東京レース場G3レース共同通信杯。左回りの1800m、天候は晴れ、芝の状態は良バ場の発表。
レース場はおよそG3とは思えないほどの客入り。大勢の観客が東京レース場のスタンド席に詰め寄っている。
どうしてこんなに多いのか。クラシック三冠の第一戦、皐月賞のトライアルレースだからか?
違う。理由は1つ、ナリタブライアンが出走するからだ。ナリタブライアンが出走するからこそ、例年よりも多くの人が観戦に来ている。
朝日杯で見せた桁違いの実力。周りを圧倒するオーラに、怪物と呼ぶに相応しい才覚。どれもが万人を魅了してやまない。
また、観客の中に紛れて偵察に来ている陣営もいる。クラシック三冠レースに出走予定のウマ娘達が、ナリタブライアンを観るために東京レース場へとやってきていた。
実力を測る、弱みを見つける。観戦もまた大事なこと、ライバルを倒すために必要なことだと観戦に来た。
「がんばれブライアンちゃーん!」
中には、純粋に応援のために来たウマ娘もいるようだが。
今回のレースで一番注目されているのはナリタブライアンなのは間違いない。一番注目されていて、なおかつ強いと分かっているのならば、マークは彼女に集中するだろう。
事実、ウォームアップの段階から注目を集めていた。鋭く睨みつけ、お前の好きなようにはさせないぞと気合いを入れている。どのウマ娘もだ。
「お高くとまっちゃって」
「好きなようにはさせない」
「このレースを勝って、クラシックに弾みをつける」
勝利のために。最有力のウマ娘をマークして潰すのは定石、戦法としては当然のこと。自分達が勝つために、彼女達は自然とナリタブライアンに視線を注いでいた。
否、それだけではないだろう。世代の代表として君臨している彼女のことが気に入らない、そう思っているはずだ。
ウマ娘は総じて負けず嫌い。自分より上の相手がいることが許せない。上の評価を受けているナリタブライアンが許せない。
だからこそ、この共同通信杯で分からせる。自分達は、ナリタブライアンより上だと。
ナリタブライアンは、変わらない。どれほどの視線を受けても、泰然自若として動かない。
我関せずの態度。気づいていないのではなく、気づいた上で無視している。
その胸中にあるのは、ある種の諦観。
(レースが終われば、コイツらは競わなくなる。一度喰らえば、後は有象無象の連中だ)
いつかはきっと自分に挑まなくなる、歯ごたえのあるやつはいないと断定し、溜息を吐く。
ならば、全力で走って叩き潰すことだけを考える。やることは変わらない、いつもと同じレースだとスタイルを変えない。
共同通信杯を走るウマ娘達の様相は二分化されている。ナリタブライアンか、それ以外か。1対10の雰囲気だ。
いや、違う。
(やはり最注目はナリタブライアンですが、他も考えておかないといけませんね。先行の位置でマークしつつ、外の位置につけていろいろと)
1対9対1だ。ただ1人、明らかに他の9人とは違う様子のウマ娘がいる。
ダーティフィクサーだ。彼女だけは違った。
(勝利のカギを握るのは、ナリタブライアンがどの位置で走るか。朝日杯は大外捲りでしたが、彼女のレースはそれだけではないというのがアグネスタキオンさんの判断。ならば、どの位置で勝負してくるかも重要で)
ナリタブライアンに注目しているのは他と一緒だが、周りとは違う。周りがナリタブライアンを好きに走らせないと考えている中で、彼女は勝利の事だけを考えている。
極端な話、一番注目されているから目を向けているだけで、ナリタブライアンでなくても別にいいのだ。
周りは世代の頂点という評価を受けるナリタブライアンが気に入らない、自分の方が強いのにと闘志を滾らせているのに対し、ダーティフィクサーは勝つこと以外に目を向けない。
ダーティフィクサーにとって大事なのはレースで勝つことであり、ナリタブライアンに勝つことではない。彼女の進退には毛ほども興味はなく、自分が勝つか負けるかしか考えていない。
勝利への近道がナリタブライアンをマークすること。ならその戦法を取るだけ。ダーティフィクサーにとっては、本当にそれだけだ。
