった。

 鼻を刺す焦げた匂い。普通なら街中でこんな匂いなどしない。ドーナッツでも焦がさない限り。

 顔を上げて周囲を見渡すと、ある一方向の先。少し離れたビルの上階から、黒い煙が立ち上っている。

 

「……先生」

 

「うん」

 

 さっきまでの、のんびりした空気が、音を立てて切り替わった。

 

 現場に近づくにつれて、煙の量は明らかに増えていった。

 空気が熱を帯び、喉の奥がひりつく。

 悲鳴を上げて逃げる人も見えてきた。

 

「……これは、思ったより大きいなぁ……」

 

 ……その理由は明らか、ビル火災だった。

 

 ビルは中規模。

 商業施設とオフィスが混在している造りで、平日の昼間ということもあり、人の出入りは多い。

 

 既に周囲には人だかりができ始めていた。

 悲鳴、怒号、慌ただしく行き交う足音。

 

「フブキ、まず状況確認を」

 

「うん」

 

 私は無線を開き、火災通報の内容を確認する。

 同時に、建物の構造と出入口を目で追った。建物の外にいるというのに、私の視界全体が真っ赤に染まりそうな勢いの炎。それが周りの建物にまで移ろうと勢いを増していた。

 

「……上階から出火。避難は始まってるけど……、全員は出てないみたい」

 

 消防の到着を待つには、少し時間がかかる。

 それは、先生もすぐに分かったらしい。

 

「消防局に連絡は?」

 

「大体5分前くらいに要請は入ってるみたいだけど……」

 

 私は言葉を切った。

 

「間に合わない、な」

 

 生活安全局の管轄を、完全に越えている。

 下手に突っ込めば私たちごと消し炭になる。

 本来なら、ここで無理に首を突っ込む必要はない。

 

 ──割り切るべきだ。

 

「フブキ」

 

 先生の声が、低くなった。

 聞いたことのない真剣な声に、私は先生を見つめる。

 

「中に、人は残ってるんだよね」

 

「……。情報だと、上階。まだ避難が追いついてないはずだけど……」

 

 煙が、風に押されて揺れる。

 ビルの外壁が、きしむ音を立てた。

 

 私は、一歩下がりかけて──止まった。

 私が下がっても、先生はついてこなかったから。ついてこなかった理由がわかったから。

 

「……先生。これは消防の案件だよ。たった二人で入ったところでさすがにどうにもならない」

 

 自分でも驚くくらい、冷静な声だ。

 

「そうだね、だから諦めるのかい?」

 

 先生はネクタイを緩めながら短く頷く。

 

「私だってそんな冷たいこと言いたくないけど……さすがにこれは……」

 

 先生はこっちを向かない、まるで自分を落ち着けるかのように胸に手を当て呼吸をしている。

 そして、視線をビルへ向けたまま、続けた。

 

「でも、今ここにいるのは僕たちだけだ」

 

 一瞬、空気が張り詰める。

 

 先生は、いまだ私の方を見ない。

 

「消防が来るまで、何分かかる?」

 

「……早くて、3分。遅ければ……あと5分くらいかな」

 

 消防局から消防隊が到着する時間は平均して大体8~10分。5分前の通報を考えれば、このくらい。

 

「5分もあれば、足場は崩れる」

 

 その言葉に、胸の奥がひくりと跳ねた。

 

「先生、まさか……」

 

「フブキ。僕が中に入る」

 

 その一言で、全てが変わった。

 その言葉を聞いた瞬間、思考が一拍、遅れた。

 

「……はぁ……?」

 

 間抜けな声が、自分の口から出たのを自覚する。

 けれど、それを気にする余裕もなかった。思わず先生に近づいて服を掴む。急に走り出していかないように。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ先生。

 中、見たでしょ。あれ……危ないってレベルじゃないよ」

 

 建物の中では今、現在進行形で火災が燃え広がっている。例えるならイタリアのピザ窯のような。

 先生は答えない。もうヘルメットを被り直し、手袋を締めている。

 

 その動作が、やけに落ち着いて見えて、胸の奥がざわついた。

 

「応援が来るまで待てば、助からない人が出る」

 

 淡々とした声だった。

 まるで事実を一つ並べただけのように。

 

「だからって……!」

 

 言いかけて、言葉が詰まる。反論は、いくらでも思いつく。

 正論だって、規則だって、山ほどある。

 

 ──それでも。

 

「誰かが、行かないといけない」

 

