【完結】その日、合歓垣フブキは警察に成った 作:曇りのち晴れ男
「おはよ~。あ、キリノ。昨日はごめんね~……どうしても外せない用事でさ~……」
先生が待ち合わせ場所に来なかった次の日、私は少し遅めに出勤した。
というのも今日の分のドーナッツを引き換えるために、急いでお店に向かってノータイムで拠点まで戻ってきたから、少し時間がかかってしまったのだ。
もう少し効率的な引き換えルートを見つけないといけないなぁ。
「あ……フブキ……」
私を見たキリノは、何か表情がおかしかった。
何か変だと思い事務所を見渡すと、奥にはカンナ局長に加えコノカ副局長までいた。
「……何かあったの?」
自体がわからず頭をかしげていると、局長が私の前にまで歩いてきた。
「フブキ……確か先生と仲が良かったよな」
「え? ……うん」
局長は狂犬の名にふさわしい眼光で私にそう聞く。な、何かやってしまったのだろうか。しかし何で先生?
少しおびえている気持ちを察してくれたのだろうか、局長は少しだけ表情を崩す。
「昨日、先生が何をしていたか知らないか?」
「いや、なにも……むしろ私が知りたいくらい」
局長はそのほかに先生がどこで仕事をしていたか、何か悩んでいなかったか、最近トラブルに巻き込まれていなかったかなど、いろいろ聞いてきた。
副局長もキリノも、視線を下に落として何も言わない。
「……先生に何かあったの?」
「……」
私が質問を割ってそう聞くと、局長の目が揺らぐ。私だって警察だ、そういう細かい表情の変化には気づく。
「何かあったんだよね……教えてよ」
私と局長の間にあった空白をさらに狭め、迫る。
耳が痛くなるほどの静寂が数分流れた後、局長は迷いに迷った表情で私に事実を告げた。
「先生が、死んだ」
「…… …… …… ……はぁ……?」
視界が魚眼レンズのように引いていく。たった一つ聞こえていたみんなの呼吸音すら聞こえない。
──何を、言われたんだ?
……先生が、死んだ?
「死亡推定時刻は昨日の14時から15時の間……」
「まって……」
局長は続ける。私の声はうまく出せなくて局長の耳に届かない。
「死因は、前方から後方への何かしらの攻撃、胴体から背中まできれいに体の中央を貫かれている」
「先生は連絡をくれたよ!!」
携帯を取り出し、モモトークを局長に見せつける。
その画面には、確かに昨日先生が送ってくれた自撮りやその後のやり取りが記載されており、そのすべてが死亡推定時刻より後だ。記憶違いじゃ絶対ない。
「……昨日のニュース、見てないか? 電子機器の異常で、人工知能が無差別に意味のない通報や連絡をしていたんだ。その異常による通報で、ヴァルキューレの生徒も分散してしまい、たまたま先生の危機に駆け付けられる生徒もいなかった。無論ほかの学園の生徒も」
表情一つ変えず局長はモモトークの指摘を続ける。写真の先生はこんな真冬にワイシャツ姿で街中にいることと街の様子から昔の写真である可能性のこと。
先生の一人称が『私』になっていること。
言われてみれば、確かにそうだ。
まさか、髪飾りの警告音も、本当は──
「うっ……!」
急激に喉が震え、胃袋がひっくり返る感覚がする。足の力が抜けて、地面に座り込んでしまう。
電子機器の異常だと、髪飾りの警告音を無視した私を思い出す。
本来食べ物を溶かすために使う液体は、私の精神を溶かそうとしていた。
先生がSOSを出していたのに、それを無慈悲に無視したんだとしたら、私は。
「……っ……ふ……っっっ……!!」
ここは事務所、局長も副局長もキリノも見ている。何とか喉元で胃液を止めた。
局長が心配そうに背中をさすってくれている。今はその優しさすら、現実を確定付けるようで嫌だった。
「先生の……遺体は……」
「……シャーレの地下に、今は安置している。先生は数ある学園の中でもヴァルキューレの面倒を手厚く見てくれていた。各所での準備が整い次第、ヴァルキューレの生徒全員で葬式に参列することになっている」
「見せて……局長……」
自分でもなぜそんなことを言ったのかわからなかった。遺体の場所を聞いたところで、見たところで、私の心はさらに苦しくなるだけだというのに。これ以上自分を追い込んでどうしたいのか。
局長も私がそう言うとは思っていなかったのか目を丸くして、しばらく悩んでから答える。私の気持ちを察してだろうか、答えるときでさえ苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「分かった」
■■■
「こっちだ、フブキ」
物音ひとつしない鉄の通路を、局長とともに進んでいく。サンクトゥムタワーの地下も入ってしまえば汎用的な見た目をしているものだ。
足取りが重い。動かない。
「やっぱりやめておくか?」
そんな私を見てだろうか、局長がそう言葉をかけてくれる。
しかし、ヴァルキューレの事務所からサンクトゥムタワーにまでわざわざ来てしまったのだ、今更戻るというわけにもいかない。
「いや……大丈夫」
