【完結】その日、合歓垣フブキは警察に成った   作:曇りのち晴れ男

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第六話 捜査の日

 

「異常なし……」

 

 それだけ告げて無線のスイッチを切る。

 今日も町は平和だ。

 先生が死んでしまったというのに、町は以前と変わらない姿で回っていく。

 まるで最初からいなかったものみたいに。

 

 ドーナッツを食べては吐いたあの日から一か月、今だ先生殺しの犯人の足はつかめない。

 なんでつかめないのだろう。

 ヴァルキューレの生徒たちは皆捜査についてのモチベーションも切れてきていて、効率も下がってきている。

 当然局長やキリノや私は全く諦めていないが、やはり捜査効率の低下は痛い。

 

「嬢ちゃん、今暇かい?」

 

 ある路地裏を通るとき、ふと声をかけられた。……ここは先生が殺された路地裏だ。

 その方向を見ると、見るからなホームレスの男性がいた。犬の見た目をした男性は胡坐をかいており、その前には将棋盤があった。

 

「おお、俺の声掛けに反応してくれるのか。一局指してかないかい?」

 

 将棋か……少ししか触ったことがないが、どうせこのままパトロールを続けていても何も収穫は得られないだろう。

 ここで少しサボっても、以前と何も変わらない。

 

「嬢ちゃん、警察か。そういやここ数カ月でこの辺の地域に増えたな」

 

「おじちゃん知らないの……? おじちゃんの後ろにある路地、そこでシャーレの先生が殺されたんだよ」

 

 ホームレスの人であればニュースを見る機会もないだろうと思い、一般市民に教えられる範囲の情報をおじちゃんに教えてあげる。

 

「どひゃ~っ、おっかねぇな。はい詰み」

 

「げっ……」

 

 ……やるなぁ。

 気を取り直して次の局にうつる。

 

「なぁ、お嬢ちゃん。あんた、なんか悩んでることあるだろ」

 

 突然おじちゃんがそう聞いてくる。私は心の内を読まれた気がしてとても驚いた。

 将棋が得意だからだろうか……。

 

「……まぁね」

 

 今日会っただけの男性に話すことでもない。そう思った私はそれ以上何も言わずに指していく。

 何局も、何局も。

 攻め、また詰まされて。ここでも負けてばかり。

 

「負けるたびに反応してるなぁ。嬢ちゃん、もしかして誰かに勝てないのかい? ほれ、詰み」

 

 おじちゃんはまた私の心を読んでくる。一体本当に何者なんだ……。

 長年のホームレス生活によるものであろう汚れてしまった肉球で、駒をまた並べ始める。

 

 もう、いっそ隠し事をしても仕方がないだろうということで、私は悩みをすべて打ち明けた。

 

 するとおじちゃんは何も言わず、将棋も進めず聞いてくれた。

 先生との馴れ初め、先生が死んだこと、ドーナッツが食べれなくなったこと。そして何よりそれら全部をひっくるめて現状事件の捜査に私が足手まといになってしまっていること。

 すべて話した。

 途中からまた涙がこぼれてきて、視界がぼやける。

 

「なるほどなぁ……。ずいぶん苦労してんだなお嬢ちゃん。どおりでホームレスの俺よりホームレスみたいなオーラしてたわけだ」

 

「……なにそれ……」

 

 えらく失礼なことを言われたものだ。……いや、事実そうなのかもしれない。キリノからは見る目が明らかに変わったし、見た目だってあんまり気にしなくなってしまった気がする。

 無論勘違いされそうなので補足はしておくが、清潔にはしている。

 おじちゃんは私の反応が面白かったのか、大爆笑していてお気に召したようだ。

 

「なぁ、お嬢ちゃん。将棋で、成りってぇあるだろ」

 

 突然突拍子もなくしゃべりはじめる。

 将棋における成りというと、駒が相手の陣地にまで進むと駒の動ける範囲が広くなるというシステムだ。

 飛車角はもともとの動きに加え周囲の8マス、それ以外の駒は金と同じ動きになる。

 

「ありゃよ、もちろん成長って意味としての『成る』だろうが、俺ぁもっと別の意味があると思ってんだ」

 

「意味?」

 

「将棋ってぇのは戦争を題材にしたゲームだ。それで成るっていやぁ敵陣に単身乗り込むってことだ」

 