 先生は、そう言ってから初めてこちらを見た。

 不安も覚悟も、どちらも隠さない目。先生は私を見て、ニコっと笑い私の頭を撫でた。

 

 それ以上何も言わずに踵を返す。

 炎と煙の向こう、ビルの中へ。

 

「……っ!」

 

 思わず、先生の背中に手を伸ばしかけて、止めた。

 

 代わりに、無線を強く握る。

 

 公安局。

 消防局。

 応援要請。

 

 それが、正しい判断だ。

 生活安全局の人間として、当然の行動だ。

 

 私は踵を返し、走り出した。

 息が乱れ、視界が揺れる。

 無線に向かって、必死に現状を伝える。

 位置、建物規模、逃げ遅れの可能性。

 声は震えていない。

 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 

 ──でも。

 

 頭の中に、さっきの光景が何度もよみがえる。

 煙の向こうに消えていった、先生の背中。

 

 もし、足場が崩れたら。

 もし、出口が塞がれたら。

 もし──。

 

 考えたくない想像が、勝手に膨らんでいく。

 

 ほんの数十分前まで、隣で笑いあっていた人。

 この前は「友達だよ」なんて、笑って言っていた人。

 

 そんな人が、たった一人で。

 

「……」

 

 足が、自然と緩んだ。

 走っているはずなのに、景色が進まない。ランニングマシーンに乗った覚えはないんだけど。

 

 無線から聞こえるのは、変わらない返答。

 

『到着まで、あと数分』

 

 数分。

 

 その数分で、足場は崩れると、先生は言った。 

 厳密な時間は?本当に数分で到着するのか?

 ビルの方角から、鈍い音が響く。

 何かが、内部で崩れた音。

 

 心臓が、嫌な跳ね方をした。

 

「……生活安全局の仕事じゃないよ……」

 

 小さく呟く。

 自分に言い聞かせるみたいに。

 

 それでも。

 

 万が一、先生に何かあったら。

 

 その想像だけは、どうしても振り払えなかった。

 

 私は足を止め、無線を見下ろす。

 次の瞬間、それを切った。

 

 銃を握り直して呼吸を整える。

 私の小さい手がその時だけは非常に大きく見えた。

 

「……ほんと、バカだな私」

 

 苦笑にもならない声が漏れた。

 それでも、身体はもう決めている。

 

 踵を返す。

 炎と煙が立ち上るビルへ。

 

 先生が、消えた場所へ。

 

 ■■■

 

 建物の中は、外から想像していた以上に異様だった。

 

 入口まで避難させればきっとフブキが誘導してくれるだろう……。

 

 熱が、空気そのものに溶け込んでいる。

 息を吸うたび、喉の奥が焼けるように痛む。

 煙は天井から降りてきて、視界をゆっくりと奪っていった。

 

 床を踏みしめるたび、嫌な軋みが返ってくる。

 まだ保っている──そう判断できる程度には、経験があった。

 だが同時に、いつ裏切られてもおかしくないという感触も、足裏から伝わってくる。

 

 ──時間がない。

 

 そう理解していながら、動きは急がなかった。

 急げば、判断が雑になる。

 判断を誤れば、それだけで終わる。

 

「まだ中にいる人はいませんか!」

 

 声を張り上げると、煙が震えた。

 返事はない。代わりに遠くで何かが弾けるような音がした。

 火が何かを食い破った音だ。

 天井の梁が赤く光っている。視界の端で黒く煤けた破片が落ちた。

 

 「あと少しで崩れる……」

 

 すでに僕の歩いてきた一部の場所が軽く崩壊していくのを見てきている。

 おそらくもう数分もしないうちに床の大部分が抜けるだろう。

 そう予感がはっきりと形を持ち、恐怖から心臓が凍り付き脚が浮くような感覚がする。ガラス張りのエレベーターに乗ってる気分だ。

 

 それでも足は止めない。

 なんとか階段を上がり、煙の向こうに人影を見つけた。

 

「うう……」

 

 壁に手をつき、必死に咳き込んでいる。

 判断は一瞬だった。

 

「大丈夫ですよ。歩けますか」

 

 肩を支えて体重を預けさせる。すでにほとんど意識を失っているようで、かなり重い。

 幸い避難経路はまだ生きているようだ。必死に階段を降り、その人を出口付近まで誘導した。

 

 一人。

 また一人。

 