奥へ、奥へ。これ以上先生の遺体が傷つかないようになのか、数ある部屋の中で安置所は一番奥のものだった。
「……えっと……」
最奥の安置所。主に政治的に重要な人物や国宝のような人を安置する場所らしいが、今使われているのは一つだけだった。
部屋に着くと、局長は先生が入っている安置庫のパスワードを押す。
パスワードが合っていることを証明する音が鳴ると、ゆっくりと大きな引き出しが出てくる。
──昔、なぜか料理をしてみようと思ったことがあった。
本当に気まぐれだ。それで料理の動画をネットで調べたりして見漁った時期がある。
料理をする際、バットというのは非常に便利だ。肉を休ませたり、材料を乗っけておいたり、揚げ物の油を切ったり。
今も家にはそれらの調理道具があるっけ。
死体安置所の安置庫というのは、大きなバットのようになっている。
理由を調べたことはないが、確か死体からは水が出るとか聞いたことがあるから、それを漏らさないためだろう。確証はない。
「っっ……せん……せ……」
引き出しの奥、──バットに乗った男性は、確かに先生だった。
胸の部分には大きく穴が開いていて、この一撃が死因だと嫌でもわかる。
「……これはお前にだけしか見せない」
局長は先生の遺品が置いてある場所から、一つの端末を取り出す。それは先生の個人携帯だった。
画面は少しひび割れているが、問題なく動作をしている。局長が何を見せるのかと思ったら、その画面はモモトークだった。
「モモトークに、下書きの自動保存機能があるのは知ってるな」
送信ボタンを押し忘れた時や、間違ってアプリを落としてしまった時。そういうときのためにモモトークはテキストボックスの文字を一時保存してくれる機能がついている。
そして携帯には先生と私のトーク画面が開かれていた。
そのテキストボックスに。
『すきだ』
涙が、自然にこぼれた。
「メッセージは送信できていなかった……。だが先生が命を落とすまでの最期の瞬間、いの一番に思いを寄せたのは、フブキ……お前だ」
「局、長」
震える喉で必死に声を出す。
「もう、だいぶ、なんだけど」
局長は何も言わない。
「……い、いい?」
「……ああ」
局長の返事を皮切りにして、私は地下であるのをいいことに大声で泣き叫んだ。体が重力に負け、地面に手を突く。
目頭が、燃えるように熱かった。
死体に触れることは許されないのが、ひどくもどかしかった。
思い出される先生との思い出。言葉、姿。
ヴァルキューレによく顔を出してくれて、いつも笑顔で、時々局長や副局長、キリノも交えてたくさん遊んだ先生。
特製ウーロン茶なるものを局長と飲んでて、そこに私も呼んでくれた先生。
キリノが手錠から抜け出せなくて、解錠のために手伝ったりもした。
すぐ無茶をするし、叱るところは叱ってくれて、映画で感動して堂々と涙も流す。
いつも笑顔で、いつも笑ってて、いつもニコニコしてて。
『フブキ』
頭に浮かぶ先生の姿はすべて私の名前を呼んでいた。
先生、私だって。私だって──
私が泣きつかれ、声の一つも出せなくなるまで、局長はずっと待ってくれていた。
「先生の遺品、これがすべてだ。何か持って帰りたいものはあるか? シャーレの端末などさすがにダメなものもあるが……一つくらいなら、黙っておく。この私が約束しよう」
私が泣いている間、先生の遺品を別の場所に並べてくれたようだ。机の前に立つ私に局長はそう言ってくれる。
机の上にはスマホやペンといったものが置いてあり、いろいろ悩んだが私は髪飾りを選んだ。男性にしては珍しい装飾。私が警告音を無視してしまった髪飾りだ。
「じゃあ……これ」
「……私は何も見ていないからな」
局長は髪飾りをしまった私から目をそらしてくれていた。
……先生が死んだ今、やらなくちゃならないことがある。それはおそらく目をギラギラさせている局長も分かっているはずだ。
髪飾りを握りしめながら私は決意する。決意と同時に、局長も同じことを言ってくれた。
「……我々、ヴァルキューレ警察学校は先生に多大な恩がある。ヴァルキューレ総出で、必ず先生を殺した奴らを捕まえるぞ」
その目はまさしく狂犬だった。
私も、同じ目をできているだろうか。
■■■
先生の髪飾りを持ってヴァルキューレに帰ってきた私は、自分のデスクに座って天井を眺めていた。LEDがまぶしい。
私がボケーっとしていると、心配そうにキリノが声をかけてくる。
「大丈夫ですか? フブキ……」
「ん~……まぁね~……」
まぁ心配もするか、局長も察してくれていた通り、先生と一番仲が良かったのは私だと確信している。
「あ、ドーナッツ食べる? その箱全部持って行っていいよ……」
「え……。は、はい……。いいんですか……?」
具体的に捜査といっても何から手を付ければいいのだろうか……何より私は生活安全局であって、そういう捜査はあまりしたことがない。
何より、先生がもういないという悲しみが深い。普段からサボっているツケが回ってきたのか、もう何もしたくない欲求に呑まれそうだ。
……ん?