 戦争を題材にしているのは確かに聞いたことがある、そういう意味では成るということは確かにその考え方であっているのかもしれない。

 おじちゃんは駒を進めながら得意げに話も進める。

 

「それは敵陣に突っ込み、奮い立つって意味だ。緊張状態に陥ることで、300%の力を発揮できる、俺ぁそういう意味だと思ってるぜ」

 

「つまり?」

 

 私もおじちゃんの攻めに対抗するように駒を進める。

 さすがに何局と将棋を指していればさすがに対抗の仕方はわかってくる。

 

「お嬢ちゃん、あんたもいざって時には限界以上の力を発揮できるはずさ。お嬢ちゃんが頑張った五か月間は無駄にゃあなってないはずだぜ」

 

「……そうだといいけど~。うわっ……王手飛車取りってやつ……?」

 

 今はもう、そんな綺麗事を聞いたって私の心は晴れない。

 人の善意すら素直に受け止められなくなった自分を見て、さらに気分が落ち込むのみだ。

 

「……お嬢ちゃん、アンタ本当に将棋下手だなぁ……詰みだよ」

 

「おじちゃんが大人げないんでしょ、手加減してよ」

 

「おいおい、八枚落ちでそんなこと言われちゃあしょうがねぇやお嬢ちゃん」

 

 ■■■

 

「……ねぇ先生……私どうすればいいのかな……」

 

 昼を過ぎた、少し嫌な時間帯。

 川にそう投げかけるが、答えは返ってこない。

 ただ春を感じさせる風のみが私を撫でていくだけ。

 この五か月で、主要な学園への情報収集はほぼ終わった。残っているのは、名も知られていない小さな学園ばかりだ。

 

「よっ……。ほっ……」

 

 石を川に投げ、水切りをする。

 今まではドーナッツを食べることでサボっていたが、今の私にそれはできない。もうただただ時間を浪費していくことしか、私にはできない。

 ふと背後に早下校している生徒たちが通る。さすがに石がぶつかったら危ないので私は手を止めた。

 

「ね~知ってる~? シャーレの先生を殺した組織見たかもしんない!」

「ウケる~! 英雄じゃ~ん!」

 

 背後の生徒は軽いノリで笑いながら通り過ぎようとしていた。

 もちろんそんな生徒を私が逃がすわけがない。すぐに二人を呼び止めて、情報を聞こうとする。

 

「ねぇ、今の本当? 教えてよ」

 

「えっ……なに、怖い……」

 

 ギャルの一人が私の顔を見ておびえた表情を見せる。見たところ武装はしていない、激情して射撃をしてくる気配はないだろう。

 間違っても変に誤解されて逃げられるわけにはいかないな。

 

「ねぇ、怖いじゃなくてさ、教えてよ。先生殺しの犯人」

 

「ひっ、銃っ……!」

 

 ……銃? 何を言って──

 

 ……驚いた、私の手を見ると、銃が勝手にギャル二人に向いていた。セーフティも無意識に外している。

()()()()()()()()

 

「うるさいなぁ……」

 

「けっ……けけっ警察呼ばなきゃ……」

 

 警察を呼ぶ……? 何をおかしなことを言っているんだ。

 目の前にいる私が警察だというのに。

 早く教えてくれなければ、場合によっては公務執行妨害で確保するのも手だな……。

 ……いや面倒だ。さっさと脅しをかけて情報を吐かせよう。

 

「私が! その警察なんだよ……早く、教えてよ……早く!! 逮捕するよ!!」

 

「誰か助けてぇ!!」

「いやぁぁぁ!!」

 

 ギャルの一人を捕まえて、眉間に銃を当てる。

 命の危機を感じたギャルは必死に暴れて私の体に蹴りを入れてくるが、全く痛くない。

 いくら脅しをかけても、ギャルたちは恐怖におびえて情報を言おうとしない。

 ああ──もう、いいか。

 

「もう……めんどくさい、さよな──」

 

 引き金を引こうとしたところで、私の視界が曲がる。首に痛みが走り、その後に全身を叩きつけられる。右手の銃は……どこかに飛んで行った。

 どうやら誰かに投げ飛ばされ、地面に抑えられている状態なようだ。痛みに頭が混乱しているところ、冷静に体の調子を整えて痛みの犯人を見る。

 私を抑えているのは──局長だった。

 

「局長……」

 

「何を……何をやっているんだ……!! フブキぃ!!」

 

 私を見る局長の目には、いろんな感情が混じっていた。恐怖、悲しみ、怒り、困惑。

 ──そうだ、私、今何をしようとした??? 

