何も起きない牛丼屋
「なんでだろうな」
「なにが?」
「なんで最強の妖怪が、今すき屋で牛丼食ってんだろうな」
向かいの席で、紫は箸を止めもせずに言った。
「いいじゃない。牛丼、安くて美味しいわよ」
「そういうことじゃないんだが」
紫は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を丼に戻す。
「あなたが私をこうしたのよ、なんて言わないけど」
軽い調子だったが、言葉の芯はぶれていない。
「私がこうなることを選んだ理由は、貴方にあるのだから。胸を張りなさい」
「いや」
即座に否定した。
「お前がこうなったのは、お前のせいだ。俺に責任を負わすな」
お前の選択だ、というのは簡単だった。
俺のおかげだ、というのは、もっと簡単だった。
ただそれでも――
目の前にいる存在の理由に、答えを与えたくなかった。
「……わかってるじゃない」
紫は、どこか満足そうに笑った。
「分からないわけないだろ」
その直後だった。
「あ、店員さん。つゆだくお代わり、たまごもー」
「お前、それ何杯目だ」
「三杯目」
「食い過ぎだ、馬鹿」
紫は何も言わず、楽しそうに箸を進めた。
すき屋の店内は、相変わらずうるさくて、明るくて、平和だった。
何も起きないピロートーク
「あなたが私に最初に言った言葉、覚えてる?」
天井を見上げたまま、隣からそんな声が飛んできた。
「ん? げ、妖怪ババァが落ちてる、だったかな?」
「ちがうわよ。……貴方、私を拾った時にそんなこと言ってたの?」
太ももに走る痛み。
「いてて、つねるな。で? なんだっけ、何を言ったかなんか覚えてねぇよ」
「幻想郷の賢者の杖が砂上の楼閣、って話よ」
「ああ、あれか。そんなことも言ったような気はするな」
しばらく沈黙が落ちた。
布団の中で、彼女がわずかに身じろぎする気配。
「あれねぇ……結構効いたのよ、私に」
声の調子が、少しだけ真面目になる。
「あの言葉が無かったら、私は“幻想郷の賢者”のつもりのまま、第2の幻想郷を作ろうとしたか……あるいは、もっと別のことをしていたかもしれないわ」
短く息を吐く。
「まぁいいわ。兎に角、あの言葉があったから、私は止まれたのよ?」
「へぇ~」
我ながら、心のこもらない返事だった。
「あら、自覚ないのね。私を止めてみせたのよ? 少しくらい誇ったりしないのかしら」
「いや。で、それを言ったからお前は俺の隣に居るのか?」
問いは、思ったより素直に口から出た。
「それとこれは別よ」
即答だった。
「貴方の隣に居るのは……単に、居心地が良かったから、かしら」
「だろうな」
そう返した瞬間、
居心地いいのは俺もだよ、という言葉が喉まで来て、そこで止まった。
言葉にしたら、何かが逃げてしまう気がして。
気づけば、彼女の方を見られなくなっていた。
「なによ、急に目を逸らして」
からかうような声。
「なに? エッチなことでも考えた?」
腕に絡みついてくる感触。
体温が、今日はやけに熱く感じる。
「いや、ちげーよ」
誤魔化すように背を向ける。
「いいから、もう寝るぞ」
目を閉じる。
背中越しに伝わるぬくもりが、はっきりとそこにある。
それを言葉にした瞬間、
この距離ごと壊れてしまいそうで――
だから今夜も、言葉にしない。
ただ、隣にある温度だけを確かめながら、眠りに落ちた。