11人のウマ娘がゲートに入る。あれほど喧しかった喧騒はぴたりと止み、全員がゲートへと視線を注いでいる。
溜めて、溜めて。しばらくの静寂が訪れた後。
《皐月賞のトライアルレース共同通信杯が今、スタートしました。各ウマ娘が綺麗なスタートを切ります。注目のナリタブライアンも好スタート、先行集団につけています》
レースが始まった。
◇
2コーナー付近のポケットから始まるレース。向こう正面では異様な光景が広がっていた。
レースを観戦していたファンはすぐに気づく。
「ブライアン囲まれてるっ」
「先行集団に揉まれちまってるよありゃ。朝日杯とは別の作戦できたのか」
「でも、裏目に出ちまったな。ありゃ簡単には抜け出せねぇぞ」
向こう正面を走るウマ娘達。最注目のナリタブライアンが囲まれていると、すぐに気づいた。
考えてみれば当然の話かもしれない。一番注目されているウマ娘で、マークが集中するのは自明の理。前で勝負するウマ娘からも、後ろで勝負するウマ娘からも警戒されているのだから。
両方から警戒されれば、必然彼女は囲まれる形になる。なにがなんでも先頭に立つ逃げでもなければ、誰もいない最後方からのレースを好むウマ娘でもない。勝負できる位置が先行と差しの位置、真ん中の地点だからこそ起こりえたこと。
もっとも、露骨に囲めばそれは違反だ。故意に進路を妨害することは禁止されていることであり、即失格の処分が下される。
今回のケースは失格ではない。あくまで流れの中で形成された包囲網であり、悪質な妨害ではない。
それに、ナリタブライアンの位置も悪かった。先行でも差しでもない、いわば中途半端な位置につけたからこそ包囲された。それが、レースを観戦しているファンの間での共通認識である。
ナリタブライアンの状況は劣勢だ。
《先頭を走りますトモエナゲ、その後ろは一個の塊となって進んでいます。先行集団の後ろ、5番手から6番手の位置にナリタブライアンがいます。完全に囲まれた形になっているナリタブライアン、7番手には》
包囲網を敷かれており、身動きが取れない状態で走っている。
ただ、焦りはない。揺れず、動かず、アクションを起こさない。虎視眈々となにかを待っている。
最注目ウマ娘が包囲されている中で、ダーティフィクサーは3番手の位置で悠々と進んでいた。というよりは、包囲網を形成する1人として走っていた。
時折チラリと、視線を後方に向けて、後続の動きを窺う。細かに位置取りを変えて、4番手以下を走りにくくさせている。
(今回は差し、ですか。朝日杯よりは前の位置ですが)
状況を分析する。いつもならばそんな余裕はないのだが、今回は余裕があった。
周りがナリタブライアンに集中しすぎて、ペースがかなりゆったりとしているからだ。そのせいもあってか、先頭を走るトモエナゲも悠々としたペースで逃げることができている。
逃げウマ娘が余裕を持って逃げるのはまずい。理解しているダーティフィクサーは、わずかにペースを上げる。
(おそらく、周りも気づいていませんね。このままだと、楽に逃げさせてしまう)
楽には逃げさせない。あの位置ならナリタブライアンは他に任せて大丈夫と判断し、自分は逃げウマ娘の後ろに付けることにする。
《ここでダーティフィクサーがペースを上げます。3コーナーの下りを利用して加速するダーティフィクサー、トモエナゲとの差をじわりじわりと詰めていく。トモエナゲはペースを乱さない、2番手に浮上したぞダーティフィクサー。3番手には》
かつて対戦したことのある逃げウマ娘。対策はされているだろうと判断し、別口からのアプローチを仕掛ける。
「さてさて、このまま楽に逃げるのは良いですね。ナリタブライアンとの差を広げれば、それだけ後半有利になります」
「っま、たっ、あんたはっ!」
「彼女の末脚は驚異的、最後の勝負所で追いつかれない程度の差を広げておかないと」
前回の戦いでも使用したささやき。逃げウマ娘を掛からせ、正常な判断をできなくさせる。