 人を……何もしていない一般市民を撃とうとしたのか?? 

 

 私は。

 私は……。

 

「君たち、安心してくれ。そこで待っていてくれるか。その先生殺しの犯人についてはまたあとでゆっくり聞かせてほしい。今は……このバカを叱る」

 

「局長……私は……」

 

 とっさに言い訳をしようとする。けどそんな言葉を局長は聞いてはくれない。

 そもそも、言い訳の言葉すら思いつかない。

 

「警察は……法的な方法によってのみ、市民へ権力を使うことができる……! その法的な方法を無視したら、それは権力の暴走だ!」

 

 ぎりぎりと私を抑える手の力が強まる。

 でも今はそれ以上に罪の意識が私にのしかかる。

 また、間違えた。気の迷いで、間違ってしまった。

 

「なんでだ……? 私は、お前にそこまでさせてしまったのか……?」

 

 私の頬に生ぬるい水滴が落ちる。局長が、泣いている……? 

 局長が泣いているところなど見たことがなかった。厳密には今も顔は見えないが、そもそも泣くなんて概念がある人には見えなかった。

 

「先生が死んで……先生を殺した犯人を捜そうと一番必死になっていたのは私だと思っていた……。ヴァルキューレの顔のためにも、恩を返すためにも、誰よりも必死になっていたと思っていた」

 

 局長は震える声で続ける。

 

「捜査の速度を上げるために、生活安全局にもある程度手伝ってもらっていた。それが……お前に焦りを与えてしまっていたのか……? だから、そこまで……」

 

「局ちょ──」

 

「うるさい!!」

 

 ……そうだ、局長だって。

 

 局長だって心を痛めていたんだ。それでも局長は気持ちを抑えていた。

 なのに局長の気持ちも裏切って、私一人だけ暴れて……。

 

 私の手首に、冷たい鉄の感触がする。キリキリと、人工的な音がする。

 

「こんなこと私だってしたくない……だが、今のやり取りを見た以上、フブキ……お前を拘束する」

 

 私に手錠がかけられた音だ。

 もう、私は警察として死んでしまったようだ。

 

 ■■■

 

 ヴァルキューレの事務所に、私はギャル生徒二人とともに連れ戻された。

 帰ってくるなり、キリノも副局長もひどく驚いていた。

 

「姉御……!? これは……」

 

「どうしてフブキに手錠がかけられてるんですか!!」

 

 局長は何も言わず私を座らせ、ギャル二人に事情聴取を始めた。

 手錠をかけられた状態で放置されるというのは、ひどく苦しく、ひどく情けなかった。無限に感じられる事情聴取の時間、もはや私は自分を肯定することができなかった。

 

 話の内容は、えらく簡単だった。

 とある企業の社員が、路地裏で情報をこぼしていたというのだ。

 話を聞いてしまったのを見つかった学生は、命からがら逃げだしてきたようで、それで情報を知っていたようだ。

 

 あまりにもあっけない。

 ヴァルキューレほどの大きな組織が五カ月もの間足取りを掴めなかった事件の情報を、こんなただの学生が知っていたというのだから。

 

 ……いや、よく考えれば学生の謎の失踪事件は数件あった。もしかしたら何度か口止めをしている可能性もある。

 話の内容的に、そのギャル学生は逃げ足に定評のある子だったようだから、よりその可能性が高まるだろう。

 

 時間もそこそこ、局長は事情聴取を終えると学生二人に謝罪をして、二人を帰した。

 二人は帰るその瞬間まで、私を怯えた目でちらちらと見ていた。

 

「姉御……説明をしてほしいっす。ヴァルキューレの生徒がヴァルキューレの生徒に手錠をかけるなんて前代未聞っす」

 

 ドアが閉まったのを確認すると、コノカ副局長が局長に詰め寄った。

 局長の目はひどく落ち込んではいるが、決して表情には出さない。副局長はその落ち込みに気付いていない様子で、やはり局長は恐ろしいポーカーフェイスだ。

 局長は私を立ち上がらせると、何も言わず入口へ向かう。事務所を出る寸前、後ろを振り返らないまま二人へと語りかける。

 

