「トレーナー、次は千両賞に出ます。手続きの方をお願いします」
普段滅多に立ち寄らないトレーナー室。1枚の紙を持って、目の前にいる男に渡す。
夢も希望もなさそうな暗い瞳。最低限身だしなみだけは整えている見た目。
覇気がない、やる気のなさが態度にでている。
目の前にいる彼が、私が契約しているトレーナーさんです。
紙を受け取ったトレーナーさんは一瞥した後、適当に端に置く。
椅子の背もたれに身を預けて、こちらへと視線を向けました。
「随分とレースに出るな。これで6走目だ」
「えぇ。勝ちたいので」
「次は勝てるといいな」
心にも思ってなさそうな、軽薄な言葉。
一応担当だから。そんな風に思っていそうな、心に響かない言葉。
もっとも、気にすることではありません。私とトレーナーさんの関係は、そういうものですから。
私はレースで勝ちたいから契約した。
彼はトレーナーを続けるために契約した。
その程度でしかない関係です。
トレーナーを続けるうえで、担当の勝敗はさほど重要ではありません。特に、彼のような名義貸しのトレーナーさんは。
(ビジネスライクの関係。それで充分です)
「それでは、これで。失礼しました、トレーナーさん」
「あぁ。ケガだけはするなよ……面倒なことになるからな」
申し訳程度の心配を貰って、私は部屋を退出します。
次のレースの申請は、滞りなくやってくれるでしょう。
次の問題は、いかにして勝つか。
(まだオープンレースを勝てていない。成長を実感できているのに、まだ勝てないっ)
「……クソっ」
悔しい、なんて感情は湧かない。私に湧くのは、自分自身に対する憤りだ。
レースに出る度、反省点がぞろぞろと出てくる。キリがないくらいにあります。
レース後に気づいて、ぐつぐつと私の中で怒りが湧き上がる。
怒りをグッと堪え、自分がやるべきことを再確認。
事実に怒ったって仕方ない。それよりも私には、やるべきことが山ほどあります。
「まずはアグネスタキオンさんと反省会を。次は対戦相手の研究に、今日のトレーニングはパターンCで……」
ブツブツと。廊下を歩きながら予定を確認します。
時間は足りないくらい。もっと、もっと時間が欲しい。
あぁ、1日が30時間とか40時間にならないでしょうか。
そうすれば、もっともっとトレーニングができるのに。勝ちに繋げることができるのに。
考えても仕方ありません、か。
「やれることをやらなければ。ただでさえ私は、劣っているのですから」
廊下を歩く。後ろ、トレーナー室の方面から微かな視線を感じつつも、無視して去っていく。
次は、千両賞だ。
◇
12月の阪神レース場。客入りはまばらであり、これといって目立つことがあるわけではない。
そんな阪神レース場の第9R、千両賞にダーティフィクサーは出走する。
人気は、最近掲示板圏内に入っていることから、13人中の5番人気と高め。努力の賜物だろう。
だが、ダーティフィクサーにとって人気は重要ではない。
彼女にとって重要なのは、レースに勝つことである。
脚の筋肉を伸ばし、ストレッチで体をほぐしながら、今回の手順を確認していく。
(狙うべきは逃げウマ娘。私も近い位置で走るから、今回は逃げですね)
ダーティフィクサーは今回3番人気である逃げウマ娘、トモエナゲに目をつけた。
3戦1勝と、メイクデビューの勝利しかないが、前走で期待を持てそうな内容で2着に敗れている。
そんな彼女の武器は、レースメイク能力にあった。
(体内時計が優秀。彼女のペースで逃げられたら、捕まえることは難しい)
優秀な体内時計を活かしての逃げ。楽にさせないためにも、ダーティフィクサーはトモエナゲに狙いを定める。
絶対に楽にはさせない。徹底的にマークして、自由にさせない。
そう心に誓い、阪神レース場のターフに立っていた。
芝の確認も怠らない。晴れ空が広がっており、良バ場と一目で分かるが、しっかりと自分の脚で確認する。
(……ふむ、問題ありませんね。重すぎず、走るのに適しているバ場)
「後は、私自身の能力を示すのみ。絶対に、勝つ」
気合いを入れ、ゲートを見据える。奇数番から順に案内されて、ウマ娘達はゲートへと入っていった。
千両賞のスタートはまばら。スタート前に競走中止になったウマ娘を除き、12人のウマ娘がターフを駆ける。
先頭を取ろうとしているのはトモエナゲ。好調な滑り出しから後続を離そうとスピードを出す。
そのすぐ後ろに、ダーティフィクサーはつけていた。
逃げウマ娘を風除けに使える絶好の位置。まさしく理想通りのポジションを獲得。
周りのウマ娘は、様子見に徹している。
トモエナゲとダーティフィクサー。この2人が逃げるようにレースを引っ張っていた。
《先頭を走りますトモエナゲ。そのすぐ後ろにダーティフィクサー、ダーティフィクサーはいつもより前の位置で勝負を仕掛ける。400mを通過しまして3番手は1バ身遅れて》
集中マークを受けるトモエナゲは少しだけ顔をしかめるが、気にすることはないと前を向いていた。
マークといってもただ1人。しかもそれが、オープンレースを勝ちきれない普通のウマ娘。
いろいろと策を弄することは知っている。それも気にしなければ問題ない。
(あなたのことは、ちゃんと頭に叩き込んであるんだから!)