「あっ……」
「どうしたんですかフブキ」
デスクの向こうからキリノが心配そうに声をかけてくる。
「そういえば私……公安局に勝てるほど強くないや……」
これまでは先生がいてくれたおかげで、ある程度戦闘力は上がっていた。もちろん先生がいない時も『先生がどんな指示を出すだろう』と考えて行動できるときはあるが、最適解の行動はとれていないはずだ。
そんな状態の私が、平気で人を殺すような犯人に立ち向かって勝てるのだろうか……いや無理だろう。
まずは、スタートラインに立たなくてはならない……。
「キリノ、ヴァルキューレの持ってる射撃訓練場ってどこだっけ……」
「ここから歩いて10分くらいのところですよ。一緒に行きますか?」
「よろしく~……」
キリノは私の言葉を聞いて無言で準備を始める。おそらくは私の訓練に付き合ってくれるのだろう、戦闘用の装備も準備しているようだった。
キリノと共にヴァルキューレの射撃訓練場に到着すると、ずいぶんと懐かしい景色が広がっていた。
なにせ入学当初くらいしか来ていなかったからな……。
案内図を見ると、まず屋内戦と屋外戦にジャンルが分かれていて、そこからさらにジャングルトラックや廃ビルトラックなど、様々なシチュエーションを再現したトラックがあるようだ。
「ん~……まずはこれかな」
私が選んだトラックは、屋外戦、市街トラックだ。先生は街中で殺されていた、おそらく犯人とは市街地での戦闘になる可能性が高い。
キリノと共にトラックへ向かう。
……私、今日先生が死んだって聞いたばっかりなのに、なんでこんなに落ち着いているんだろう……。
いや、犯人への怒りが勝っているからだ。
トラックに到着すると、私の記憶とは全然違う綺麗なトラックが広がっていた。おそらく時間がたってきれいに掃除されたのだろう。
まぁ、市街地なら汚れてくれていた方がありがたかった気がするけど……。服が汚れないに越したことはないか。
「全力で行きますからね、フブキ!」
「ほどほどにね……」
いつもの癖でそんなことを言うが、その実内心は手加減するつもりなんてない。訓練用の弾丸と銃を持ち、スタートの合図を切る。
市街地トラックはキヴォトスの都会にある街並みをかなり的確に再現している。遮蔽物はたくさんあるし、路地裏までフルに使える。
さ~て……キリノはどこから来るかな。
「おっと」
トラックを進むと、非殺傷用のスポンジ弾が私から1メートルほど離れた位置に着弾した。飛んできた方向にキリノを見つけ、射撃する。
「一回目は私が勝たせてもらうよ」
キリノへどんどんと距離を詰めていく。
うまい具合に遮蔽物に隠れているせいで、なかなか当たらない。
確実に当てられるだろうという距離まで近づくと、キリノは遮蔽物の裏に完全に隠れてしまったため、裏に回って一気に決着をつけようとする。
その瞬間だった。
「これで終わり――」
腕を掴まれた感触がした。その感触を認識した時はすでに遅く、視界がひっくり返りいつの間にか私はトラックの天井を眺めていた。
だんだんと背中の痛みが追い付いてくる。
「ご、ごめんなさいフブキ……勢いあまって……」
どうやらキリノに体術で制圧されたようだ。
銃もすでに遠くへ蹴り飛ばされている。
そういえばそうだ、キリノは射撃の精度こそ低いが、体術はピカイチなんだった。
「いっつつ……。じゃ、もう一回行こうか……」
結局、その後何度戦闘訓練をしてもキリノに勝てることはなかった。
ある時は体術を警戒して遠くからの射撃にしたが、キリノは遮蔽をうまく使い距離を詰められて負けた。
またある時は完全にキリノを見失ってしまい、市街トラックにある廃ビルの窓からの奇襲で制圧された。
またある時は──
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
──理由なんて、わかり切っていた。
成果はどうあれ生活安全局としてまじめに仕事をしようとするキリノと、サボる私。説明なんてそれで十分だろう。
私はすでにスタートラインどころか出遅れている。
数学の問題で出した方がわかりやすい。
1秒後にスタートした車Kと、3秒後にスタートした車F。どちらも速度が同じなら、FはKに追いつけるわけがない。何時間走ろうとだ。
私はそのFになってしまっている。
「フブキ……今日はもうこのくらいにしましょう……疲れました……」
最後の試合で投げ飛ばされ、地面に倒れている私にキリノが告げる。
