入学式が終わったあと、先生に提出するプリントがあることを思い出した。
クラスの連中に別れを告げ、プリントを手に教室を出る。
さっきまでいたはずの先生はもう教室にはいない。
仕方なく職員室へ向かい、ドアに手をかけた。
「お邪魔し──」
その瞬間、聞こえてきた声に動きが止まった。
「あはは……先生。心配しなくても大丈夫ですよ。僕、無個性でも気にしてませんから」
職員室の中には二人いた。
ホームルームの先生と──立向居ユウキ。
まだ話していないクラスメイトだ。
教室では俯いたり、窓の外を見たりしていて、どこか周囲と距離を取っているように見えた。
澄ました、達観したような表情。けれど、その奥に薄い影が落ちている気もしていた。
気にはなっていた。
でも、声をかける勇気はなかった。
そんな彼が、今は笑っている。
話の流れからして、無個性なのだろう。
表情だけ見れば、本当に気にしていないようにも見えた。
……けど。
胸に、ちくりと小さな違和感が刺さる。
「そうか……?」
先生は心配しているような様子だった。
諦めきれない先生に対し、立向居は笑みを浮かべたままだ。
違和感は、確信に近づいていく。
「でもなぁ、今時無個性も珍しいし、これまで大変だったんじゃないか? 先生、絶対力になるからさ!」
立向居はまた笑っていた。
けれど、俺には分かった。
先生が言葉を重ねるたびに、彼の笑顔が少しずつ固くなっていく。
まるで、心の奥で悲鳴を上げながら、それを必死に押し殺しているみたいだった。
──見てられなかった。
「先生! 俺に任せてください!」
気づけば、声を上げていた。
先生が驚いたようにこちらを見る。
「ん? 君は……切島だったか?」
「そうです! 俺、立向居と同じクラスなんで。先生より力になれますよ!」
「そうか? うーん……でもなぁ、大人の理解者が──」
先生はまだ納得していない顔だ。
入学初日まだ大人からの信頼なんてあるはずもない。
だから俺は笑った。
少しだけ虚勢を張って。
安心感を与えられるようにと。
「先生、心配しすぎっすよ! 立向居、行こうぜ」
呆然としている立向居に手招きする。
彼は戸惑いながらも、先生に頭を下げてついてきた。
職員室を出て、廊下を並んで歩く。
勢いで連れ出したはいいが、何を話せばいいのか分からなかった。
立向居も落ち着かない様子だ。
知らない相手に突然声をかけられて、戸惑っているんだろう。
その姿は、まるで新しい家に来たばかりの犬や猫みたいだった。
警戒して、不安と恐怖を抱えながら、それでもどこか期待と好奇心を捨てきれない。
──ああ、こっちが本当の立向居なんだ。
無個性だから、なのか。
素を出せなくなったのは。
素でいられなくなったのは。
さっきの笑顔を思い出して、胸が痛んだ。
「立向居」
足を止めて、言葉を選ばずに口を開く。
「お前、折れんなよ。無個性なんて、お前が気にすんな。俺は気にしねぇから」
余計なお世話かもしれない。
でも、自分にまで嘘をついてるなら、それだけはやめてほしかった。
自分を信じられなくなった時ほど、虚しいものはない。
立向居は、突然の言葉に呆然としている。
それでも俺は続けた。
「立向居は立向居だろ? 無個性でも関係ねぇ。だから、自分で自分を下げんな。もしクラスで何かあっても、俺がなんとかするからさ」
なるべく明るく。
こいつの味方だって、ちゃんと伝わるように。
立向居が、いつか自分のことを嫌いにならずにいられるように──
そんな願いを込めて。
「……う、うん。ありがとう、ございます」
「はは! クラスメイトだろ? 敬語いらねぇよ。これからよろしくな!」
立向居はしどろもどろになりながらも、ちゃんと応えてくれた。
それが少し嬉しくて、これからのことを自然と楽しみに思った。
その日、立向居は学校に来なかった。
昼頃、先生から「立向居が敵事件に遭遇した」と聞かされた瞬間、胸の奥に嫌なものが広がった。
心配が一気に押し寄せてくる。
けど──俺にできることは、何もない。
入学してまだ日が浅く、連絡先も交換していなかった。
安否を確かめることすらできない自分が、ひどくもどかしかった。
放課後、ネットニュースを開く。
