村を出発してしばらく歩くと、グラナト領に入った。
境界を示す石標は風雨に削られているが、道の整備具合が違う。
ここまで来れば、それなりの頻度で村がある。
人の気配も、獣の気配も、どちらも濃いようだった。
もっとも、全部の村で食事をするわけにもいかない。数十年ぶりの食事だ。消化にも気力を使う。料理することで抑えられるとはいっても急に詰め込めば、さすがに体が受け付けない。
「……ゆっくり、だね」
そう独り言を零した、その時だった。
藪が揺れ、低い唸り声が重なって響く。次の瞬間、影が跳び出した。
オオカミの魔物だ。三体、いや四体。連携を取るように左右へ散り、距離を詰めてくる。
判断は早かった。レンファは足を止め、杖を軽く地面に当てる。
「はいはい」
魔法名を口にする必要もない。すでに身体に染みついた術式。
怠けさせる魔法。
空気が、わずかに歪んだ。
突進の勢いはそのままに、だが魔物たちの動きが、途中で鈍る。
前足がもつれ、跳躍が中途半端になる。着地の衝撃に耐えるための力が、抜け落ちた。
「……?」
魔物の一体が、困惑したように首を傾げる。威嚇の唸り声は続いているが、次の動作に移れない。
闘争心はある。だが、行動に移す理由が見つからない。
そのまま、ずるりと腹を地面につけた。
他の個体も同様だ。座り込み、伏せ、やがて動かなくなる。
「よし」
レンファは横を通り過ぎる。視線すら向けない。素材としては、気力を回すほどの価値がなさそうだった。
だが、それで終わりではなかった。
金属の擦れる音が、遠くから聞こえる。重く、規則正しい足音。
「……また?」
霧の向こうから現れたのは、騎士の集団だった。いわゆる全身甲冑。だが、首がない。鎧の下は空洞なのか、そこから声も息も漏れていない。
「首なし騎士……そんな魔物、いたかなぁ」
前も見たような気がしてレンファはゆっくりと記憶を探る。だが、ものぐさな脳みそのエンジンは、なかなかかからない。
死霊系の魔物だろうか。あるいは、呪われた鎧の類。
考えている間にも、敵は距離を詰めてくる。数は六。無言のまま、整った隊列を崩さない。
一体が剣を振り上げた。風切り音が、やけに鋭い。
「……面倒」
レンファは溜息をつき、杖を軽く振る。
同じ魔法。だが、対象が違う。
確かに、鎧そのものに意志はない。操られているだけの器だ。
けれど。
魔法とは、イメージと意志の産物だ。ならば、意志を持たないものを動かしている“魔法そのもの”の意志を対象にすればいい。
「はい、そっちね」
怠けさせる魔法。
術式は空気を滑り、最前列の首なし騎士へと染み込む。
即座に作用が現れた。
騎士の動きが、わずかに鈍る。剣を振り下ろそうとする途中で、力が抜ける。
それは単なる停止ではない。込められていた魔力、動作を維持するためのリソース管理権限が、強制的に剥奪される。
制御を失った魔法は減衰を始め、余剰となった魔力は、自然と行き場を探す。
余ったリソースは、隣の騎士へ。さらに、その隣へ。感染するように、魔法が伝播する。
掛けられていた魔法が強力であればあるほど、回収できるリソースも多い。この騎士たちは、どうやら相当手が込んでいたらしい。ただの魔物ではなく、術者がいるのだろう。
二体目が膝をつく。三体目が剣を落とす。隊列が、ゆっくりと崩れていく。
「……」
最後まで立っていた一体も、迷うように一歩踏み出す。そのまま、がくりと膝を折った。
首のない騎士たちは、その場に並んで跪いた。まるで、主のいない儀式の途中で止まった彫像のように。
「うん、問題なし」
それでも物騒なことに変わりはない。 少なくとも、この街道を通る人間にとっては、あまりにも迷惑な連中だ。
しばらく進むと、視界が開けた。
石造りの城壁。
高くはないが厚みがあり、ところどころ補修の跡が見える。このあたりでは、それなりの規模を誇る城郭都市、グラナトの街だ。
「……あ、あったあった」
街の外縁に、薄く揺らめく膜のようなものが見える。それこそが、グラナトの街を外敵から守護する結界だ。
嘗ての大魔法使いによって設置されたというそれは、代々グラナト伯爵家によって管理され、維持されている。
厳しい北方諸国において、安全な拠点が存在するという事実は、それだけで大きな価値を持つ。裏を返せば、魔族にとっては是が非でも陥落させたい要衝、そう評されてもおかしくない街だ。
