それは天空で起こった異常だった。
大空を悠然と飛ぶ巨大な島のような存在、それが突如としてバランスを崩したかのように落下を始めた。飛行魔法の限界も魔力検知の限界をも越える、そんな高高度からの落下だ。
目を向けていなければ気づくことは不可能。
けれど、近づいてくれば必然的に大きく見える。
天脈竜が落ちる。
その気配だけで、空気の密度が変わった。
風が重くなるより先に、フリーレンは跳んだ。それは経験に裏打ちされた判断だった。
「上っ」
呟いた声は小さく、けれど即座に身体が動く。地面を蹴り、軽く宙へ浮き、落下地点の角度を測る。
威力は足りるかもしれない。だけど、距離の問題がある。
出来たとして、打ち込めるのは一瞬だ。間に合うか。そもそも止められるか。
そんな計算の途中でそれが来た。
目に見える光でも、爆発でもない。ただ、肌の内側に冷たい指が入り込んでくる感覚。魔力が鈍って、意思がほどける。
呪い。
「……っ」
フリーレンの視界が一瞬揺れた。身体の中心が抜ける。踏ん張る理由だけが、すり抜けていく。
それは嘗て、かの地で影を落とした呪い。人々を行動不能に落とす呪いと同質で、それ以上に直接的で強烈なものだった。
あんな不可思議な魔法を使う存在が歴史に何度もいていいはずがない。
あれは角を持たず、魔力も少ない。だけど、魔法の緻密さに魔力は必ずしも関係ないし、永く生きたのならその分魔力を隠すのがおかしくても不思議ではない。
そして、フリーレンにはやはり魔族のやることは分からないし、分かり合えるとも思わなかった。
次の瞬間、フリーレンの体は制御を失った。空中でふわりと浮いたまま、重力に従って落ちる。
落下先は馬車だった。
「フリーレン様!!」
辛うじて口を開いたフェルンの叫びが遅れて追いかけてくる。フリーレンは言葉を返す余裕がなく、ただ落ちる。
馬車の幌が、ぼすり、と情けない音を立てて沈んだ。帆布がたわみ、骨組みがきしみ、荷台が跳ねる。
そして、遅れて襲い掛かってきた爆風と衝撃が、全員に波及した。
「うわっ!?」
シュタルクが足を取られ、フェルンも肩を掴まれて引っ張られる。
地面が揺れたように錯覚するが、実際に揺れていた。
そして、呪いの波。
「くっ」
フェルンが即座に杖を構えながら魔法を撃とうとした。だが呪いは容赦がない。魔法を撃つ気力より先に、立つ気力を削いでいく。
「……っ、分かってる!」
シュタルクが辛うじてフェルンの腕を掴み、身を低くする。二人は衝撃でまとめて弾き飛ばされた。砂煙が舞い、視界が白くなる。
その一方で、フリーレンは馬車ごと吹き飛ばされていた。
馬車が宙を舞う。車輪が空回りし、幌が裂けかける。荷台の魔道具が跳ね、箱がぶつかり合って鈍い音を立てる。
フリーレンは幌の中で体勢を整えようとしたが……意志がほどけて、思うように動かない。
まずいな
そう思うだけで、疲れる。その疲れが、さらに意志を削る。
そのとき。馬車の荷台の隅で、小さな石が光った。
封魔鉱。
ほんの手のひらにも満たない結晶。レンファが集めていた素材の一つ。普段なら荷物の中に埋もれていたもの。
けれど今、それが強く輝いていた。
呪いの波が幌を通り抜けて、そこで止まった。まるで透明な膜にぶつかったように、波紋を残して流れが逸れる。
それに応じて、封魔鉱の光が増していく。
「……そうか、封魔鉱が」
フリーレンは息を吐いた。
本来、打ち出した魔力そのものが引き起こす現象は、封魔鉱では止められない。だが、レンファの魔法は違う。魔力が相手の内側に入り込んでから作動する方式だった。
呼吸ができる。思考が繋がる。体の中心に、ようやく力が戻る。
もっとも、この小ささでは限界がある。
