「あー、もしかして……やっちゃったかな」
レンファは、空を見上げたまま呟いた。
自分の声が、妙に遠い。他人事みたいに聞こえる。
怠けさせる魔法を打ち上げて、天脈竜に当てる。
そこまでは良かった。数回撃っただけで、無事に命中した。天脈竜は翼を止め、落下を始めた。
……計画通り。
少なくとも、そこまでは。
不幸なのは、その場所だった。
なんと、天脈竜は黄金郷の真上にいた。よりにもよって。
時間の止まった街の、ほぼ中央。落下の軌道が、完璧に合ってしまった。
天脈竜の巨体は、街を優に超える。家々などは小石みたいなものだ。このままでは、せっかくの街が一瞬で押し潰されてしまう。
レンファの計画では、この街の住民を取り込むつもりだった。解除して、魔力を抜き取って、結界に組み込むつもりだった。
破壊ではなく、流用。暴力ではなく、効率。
それがレンファの信条なのに。
「……あー……」
もう遅い。今さら軌道を変える手段はない。レンファにそんな魔法は撃てない。
でも……それ以上に。
レンファにとって、もっと致命的な問題が侵攻していた。
怠けさせる魔法は、怠惰を拡散させる魔法だ。
魔力を使って、怠惰という性質を広げる。ひたすら、広げる。
結界のために欲しかった魔力を、天脈竜は怠惰の撒き散らしに使っていた。
莫大な魔力を持つ天脈竜。そのリソースが丸ごと、怠惰の増幅器になっている。
影響は、悲惨の一言に尽きた。
空気が、鈍る。風が、重くなる。視界が濁るように、世界の輪郭がぼやける。
黄金郷の結界が、まず剥がれた。マハトの魔法が、次に崩れた。
怠惰は魔法を殴って壊すのではない。維持する意志を奪い、自然にやめさせる。
そして、それで終わらない。
遠景に見える帝国の結界、あれほど遠いはずの防壁にまで、怠惰が届いた。
ものの一瞬だった。感染が波になり、地平線を舐めるように広がっていく。
帝国の国境結界は、抵抗する間もなく浸食され、破壊された。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
「……あれ?」
レンファは目を瞬いた。状況の意味が、うまく理解できない。
いや、理解はできる。理解はできるのに、責任が湧かない。怖さも、焦りも、怒りも、遠い。
計画の何もかもが台無しだった。
黄金郷を取り込めない。魔力も抜けない。帝国へ向けて撃つはずだった怠惰は、もう勝手に広がっている。しかも、規模が大きすぎる。
ここまで広まれば、止まらない。解放されたレンファの意志が尽きるまで、あらゆる人を怠惰に落とすだろう。
そしてレンファは
「……もう、どうでもいいや」
と呟く。声は驚くほど静かだった。
嘆きでもなく、怒りでもなく、諦めですらない。ただ、そこに落ちた言葉だった。
少なくとも、あと少しだと思ってはしゃいだのが間違いだった。
平和になる魔法。
それを維持する人間と、起動のための魔力。
全部揃った気がした。世界がようやく怠けてもいい形に落ち着く気がした。
でも現実は違う。そのうち餓死する人間が出て、ここら一帯は全滅する。起動に必要な魔力は不足する。
もちろん、長期的には、なんとでもなる。どうせ世界は適応する。人間も魔族も、最後には形を変えて生き延びる。
だけど。
最近存在に逆らってまで勤勉に働いていたレンファは、もう待てなかった。怠惰を吐き出して、勤勉のふりをして、必死に食らいついてきた。ここまで来たら報われるはずだと、勝手に信じた。
それが、いちばん浅はかだった。
レンファは仰向けに寝転がり、目を閉じた。空があるのは分かる。影が広がっていくのも分かる。でも、もう見たくなかった。
「……1000年くらい寝ても、いいよね」
誰も答えない。答えがなくても、もういい。
落下の轟音が近づいてくる。黄金郷が崩れていく。世界が軋み、魔法が剥がれ、時間が砕けていった。
黄金郷、デンケンにとって、そこは故郷というべき場所だった。
この地がマハトによって黄金に変えられてから、数十年。彼は故郷を取り戻そうとしてきた……のかもしれない。
宮廷魔法使いとなり、権力を手に入れ、厳しい試練を乗り越えて一級魔法使いという称号を手にした。そうしてようやく、黄金郷へ戻ってきた。
だが、そのデンケンが見たものは。
故郷の空に落ちる、巨大な竜だった。
天脈竜。空そのものが歪み、巨大な質量が落下を始める。
黄金郷の上空に、それが落ちてくる。
「……ヴァイゼの街が……」
喉から漏れた声は、驚きではなかった。
あの巨体が落ちれば、黄金の街は押し潰される。黄金郷がどうこうという話ではない。瓦礫になるとか、死体が出るとか、そういう次元ではない。
動けないまま、空気が裂けた。
爆風。衝撃。
そして、皮膚の内側にまで入り込んでくる、不快な感触。呪い。
デンケンの魔力が、反射的に動いた。
「――呪い返しの魔法」
特権で得た魔法と長きにわたる経験。それが呪いから辛うじてデンケンの身を守った。
守れた。
一瞬だけ。
直後、世界が妙に静かになった。
音が消えたわけではない。むしろ轟音は近づいている。
だがデンケンの内側で、力が抜けていく。
抗う理由が抜け落ちる。踏ん張る意味が抜け落ちる。次の一歩が、ひどく面倒になる。
考えを巡らせる。ただ、世界が怠惰へ傾いていく。
「……こんな……」
デンケンの膝が、わずかに緩んだ。老いた身体が、疲労に負けるように。
だが本当は逆だ。
身体ではなく、心が負けている。
積み上げた覚悟が、面倒だという一言に塗り潰されていく。今、目の前のそれは、努力と時間を嘲笑うように落ちてくる。
デンケンは杖を握り直そうとした。指が、動かない。
魔力を練ろうとした。意志が、繋がらない。
立ち向かうべきだと分かっている。だがそれが、ひどく面倒だった。
そして彼は、立ち尽くしてから、膝を折った。
区切りが短いからここまでで、明日には終わると思います。
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