「そうだね……私ももう、全身が痛いよ……」
肩・腰・脚・背中。すべてが筋肉痛になった私はキリノと一緒にゆっくりとトラックを後にした。
■■■■■
次の日、また次の日と、私は何度も時間を縫って射撃訓練場に通った。
一人で行くときもあれば、キリノに付き合ってもらう日もあるし、ヴァルキューレの適当な生徒を誘うこともある。
結果は……全敗だ。
私は、誰にも勝てない。すでに走り始めたKに追いつくことができない。
速度を上げた車になることができない。
勝てない、勝てない、勝てない、勝てない。
私の体が地面に叩きつけられるたび、私の体にスポンジ弾が当たるたび、私の背後を取られるたび、私というものから先生が遠ざかっていく気がした。
嫌でも想像してしまう、こうしている間にも捜査はどんどん進み、いつか先生を殺した犯人が捕まる。
そうするとどうだ、世間は犯人を捕まえた生徒を「先生の仇をとった英雄」のように取り上げるだろう。
先生の横にいたいのは、先生の仇をとるのは、私なのに……!
一か月、二カ月、三カ月、四カ月。
不思議なことに犯人の足取りは捕まらない。ヴァルキューレ総出で探しているのにだ。
その四カ月の間、ずっと、ずっとずっと訓練を続ける。
続けて続けて、なんになる。
さすがに全敗することはなくなってきたが、それでも勝率は全対戦相手合わせて3割以下。
そりゃそうだ、相手だって私と同様に成長し続けてるのだ。FもKも両者走りは止まらないのだ。
人というのは、負け続ければ意欲がそがれる。
それはどれだけ明るい人でも避けられないものだ。
「あ~……」
ある時のヴァルキューレ事務所。今日は珍しく通報が全然入らなくて暇だ。キリノも局長も副局長も、みんな先生殺しの捜査に向かっている。
いや、私もいつもは捜査を手伝うんだけど……今日は事務所での常駐を任されている。
またヴァルキューレの人員がいなくなって、先生と同じ轍を踏む被害者が生まれないようにとのことだ。
静かな事務所でひたすら椅子に沈み込む。髪の毛が胴体と椅子に挟まれて引っ張られる、痛い。
そういえばいつの間にか髪の毛を結ぶこともめんどくさくなっていたな……。
この四か月間、何をしていたのかほぼ覚えていない。いや、訓練をしていたのは覚えている。
ただ、プライベートの時間、取ってたっけ……。
先生がいなくなっただけで、私の日々は灰色になっていたようだ。
あと数十分もすれば、下校だ……。今日は訓練場に行くの、やめてしまおうか……。
「あ、これって……」
デスクの掃除でもしようと思い、引き出しを開けるとそこにいつか手に入れたドーナッツの食べ放題券があった。
そういえば、しっかり引き換えて使ったのは初日と、その次の日だけだった。
ドーナッツも……あの日から一切食べてないな。
「今戻りました」
キリノが捜査から帰ってくる、どうやらもう私は帰る時間のようだ。
事務所に入ってくるなり、私の方へ歩いてきてあきれた様子で口を開く。
「ほら、フブキ……髪の毛にくしくらいは通しましょう」
キリノは私の後ろに立ち、キリノが持っているくしで私の髪をとかしてくれている。
髪のケア、しないとなぁ……
「終わりました。じゃあ、今日もお疲れ様です、フブキ」
『お疲れ様、フブキ』
ふいにキリノと先生の言葉がダブる。先生の顔を思い出すだけで手が震えて寒気が止まらなくなる。
最初こそ先生の仇のために熱が燃えていた私も、数日前からだんだんとそれをやり遂げられない恐怖に身が包まれて罪悪感が芽生え始めているのだ。
「っ……帰る」
「あっ、フブキ……」
それをキリノに悟られたくないため、私は急いで事務所を後にした。
ふとポケットに突っ込まれた手を確認すると、ドーナッツ食べ放題券があった。
さっき手に掴んだ時、そのままポケットに入れてしまっていたのか。
「……久しぶりに、食べよう……」
今からあんな遠い場所に行くのは気が引けるが、先生と協力したこの券を使わないと、なんだか唯一の先生とのつながりすら途絶えてしまう気がしてならなかった。
足が動いたというより、動かされたに近い感覚がした。
長い道のりを超えて……いや、以前より短く感じたが、なんとかお店まで歩いてきた。時間はすっかり夜になってしまった。
「あっ、いらっしゃいませ。お久しぶりですね。雰囲気が変わりましたか?」
お店に着くと、店員さんにそう声をかけられた。まさかこの店員さん、二日しか来てない私のことを覚えてたの……?
