グラナトの街に来てから六日寝て、一日だけ街をうろつく。そんな生活が、いつの間にか板についていた。これでもレンファとしては非常に活動的と言わざるを得ない。
朝と夜の区別は曖昧で、鐘の音だけが時間を知らせる。寝床は宿の隅。食事はお休み。寝ている間に魔法の構想だけは膨らみ、起きる頃には忘れている。外に出る日は、素材屋を覗き、掲示板を眺め、噂を拾って戻る。それで十分だった。
その「外に出る日」に、異変は起きた。
広場の一角。魔族が、街に入ってきていた。
異常事態だ。自身含めあらゆるものを脇に置いて、レンファは驚きを隠せなかった。
レンファが魔族だと分かったのは、堂々と隠しも折りもしていない角によるものだった。要するに、街の住民ならだれだってそれが魔族と分かるようなかたちで魔族が侵入してきたのだ。それも数人。
衛兵が周りを固めているので人間側と交渉でもするつもりかもしれないが、大半の魔族はこの後街で暴れることになる。それがレンファの判断だった。
反射的にレンファは人混みに紛れ、杖を構えた。考えるより先に体が動く。そういう反応だけは、無駄に洗練されている。
レンファの危機管理能力は、決して低くはない。直接戦闘では自分が弱いことを、正確に理解しているからだ。
魔力量は怠慢によって生きた長さと比してみれば異常に少ない。身体能力も、魔族としては平均を少し下回る。派手で即効性のある攻撃魔法も持っていない。正面から殴り合えば、大半の魔族に勝ち目はない。
だからこそ、レンファは戦わない。怠けさせる魔法が通る距離、通る状況だけを選び、先に撃ち、相手が理解する前に逃げる。それがレンファの生存戦略であり、流儀だった。
だが、魔族という存在は、ときに理由なく暴れる。理屈も目的もなく、ただそうしたくなっただけで魔法を放つ個体がいる。そういう場合に備えて、レンファは常に最悪を想定している。
最悪の場合……ありったけの魔力で怠けさせる魔法をばら撒き、その隙に全力で逃げる。それ以上は望まない。
だから、都市で暴れ始める前に動きを止めてトンズラしよう。
レンファは狙いを定める。しかし、当然ながら周囲の確認をしっかり行うレンファではない。和睦の使者としてきた魔族を守ろうとする衛兵の姿に全く気が付いていなかった。
「おい、何をしている!」
と肩を抑えられる。
抵抗しようかとレンファは軽く悩む。確かに、もう少し元気ならここで魔法を乱射して逃げればいい。魔族としてはイマイチとはいえ、レンファの身体能力は魔族らしく多少は高い。平均的な人間が数人がかりで来たとしても、振り切って逃げ切るくらいは造作もない。だが、街のど真ん中で派手な逃走劇を演じる気力が、どうにも湧かなかった。
それに、いろいろ感づかれて魔族が本性を表しても困る。
「……はぁ」
いろいろ理由をつけたが、結局のところ計画を立てるところまでで気力が尽きていたのだった。
そうしてレンファは、和睦の妨害を試みたテロリストの疑いという、なかなか物騒な名目で屋敷の地下牢に放り込まれた。
石造りの階段を降り、鉄扉が閉まる。湿った空気。冷たい床。鎖の音だけが、やけに大きく響く。
「あーもう」
レンファは投げやりに呟いた。
「何が起こっても、もう知らない」
どうせ、この街が全滅したとしても、数十年、数百年も経てば、また別の街ができる。
人間は、そういう生き物だ。壊れても、また集まる。それまで、待っていればいい。
「……うん、寝よ」
幸いにも、与えられたのは一人部屋だった。狭いが、邪魔されない。レンファは壁にもたれ、そのまま丸くなる。
ふて寝、というやつだ。
「数年くらいゆっくりさせてもらおう……」
目を閉じかけた。その時、向かいの牢が、騒がしくなった。
新しい住人が連れて来られたらしい。会話だけを聞いていると、どうやら魔族を攻撃しようとして捕まったテロリストのようだった。
「……ふぅん」
魔族という理由だけで、敵意が向けられている。物騒なやり取りだ。耳だけを傾ける。