「コノカ……キリノ……今は、今だけは何も聞かないでくれ。……頼む」

 

 二人に語り掛ける声は、どこか決意のこもった言葉だった。

 その決意を感じ取ったのか、副局長もキリノもそれ以上は何も聞かなかった……。

 

 車に乗せられ、どこかに向かう。

 

 私はこれからどこに向かうのだろう。現状、もう仇をとるなどと言っている場合ではないだろう。それに私にそんな気力は残っていない。

 ほんの数分のドライブだったが、お互いに一言もしゃべらなかった。

 

 局長がエンジンを止めると、窓の外に広がっていた建物は──

 

「……射撃訓練場?」

 

 局長に無言で引っ張られ、訓練場の中に連れられて行く。

 そこはいつかキリノと戦闘訓練をした市街地トラックだった。オレンジ色の夕焼けが後ろから影を作っている。

 

 大体1時間ぶりだろうか、私の手首が解放される。

 

「フブキ。私と一戦するぞ」

 

 全身の毛が一気に逆立つのがわかった。

 局長との一騎打ち……確かにこの五か月間で一回もやったことはない。

 だが……戦わなくたって分かる。この人に勝てるはずがない。

 冷汗が私の頬を伝う。

 

「でも……」

 

「お前が棒立ちで私が勝ったとしたら、許さない」

 

 私が困惑している間にも、局長はスタート位置へと歩いていく。

 ……今の状態の局長に何を言っても、通じはしないだろう。

 

 考えている間に、スタートの発砲音が聞こえた。

 

「──っ!」

 

 来るっ……! 

 皮膚が粟立つ。

 私の生存本能が逃げろと叫んでいる! 

 

 尋常じゃないスピードで局長の威圧が距離を削ってくる。短期決戦のつもりだ……! 

 急いで脇にあった車の影に隠れ、局長の動向をうかがう。

 

「……?」

 

 ある一線を越えた瞬間、局長の“気配”そのものが、世界から消えた。

 冷静に考えれば罠だろう、おそらくわざと気配を消して私がのぞき込んでくるのを待っている。

 ……こんな時、先生なら、なんて言うだろうか。

 

『フブキ、車の下から様子をうかがおう』

 

 そうだ、車の下……! ここなら比較的身を出さずに向こうの様子を見ることができる。

 ゆっくり、ゆっくり。物音を立てないよう慎重に車の下へかがんでいく。

 

「……ん~……」

 

 おかしい、周囲を見渡しても局長が見当たらない。

 ……いったいどこへ行ったのだろう。

 そこまで考えたところで、ある一つの可能性が思いついた。

 そうだ、局長は気配を消して後ろに──

 

「ふんっ!!」

 

 後ろを見たところで、私の近くで爆音が鳴り響いた。

 

 最初から局長は後ろに回るつもりはなった。

 局長が見当たらなかったのは、上に飛び上がっていたからだ。

 

 鳴り響いた爆音の正体は、局長が上から車を蹴り潰した音だった。

 

 ──理解が、追いつかなかった。

 

「くっ……」

 

 車を蹴りつぶすという明らかな異常事態に、上手く冷静な思考ができない。

 自分が車をつぶした爆音に局長は瞬き一つせずこちらを見据えている。

 すでに銃口が私の方に向けられ、局長がスポンジ弾を撃とうとしていた。もう、ダメだ。

 

 ……いや。まだ、まだだ。

 

『どんな時も、あきらめちゃ駄目だ、フブキ』

 

 先生はいつ言っていただろうか、ふとそんな言葉を思い出す。

 考えるより先に身体が動いた。

 ガラスが砕ける感触と一緒に、建物の中へ転がり込む。

 局長は当然それを追いかけてくるが、私もすぐに階段の方へ向かい三階へと昇っていく。その時ついででグレネードを置いといた。

 

「グレネード……っ!」

 

 階段を上がる際見えたのは、局長がグレネードに即座に反応して建物を脱出した姿だった。

 下の方で爆発音が鳴り、二階の床が抜けて階段も途絶えた。

 これで私のいる三階まで登ってくる手段はなくなった。

 

「よしっ……これで──」

 