「うちの食べ放題券を持ってる人は一人しかいませんから」
「あぁ……そういうことですよね……」
私は久しぶりに見るラインナップを見て、一つ一つ食べたいドーナッツを選んでいく。
……気のせいか、奥から流れてくる甘い匂いに違和感がした。
「はい、残り二カ月間も、ぜひ来てくださいね!」
わぁ……なんて明るい店員さんなんだろう。
私はそれなりに返事をしてお店を後にする。
ドーナッツを食べるのなんて久しぶりだな。
暗くなった道を歩いていると、街灯の下にちょうどよくベンチがあった。そのベンチに座り、私は箱を開けてドーナッツを食べようとした。
そこまで来て、異変に気付く。
ドーナッツを食べようと思えない。いやむしろ気持ち悪いとまで感じる。
どうして……? 前まではあんなに好きだったドーナッツに、全く食欲が向かない。
おなかが空いていないわけじゃない。当然一日を過ごして空腹になっているし、食べれる余裕は体にあるはずなんだ。
それなのに一切魅力も感じないし、嫌悪感すら感じる。
自分の胸にその嫌悪感の理由を聞いてみる。
「そうだ……私、怖いんだ」
あの日、先生を守れなかったのは私だ。ドーナッツ食べ放題券などに目をくらませ、無理やり休暇を取ってヴァルキューレを離れたのは私だ。
ドーナッツが、私が先生を殺したようなものなのだ。
そんなドーナッツを、食べれるわけもなかったのだ。
でも……。
頭にはクイズ大会で喜んでくれた先生の姿が思い浮かぶ。この券は、先生と一緒に戦って手に入れた券なのだ。
きっとドーナッツを食べなければ先生は悲しんでしまう。
「でも……」
しかし私の体はドーナッツを拒絶している。
……いや、食べよう。
食べないと、食べなきゃ。
「……っっ! ん”う!」
甘い味が口の中に広がる。柔らかい。それと同時にこみ上げるものが私の体にあった。
それを必死に抑えて一個目のドーナッツを口に入れる。
すぐに私は次のドーナッツを手に取り、さらにそれを口に押し込む。口の中にドーナッツが入るたび、逆流の感覚は強まっていく。
「んぶっ……げえぇぇぇ……」
とうとう耐え切れなくなった私は、ドーナッツはおろか胃液と一緒に地面に吐いてしまった。
まだだ。吐いても食べなければ、食べ続けなければ。それが先生の弔いになるんだ。
食べる。取って食べる。吐く。いくらでも食べる。
だんだんとドーナッツの甘味も、口の中に残った吐しゃ物の酸味も分からなくなっていく。
幸いいくら吐いても、時間帯も相まって周りに誰もいなかった。
「お”えぇ……えれえれえれ……」
まだ箱にドーナッツは残っている。
取りつかれたように取る、食べる、取る、食べる。
不快感で涙が止まらない。
強くなれない自分の情けなさ、先生が死んでしまった喪失感。
髪飾りの警告音を無視してしまった罪悪感。
そのすべてが、すべてが私の背中に降り注ぐ。
最後のドーナッツを口に入れたところで、せめて最後くらいは飲み込もうとして両手で口を押える。
それでも、幾度となく嘔吐を繰り返した私の体はドーナッツを嘔吐に紐づけてしまい、耐えられなかった。
いよいよすべてのドーナッツを食べることができなかった。
ここがどこかもわからないが、周りも気にせず泣く。
泣き続ける。
先生、ごめんなさい。
先生、ごめんなさい。
先生──