街灯が等間隔に並ぶ住宅街。
ミルコは屋根伝いに駆けていた。
瓦を踏む音を殺し、影と影の間を縫うように進む。夜気が肌を撫で、胸の奥にじわりと高揚感が広がっていく。
間抜けな中学生を追い回す──冷静に考えれば滑稽な話だ。
だが今のミルコは、紛れもなく狩人だった。
逃げる羊を追う狼。
胸の奥から湧き上がる昂揚と、わずかな嗜虐心。
その感覚が今なら理解できる気がした。
前方を走っていた少年──立向居が一軒の家の前で足を止める。
きょろきょろと周囲を見回す様子には、最低限の警戒心が感じられた。
だがそれも長くは続かない。
結局、追跡者の存在に気づくことなく、立向居は家の中へと姿を消した。
ミルコは一気に距離を詰め、隣家の屋根へと降り立つ。
目的の家を見下ろし、その規模に思わず眉を上げた。
周囲の住宅とは明らかに一線を画す大きさ。
紛うことなき豪邸だ。
「……ぼんぼんかよ」
小さく呟き、ミルコは屋根から屋根へと跳びながら、敷地全体を観察する。
道路に面した立派な門扉。
それを抜ければ、本邸の正面玄関と広々とした庭が続いている。
庭の広さはサッカーグラウンドの半分ほど。周囲は木々に囲まれ、外からの視線を遮るように配置されていた。
庭の中央には一本の大木が立ち、その枝からは古びたタイヤがぶら下がっている。
相当使い込まれているようだが、用途はすぐには分からない。
庭を抜けた先にある本邸は、懐かしさを感じさせる外観で、窓からは一つ二つ、柔らかな灯りが漏れていた。
ミルコは耳を研ぎ澄まし、音を聞き分ける。
一人。怯えを含んだ少年の気配。立向居だ。
二人。落ち着いた、優しげな女の声。母親だろう。
三人。低めの男性の声。おそらく父親。
得られた情報は一般的な家庭であることだった。
先ほどのやり取りが脳裏をよぎる。
出会い頭に警戒されても仕方のない発言をした自覚はある。
だが、興味本位で投げた質問に対し、立向居は不自然なほど狼狽していた。
ヒーローを前にして、あからさまに逃げ出す。
あまりにも露骨だったため念のため調査したが、どうやら杞憂だったようだ。
世界的に見ても屈指の個性を持つボンボン。
やはり血筋由来の個性だろうか。
この個性社会において、有用な個性は財を生む。
財は人を呼び、恵まれた環境をもたらす。
親の個性と同等、あるいはそれ以上の力を子が遺伝で引き継ぐ、と考えられている。
かつては「個性婚」という文化があったほどだ。
思考を切り替え、ミルコは今後のことを考える。
家庭環境に怪しい点はない。
だが、やはりあの態度が引っかかる。
──憧れの人が教えてくれて
詳細は語らなかったが、咄嗟にあの言葉が出る以上、自作とは考えにくい。
誰かに教えられたと見るのが自然だ。
名前を伏せる理由は二つ。
やましいか、目立ちたくないか。
もしプロヒーローから教わったのであれば、名を売るのも仕事の一環だ。
わざわざ口止めする必要はない。
かといって敵が教えたにしては、警戒心もなく、邪気も感じなかった。
訳あり。
それだけは間違いない。
──今日は引くか。
そう判断し、ミルコは跳躍して屋根を駆けていく。
明日の朝、押しかけたらどんな反応をするだろう。
シュートを止められた腹いせの
その表情を想像し、自然と口元が緩んだ。
夜もすっかり明け、太陽が昇り始めた頃。
ミルコは再び立向居の家を訪れていた。
睡眠不足のせいか、欠伸が漏れる。
そっと隣家の屋根上に足を止めた瞬間、敷地内から鈍い音が響いた。
──タイヤ?
