(賭けに至る前)
二人の『八雲紫』が、並んで立っていた。
片や幻想郷の賢者。
片や――強いて言うなら、ジャージ妖怪。
「ねぇ。お願いがあるんだけれど」
先に口を開いたのは、後者だった。
「なに?」
「あなたが幻想郷に来ることを許した。それだけでも、充分に義理は果たしたつもりだけど」
「義理もなにも」
紫は肩をすくめる。
「私がここに帰るのに、許可なんて必要ないでしょう?」
「それは、そうなんだけど」
賢者は一瞬、言葉を選んだ。
「私にも立場があるの。あなたには……無いようなものだけど」
――無かった。
それは致命的に、無かった。
立場というものが、この紫には存在しない。
「大した話じゃないわ」
ジャージ妖怪は、あっさりと言った。
「お金、頂戴」
「随分と即物的ね」
賢者は苦笑する。
「まあ、私の財産はあなたのものでもある。構わないけれど……いつの間に、男に貢ぐ立場になったのかしら、私は」
「向こうじゃ、彼のお金で生活してるもの」
紫は平然としていた。
「こっちでわざわざ両替するのも面倒だし。
それに、お金のことを考えるなんて、幻想――夢が壊れる話でしょ?」
「……その理屈は」
賢者は、ため息をついた。
「受け入れざるを得ないわね」
――やりにくい。
賢者は、はっきりそう思った。
相手は自分自身であり、しかも自分以上の視点を持っている。
幻想郷という世界における知識と影響力では、確かにこちらが上だ。
だが、視点の“角度”が多すぎる。
これは長期戦なら勝てる。
だが短期戦、ましてや口頭での交渉となると、分が悪い。
「それと、藍も貸して」
紫は続ける。
「一人だと手が足りない時もあるし。
それに、彼のそばを離れない方がいいでしょう?」
賢者は、そこで一度だけ考えた。
「……そこまでは、出来ないわね」
静かに、しかしきっぱりと言う。
「藍を貸し出す価値は、あなたにはある」
「でも――あの男には、ないわ」
「へぇ」
紫は、目を細めた。
「私でも、分からない?」
「恋は盲目とは言うけれど」
賢者は視線を逸らす。
「自分がそうなっているのを見るのは……正直、見るに堪えないわ」
「それを盲目の恋と呼ぶなら」
紫は即座に言い返す。
「賢者の瞳に映る光が、曇っているだけよ」
一拍。
「――賭けてもいいわ」
賢者は、少しだけ口角を上げた。
「……乗ったわ」
こうして賢者は、
本来なら乗る必要のない賭けに、自ら足を踏み入れた。
天秤に載ったのは、金と藍。
その反対側に置かれたのは――賢者のプライド。
分の悪い交渉。
主導権の境界を引き合う、
境界同士の、静かな縄張り争いだった。