封魔鉱が作る安全な範囲は、フリーレン一人を守るのでギリギリだった。
薄い膜のような領域ができているだけで、少しでも離れれば呪いはすぐに喉元まで入り込んでくる。
フリーレンは幌の隙間から外を見た。
フェルンとシュタルクが倒れている。
二人ともまだ意識はあるが、身体が言うことを聞いていない。やる気がない、立つ理由を奪われている。
以前の経験からして、解除は出来ないかもしれない。たった一つ、元凶を消すこと以外では。
フリーレンは短く息を吐き、飛び出していた小さな短剣を拾って馬車から降りた。
酷い状態だった。
生き物が昏倒している。
呪いに耐えられない動物は、その場で眠るように倒れていた。
鳥は飛ぶのをやめたのか……いや、やめさせられたのか。落下して潰れているものも多い。羽根が散り、骨が折れて、空を飛ぶはずだった軽さが地面に貼りついている。
ただ歩くだけで、胸の奥が嫌なものを吸い込む。呪いが大気に溶けている。水に色がつくみたいに、世界が怠惰に染まっていく。
フリーレンは崩れた地面の向こうに、影を見つけた。
見覚えのない…魔族だった。少女のようで、額には二本の角が生えている。
やはり逃げ出そうとしたのか、その場で崩れるように倒れ込んでいる。そして、うつろな目をしていた。
意志が抜け落ちた表情。死んでいるわけじゃない。
生きているのに、何もしていない。
そこから、強烈な呪いが放たれている。魔族の外に漏れた魔力からは、怠惰を含んだ波になって封魔鉱の領域にぶつかる。
本人が意図しているかどうかすら怪しい。ただ存在しているだけで、周囲が腐る。
フリーレンは杖を構えた。
だが封魔鉱の影響域からでないと魔法がまとまらない。
「あ…」
辛うじて発した魔族に向かって、フリーレンは腰に差していた短剣を抜いた。
慣れない手つきだった。本来なら使う必要がない。
でも今は、魔法より確実だ。
一歩、踏み込む。フリーレンは短剣を振るった。
一度。
二度。
三度。
刃が肉を裂く感触は、薄かった。
魔族の身体がわずかに痙攣し、それでも倒れたままだった。抵抗しようとするも、辛うじて口を開くのが精々だった。うつろな目だけが、空を見ている。
「だ……」
無名の大魔族は言葉すら発せず、エルフに屠られる。フリーレンは息を吐いた。
……違う
やはり、この魔族が原因ではない。
フリーレンは元凶がいるであろう、中心点に向けて歩を進める。
ただ存在しているだけで、世界の行動を奪っていく。
フリーレンは短剣を握り直した。封魔鉱の光がさらに強まり、指先が冷えている。 呪いの濃度が、さらに上がっていた。
爆心地に近づくと、黄金郷はもはや存在していないのと等しかった。壊れたという言葉すら生ぬるい。 世界が、維持されることを放棄したような崩れ方だった。
その手前に、見覚えのある姿があった。
「……レンファ?」
レンファが、盛大に寝ていた。
仰向けに転がり、両手を放り投げ、口は半開き。逃げたわけでもない。戦っているわけでもない。
ただ、そこで寝ている。 こんな場所で。こんな状況で。
まるで、世界が壊れるのを子守唄にしているみたいに。昏睡でも無く、ただ気持ちよさそうに寝ている。
世界を破壊しようとしている存在とは思えない、酷い有様だった。
理解が追いつかない。だが、フリーレンは躊躇しなかった。
短剣を逆手に持ち、レンファの顔に影が落ちる位置に踏み込む。
そして初撃。狙ったのは目だった。
刃は鋭く。眠りを切り裂くには、それで十分だった。
「……っ!?」
レンファの体が跳ねた。だが次の瞬間、レンファは寝ぼけたまま反射で動いた。
「えっ、何?寝すぎた?」
理解も状況把握もないまま、腕だけが上がる。
「怠けさせる魔法!」