そこに映っていたのは、想像以上に酷い現場だった。
横転した車。
抉れたアスファルト。
建物の壁には、破壊痕を中心に亀裂が放射状に走っている。
日常的に出没する敵はピンキリだ。
ただの窃盗犯もいれば、平然と人を殺す凶悪犯もいる。
だが──この被害状況を見れば、凶悪な敵だったことは一目で分かった。
事件は、住宅街と駅を結ぶ交差点で起きたらしい。
だが暴れ始めてから程なくしてオールマイトが駆けつけ、被害はこれでも最小限に抑えられたという。
軽傷者は多数。
だが、重傷者以上の人的被害はなし。
……立向居の命に別状はなさそうだ。
それでも、胸のざわつきは消えなかった。
無個性だということもある。
それ以上に──あいつは、何をしでかすか分からない危うさを持っている。
短い付き合いだが、分かってきたことがある。
立向居は、自己肯定感が低い。
臆病で、目立つことを避け、何をするにも「自分なんかが」と考えるタイプだ。
でも、それで終わるやつじゃない。
根っこの部分に、諦めきれない思いを抱えている。
無個性だからといって、現状に甘んじているわけじゃない。
「このままでいいはずがない」「いつか変えてやる」
そんな感情を、静かに、でも確かに抱えている。
だからこそ──怖かった。
今回の敵事件をきっかけに、
その衝動が、無茶な行動として表に出てしまわないか。
自分を省みず、誰かを守ろうとして、傷ついてしまわないか。
俺は、それが不安だった。
そして、月曜日。
教室に立向居の姿を見つけた瞬間、思わず息をついた。
まずは、無事であることに安堵する。
怪我らしい怪我もなく、クラスメイトの視線に怯えるように、いつも通りの立向居がそこにいた。
──よかった。
そう思った直後、違和感に気づく。
立向居は、こちらを見ていた。
逃げるようでもなく、俯くでもなく、しっかりと俺を見据えて。
ほんのわずかだが、何かが変わっている。
そんな気がした。
「あ、あの! 今日の放課後、相談したいことがあるんだけど……いい?」
相談。
その言葉に、思わず目を見開いた。
今まで、立向居から頼られることなんてなかった。
これまでだって、会話はしてきた。
でも、それ以上踏み込むことはなかった。
互いに干渉せず、距離を保っていた。
敵事件で、何か心境が変わったのだろうか。
……ちょうどいい。
入学式の日に決めた立向居の味方でいる誓い。
その決意を昇華させようと。
仲間はただ味方でいるだけじゃない。
支え合って、踏み込んで、背中を預ける存在だ。
立向居の相談が何なのかは分からない。
でも──聞く覚悟はできていた。
こいつの仲間になるために。
──
「個性が発現した──!?」
放課後。
屋上で待っていた切島くんに、ユウキは意を決して打ち明けた。
登校中に巻き込まれた敵事件のこと。
少年を助けようと、咄嗟に敵の前へ立ったこと。
攻撃から身を守ろうとした瞬間、巨大な“手”が現れたこと。
そして、入院中にそれが正式に“個性”だと認められたこと。
円堂さんたちが出てくる夢の話を除き、直近に起きた出来事をすべて話し終えると、切島くんはいつもの豪快な雰囲気を失い、思考が止まったように口を開けていた。
「……まじか!? 個性が発現して、しかも子供を守ったって……すげえじゃん!」
「たまたまだよ……。個性は“ハンド”って言われた。このオーラの手で、物を掴んだり動かしたりできるんだって」
腕に意識を集中させる。
すると淡い光が形を成し、小さな手が空中に現れた。
切島くんは恐る恐る、それを指でつつく。
「うおっ、ちゃんと触れる……思ったより柔らかいな。立向居の話が本当なら、巨大敵の投擲も防げたわけだろ?」
「あの時はね。でも、それ以来大きくも硬くもならないんだ。少し力を入れて握るだけで……」
ぎゅっと力を込めると、オーラの手はガラスが割れるように粉々に砕け散った。
「……ほんとだな」
切島くんは短く息を吐き、納得したように頷く。
「それにしても、個性発現か。相談があるって言われたから覚悟はしてたけど、想像超えてきたな」
「……切島くんには、言っておきたくてさ」
──切島くんは、僕にとって恩人だから。