効果は微々たるもの……にならなかった。むしろ、トモエナゲはペースを上げ、ダーティフィクサーを引き離そうとした。明らかに掛かっている。
前回の二の舞。分かっているはずなのに、何故引っかかったか。
ナリタブライアンが怖いからだ。彼女の実力を知り、最大限警戒しているからこそ、今よりもっと差を広げておいた方がいいと判断した。
この判断が吉と出るか凶と出るか。今確かなことは、トモエナゲとダーティフィクサーのみが飛び出す形になったこと。ペースを上げて、第3コーナーから第4コーナーへと突入する。
その間もナリタブライアンは、包囲網から抜け出せないでいた。
勝負は最後の局面、第4コーナーから最後の直線へと入る。
逃げるトモエナゲは疲労が見えているがまだ走れる。ダーティフィクサーはまだまだ余裕。
ナリタブライアンは──包囲されている。
《最後の直線に入ります。先頭はトモエナゲ、トモエナゲが先頭で入ってきました。半バ身差ダーティフィクサー、ダーティフィクサーが2番手で東京の直線を走ります。ナリタブライアンはまだ中団だ、ナリタブライアンはまだ中団》
誰かが判断した。ナリタブライアンはもう終わりだと。終始包囲網を敷かれて、抜け出せずにゲームセットだと。
所詮この程度だ。朝日杯を勝ったからといって、世代の代表を名乗ってもらっては困る。
これだけ強い猛者が揃っているのだ。ナリタブライアンだけではない、世代の主役は他にいる。
そう思っていただろう……最後の直線までは。
「通るぞ」
「っえ、は?」
包囲網の先頭。3番手を走っていたウマ娘の隣で、突風が走った。あまりにも強い風に、一瞬よろけを感じてしまう。
隣に視線を向ける。その先には──ナリタブライアンがいた。
《ナリタブライアン来た、ナリタブライアン来た。包囲網を抜け出してナリタブライアン、4バ身は離れているだろう先頭との差をグングン詰めていく。東京の坂を苦にしない、全く苦にせず上るナリタブライアンであります》
驚愕と困惑。そして出てくる、ありえないという感情。
第4コーナーまでは明らかに中団で揉まれていたはずのウマ娘。最後の直線に入るまでは、絶対に抜け出せない位置にいたはずのウマ娘が、気づけば3番手に浮上して先頭を捉えんと走り出していた。
包囲網は図らずも完璧だった。全員が皆一様にナリタブライアンをマークし、気づけば敷かれていた包囲網。抜け出すことは困難、たとえ抜け出したとしても勝ち負けには絡めない、絶対に無理だと判断していた。
それは走っているウマ娘だけではない。状況を俯瞰していた観客全員が思っていたことだ。ナリタブライアンはここで終わりだと、誰もが思っていた。
そんな幻想を、
なにも特別なことはしていない。真正面から、力ずくでこじ開けた。自分が走る道を、勝利へのルートを。周りのウマ娘を置き去りにするスピードを発揮することで、包囲網を抜け出した。
誰もが驚く。完全に包囲されていたはずのナリタブライアンが、包囲網を力ずくで突破したことに。
包囲していたウマ娘達はレース中にも関わらず驚愕の表情を張り付ける。確実に抜け出せない位置にいたはずなのに、何故抜け出せたのかと。
ありえない、どうして、なんでお前がそこにいる。誰もが困惑する中で、数少ない困惑していない人物。
「包囲網なんか敷いても無駄だって。そんなんじゃブライアンは止めらんないよ?」
観戦している阿武隈トレーナーが呟く。もはや勝敗は決したと、そう言わんばかりに。
あっという間に先頭との差を詰めた。トモエナゲはスタミナ切れでずるずると後退していき、ダーティフィクサーはあっという間に千切り捨てられた。
《ナリタブライアンだナリタブライアンだ! ナリタブライアン独走、ナリタブライアン独走! ナリタブライアンが3バ身のリードを保って今ゴールイン! これは強いナリタブライアン、包囲網を真正面からぶち抜いた! これがナリタブライアンの強さだ!》
共同通信杯を勝ったのはナリタブライアン。圧倒的不利な状況、誰もが勝ちはないと確信する中で、彼女はただ……暴力的な強さでレースを制した。