自信に満ち溢れていた。たとえマークされても、振り切って逃げることができる。
データ的にも、自分の方が数値を上回っている。
だから問題はないと、胸を張っていた。
ただ、問題となったのは。
「わずかにスローペースですか。さて、どうしたものでしょうか?」
「っえ?」
囁くように入ってきた、ダーティフィクサーの呟きである。
スローペース。彼女はそう言った。
(……いや! そんなはずはないわ。だって、私はちゃんとノーマルペースで走れているんだもの。問題はないはず!)
嫌な思考を振り払うように頭を振る。いつも通り走れていると、しっかりやれていると心を保たせる。
事実、トモエナゲは自分のペースで走れていた。
阪神1600mのノーマルペース。逃げるには申し分ないペースで逃げれていた。
所詮は呟きでしかない。そう判断した彼女は、冷静に走ろうとする。
「スローを貫くなら、私が逃げてしまいましょうか」
「あっ!」
そんな安心感を打ち砕くように、ダーティフィクサーが追撃を仕掛けた。
《まもなく800mを通過。ここでダーティフィクサーが前に出ます。ダーティフィクサーがトモエナゲを外から躱した。ダーティフィクサーが前に出る。3番手以下は2バ身のリードを保って静観、3番手はウィストクラフト、外に》
お前はスローペースで走っている。そう思わせるかのように、ダーティフィクサーが前に飛び出してきた。
逃げウマ娘であるトモエナゲよりも前に。ダーティフィクサーのペースに飲み込もうとしている。
(え、あ、ちょ。ど、どうしよう!? 逃げで走れるなんてデータはないはず、ならここは静観した方がっ)
生まれる混乱。データにないことをされて、焦りが生まれる。
焦りが生まれれば、迷いが生じる。
迷いが生じれば……自分のペースがくるっているのではないか? という猜疑心が生まれる。
もしここで冷静になれていれば、自分の体内時計を信じ切ることができれば。また違った結末になったのかもしれない。
「させないっての!」
「おっと、どうぞ」
だが、トモエナゲは信じることができなかった。結果、ダーティフィクサーにハナを渡すまいと前に出た。
無茶なペースアップ。ノーマルペースからハイペースへと引きずり込まれる。
当のダーティフィクサーはというと──トモエナゲが上がって来るや否や、さっさと後ろに下がった。
やるべきことはやった。後はトモエナゲを風除けにして走るだけ。
3コーナーのカーブを曲がり、トモエナゲよりやや内側をキープしながら走っている。
これも全てダーティフィクサーの策略の内。ノーマルペースで走ると分かるや否や、無理やりハイペースへと引きずり込んだ。
ハイペースにした理由はシンプル。トモエナゲがスタミナに不安が残るウマ娘だから。
(乱れたペースで走り、余分にスタミナを消耗している。ここで、さらに追撃をかけましょう)
「ふむ、後ろが少し追いついてきましたか。もう少し早く走らないと」
「ぐっ、こ、のぉ!」
後ろが来ていると囁く。少し冷静になれば嘘と見抜けるような情報を、さも本当かのように話す。
実際には3バ身から変わっていない。にもかかわらず、トモエナゲは後ろが差を詰めてきていると信じてしまった。
冷静さを失っているからだ。なにがなんでも逃げる形にシフトした彼女は、周りのことなど気にせず逃げようとする。
ダーティフィクサーはその後ろを走るだけ。差を広げつつ、自分のスタミナを残して、最後に躱すだけの脚を残せば勝ちだ。
上手くいっている。自らの知識をフルに使い、トモエナゲをじわじわと追い詰めている。
観客席で観戦していたアグネスタキオンは、レースを見守りつつもPCにデータを打ち込んでいた。
「ふぅン。今のところ上出来だね。全てにおいて最高の結果を叩き出している」
「ってことはつまり……フィーが超絶有利ってこと!?」
「そうなるね。現時点において、一番勝ちに近いウマ娘だ」
「うおおおぉぉぉ! 頑張れフィー! 負けるなフィー!」
アグネスタキオンの言葉に、ブリッジコンプ達は喜びの声を上げた。
ついに勝てるかもしれない。それほどまでに完璧なレース展開を描けている。
ブリッジコンプ達は何よりも嬉しかった。
「いける、いけるよフィクサーちゃん!」
「そのまま突っ走れー!」
応援の声を飛ばすブリッジコンプ達。
喜ぶべき場面だ。何もかもが上手くいっているのだから、喜んで当然だ。
だというのに、アグネスタキオンは状況を俯瞰している。喜びもせず、ただレースを見守っている。
彼女の視線は、後方へと注がれていた。
(7番がハイペースに勘づいたか。早めに上がりだしている)
トモエナゲが作り出した自滅ペース。先行勢はまだ俯瞰しているだけだが、ただ1人だけ上がっていくウマ娘の姿を観測する。
