勇者ヒンメルの死から28年後。
北方諸国のとある国、いや、かつて国だった場所に、フリーレン一行は足を踏み入れていた。国境線はとっくに意味を失い、地図にもその名は残っていない。
それでも、辛うじて村が点在している。今や商人も碌に通らないこの土地だけど、 山を大きく迂回せずに済むこの地は、旅のショートカットとしては都合が良かった。
「ここか」
フリーレンは、何もない荒野を見渡しながら呟いた。風が吹き、乾いた土が音もなく流れていく。
「……何も残っていませんね」
フェルンがそう言うと、フリーレンは小さく頷いた。
「うん。でも、ここには国があった」
フェルンとシュタルクは何も言わず、続きを待った。
フリーレンは少し考えるように間を置いてから、話し始める。
「魔王討伐の旅の途中で、立ち寄った国だよ。その時点で、もう変だった」
「変、ですか?」
「とある村で人が働かなくなってた。畑は放置されて、店も開かない。話しかけても、返事はするけど……どこか遠い」
眠っているわけでも、病気でもない。ただ、何もする気が起きない。そういう異常性だった。
「最初は、少数だった。だから見逃されてた。でもね」
フリーレンは、足元の土を軽く踏みしめる。
「後で分かったんだけど、世話をする人に、うつるんだ。看病した人とか、家族とか。まるで感染症みたいに」
「……魔法、なんですか」
フェルンの問いに、フリーレンは頷いた。
「あれは間違いなく魔族の魔法だった。呪いといってもいい。でも、痕跡が薄すぎた」
痕跡を探そうにも、途中で霧みたいに消える。残り香と呼ぶにも心許ないほどの痕だけ。
「だから、何も掴めなかった。ヒンメルたちとの旅で、唯一何もできずに進まざるを得なかった。魔王城にいるかもしれない元凶を仕留めにね。」
それに、その時はそこまで深刻だとも思ってなかった。七崩賢からの直接の被害のほうがはるかに多かったからね。と続ける。
「それって……」
シュタルクが言いかけて、言葉を飲み込む。
「うん。どうしようもなかった。女神様の魔法でもほとんど効果はなかった。ハイターによれば、呪いというより祝福に近いといっていたかな。何かの願いを具現化したような魔法だってね……普通、魔法というのは意志やイメージと魔力が合わさって放出することで完成する。あの魔法はその経路を逆に辿って外部の強力な意志で本人の自我を破壊するんだと思う」
フリーレンは淡々と続ける。
「嫌な魔法だった。殺さないし、直接的には操らない。ただ……意志を削る」
「意志を……」
「生きようとする力そのものを、少しずつ」
その言葉に、フェルンは目を伏せた。
「後で、魔王城で情報を得た。魔王ですら危険だって判断して、追放した魔族がいたらしい」
「魔王が……?」
シュタルクが思わず声を上げる。
「その魔族の魔法で、魔王軍が半壊しかけたって」
二人は言葉を失った。
「帰り道に、もう一度ここを通った」
フリーレンは、視線を遠くに向ける。
「国は、なくなってた。建物は残ってたよ。畑も、井戸も、城壁も」
人だけが、いなかった。
「正確には……いたけどね」
倒れたまま、動かなくなって。
「逃げなかった。助けも求めなかった。食べることすら、しなかった」
「……」
フェルンは何も言えず、唇を噛んだ。
「無気力のまま、餓死した」
フリーレンは、事実だけを告げるように言った。
「……そんな魔法、聞いたことありません」
フェルンの声は小さい。
「うん。たぶん、その魔族が開発した魔法だと思う」
フリーレンは、遠くを見たまま続ける。
「でも、目的が分からない。なんのために、そんなことをしたのか」
少し考えるように、言葉を選ぶ。
「魔族は普通、自分のやったことを誇示する。強さとか、恐怖とか。名前を残したがる」
「……そうなんですか」
「うん。だから、名前すら残ってないのは変」
国を一つ滅ぼしかけ、魔王軍すら半壊させかけた魔法。それほどのことをしておいて、語られる名が、どこにもない。
無名の大魔は確かに存在する。でも、それでは説明できない。他の国を襲わなかったことの説明がつかない。
「そのあと、似たような事件も起きてない」
フリーレンは静かに言う。
「同じ魔法を使った痕跡も、模倣もない。誰かが受け継いだ形跡もない」
フリーレンは、遠くを見たまま続けた。
「何度かね、別の魔族と対峙したときに、その魔族のことを聞いたことがある」
フェルンは小さく息を呑み、続きを促すように黙って頷く。
「断片的な話ばかりだった。でも、それを総合すると……その魔族は、ほとんど表に出てこなかったらしい」
「戦場に出なかった、ということですか?」
「うん。本拠地か、隠れ家か……とにかく、そこから動かない。魔王とも、定期的な連絡以上の関わりは持たなかったみたい」
「……魔族らしくない気がするな」
シュタルクの声には、納得できない響きが混じっていた。
「そう」
フリーレンは短く肯定した。
「しかもね、魔王と旧知の仲だった、って話もある」
その言葉に、二人の表情が強張る。
それがどれほど異常なことか、フェルンには分かった。生きた長さが格に直結するのが魔族の世界だ。それが本当であれば、魔王のような存在が人知れず眠っているということだ。
「もし、それが本当なら……」
フリーレンは、そこで一度言葉を切った。
「かなり厄介だ」
魔力は、基本的に長い時間をかけて増えていく。鍛錬、研究、実戦。魔法を追求する魔族ほど、その傾向は顕著だ。
「魔力は鍛錬によって増え続ける。だから魔族なら生きた時間にほぼ比例する」
フリーレンの声は淡々としている。
「魔王と旧知の仲なら、それなりに長く生きてるはず。それだけで、相当な魔力を持っていることになる」
「……でも」
フェルンが、慎重に言葉を挟む。
「その魔力、感じ取られなかったんですよね?」
「うん。一度も」
それは、おかしな話だった。それほどの大魔族であればそれなりの距離からでも探知が可能なはずだ。
「ほとんどの魔族にとって魔力は隠さないものなんですよね。隠すにしても一時的だと」
フェルンは、自分の知識を確認するように言う。
「フリーレン様だって完全に消すことはできない。元の魔力が膨大であれば、それでも多少は分かりそうですけど」
「普通はね」
フリーレンは、そこで視線を落とした。
「でも、隠す技術を身につけた魔族がいる」
「……!」
シュタルクが、思わず拳を握る。
「それって……」
「見つからない。探知されない。気づいたときには、もう終わってる」
フリーレンは、事実だけを並べる。
「そういう魔族が、もし生きているなら」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、荒野を渡っていく。
「……厄介極まりない」
フリーレンは、静かにそう結論づけた。
誰も答えなかった。否定する理由が、どこにもなかったからだ。
力を誇示しない。恐怖を振りまかない。名前も残さない。
それは、これまで人類が恐れてきた魔族の姿とは、あまりにも違っていた。
「戦争を起こさず、英雄も生まず、討伐される理由すら与えない」
ただ、世界を少しずつ静かにしていく存在。
「気づいたときには、もう遅い。誰も抵抗しないし、誰も助けを呼ばない」
フリーレンは、遠くを見る。かつて国だった場所を、かつて人が生きていたはずの荒野を。