 あとは三階の窓から撃ちおろせばいい、それで私の勝ちだ。

 胸の奥に、ようやく息が通った気がする。

 

「……っっっ!?」

 

 ……だが、外の景色が見えた時。

 この時自分は何を思ったのか、数か月後の私も言語化できないだろう。ただただ、怖かった。

 

 窓の下を見ると、ビルの壁を素手で素早く登ってくる局長の姿。時間にしてほんの一秒ほどだろうか、局長は三階に上がってきた。

 

 最後に見えたのは、銃口が再度私に向けられ、スポンジ弾を当てられる光景だった。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 地面にあおむけに倒れ、息を整える。

 なんて人だ。

 階段からの追跡経路をつぶしたと思ったのに、それを上回る方法で勝利をもぎ取ってきた。

 

 それは、局長……『狂犬』の執念がもたらした現実なのだろうか、それとも──

 

「フブキ……」

 

 局長は、あおむけで動けない私を見下ろしながら私に話しかけてくる。

 

「見事だった」

 

 負けた私は、てっきり局長にヴァルキューレを退学することを言い渡されでもするのだと思っていたが、飛んできたのは意外な言葉だった。

 あまりにも想定外の言葉すぎて、私はまた困惑してしまう。

 

「さっき私が車を潰して接近した際、一度諦めただろう。あの時諦めていれば、退学を言い渡し、学園にも手続きを勧めようと思っていた」

 

「……」

 

「だが、お前は諦めなかった」

 

 局長は後ろを向き、窓によりかかって夕日を眺めている。

 そんな局長が、ぽつりとこぼした。

 

「今回は特別に不問とする。方々には私から説明をしておくから、もう……先生を悲しませないでくれ」

 

 局長はそれ以上、何も言わなかった。

 夕焼けに染まる窓の向こうを、ただ静かに見つめている。

 

 私は立ち尽くしたまま、その背中から視線を外せない。

 さっきまで向けられていた圧も、怒りも、もうない。

 代わりに残っているのは、ひどく重たい沈黙だけだった。

 

「……はい……」

 

 それだけ答えるのが、精一杯だった。

 

 局長は振り返らない。

 こちらを見れば、きっともっとこぼしてしまうからだろう。だから私は、何も言わずにその場を離れた。

 

 射撃訓練場を出ると、空気がひどく冷たく感じられた。

 夕方の風が頬を打ち、さっきまでの熱が一気に引いていく。

 

 ──私は、また誰かに迷惑をかけた。

 

 局長に。

 キリノに。

 副局長に。

 そして何より──先生に。

 

 警察として守るべきものを、自分の感情で踏みにじってしまった。

 それでも、私はまだここに立っている。

 制服を着て、銃を持って、名前を呼ばれている。

 

 それが、どれほど特別なことなのか。

 どれほど危うい猶予なのか。

 

 夕焼けの色が、少しずつ夜に溶けていく。

 

 私は、拳を握りしめた。

 もう一度、間違えたら、次は、きっと──。

 

 そんな考えが頭をよぎり、慌てて振り払う。

 

 考えても仕方がない。

 今はただ、前を向くしかない。

 

「……先生」

 

 誰にも聞こえない声で、名前を呼んだ。

 

 返事はなかった。ただ私の声がコンクリートに吸われていく。

 

 それでも私は、歩き出す。

 逃げることも、投げ出すことも、もうできない。

 

 それが──

 今の私に課せられた、責務なのだから。

 

「……フブキ?」

 

 後ろから名前を呼ばれる。振り返ると、心配そうな顔をしたキリノがいた。

 そういえば、キリノも副局長も説明を受けてないんだっけ……。

 

「え~っと……なんていうか……」

 

「局長とは、仲直りできたんですね」

 

 おそらくは私の感じを見てだろう。キリノはそう聞く。

 私はその言葉に軽く返事をすると、続けてキリノは質問を投げてきた。

 

「……フブキ。どこへ、行こうとしてるんですか」

 

「……どこでもないよ」

 

「……本当ですか」

 

「本当だって~……。ただまっすぐ家に帰るだけ」

 

「……それならいいんですけど」

 

 そう、嘘はついていない。ただ家に帰るだけ。

 怪しげな目を向けるキリノを置いて、私は自宅へと向かった。

 今日は帰る。()()()()()()()()

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