つられるように後方勢も上がり始め、先行勢との差がほぼなくなりつつあった。
(完璧に近いレースをした。事実、レースを支配していたと言っても過言ではないだろう)
最後の直線に入る先頭。トモエナゲはすでにガス欠寸前である。マイルのレースであるにも関わらず。
対するダーティフィクサーはピンピンしている。同じ位置で逃げていたが、風除けにしていた分、消費を抑えることができたからだ。
多少の影響はあるだろうが、3バ身の差をリードしつつ逃げることは可能。
《最後の直線に入ります。先頭はトモエナゲからダーティフィクサーに変わろうとしている。ダーティフィクサーが内から躱そうとしているが、これはちょっと厳しいか? 諦めて外から躱すダーティフィクサー。ダーティフィクサーが外から躱した先頭に立ちます》
しかし、ここで生まれる誤算。
内から強引に抜かそうとするが、トモエナゲはかたくなに内を開けようとしなかった。
ずるずると後退し、斜め後ろを走っていたダーティフィクサーに影響する。
やむを得ず、ダーティフィクサーは外から躱すことを選択。そのまま一気に先頭へと躍り出た。
(ここでその判断ミスは痛いね。最後の最後に、とんでもないポカをやらかしたものだ)
「あわわわっ、フィーが追い付かれてるよ! 負けんなフィー、頑張れフィー!」
「頑張ってー、フィーちゃーん!」
3バ身あった差が少しずつ縮まる。その度に負けるなと、ブリッジコンプ達は声を飛ばす。
《懸命に粘るダーティフィクサー、ダーティフィクサーが逃げる逃げる。ここで後方からグレイトハウスが追い込んできた、グレイトハウスが飛んできた。その差がグングン縮まっていく残り200m!》
ダーティフィクサーと先行勢の差は1バ身まで縮まった。後200m、逃げ切れば勝ちである。
ただ、後方集団でただ1人上がってきていた7番。グレイトハウスが一気に差を詰めてきた。
他のウマ娘よりも速い末脚で、ダーティフィクサーを捉えんと上がってくる。
追いつかれてしまう。そんな状況でもアグネスタキオンは、ただ冷静に見守るだけだった。
「最後の判断ミスが痛かったね。早めに内を捨てて外に切り替えるべきだった。後はハイペースにし過ぎたね。これも反省点だよ」
「ちょっと! まだフィーは」
「ん? あぁ、彼女が負けると思っていたのかい? そいつは失敬、謝罪するよ」
薄ら笑いを浮かべているアグネスタキオン。ブリッジコンプは憤るが、次の言葉で正気に戻される。
「問題はないよ。反省点は多々あるが、彼女もしっかりと成長している」
「は? ど、どういう」
「それよりもレースを見たまえ。歴史的瞬間を見逃すよ」
指を指され、そうだったと視線を向けるブリッジコンプ。
視界の先では──なんとかクビだけ残して、誰よりも早くゴールラインを割ったダーティフィクサーの姿が映った。
《ダーティフィクサー、ダーティフィクサーが勝ちました! ダーティフィクサーが勝利しました千両賞、今日の千両役者はダーティフィクサーだ。見事なレース運びで千両賞を制しました!》
「最後の判断ミスさえなければ、もう少し楽に勝てたものを。ま、彼女からすれば勝てるだけよかった、ってところかな?」
「や、やったっ。やったやった! フィーが勝ったー!」
「フィクサーちゃんおめでとぉぉぉ! やっと勝ったねぇぇぇ!」
「フィクサーやったぁぁぁ!」
膝をつき、荒い呼吸を繰り返しているダーティフィクサーへ。
称賛の声を浴びせるブリッジコンプ達。
そんな彼女らを一瞥もせずに、ノートPCへデータを打ち込んでいるアグネスタキオンだが。
(……おや?)
視界の端に面白いものを捉える。何とも珍しい人物がいると、興味が注がれた。
有頂天気分のブリッジコンプ。
そんな彼女に、水を差すように肩を叩くアグネスタキオン。
「ちょっと聞いてもいいかい? あそこにいる彼女らについて聞きたいんだが」
「なによ? フィーが勝ったんだから……あ、エースさんにシービーさんじゃん。やっぱ今日も来てたんだ」
「今日も? いつも来ているのかい?」
アグネスタキオンが見つけたのは、レースを観戦していたであろうカツラギエースとミスターシービーの2人。
仲良さそうに見守っており、満足そうに頷いている姿を発見した。
アグネスタキオンの疑問。何故2人がここにきているのか? 誰を見に来ていたのか?
「私達がいる時は大体見に来てるね。よっぽどレースが好きなのかな?」
「ふぅン……」
「ま、いいじゃないそんなこと! 今はフィーの勝ちを喜ばないと! やったやったー!」
答えは出ない。ただ、なんとなく面白そうだと思ったアグネスタキオンだった。
ダーティフィクサー。千両賞勝利。