北方諸国の一角、とある小国のさらに辺境。
街道はおろか、人が移動に使うような谷筋からも外れた深い森の中に、その場所はあった。
小さな丘をくり抜くようにして造られた基地。
そこで一人の魔族が暮らしている。
その名はレンファ。
もし誰かが彼女の生活ぶりを目にしたなら、のんびり屋、あるいは怠け者と評するに違いない。
魔族という種族の性質上、彼女には食事も睡眠も必須ではない。
それをいいことに、日がな一日だらけて過ごす。それが彼女の日課だった。
金色…というより黄色に近い髪は、ろくに手入れされていない。
基地の中には本や魔導具、用途不明のアイテムがそこかしこに転がっているが、それらは日の単位どころか、年単位で放置されていたものばかりだ。
もっとも、魔族である以上、魔法の探究に対する情熱がないわけではない。
その小さな体の奥底には、確かにそれが宿っている。
未知の術式に触れたときの高揚。理論が噛み合った瞬間の静かな喜び。そういったものを、レンファはちゃんと知っていた。
ただし、その情熱は……彼女自身の怠慢に、ほぼ毎日負け続けていた。
「今日はいいかな」
「明日でも、変わらないし」
そんな思考が、何度も何度も勝ってしまう。
なにしろ、長命な魔族にとって「締め切り」という概念は存在しない。明日やらなくても、来年がある。来年を逃しても、百年後がある。
急ぐ理由も、追い立てられる事情もない。誰かに評価される必要も、成果を示す義務もない。
その結果として、彼女が目標としている「平和に暮らすための魔法」は、一向に進展していなかった。
構想だけは、いくつもある。断片的な術式も、ノートの端に書き散らされている。だが、それらをまとめ上げ、完成させるところまで行かない。
「まぁ、困ってないし」
そう思ってしまうのが、いけなかった。
もっとも、塵も積もれば山となる、という言葉もある。レンファの歩みは遅いが、完全に止まっているわけではない。
数十年に一度、ふと思い出したように研究を再開し、また飽きて放り出す。それを、何度も繰り返してきた。
数百年も時間をかければ、簡単な魔法の一つや二つは、さすがに形になる。
そして現に、レンファはそうして完成した魔法を使い、すでに平和に暮らしている。
狩る必要がない。追われる心配もない。静かな場所を選び、好きなときに移動できる。ある意味では目的が達成されているのだ。
平和に暮らせている以上、それ以上を求める切迫感が生まれない。
危機感というものが、彼女には慢性的に不足していた。
「……うーん、お腹すいたなぁ」
呟きながら、レンファは寝転がったまま天井を見上げる。
魔族には、ほんのわずかながら食欲がある。
人の気配も刺激もない辺境では、それはレンファ自身の怠慢の中に埋もれて意識されることは少ない。
しかし、数十年という時間は、さすがのレンファにとっても空腹を感じるには十分すぎる年月だった。
レンファが手にしていた小ぶりの杖を、軽く振る。
すると、杖の根元に埋め込まれていた小さな宝石が淡く輝いた。
それは眩しい光ではなく、長い時間を経て磨耗したような、控えめで安定した光だった。
ただ一瞬、空気が張り詰めたかと思うと、彼女の体を覆っていた簡素な服装は跡形もなく消え去った。
次の瞬間、レンファの身には旅装が整っていた。
頭には黒い魔女帽子が収まっている。つばはやや広く、装飾はほとんどない。実用性を重視した形で、縁には長年使われてきたような擦れが見られた。
肩から羽織るマントは軽量で、森での移動を想定した作りで丈は長い。
腰回りには動きを妨げないスカート、そして目と同じ赤いリボンが胸に輝いていた。
「……よし」
短くそう呟き、レンファはようやく腰を上げる。長い年月ほとんど動かなかった基地を離れ、外へ出る準備が、これで整った。
「折角起き上がったことだし……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「食事だけじゃなくて、街まで行って、いくつか仕入れてこないと」
怠け者ではあるが、必要なことは嫌々でもやる。やらないと、もっと面倒なことになるからだ。一度で全てを終わらせたいというのもまた、面倒くさがりにとっての夢の一つでもあった。
レンファは、うっそうとした森の中を歩き出す。
道はない。けれど、記憶はあった。