覗き込めば、すぐに答えが分かった。
立向居が、タイヤを投げ、受け止めている。
「へぇ。そういう特訓してんのか」
庭に降り立ち、感心して声をかけると、立向居はぎょっとした表情で振り返った。
顔には「なぜここに」という疑問がありありと浮かんでいる。
「昨日の夜、つけてたからな」
「……まさか」
隣家を指差すと、立向居は震えながら理解したようだった。
そこからは非難の嵐だ。ストーカーだの、仕事に行けだのと喚き立てる。
もちろん、従う気はない。
しかし、予想以上の反発によって、ゴッドハンドという技を誰が作ったのか、取り付く島もなかった。
──少々、強引すぎたか。
門扉へ向かって歩きながら、次の手をミルコは考える。
門扉が見え、通り抜けようとした、その時。
「ミルコさん?」
振り返る。
「ん? あんたは?」
「ユウキの母の、立向居優子と申します」
玄関を背に、彼女はミルコを待っていたようだった。
子を虐めたことへの叱責だろうか。
つくづく、恵まれた家庭だと思った。
「少し、散歩に付き合ってくださる?」
だが、その声に怒りはなかった。
わざわざ外に出るということは、立向居──ユウキに聞かせられない話なのだろう。
ミルコはそう察しながら、優子を隣に連れて静かな住宅街を歩き始めた。
朝日がようやく顔を出したばかりの時間帯。
家々はまだ眠っているかのようで、建物の数に比べて音が驚くほど少ない。
足音さえ遠慮がちに感じられるほどの静けさだった。
「昨日、ユウキからヒーローに会ったと聞きました」
どうやらユウキは昨日の出来事をどこまでか親に話していたようだ。
「そして、こう言われたと。──今のお前には、ヒーローは無理だ」
優子の表情は穏やかなままだ。
言ってから優子は、すぐに付け加えた。
「ユウキにも悪気はないんですよ? その言葉のおかげで必殺技が出来たって、すごく嬉しそうでしたし」
おそらくゴッドハンドを発動できたことによる喜びを親にも伝えたかったのだろう。
もしあの問いかけがきっかけになったのならば良かったと思った。
「その言葉はユウキを傷つけたかもしれません……ですが、私はそれを聞いて」
一拍、間を置いてから優子は視線を落とした。
「──ミルコさんに
意外な言葉だった。
ユウキを傷つけた、心を折ったかもしれない人間に感謝?
見た目が優しげで落ち着いているのもあり、優子の苛烈さをミルコは感じ取れなかった。
「知ってますか? ユウキは三ヶ月前まで無個性でした」
その一言で、ミルコの思考が止まる。
「無個性だと分かってから、少しずつ周りと距離を取るようになって、感情も薄くなっていって……。それを見てるのが、本当に辛かった」
母としての責任、守れなかったという後悔が優子の言葉には込められていた。
「だから、個性が発現した時は……本当に嬉しかったです。今まで抱えてた申し訳なさとか、罪悪感とか、全部忘れてしまうくらい」
声は震えていた。
個性の発現は本当に無個性における希望の光だったのだろう。
「でも、それと同時に……怖くなりました」
優子はぎゅっと拳を握りしめた。
「個性を得てから、あの子はまるで別人みたいに特訓に打ち込むようになりました。ヒーローになりたいって言われた時、最初は嬉しかったです。ああ、夢を持てるようになったんだって」
言葉は止まらない。
「でも、もし……もし、ヒーローになって危ない目に遭ったら……敵に殺されたらって考えると、震えが止まらないんです」
恐怖と。
「普通に勉強して、普通の会社に入って、普通の家庭を築いてくれれば……それでいいじゃないって思うんです」
妥協と。
「せっかく個性が発現して、ようやくマイナスからゼロに戻れたのに……それ以上を望まなくてもいいじゃないって」
そして、嫉妬。
母の願いであり、母のエゴが吐露される。
今までの苦しみとこれからの不安が絡まり合い、優子自身も整理できない感情となって溢れているのが、ミルコにも伝わってくる。
話し終えた優子は、どこか居心地悪そうに視線を逸らす。
自分が今から頼もうとしていることに、罪悪感を抱いているのだろう。
「……ミルコさん」
覚悟を決めたように、優子がこちらを見つめる。
「あなたから、ユウキに言ってあげてくれないかしら。ヒーローの夢を、諦めろって」
一瞬の沈黙。
「……言わねえ」
だがミルコは拒絶した。
優子は目を閉じ、悔しそうに表情を歪める。
「……そう、ですよね」
わかっていた。
最初から無理だと、心のどこかで理解していた。
そもそも、あの時、ユウキの心が折れなかった時点でこの話は無理なものだった。
自分には止められないと分かっていて。
自分には止める資格はないと思っていて。
やっとできた夢を応援したい気持ちもあって。
だが、それでも止めずにはいられなかった。
万に一つ、億に一つ。
ヒーローを諦めて、ただ健やかに生きる道があるなら。
母として、そこに縋らずにはいられなかった。
「──あんたら、似た者親子だな」