◇
レースを終えたナリタブライアンは、対戦したウマ娘達を一瞥することなく去っていく。
(所詮ここも、クラシックもただの通過点。私が求めるのはその先だ)
クラシック級のウマ娘など相手にしない。彼女が見据えるのはただ1つ──クラシック級の先、シニア級との対戦。
こんなところで立ち止まるわけにはいかない。もっともっと、力を蓄える必要がある。
彼女に勝つために。姉であるビワハヤヒデを、大舞台で下すために。ここで止まるわけにはいかない。
ナリタブライアンの視界に、今日走ったウマ娘のことは微塵も入っていなかった。
周りのウマ娘は、心を折られかけていた。
戦いの土俵にすら上がれていない。あれだけ包囲されていたのに、無意味とばかりに千切られた。
この日のためにデータを揃えた。そのデータは、一瞬のうちに切り捨てられた。
脚を削るためにマークし続けた。相手は意にも介さず抜け出された。
なによりも、全力を出したのに圧倒的な差を見せつけられた。2着との差は3バ身。包囲されて、スパートの位置を遅らされていたのに3バ身もつけられた。最後の直線だけで、3バ身もの差を付けられたのである。
絶望に染まる。クラシックでどう戦えばいいのか、ナリタブライアンをどう攻略すればいいのか。心を折られるウマ娘も少なくない。
中には、ナリタブライアンを倒すのは自分だと決意を新たにするウマ娘もいる。負けん気の強いウマ娘は、ナリタブライアンの強さを知ってなお諦めない。勝つのは自分だと奮い立たせる。
それでも確かに刻まれただろう。ナリタブライアンの強さを。圧倒的な怪物の実力を。彼女に勝つことは容易ではないことを、この日共同通信杯に来ていた人々に理解させた。
……ただ、そんなことは関係ないとばかりに叫ぶウマ娘が1人。
「……クソクソクソ、何油断してんだよ私は。油断できるような実力かよテメェはよ!」
「ひえっ!?」
「な、なんだぁ!?」
思わず観客席にいた人々がびっくりするほどの大声。悔しさを吐き出すというよりは、自分自身に対する怒りを抑えきれていないウマ娘。
ダーティフィクサーだ。彼女は、今回のレースに憤りを覚えていた。
「伸びてくるわけねぇとか決めつけて、油断して。バカかテメェは? あそこから伸びてくるから怪物って呼ばれてんだろうが。あぁくそ、今回のレースも私の失敗だ、こんな様でレースに勝てるわきゃねぇだろボケが」
油断したと叫び、今回のレースの敗因をブツブツと呟く。周りの事なんて気にしない、どうでもいいとばかりに無視している。
手で顔を覆い、アイアンクローをかますかのように力を込める。痛みなど関係ない、そんなことが気にならないほどに、ダーティフィクサーは自分自身への怒りを抑えきれない。
ナリタブライアンに負けたから? 違う。そんなことはどうでもいい。彼女にとって我慢ならないのはそんなことではない。
レースに負けたことがだ。自分の至らなさでレースに負けたことが許せないのだ。対戦する相手の事なんて関係ない、彼女の中にあるのはレースに負けたという事実のみ。その事実がなによりも、彼女を狂わせる。
しばらくブツブツと呟いた後、ダーティフィクサーは顔から手を離し。
「……次は勝つ」
ぼそりと呟いて、ターフを去っていった。その目に見据えるのはナリタブライアンではない。レースへの勝利のみ。
ちなみに、ダーティフィクサーは今回のレース2着である。さりげなく大金星だ。
もっとも、彼女にとっては1着以外は無価値。大金星も何もないのだが。
そんなダーティフィクサーの様子を見ていたウマ娘が2人。
「ひ、ひえぇ……ブーちゃんもだけど、フィーちゃんもやっぱり怖いなぁ」
サムソンビッグと。
「ね? 面白い子ですよね、椿さん」
「面白いってより、怖いかなぁ、あの子」
「え~? 勝負に真剣で、カッコいいと思うんですけど」
「どっちかというと狂ってないかな? ローレル……」
サクラローレルである。ダーティフィクサーと同世代の2人、特にサクラローレルは、ダーティフィクサーに興味津々といった視線を向けていた。