 外へ送り出すたび疲労がたまっていくが、代わりに背中にまとわりついていた重い空気が、軽くなる。

 

 ──間に合う。

 

 そう思った、その瞬間。低く、腹に響く音がした。

 

 足元が沈む。高温の炎によって鉄骨が弱体化したのだ。それに加えここは下層、真っ先に床が抜けるエリアだ。

 

「……っ!?」

 

 崩壊の予感を察知し、すぐ壁の近くに逃げようとした。

 だが僕の踏み出す力がトリガーになったのだろうか、たったの一歩も移動できず世界が傾いた。

 

 視界が回転し、身体が前のめりになる。

 反射で崩れていない部分に手を伸ばすが、掴めたのは空気だけだった。

 

 床が消えていく。下層にはちょうど可燃物がたくさんあったのだろう、文字通り火の海が見える。

 

 ──落下。恐怖。妙な温かさ。

 

 その感覚すべてが、思ったよりもはっきりと身体に刻まれた。

 煙と熱が、全身を包む。

 重力に引かれながら、頭の中だけが妙に静かになる。

 

 「ここまでか……」

 

 そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、火でも恐怖でもなかった。

 

『ヴァルキューレの事務所』

『机の端に積まれたドーナッツの箱』

『少し気の抜けた声』

 

 ──まだ、話し足りないな。

 

 そんなことを考えた自分に、少しだけ驚いた。

 

 次の瞬間、手首に強烈な衝撃が走った。

 

 引き止められる。

 落下が、止まる。

 

「――っ先生ぇ!!」

 

 叫ぶ声が、煙を切り裂いた。

 

 視線を上げると、煙の先から必死に腕を伸ばすフブキが見えた。

 歯を食いしばってこちらを見下ろしている。

 

「絶対離さないで! 絶っ対だよ!」

 

 その一言に、思考より先に身体が反応した。

 指に力を込める。汗で滑りそうになるが、フブキも僕も万力のような力を手に込めた。

 

「……来たのか……」

 

 腕が引かれる。

 関節が悲鳴を上げるが、上へ、確かに戻っている。

 

 崩れかけた床の縁に、身体がぶつかる。

 フブキが、全身を使って引き上げていた。

 僕が入った直後、彼女もこのビルの中に突入していた。階段を上って僕を探しているところ、ちょうど僕が落下するときにこの階へ来ていたようだ。

 

 息を荒くしながら、彼女は吐き捨てるように言った。

 

「……っ、だから……危ないって言ったのに……!」

 

 その言葉に、思わず苦笑が漏れそうになる。

 

「それは……君も、同じだ……」

 

 そう返した瞬間、胸の奥に、重たい何かが落ちた。

 

 ──来てしまった、じゃない。

 来てくれた、んだ。

 

■■■

 

 煙はさらに濃くなっている。

 天井の梁が、今にも落ちてきそうだ。

 先ほどまで万力のように力を込めた右腕はまだふるえている。

 

 ──先生を助けても、まだ終わってない。

 

「先生」

 

 私は立ち上がり、周囲を確認する。

 大きく床は崩壊したが、まだある程度は耐えてくれそうだ。いざとなったら私が先生を抱えて窓から飛び出る。

 

「中、まだ人がいるっぽい。……ここまで来ちゃったら、もう私も手伝うよ」

 

 先生は一瞬だけ私を見て、それから静かに、うれしそうに頷いた。

 

「……なんでうれしそうなの?」

 

「別に、来てくれてうれしかっただけ」

 

 先生は少し照れ臭そうに私に伝える。この危機的状況で何を言ってるんだか……。

 

「早く帰りたいから、行くよ」

 

 返す言葉はそれだけ。

 それで、十分だった。

 

 前を走る私と、後ろで状況を見る先生。

 視線を交わさなくても、次に何をするか分かる。

 声を荒げなくても、動きが噛み合う。

 

 煙の中で、二人分の呼吸が重なっていく。

 

 煙の中を進むたび、サウナにいるように喉の奥が焼ける。

 目が痛くて、涙が勝手に滲む。

 

「こっち! 出口は──」

 

 声を張り上げると、奥からかすれた返事が返ってきた。

 

 若い生徒だった。

 足を捻ったのか、壁に寄りかかって動けずにいる。

 私はすぐにその生徒に駆け寄った。

 

「大丈夫、大丈夫だよ~。ほら、肩貸すから」

 

 そう言って手を伸ばす。

 指先が震えているのは、熱のせいだけじゃない。

 