空へ。地面へ。フリーレンへ。とにかく、ありったけをばら撒く。
幾筋もの怠惰が放たれ、世界の輪郭がさらに鈍る。空気が、思考を押し潰す。
封魔鉱にひびが入り、立っていることが面倒になる。息を吸うことが面倒になる。
でもフリーレンは、恐れなかった。
フリーレンは踏み込む。呪いの波に逆らうのではなく、無視して突っ込む。
レンファは周りが見えずに混乱していた。そこを見計らって フリーレンが距離を詰める。
フリーレンの短剣が、レンファの首元へ突き立てられた。刃先が皮膚に触れる。冷たくて、細くて、確かな現実だった。
「ちょ、ちょっと待っ……え、なんで……?」
レンファの声が震えた。寝起きの頭で、状況が理解できない。理解できないまま、喉元に刃がある。
フリーレンは何も言わなかった。言葉を挟めば、余計な隙が生まれる。
ここで必要なのは説得じゃない。沈黙のまま終わらせることだ。
「……やめて」
レンファは掠れた声で言った。
その言葉に強さはない。脅しも、駆け引きもない。ただ、生存本能が反射で形になっただけだった。
寝起きでなければ、もしかしたら無茶苦茶に動いて距離を取ろうとしたかもしれない。もしくは、習ったばかりの魔法を撃って時間を稼いだのかもしれない。
だけど、選んだのは怠けさせる魔法で世界を鈍らせることだった。いつものように相手の足を奪い、そのまま逃げる。本来なら、それがレンファの戦い方だ。
でも今のレンファは、半分眠っていた。怠惰の反動で意志が薄く、呼吸することすら面倒なままだった。
フリーレンの手首が、わずかに動いた。
短剣が突き立てられる。
レンファの視界が白く弾けた。痛みというより、世界の接続が切れる感覚だった。血が出る温度すら、どこか遠い。
「……あ」
声にならない息が漏れる。身体が強張り、すぐに抜け落ちる。
レンファはその時点で抵抗を諦めていた。勝てないと分かったからではない。 生きたいと思う力が、足りなかった。
自分の人生に対する執着も、気合も、足りなかった。
フリーレンは刃を抜いた。
手を汚したという感覚もなく、ただ次の動作に移る。ためらいのない手つきだった。
レンファの体がゆっくりと傾く。倒れる、というより、崩れる。
そしてレンファは。永く生きた魔族は、あっさりと魔力の粒子となって消えた。
黒くよどんだ魔力の粒子は、べちゃりと地面にへばりつき、ゆっくりと蒸発していった。
皮膚が砕けるのではない。肉体が崩れるのでもない。最初からそこにいたことが、希薄になっていく。
微細な魔力が、風にほどける。それは死体すら残さない、魔族の最期だった。
そして、同時にその意志も蒸発したのだった。
よろしければ感想、評価よろしくお願いいたします。
お読みいただき、本当にありがとうございました。
ここまでお付き合いいただけたこと、最後まで見届けていただけたことが、書き手として何より嬉しいです。
また、「フリーレンにコロコロされる魔族オリ主杯 」という素晴らしい企画を立ち上げ、場を作ってくださった 丹羽にわか さん(https://syosetu.org/user/205410/)にも、心より感謝申し上げます。参加させていただき、楽しく、そしてとても刺激を受けました。
本作はフリーレン視点で見たときに、何がしたいのか最後までさっぱり分からない魔族を描き、最終的にはそれを物理で倒させる…という意味不明なコンセプトで書いていました。一体自分が何を書きたかったか、書ききれたのかも分かりませんが、少なくとも書いている側としては楽しませてもらえました。
フリーレンが「意味わからんな」としばらく悩んでくれることを期待しています。
改めて、最後までお読みいただきありがとうございました。