言葉にはしなかったが、胸の奥でそう呟く。
思い返せば、彼の真っ直ぐな言動は、どこか憧れの人に似ていた。
自分が正しいと思ったことを、周りに流されず実行するところ。
クラスの中心で場を明るくするところ。
さっぱりしていて、前を向くリーダーの気質。
……やっぱり、似ている。
「正直、まだ実感は湧いてないんだ。これからどうするかも、何をすればいいのかも分からない。ただ……せっかくの個性だから、特訓して伸ばそうとは思ってるけど」
「特訓!?」
その言葉に、切島くんが身を乗り出した。
「どんな特訓なんだ?」
「……ぶら下げたタイヤを、全力で投げて受け止める」
「……えっ」
切島くんは一瞬、言葉を失った。
──円堂さん。やっぱりこの特訓、普通に聞くと引かれますよね……。
「……いや、待てよ」
次の瞬間、切島くんの顔がぱっと明るくなる。
「それ、いいな! 俺の個性鍛えるのにピッタリじゃねぇか! 俺も参加していいか!?」
「……え?」
どうやら引いていたわけではなく、その手があったかと盲点を突かれたようだった。
切島くんの個性“硬化”は、体を硬くするシンプルな能力だ。
発現当初、目を擦っただけで切り傷ができたほど、強力で鋭い。
だが彼は「少し硬くなるだけ」では満足していなかったらしい。
ヒーローを目指す以上、もっと“倒れない力”が欲しかったのだろう。
彼の憧れである紅頼雄斗も、同系統の個性を持ち、「決して倒れないこと」が高く評価されていたと聞く。
質量のあるタイヤを投げ、それを正面から受け止める。
反動と衝撃に耐え続ける──まさに“倒れない”ための特訓。
切島くんにとって、これ以上ない機会だったのだ。
「なぁ! 今度、お前んち行っていいか?」
「う、うん。分かった。お母さんに伝えておくよ」
無個性だと分かってから、誰かを家に招くのは初めてだった。
それでも、目の前で無邪気に喜ぶ切島くんを見て、自然と笑みがこぼれる。
恩人が、自分のための特訓を心から喜んでくれている。
それが、嬉しかった。
「なぁ! 立向居もヒーローなろうぜ!」
切島くんは、まるで当然のように言った。
「お前の個性と俺の個性があれば、みんなを守れるヒーローになれる!」
「未曾有の災害が起きても、俺が硬化で前に立つ。お前が攻撃を防ぐ。そうすりゃ、二人で何でも守れる!」
確かに、相性はいい。
近接向きの切島くんと、遠距離攻撃を防げるユウキ。
彼のサイドキックとして戦う未来を、一瞬だけ想像した。
……それは、きっと楽しい。
「……それも、いいかもしれない。でも」
言葉を選びながら、正直な気持ちを吐き出す。
「僕は……守れたことの嬉しさより、敵が怖いんだ。そんな人間が、ヒーローを目指していいのかなって」
助けたい気持ちはある。
でも、敵と向き合える自信はない。
あの事件は、たまたまだ。
そう分かっているからこそ、迷いが生まれる。
ヒーローになる人は皆、敵と対峙する覚悟を持っているはずだ。
ユウキには、その覚悟があるとは思えなかった。
沈黙。
次の瞬間、切島くんが立ち上がり、背中を思い切り叩いた。
「情けねぇ顔すんな、立向居!」
思わず息が詰まる。
「俯いてるだけじゃ、何にも変わんねぇんだよ!」
彼は笑っていた。
ユウキの不安を、迷いを、全部吹き飛ばすような笑顔で。
「敵が怖い? 俺だって怖い! でも、それでも立ち向かう。だからヒーローなんだろ! かっこいいんだろ!」
「大事なのはな、怖くても立ち向かう勇気だ。お前は自分を卑下してるけど……もう持ってるんだよ」
──たすけてくれて、ありがとう。
あの日、助けた少年の手紙が脳裏をよぎる。
「自信持て、立向居。最初から完璧な奴なんていねぇ。俺だってそうだ。だからヒーロー科がある。そこで学べばいいんだよ」
「……うん。そうか。そうだね」
最初から志がなくてもいい。
それを育てる場所が、ヒーロー科なのだ。
「切島くん……これからはライバルだ」
一度、息を吸う。
「僕……いや、俺も。ヒーローを目指すよ」
「へっ。似合ってんじゃねぇか」
夕日が校舎を赤く染めていく。
沈みゆく太陽は、驚くほど綺麗だった。
きっと俺は、この光景を忘れない。
切島鋭児郎というライバルを得た日のことを。