 先生が後ろから支えに入る。

 

「ゆっくりでいい。呼吸を整えて」

 

 落ち着いた声。

 それだけで、生徒の表情が少し和らぐのが分かった。

 

 三人で、出口へ向かう。

 天井から、ぱらぱらと煤が落ちているのがわかる。もうすでに時間は少ないようだ。

 次大きな崩壊が起これば、いよいよビルごと崩れる可能性が高い。

 

「……急ごう」

 

 自分でも分かるくらい、声が低くなった。

 

「これで全員! もう出口だよ!」

 

 ようやく、外の光が見える。

 出口は、もうすぐそこだ。

 

「はい、先に行って~」

 

 私はその生徒を押し出すようにして、外へ向かわせる。

 その生徒が無事にビルの外に逃げたのを確認して、後ろにも先生がちゃんとついてきていることを確認した。

 よし、私も逃げよう。

 

「えっ」

 

 ──ごう、ばりばり~っと。

 耳鳴りのような音がして、視界が揺れた。

 入口の上部、壁が大きく歪む。

 

「あ」

 

 その一瞬で全部分かった。

 

 重たい瓦礫が、ガラスが、崩れ落ちてくる。

 逃げ切れない。

 距離が、足りない。

 

 変に冷静だった。

 

「あ~……これは、潰されちゃうね……」

 

 そんな言葉が、口からこぼれる。

 

 足が、動かなかった。

 恐怖というより、妙な納得感があった。

 

 ──ここまで、やったし。

 

 先生のことも助けられて、ビルの中にいた人たちも助けられた。

 生活安全局の所属として、名に恥じない仕事をしたはずだと。もしかしたら自分への言い訳なのかもしれない。火事に負けた負け惜しみかもしれない。

 でも、ある程度は……満足だ……。そのはずだ……。

 しいて言うなら、先生の脱出を最後まで手伝えなかったのだけが心残りかな。この瓦礫で出入り口もふさがるだろうし、脱出が少し難しくなる。

 ……ごめん、先生。

 

 そう心の中で別れを告げた瞬間、私の視界は暗転──

 

「……っ……!? 先生っ!」

 

 ──しなかった。

 

 視界に、影が飛び込んでくる。

 

 次の瞬間、凄い衝撃音がした。

 でも、それは私が“潰される”音じゃないし、奇跡的に瓦礫が私を避けたような音でもなかった。

 

「ぐうぅぅぅぅ……!」

 

 先生が、私を突き飛ばすように前へ押し出し、

 その背中で瓦礫を受け止めていた。

 

「フブキ! 早く、外へ……!」

 

 瓦礫が、先生の背中に食い込んでいる。火がワイシャツに移ろうとしている。

 時間を稼いでくれているのが、一目で分かった。

 

「……っ、やだよ……!」

 

 反射的に、先生の袖を掴む。

 

「一緒に出るって……言ったじゃん……!」

 

 歯を食いしばり、必死に引っ張る。

 腕が、肩が、悲鳴を上げる。

 先生は喋ることすら精いっぱいで、消火すらできそうなほど汗を流していた。

 

 もう一度、建物が大きく軋んだ。

 

「……っ、今だ……!」

 

 先ほどまでの自己犠牲を感じさせる声とは違う声を先生は発した。何か考えがあるのかもしれないと思い、私は全力で引く。

 

 すると瓦礫がずれ、二人分の隙間が生まれる。

 転がるように、外へ。

 

 次の瞬間、背後で大きな音が響いた。

 入口が、完全に塞がれた。

 

 私はその場に座り込み、息を吐く。

 

「……は……っ、はぁ……」

 

 視界が、ぐらぐら揺れていた。

 

 隣で、先生も同じように息をしている。

 

「……生きてる~? 先生ぇ~……」

 

 震える声で聞くと、

 

「……ああ。なんとかね」

 

 その答えを聞いた瞬間、

 全身の力が、一気に抜けた。

 

 ──助かった。

 

 本当に、ギリギリだった。

 

「……っぷ、あっはははははは!!」

 

 突然先生が笑い出す、理由なんてわからない。ただ突然だった。

 その顔を見ると、危機から脱出した安心感からの笑いなのかもしれないと感じる。

 なんだか私までおかしくなってきてしまった。

 

「……クスッ。あはははは!」

 

 私たちを心配する野次馬の目なんて気にせず、私たちは地面に寝転がって笑いあった。

 

