レースが終わり、いつものようにトレーニングに励んでいるある日のこと。
「フィクサー君、逃げに挑戦してみる気はないかい?」
「逃げ、ですか」
アグネスタキオンさんから逃げで走らないかと提案されました。これまた唐突な提案です。
なんで逃げ? 今までのスタイルは合わなかった? 無意味なことをし続けていた? いろいろと疑問が浮かんでは消える。
とはいえ、彼女が意味のない提案をしないことはこれまでの付き合いで分かっています。逃げで走る理由はちゃんとあるはず。
話を聞きましょうか。
「逃げで走る理由は何でしょうか?」
「理由自体はとても単純なものだよフィクサー君。君のスピードで現在の先行・差しのスタイルは合わないんだ」
彼女から突きつけられたのはスピード不足。私のスピードで、現在の先行・差しのスタイルは分が悪いとのことでした。
納得のいく理由、というよりは納得するしかない理由ですね。元よりスピードに不安が残る私の脚では、最後の末脚勝負になるとどうしても負けてしまう。
これまでは末脚を持続させて、周りのスタミナをすり潰すことで勝ちを狙っていましたが。いずれ限界を迎えてしまうということ。その事実を、アグネスタキオンさんは説明する。
「トップスピードを持続させてすり潰す戦法は、差しの位置では機能しにくい。元より一瞬の瞬発力で勝負する脚質、君にはあまり合わない場所だった」
「おおむね理解できます。私に瞬発力はありませんから」
「あぁ、その通りだ。だからこそ、私が提案するのはもっと前の位置で勝負すること。逃げウマ娘の後ろを走る……最悪の場合自分が逃げることも想定に置いた、逃げ・先行の位置で勝負するプラン。これを君に提唱しよう」
これまでのレース結果を踏まえた上で、もっと前の位置で勝負することが私にとっての最適。勝つための最善手であると。そう説明しました。
「共同通信杯は負けはしたが収穫はあった。早々にブライアン君のマークを捨て、逃げウマ娘をマークしたことで君は2着を確保できた。私はそう考えていてね」
「ふむ、キープできたのはそのせいもあった、と」
「もしブライアン君をマークしていつもの位置に収まっていた場合、君はもっと順位を落としていただろう。それこそ、掲示板外でも不思議ではなかった」
私の強みと弱みを一からおさらいし、脚質を選ぶ上でのメリットとデメリットの提示、変えた上で私がどこまで戦えるかの指標を算出したそうです。
まさか、ここまでやってくれるとは。共同通信杯が終わって1週間が経った今日、これだけのデータをまとめたそうな。
「少なくとも、今現在の戦法よりも勝率が格段に上がることは確かだ。間違いなく、君は勝敗の土俵に立てるウマ娘になれる」
「データもそのように示していますね。末脚をより長く持続できる私は、前で走り根性でスピードをキープした方がいいと」
「瞬発力勝負で勝てない以上、出来るだけ前の位置で勝負することが望ましい。それが私の結論だ。最後方の追込は論外、展開に左右される時点で君には向いていない」
ありがたい話です。もっと彼女に感謝しなければなりません。
「ありがとうございます、アグネスタキオンさん。これだけのデータを集めてくださって」
頭を下げ、感謝の言葉を口にする。彼女はフン、と照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「感謝をするのは勝ってからにしてほしいものだね。私の研究のためにも君が強くなることはマスト、必要条件だ。研究に役立ってくれなければ、君と協力する意味がないのだからね」
早口でまくしたてられましたが、心配はいりません。
「大丈夫です。しっかりと、ちゃんと結果を出せるように頑張りますので。死ぬ気で」
「ふぅン、君の死ぬ気は信用ができる。これからも誠心誠意、私のために尽くしたまえ」
「当然です。私と貴方は共犯者なのですから」
「共犯者、か。言いえて妙だ」
彼女は私が望むものを提供してくれた。ならば今度は、私が彼女の望むものを提供する。彼女が進めている研究の実験を、私の体を提供することで。
やることが決まれば、後はトレーニング。シンプルですね。
とはいえ、今までと同じではありません。戦法を変えるということは並大抵のことではない、それなりの努力を積む必要があります。