「フリーレン様は本当に時間を無駄にするのが好きですね。」
「魔族との外交ごっこが成立するはずがない。あれは言葉の通じない猛獣だ。」
そういった言葉を口にしていたのは、フリーレンと呼ばれたエルフだった。最近では、エルフを見ること自体が珍しい。
声は落ち着いている。だが、その奥には抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
連れとのやり取りから、魔族への強い敵意が窺える。それは一時的な感情ではなく、長い時間をかけて積み重ねられてきたもののようだった。
「……ああ、そっちか」
レンファは、半分寝転んだままだった。身動きもせず、天井を見上げたまま、会話の続きを聞く。
魔族との和睦は、成立しない。その言葉には、現実味があった。積み重なったものが、多すぎたのだ。
「……全員が、人間ぶっ殺しマシーンってわけじゃないんだけどな」
声は小さい。届くことを前提にしていない音量だった。
争いを避け、静かに生きる魔族も、存在する。ただ、それが語られることは少ない。知られていないのか、語られないだけなのか。どちらにしても、この場で受け取られる話ではなかった。
それになにより、この街に来た魔族に関してはこのエルフの言が正しいことをレンファも認識していた。間違いなくこの街は碌なことにならないだろう。
……
フリーレンと連れとのやり取りは、やがて途切れた。衛兵の足音が遠ざかり、地下牢には、湿った空気と静けさだけが残る。
フリーレンは鉄格子の向こうで腰を下ろした。姿勢は崩れているが、焦りは見えない。長命種らしく、多少の牢生活など気にも留めていない様子だった。
「……」
しばらくの沈黙のあと、フリーレンはぽつりと呟いた。
「この街も、もう長くはないな」
独り言に近い。だが、その言葉は、石壁に反射して牢全体に広がった。
「……どうして、そう言い切れるんですか」
声が出たのは、その直後だった。意図したよりも、少しだけ早い。
「奴らは、捕食のためなら言葉を使いこなす」
フリーレンは淡々と言った。
「和睦と称して結界を解除させれば、それで終わり。後は、好きなように喰う」
「なるほど…」
レンファは短く応じて同意した。実際にレンファの考えとおおむね一致していたのでそれ以上、付け足す言葉はなかった。
そこから、いくらか身の上話になった。といっても、語られたのは当たり障りのないものだ。魔法の研究をしていること。魔族という種族に、個人的な怒りを向けていること。そういう設定にせざるを得なかったし、完全な虚偽でもなかった。
フリーレンは、それを疑わなかった。あるいは、疑う必要がないと思ったのかもしれない。
話が一段落した、そのときだった。
地下牢の入口で、足音が止まる。鉄扉が開き、一人の魔族が姿を現した。角はあるが、威圧感は薄い。先ほど見た魔族のうちの一人のようだった。
魔族は、フリーレンの方だけを見る。こちらには、視線すら向けない。目的が最初から決まっているような動きだった。
「……断頭台のアウラが配下、ドラートだ……」
逃げ場がない地下牢で魔族が何をしようとするのかはレンファも承知していた。そして、おそらく次に自分にも被害が出そうということも。
レンファは、何も言わずに立ち上がる。杖は使わない。指先をわずかに動かし、空気に触れる。魔力と同時に怠惰が、背後から流し込まれた。
「なっ、なにを………」
大げさな光はない。だが、魔族の動きが、完全に止まる。一歩踏み出しかけた姿勢のまま、固まり、崩れ落ちる。
杖で使う魔法ほど高度に編み込まれてはいないが、なにしろレンファの怠惰である。一人に向かって、それも不意打ちで受ければよほどの意志の力がなければ抵抗できるはずもない。一瞬で魔力経路を逆流して怠惰が魔族を支配する。すべての意志が「何もしたくない」に塗り替えられて完全に機能を停止していた。
そこを見逃すフリーレンではなかった。すぐさま魔族の首を刎ねると、その体は異常にゆっくりと魔力の粒子に還元されたのだった。