天脈竜。
その竜は天空高くを飛び、魔力探知すら届かない場所にいる。雲より上、鳥より上、ほとんど空そのものになって漂う存在だ。
その背中には、地上とはまるで違う植生が広がっているとされている。外界から隔絶された生態系は、竜の背中という島の上で独自に進化し、多様な生物を含んでいる。
天脈竜は死以外で地上に降りることがない。何百年も、何千年も。膨大な生命力と、膨大な魔力を抱えたまま飛び続ける。
そんな生活は、地上から打ち込まれたたった一発の魔法で打ち砕かれた。
怠けさせる魔法。
それは光でも雷でもない。炸裂音も、派手な軌跡もない。ただ、届く。届いてしまう。
ここ最近のレンファは、毎日上に向かって魔法を撃つ練習をしていると言ってもよい。だからこそ、この距離の天脈竜をレンファの魔法は容易く貫いた。
強大な魔力と圧倒的な体躯を持ちながら、天脈竜の意思は強固ではない。それは支配者の意思ではなく、漂うものの意思だった。空と同じで、流れに任せて生きる意思だ。
怠惰は、そういうものに滲み込むのが早い。
魔法は竜の鱗を砕かない。血を流させないし、痛みも与えない。
代わりに、体の隅々に堕落を染み込ませる。
飛ぶ理由が、消える。踏ん張る必要が、消える。抗う価値が、消える。あっという間に体の隅々まで堕落させられた天脈竜は、即座に落下を始める。
翼が動かないわけではない。動かそうという意志が、もう湧かない。風を掴む努力が、ただ面倒になる。
巨大な影が、空の上で傾いた。最初はゆっくりだ。落下というより、眠りに沈むみたいな速度。
次に、重力が勝つ。空気が鳴き、雲が裂ける。背中の植生が、風圧で一斉に倒れる。小さな生き物たちが舞い上がり、逃げ場のない空で散っていく。
蒼空から地上まで、世界が逆向きに流れる。
巨大な生命が、文字通り、天空から墜ちる瞬間だった。
天脈竜が落下を開始する直前。怠けさせる魔法が天に向かって幾筋も放たれた、その瞬間。
黄金郷の近くにあって、ただ一人。異変の開始を、その身で理解していた存在がいた。
ソリテール。
嘗て魔王に仕えていたとも言われるが、人間の記録には残っていない。無名の大魔族。
その無名さは、ただ運が良かったという意味ではない。会った人間を全て抹殺してきた……それだけのことだ。
ソリテールは黄金郷の縁で、静かに結界を調べていた。多数の結界術が編み込まれた複雑な結界。それを解除して黄金郷を解き放とうとしたのだ。
だけど、それを中断せざるを得ない。
人間や感情についての研究を続けてきた魔族にとって、目の前で起こった現象は、理解にすら届かなかった。
空に向かって魔力が飛んだ。ただし、それは強大な魔力の奔流ではない。規模だけで言えば、比較的小さく、永く生きてきた魔族の感覚からすれば、拍子抜けするほどの量だ。
なのに。
そこには、膨大な意志の力が詰め込まれていた。膨大すぎて、狂気に近い。
それも、誰かを励ます意志ではない。守る意志でも、殺す意志でもない。
何かを堕落させるための意志。堕落させることを、目的そのものにしてしまったような、強烈すぎる意志。
その異常さに気づけたのは、ソリテールが魔力の放出を極めていたからだ。
膨大な魔力を扱う者は、魔力を見落とす。だが放出を極めた者は、魔力に込められたものを見落とさない。
ソリテールは、息を止めた。
……そんなはずがない
感じ取れたそれを、直ぐには信じられなかった。
それは……嘗て魔族に大乱をもたらした忌むべき魔法。かの堕落が使ったと言われる魔法に酷似していた。
「……うそ」
声が漏れた。驚く暇も、疑う暇もない。
次の瞬間。黄金郷のほぼ真上に停止していた天脈竜が自由落下を始めた。
巨大な影が、世界を押し潰すように傾き、落ちてくる。
結界を調べていたソリテールが、それに立ち向かわず距離を取ったのは正解だった。力で受け止められる質量ではない。魔法で逸らせる単純さでもない。そして何より、唐突過ぎて今は原因が見えていない。
「誰が……こんな」
いや、とソリテールはとどまった。この魔法は技術ではなく使用者の意志が全てだ。そうである以上、それを使用したのはかの堕落本人以外ありえない。
言いかけて、ソリテールは口を噤んだ。
否。
「誰が」など、考えるまでもない。
この魔法は技術ではない。理論でも、式でも、型でもない。使用者の意志が、すべてを決める。
そうである以上……それを使えるのは、かの堕落本人以外、ありえない。
逃げながら、ソリテールは考える。黄金の街並みが背後で沈黙し、空から落ちてくるものが世界の音を奪っていく。
なぜ、こんな場所で。なぜ、今なのか。
黄金郷に関わっていた?
あるいは、魔王からの指示?
それとも、結界の防御システム、侵入者を排除する機構が働いた?
考える。 考える。 考える。
けれど、その全てが、次の瞬間に塗りつぶされた。
悪魔がやってきた。
ソリテールと対照的に黄金郷のマハトは立ち向かった。
それは黄金郷の支配者としてではなく、守護者としてだったのかもしれない。自分の領域に向かって落ちてくる災厄に、反射的に対応しただけだ。
天から降ってくる巨大な質量など、ただの破壊でしかない。
だから彼は、迎え撃った。
だが。
それは、悪手だった。
レンファもうっかり忘れていたことだが、怠けさせる魔法には感染力がある。
魔法によって乗っ取られた生物は、周囲にそれを巻き散らかす。怠惰という性質が、周囲へと伝播することになる。
そして何より天脈竜は膨大だった。膨大な生命力。膨大な魔力。その巨体そのものが、巨大な魔力炉みたいなものだ。
怠惰に侵された天脈竜は、抗うことをやめた。飛ぶことも、踏ん張ることも、意味を見失った。そしてその膨大な魔力の使い道が、ひとつに固定される。
周囲へ、レンファの持っていた怠惰をばら撒くこと。
天脈竜の全リソースが、堕落の拡散へと向けられた。
効果は落下とともに急速に大きくなる。高度が下がるほど密度が増し、距離が縮むほど濃度が上がる。
感染が、拡散が、加速する。
黄金郷を覆っていた結界が、まず歪んだ。次に、軋んだ。最後には機能を停止する。
魔法という構造は、意志が支える。だが怠惰は、その意志を腐らせる。魔法を維持するための踏ん張りを、根元から奪う。
結界は崩壊した。黄金の停止は揺らぎ、固定された魔法は浸食されて解除されていく。街を覆う永遠が、砂みたいに崩れていく。
それでもマハトは止めようとした。
止められると思った。止めるべきだと判断した。
北部高原全体を黄金に変換できるほどの力を持つマハトにとって、それは決しておかしな判断ではない。
けれど、その判断そのものが、怠惰に噛み砕かれる。
マハトの眼前に、天脈竜が迫る。巨体が空を塞ぐ。そのときには、もう遅かった。
動けない。
腕も、魔力も、意志も。立ち向かうために必要な一切が、根こそぎ奪われていた。怒りも焦りもあるのに、体がついてこない。踏み出そうとしても、理由が立ち上がらない。
面倒だという感覚だけが、全身を支配する。
そして黄金郷の主の目の前に、怠惰に堕ちた天脈竜が、落ちてきた。
あと、ちょっとで終わる……かな
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