もっとも、レンファにとっては、破壊したい対象ではなかった。
それなりの距離に、人間の街がある。食事にも、情報にも、休息にも困らない。
その価値は、十分だった。だからこそ、グラナトの街は無くなっては困る場所だった。
「……とはいえ」
自分が入れないのでは、どうしようもない。
慣れた手つきで、杖が上がる。距離はあるが、レンファにとっては問題ではない。
狙うのは、結界そのもの。
「働くの、やめよっか」
怠けさせる魔法。
レンファ自身の怠惰を、そのまま押し付けるように放たれた魔法は、さしもの結界をわずかに震わせた。
張り詰めていた防護の意志が緩み、拒絶の判断が途中で止まる。
古代から続く防護結界は、一時的にその効果を弱め、この小さな魔族が街へと脚を踏み入れることを許してしまった。
膜が薄くなった瞬間、レンファはその隙間をすり抜けて門を通り抜ける。次の瞬間、足裏に伝わる感触が変わった。街の中だ。背後で結界は、何事もなかったかのように元へ戻る。
「……うん、問題なし」
誰にも気づかれず、 誰にも拒まれず。
レンファは、グラナトの街へと足を踏み入れた。
バカンス気分で数年くらいは滞在し、その間に必要な素材でも集めよう。
小腹がすけば食いだめができるし、何かと変化の多い街というものは眺めているだけで娯楽になる。
そんな幻想を、平気で壊す騒ぎを起こすのが魔族だった。
グラナトの街に漂う空気は、妙に張り詰めている。笑い声が少ない。店の呼び込みも控えめで、路地の影には武装した連中が立っている。
噂はすぐに耳に入った。
断頭台のアウラ。今では、もしくは当時から、そう呼ばれている魔族がこの街と周辺を、たびたび襲撃しているらしい。
「……へぇ」
レンファは興味のなさそうな声を出した。だが、素材屋の棚が半分以上空なのを見れば、状況はだいたい察せられる。
「品薄でね。北の方の採集地も、もう誰も行かないよ」
店主は疲れた目で言った。
「行った者が戻らない。首なしに襲われるからな」
「首なし」
その言葉に、レンファは道中を思い出す。
街道で遭遇した、首のない騎士たち。あれは自然発生ではない。使役されている……そんな匂いがあった。
「……アウラが?」
「そうだってさ。騎士を集めて、首を落として、操る。……誰が考えたって、ろくでもない」
ろくでもない。それは同意だった。
道中の首無したちがアウラの手駒だとすれば、あの数は氷山の一角だろう。街が張り詰めているのも当然だった。
「そういえば……」
ふと、別の記憶が引っかかる。魔王軍を追放されたときにも、似たような話があった気がする。
首を落とす。
使役。
恐怖を誇示する、いかにも魔族らしいやり口。
そこまで思考が進んだとき、レンファはようやく、とんでもないことに気がついた。
「……あ」
怠けさせる魔法。
あれは、レンファ自身の怠惰を“他人の魔力”を借りて拡散する魔法だ。
自分の魔力だけで押し切るのではない。相手の魔力を、相手自身から奪って燃料にする。そして余った分を周囲へ回し、感染のように広げる。
それは効率のいい仕組みだ。少ない力で、多数を止められる。
なにしろ、レンファの怠惰の力が強力なので、薄まったとしても他人の意志を越えて魔力と身体に重大な影響を及ぼすことが可能だ。
ただ、問題がある。魔力の強いものが感染の起点になった場合、どこまで広まるのか、見当がつかない。
道中の首なし騎士。あいつらは、強い魔力で動かされていた。つまり、そこから回収できたリソースも大きい。
もし、あの騎士たちを媒介にして、“逆流”みたいな形で怠けさせる魔法がアウラに届いたら?
アウラは強い。
強大な魔力が燃料になったとき、結果は、予測できなかった。世界中の人がやる気を無くしてしまうかもしれないし、どこかの封印が一時的に封じ込めるのをさぼりだすかもしれない。
どれも、面倒なことは明らかだろう。
「……でも、めんどくさいし」
レンファは、深く考えるのをやめた。
今すぐ問題になるかは分からない。そもそも本当に感染が成立するかも分からない。そして、もし成立していたとしても、今から慌てても遅い。
「対処法は、ゆっくり考えよう」
そう自分に言い聞かせるように言葉を落とし、レンファは人気の少ない路地へとのそのそと歩き出した。