「君の次走はなんだい? フィクサー君」
「弥生賞です。皐月賞と同条件かつ、スプリングステークスよりも距離が長いこちらを選びました」
「そうかそうか。では、弥生賞を新戦法のお披露目の場としよう。まぁあんまり期待はしないがね」
「私はいつも通り、全身全霊を尽くすのみですので」
「その方がこちらとしてもありがたいねぇ。それでは、新しく調整したトレーニングプランだ。このプラン通りに実行してくれ」
渡された練習表も、逃げを意識したものばかり。持久力を高めるペース走に、1週間の予定にプールトレーニングがふんだんに盛り込まれている。
逃げにシフトするのであれば、スタミナを鍛えるのが当然でしょう。幸いにも私の体は頑丈ですし、体の方が先に悲鳴を上げるなんてこともない。
心肺機能を鍛えに鍛えて、新しい走り方をマスターする。今やるべきことはそれです。
「本来であれば、脚質を変えるというのは並大抵の努力ではできない。例え近い位置だとしてもね」
「はい。だからこそ、基本的にガラッと変えることはありませんね」
「性格的な問題、使える脚の問題……なんにせよ、常人の数倍以上の努力を重ねる必要がある」
アグネスタキオンさんはニヒルに笑う。私を挑発するように、楽しい実験を施しているように。
「君ならできるだろう? 努力を努力と思わない、自分の生活ルーティーンの1つとしか思わない君ならば、出来て当然だ。違うかい?」
私ならばやれる、という期待ではない。私というウマ娘をよく知っているからこその挑発、逃げることなんてしない、選択肢にないと考えている顔。
えぇ、その通りです。
「それが勝つための道に繋がっているのであれば。私はこの計画を実行するのみ。よく理解しているでしょう? アグネスタキオンさんなら」
今までの自分を殺して、新しい自分を構築する。造作もない、やれて当然のことです。今まで積み上げてきたものを破壊して、新しく積み上げていくだけのこと。
なにも変わりません。まともにやっても勝てないと悟ったあの日、嫌がらせに特化することだけを考えたあの日と同じことをやるだけ。私はこの日から、新しく生まれ変わる。
望み通りの答えだったのか、はたまた予想通りだったからか。アグネスタキオンさんは大笑いしていました。
「ハーッハッハ! それでこそフィクサー君、モルモットとして申し分ない言葉だよ!」
「えぇ。私は貴方のモルモット、いかようにしても構いません。だって……貴方は私を勝ちに繋げてくれるでしょう?」
「当然だ。実験に付き合わせている対価に、私は君に勝利を提供する。そういう契約だからね」
嬉しそうなら、まぁいいでしょう。気にすることじゃありませんか。
この日から始まった、私の脚質変更トレーニング。弥生賞を2週間後に控えている身ですが、問題はありません。2週間で会得すればいいのですから。
「えーっと、フィー? なんかいつものトレーニングと違うけど、なんで?」
「ブリッジコンプさん。私は脚質を変えます」
「……ごめん、アタシの耳がおかしくなったみたい。なんて?」
「脚質を変更します。とはいっても、先行・差しから逃げ・先行に変えるだけなので、大したことじゃありません」
「……大したことじゃこのバカチン! なんで、なんで相談もなく勝手に決めんのよ!?」
「アグネスタキオンさんには相談しましたが?」
「こんの大バカウマ娘がぁぁぁ!」
ブリッジコンプさん達には呆れられましたが、些細な問題でしょう。
「弥生賞まで2週間しかないのにぃ……何考えてるの? フィクサーちゃん」
「もうさ、考えるのやめようよジャラジャラ。フィクサーは絶対止まらないんだから」
「無駄口を叩く暇があるなら、フィクサー君の脚質変更に協力したまえ~。時間は有限なんだから」
「誰のせいでこんなことになってると思ってるのよホントにもう! ホント、ホントコイツらバカ! 頭イカれてるんじゃないの!?」
頑張りましょうか。覚えるべきことはたくさんあるので。
◇
共同通信杯。やはり歯ごたえのあるやつはいなかった。自分の敵になるような存在は、脅かしてくれる強者はいなかった。
溜息を吐く。何時までこの退屈な時間を過ごせばいいのかと。