最寄りの集落へ向かう方角。 木々の並び、地面の傾き、風の流れ。すべてが、かつて通った道の名残を教えてくれる。……気がしていた。
「移動できるような魔法が欲しいな」
思わず、独り言が漏れる。
「……数十年前にも、同じこと考えてた気がする」
言ってから、少しだけ口元を緩めた。技術的にも思考としても進歩がないような気がしてくる。もっとも、それは気のせいではなく事実だったのだが、レンファにとって数十年というのはそれが許されるくらいの短期間であった。
その間、ほとんど修行もしていない。鍛錬も、積極的には行っていない。
結果として、レンファの魔力は大して増えていなかった。
もっとも、飛行魔法など大半の魔族が当たり前の技能として使えるので、レンファも少し意識すれば使えるはずだ。
それでも、限界は分かっている。例え使えたとして、下手くそが連続して飛行魔法を使えば、すぐに魔力は枯渇する。計算するまでもなく、目に見えていた。
「……まぁ、いいか」
そう思ってしまうところに、レンファの根本があった。魔力を増やすための努力に、力を割かない。必要になれば、そのとき考えればいい。
時々、足を止める。森を眺めたり、空を見上げたりしながら、ゆっくり進む。
急ぐ理由はない。追われてもいない。
しばらく歩くと、古ぼけた街道に出た。石畳は割れ、ところどころ土に飲み込まれている。
ここ数十年......いや、もしかすると数百年、整備はされていないのかもしれない。
それでも。
「……ああ」
レンファは、足を止めることなく進む。
「この道、通ったな」
はっきりと思い出せるわけじゃない。でも、確かに、ここを歩いたことがある。
統一帝国の時代。争いが少なく、人の行き来が絶えなかった頃から何度も使ってきた道だ。
「平和だったのになぁ」
懐かしむようでもなく、残念がるでもなく、ただ事実としてそう呟く。
あの時代はこのような遠出をしなくても、街の近くで待ち構えていれば簡単に食事ができた。皆平和が故に、大した護衛もなしに街から街へと移動していたのだ。
平和を愛するレンファにとって、今のような世界は好ましくない。村や街にわざわざ出向かなければ食事ができないという点において。
街道を進むにつれて、レンファの中に小さな違和感が積み重なっていく。
前に来た時は、ここまで人の流れが少なくはなかった。ここは北方との主要交易路だったはずだ。冒険者や商人が多少なりとも通るのが常だった。
だけど、今は何かが違う。人影がない。足音も、車輪の軋む音も、遠くの声すら聞こえない。
そして、それが決定的になったのは、以前訪れた集落に差し掛かった時だった。
小さな村だ。家屋はある。屋根も、壁も、辛うじて形は保っている。
けれど、村として機能している様子がない。
畑だったであろう場所は荒れ、道は踏み固められていない。扉は閉じられたまま、あるいは半ば壊れ、放置されている。
炊煙がない。声もない。動くものが、何一つ見えない。レンファは、無意識に歩調を緩めた。
「誰も……いない?」
嫌な予感、というほどでもない。ただ、面倒な事態の匂いがする。
魔族としては珍しく、レンファは争いを好まない。面倒ごとに巻き込まれるのは御免だった。
つい数十年前にも、とある組織で少しやらかして追い出されたばかりだ。また鬱陶しい連中に絡まれるのは、さすがに勘弁してほしい。
とはいえ、血の匂いはしない。 争った痕跡も、焼け落ちた形跡もない。
ところどころに骨が散乱しているが、それすらも朽ちていた。白く乾き、風に晒され、長い時間が経っていることを物語っている。
何者かに襲われたにしても、最近の出来事ではなさそうだ。
「……ふぅ」
そうなると、ここで立ち止まっていても意味はない。
いずれにしても、いくつか材料を調達するため、街へ向かう予定だった。
最も近い街、確か昔のままだと、グラナト領。
そこまで行けば、用事はまとめて済むだろう。
確かあそこには結界もある。 上手くその内側に紛れ込んでしまえば、魔族だと疑われることもない。
もしくは、途中にまだ機能している村があれば、そこで食事だけ済ませてしまってもいい。
レンファは、村から視線を外し、街道の先を見た。
静けさの理由を探るのは、面倒だし暇になったらやろう。今は、空腹の方が、少しだけ優先だ。
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