 しばらくして、現場に重たい足音が増えた。

 消防局と公安局が到着し、騒然としていた空気が、ようやく「収束」に向かっていく。

 

「……まったく」

 

 低く、よく通る声がした。

 

 振り向くと、そこに立っていたのは公安局の制服を纏った女性だった。

 背筋は真っ直ぐ、視線は鋭い。

 場数を踏んだ刑事特有の、無駄のない立ち姿。

 

 ──尾刃カンナ。

 

 ヴァルキューレ警察学校公安局の局長。

 対テロ業務を主とする公安局を率いる人物で、その苛烈な取り調べから「狂犬」と呼ばれることもある。

 危険地帯を幾度もくぐり抜けてきたらしく、武装した不良学生程度では眉一つ動かさない──と、本人は平然と言ってのける。

 

 そんな人が、こちらを見下ろしていた。

 

「……無茶をするな」

 

 それだけだった。

 怒鳴るわけでも、責め立てるわけでもない。

 

 けれど、その一言が、胸にずしりと来る。

 

「あはは……」

 

 私が小さく笑っていると、公安局長は一度だけ先生の方に目を向けた。

 

「先生。判断が早かったのは評価できますが、次は命を賭ける前に、もう少し考えてください……場合によっては、犠牲者が増えてしまうだけなんです」

 

「……肝に銘じます」

 

「でも……二人とも、ありがとう」

 

 私たちに感謝の言葉を述べると、それ以上彼女は何も言わなかった。

 現場を一瞥し、部下に短く指示を出すと、もうこちらに構うことなく去っていく。

 

 私は立ち上がって先生に手を伸ばした。

 先生もその手を取ってくれて、立ち上がる。

 

 背中越しに、ようやく息が抜けた。

 

「……怖かったね~」

 

 私がそう言うと、先生は苦笑した。

 

「火の回りが早かった分、余計にね」

 

 火災現場を後にし、二人で歩き出す。

 空はすっかり夕方の色になっていた。

 

 さっきまでの熱と煙が嘘みたいに、風が涼しい。

 

「……ね、先生」

 

「ん?」

 

「さっきの、あれ」

 

 言葉を選びながら、続ける。

 

「……命張るの、やめよ。今日みたいなの、もう一回あったら……さすがに心臓もたないよ」

 

 先生の前を歩く私からは見えないが、きっとその背中は見るも無残な状態になっている。

 もう二度とそんな思いを、痛みを先生に味わってほしくない一心から、そう先生に伝える。

 先生は少し考えてから、笑って言った。

 

「そうだね。約束しよう」

 

 その声を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 少し間を置いて、私はぽつりと言った。

 

「……今度さ」

 

「うん?」

 

「美味しいスイーツ屋さん、奢るね~」

 

「フブキの好きなドーナッツ屋さんじゃなくていいのかい?」

 

 私は一瞬だけ足を止めて、先生の方に向きなおす。

 

「ねぇ、先生。なんで私が今選んだのがドーナッツ屋さんじゃないか知ってる?」

 

「う~~ん……なんで?」

 

「……先生のしてくれたこと、

 ドーナッツじゃ返せないからだよ」

 

 きっと今の私は、今までしたこともないような笑った表情をしているだろう。

 顔がくしゃっとなる感覚で分かる。

 

 夕焼けの中で、先生は少しだけ目を丸くして、それからまた笑った。

 

 あっはは。

 

 その笑い声が、今日はやけに心地よかった。

 






 今日この小説を見てくださった方、引き続き読んでいただいてる方、どうも曇りのち晴れ男です。
 まさか一日で高評価を付けてくれる読者がいるとは思っていなかったので、流石に今回あとがきを挟ませていただきます……。

 この作品は「フブキって曇らせて色々したら面白くね?」という軽いノリから生まれた作品になります。基本的には口調や表現などを気を付けていますが、もし一般的なイメージから大きくそれてしまうような表現があったら申し訳ありません。
 私自身とても面白い話を構成できたかなと思いますので、今後も読んでいただけると非常にうれしいです。

 すでに執筆は終わっており、あとは投稿するのみの状態です。
 毎日19:06に投稿をしますので、よろしくお願いします。

 改めて、評価を付けていただいた方やお気に入り登録をしていただいた方達、それに無数の小説の中からこの作品を見てくださった方々へ、厚くお礼申し上げます。

 それではおやすみなさい。
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