バタンッ、と扉を閉めて帰って来た。
「ただいっ」
居間に視線を向けた瞬間、足が止まった。
八雲紫が、スーツケースを傍らに置き、正座で待っていた。
「実家に帰らせていただきます」
――嘘だ。
反射的に理解した。
まず、この妖怪はスーツケースなんて必要としない。
隙間に押し込めば、荷物という概念そのものを超越する存在だ。
スーツケースは小道具にすぎない。
雰囲気作りのための玩具でしかない。
そもそも、こいつは消えるなら音もなく消える。
準備中に俺が遭遇することはあっても、
わざわざ「待っている」理由がない。
帰ってきたら、もぬけの空。
思い出ですら記憶の境界の彼方に押し流され、
居たことそのものを忘れているかもしれない。
だから――嘘だ。
「もうっ」
ふわり、と視界が塞がれた。
紫が抱きついてきた。
柔らかい体温。
柔軟剤の香り。
神秘を含んだ妖怪の匂いじゃない。
生活の匂い。
現実に根を張った香り。
それが、胸の奥に溜まっていたものを一気に溶かす。
「そんな真顔で涙流さないでよ。
私が悪いみたいじゃない。
置いて行ったりしないわよ」
後頭部を、ゆっくり撫でられる感触。
「……お前が悪い」
覚悟はしてた。
選択は、常に委ねてきた。
いざその時が来ると――
いや、その時ですらないと理屈で理解して、
理由をいくつ並べても、
どうしても溢れてしまうものがあった。
それだけの話だ。
「そうね」
紫が小さく息を吐く。
「さすがに、私が悪かったわ」
「そうだ。お前が――」
腕が離れた。
顔を上げると、視界が一変していた。
神社。
目の前には石碑。
『博麗神社』
そこに刻まれた文字を見て、すべてを理解する。
――やりやがったな、こいつ。
「年末の帰省ってやつよ」
紫は悪びれもせず言う。
「あなたもお休みでしょ?
それに言ったでしょ。
置いて行ったりしないって」
「……それにしても、やり方ってのが」
「ねぇ」
第三者の声が割り込んだ。
「うちでイチャイチャするの、やめてくれる?」
視線を向けると、
そこには見慣れた紅白の巫女が、
ものすごく白い目でこちらを見ていた。
不本意そうに案内された居間でお茶を啜る。
隣に紫が妙に嬉しそうに霊夢に見せつけるように枝垂れかかってくる。
「てわけで、私は『八雲紫』であって幻想郷の賢者ではないわけ」
紫が状況を説明するなか、
俺は、うわ、これが霊夢がいつも飲んでるお茶かと、
オタク心を爆発させていた。
「まぁ、私も貴方の知ってる『八雲紫』には違いないわけど、
つまり、霊夢の視点からのいつもの『八雲紫』は別でちゃんといるわ」
博麗神社ってこういう作りになってんのかぁと、辺りを見回す。
「そうね境界の向こうからIFがやって来たとでも理解しときなさいな」
「なによ、この状況。異変よ、異変」
腕を組んだ霊夢が、露骨に不機嫌そうに言い放つ。
「そうだとして、どうするのかしら?」
紫は肩をすくめ、楽しそうに微笑んだ。
「私を退治して、私たちを引き裂くのかしら?
……あら、怖いわ」
「煽るな!」
思わず割って入る。
「あーもう、そうやって火に油注ぐなっての。
なぁ霊夢……いや、博麗の巫女」
霊夢が一瞬だけ、視線を向ける。
「いつから巫女って、別れさせ屋になったんだよ」
「なっ――」
「聞けって。
そもそも俺ら、もう幻想郷の盤外だろ。
外から、ちょっと覗いて、ちょっと入り込んだだけの観光者だ」
言葉を探しながら続ける。
「だからさ……その……
そんなムキにならずに、見守ってくれよ。
頼むわ」
一拍。
霊夢は黙り込む。
紫は、何も言わない。
言わずに、ただ後ろに下がる。
完全に――男の影に隠れる位置。
「……っ」
霊夢のこめかみが、ぴくりと動いた。
「……ずるいわね、紫」
ぼそりと吐き捨てる。
「男の影に隠れるなんて」
「えー、だって彼が前に出てくれたんだもの」
紫は悪びれずに言う。
「私はただ、選ばれた側よ?」
「……」
霊夢は深くため息をついた。
「……もういいわ」
肩の力を抜く。
「異変にしても、解決しようがないし。
そもそも、祓う理由もない」
ちらりと二人を見る。
「……ゆかりの、いつもの変ないたずら。
そういう事にしとくのが、一番ね」
「ええ、それでいいわ」
紫は即答した。
「ありがと、霊夢」
「礼なんていらないわよ」
霊夢は背を向ける。
「……ただし」
一瞬だけ振り返り、
「これ以上、世界を巻き込む気配が出たら、
その時は知らないから」
「はいはい」
軽く手を振る紫。
霊夢は去っていった。
残された俺と紫。
「……なぁ」
「なに?」
「さっきの、あれで良かったか?」
「ふふ」
紫はくすっと笑って、腕に絡みつく。
「だって、あなたが前に出てくれたんだもの。
私はそれに乗っただけよ」
「……ほんと性格悪いな」
「今さら?」
「それに貴方、霊夢をキャラクターとして対応したでしょ、それ位の距離感でいいのよ、だってここは幻想郷なのだから」
「俺にとって本物はお前だけで充分だ、これ以上抱えきれるか」