(姉貴との対決は……どんなに早くとも夏になる。その夏のレースも、私は出走できないだろう)
「チっ……クラシックでの戦いが大事だからと、宝塚記念に出すつもりはない、か。つまらん」
待ち望んでいる姉貴、ビワハヤヒデの対決は当分先になる。その事実が私を苛立たせる。
トレーナーの言い分としては理解できる。クラシックは限定戦、取りこぼしたらもう二度と取ることは出来ない、大事な時期だ。シニア級とは違う。
宝塚記念はシニア級でも出走が可能。それゆえに、クラシック級は見送る判断は当然のことだ。勝てるか勝てないかではなく、消耗が凄まじいから。
夏は大きな成長を遂げる大事な時期。そんな時期に、宝塚記念で消耗して後れを取るわけにはいかない。後れを取ったら、他のウマ娘に敗れる可能性が出てくるから。
だとしても、だ。私を脅かしてくれる相手がいない以上、宝塚記念に出走することの方が大事だ。少なくとも、私にとってはな。
(……向かってくれる相手がいれば、話は別なのだがな)
気骨のあるウマ娘が、私に対して最後までくらいついてくれる相手がいない。仮にいたとしても、今の私ばかりを見てその先を見ていない。
そんなウマ娘に興味はない。私が欲するのは、自分と高め合ってくれるウマ娘だ。
ナリタブライアンに追いつきたい、ではない。ナリタブライアンなどただの通過点でしかない。そんなウマ娘にこそ、私は興味がある。
「……もっとも、そんな奴はどこにもいなかったがな。私に勝つことだけを目標にしている奴に、興味なんてっ?」
ない。そう口にしようとした時だった。
視線の先にウマ娘の集団がいる。
「言わんこっちゃないじゃないのフィー! 模擬レースボロボロじゃない!」
「あぁ!? うるせぇ言われねぇでも分かってんだよ!」
「ヒィ!? おおお、落ち着いてよ2人ともぉ……!」
「あーあー、まぁ予想通りの結果になってくれちゃって」
「どうでもいいが、喧嘩をする暇があるならデータを照らし合わせるよフィクサー君。無駄な体力と時間を消費しないでくれ」
集団の中心にいるのは……誰だったか? 走ったことはあるはずなんだが。
「フィクサー……走ったことはあるんだろうが、分からんな」
覚えていない、ということは他の有象無象と変わらないということ。覚える価値のない相手ということだ。
気にするだけ無駄か。そう思い、帰ろうとするが。
「そんなんじゃナリタブライアンに勝つなんて夢のまた夢よ! 今からでも遅くないから、脚質を戻しなさい!」
「うるせぇ! ナリタブライアンなんて知ったこっちゃねぇんだよ! あんなの対戦相手の1人ってだけだろうが! 私は、アイツに勝つためにレース走ってんじゃねぇんだよ!」
「でも最大の敵はナリタブライアンでしょうが! 全くこの子は本当にもう!」
意思に反して、足は立ち止まっていた。気にするだけ無駄なはずなのに、振り返っていた。
(……私など関係ない、だと?)
「……」
フィクサーと呼ばれたウマ娘を睨む。じっくりと、観察するために。
特段目立った奴ではない。どこにでもいるような、ごく普通の奴だ。とても強そうには見えないし、なんなら弱そうにすら見える。
だが、どことなく不思議な縁を感じた。家族ではない、なんなら見た覚えすらないウマ娘。昔会ったこともない奴に、不思議と高揚感を覚えた。
(私らしくもない。あんな奴の、何が気になるって言うんだ?)
いかにも弱そうな、敵にもならなそうなウマ娘。口調はやたらと乱暴だが、他のウマ娘と変わらない、だろう。おそらく。
他に気になる点と言えば、見覚えのあるウマ娘がいたことだ。言い争いをしているウマ娘には見覚えはないが、呆れている白衣のウマ娘には覚えがある。生徒会で度々問題視されている、アグネスタキオン。
(アイツの協力者ということは、ろくでもない奴なのか? とてもそうには見えないが)
まぁ、どうでもいいことか。
考えた末に出した結論は、相手にもならないということだけ。何かをやっているようだが、所詮は付け焼き刃の浅知恵だろう。
「くだらん」
今度こそ帰る。時間を無駄に消費してしまったな。
ただ、フィクサー。頭の片隅に、奴の名前は置いておいてもいいかもしれない。不思議な奴、不思議な感覚を覚えるウマ娘として。
真ん中寄りの位置からさらに前へと移動。それでも結構大変な作業。