ミルコの頭に浮かぶもう一人の姿と優子の姿が重なる。
この親子は、決して強い精神の持ち主ではない。
臆病で、気も弱い。
だが──
守りたいもののためなら。
止めたいという我欲のためなら。
最後の一歩を、踏み出せる。
そのかけがえのない勇気は瓜二つだった。
その言葉に、優子はぽかんとした顔をする。
しばらく思案して、やがてくすりと笑った。
「ふふ……親子ですからね」
少し間を詰めて、いたずらっぽく覗き込む。
「ねぇ、ミルコさん。少しでいいから……ユウキのこと、見てくださらない?」
さっきまでの重苦しさが嘘のようだった。
ミルコは視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「……気が向いたらな」
引き受けたわけじゃない。
それでも、その言葉のどこかが優子の琴線に触れたのだろう。
彼女は上機嫌に踵を返し、軽やかな足取りで家路についた。
その背中を見送りながら、ミルコは胸の奥に残る、妙な重みを感じていた。
──面倒なことになりそうだ。
そう思いながらも、不思議と悪い気はしなかった。
ミルコは、それからも立向居家に通い続けた。
優子との接触は想定外のことだったが、代わりに多くの情報を得た。
三ヶ月前まで無個性だったこと。
個性を得てから絶え間なく努力したこと。
すなわち、三ヶ月以内でゴッドハンドを習得したこと。
これらの情報から必然的に疑問は一つに絞られる。
──誰に、ゴッドハンドを教わったのか。
まさか毎日のように訪れるとは思っていなかったのだろう。優子は最初こそ戸惑いを隠さなかったが、その態度もすぐに柔らいだ。
お茶に誘われる回数が増え、気づけば簡単な食事まで用意してくれるようになっていた。
料理を振る舞われることに、ミルコは特に抵抗を覚えなかった。
家に戻るよりも、立向居家に寄った方が腹は満たされ、ユウキの観察もできる。一石二鳥──それだけの話だ。
今日もヒーロー活動を終え、立向居家の玄関をくぐる。
「おかえりなさい」
優子の穏やかな声とともに、いつものように人参のおやつが差し出される。
彼女はミルコの活動に興味があるらしく、今日もあれこれと質問を投げかけてくる。適当に話を合わせているうちに、玄関の扉が開いた。
「おかえり」
「おかえりなさい」
声をかけると、ユウキは視線を逸らし、足早に自分の部屋へ向かった。
しばらくして、庭からタイヤの転がる音が聞こえてくる。
日課が始まったことを確認し、ミルコは人参を手に席を立ち、静かに庭へ向かった。
そこで待っていたのは、怒涛の展開だった。
「……ゴッドハンドを、どうやって習得したか。教えます」
その代わり、特訓に口を出すこと。
それだけで今まで固く閉ざされていた口が、堰を切ったように動き出した。
円堂守。
ゴッドハンドの生みの親であり、使い手。
現在の所在は不明。
腑に落ちない点はある。
円堂の名前が知れ渡っていないこと。
そして、おそらく優子でさえも円堂という人物は知らないこと。
だが、ユウキの目は真剣だった。作り話をしている人間のそれではない。
ここで追及することもできたが、ユウキが見せた歩み寄りを無下にはできなかった。
「……分かった。それで納得してやる」
その言葉に、ユウキは露骨に安堵の表情を浮かべる。
あからさまな反応に、ミルコは内心舌打ちしたが、約束通り特訓について口を開いた。
「さてと、まずな──お前は、バカだ」
罵倒に、ユウキは訳が分からないといった声を上げる。
特訓の何が間違っているのか。
ヒーローに必要なものは何か。
一つ一つ突きつけると、やがてユウキの表情が変わった。
「……分かりました」
理解が追いついた途端、自分の未熟さに気づいたのだろう。肩を落とし、目に見えて意気消沈する。
だが──それで終わらせる気はなかった。
ミルコが笑みを浮かべた瞬間、ユウキの表情が凍りつく。
察しがいい。
「今からやる特訓は、私との対人戦だ」
「……なんでそうなるんですか!?」
庭に響く絶叫。
ミルコは愉快そうに笑いながら、私怨と理屈を織り交ぜた説明をすると、ユウキは渋々頷いた。
互いに構える。
ユウキの構えはお粗末だったが、逃げない姿勢だけは評価できた。
「よし。始めるぞ」
次の瞬間、ミルコは踏み込んだ。
打撃で圧倒しながら、技の一つ一つを見せつけるように繰り出す。
ユウキには一瞬一瞬で傷が増えていく。
二人がもし師弟関係と仮定しても、師匠とは呼べないほど荒々しい教え方である。
やがてユウキは大の字で倒れ、意識を失った。
その姿を見下ろし、ミルコは静かに笑う。
──伝わっただろうか。
一つは、愛。
優子に頼まれたからこそ、"死なないために"あえて殺気立てて戦った。
危機感を覚えるために。
もう一つは、期待。
ミルコがユウキを信頼した、という証。
ヒーローを目指すものとして、いち早く成長するべく、あえて手加減を減らして戦った。
強くなるために。
ミルコとユウキに明確なつながりがあるわけではない。
だからこそ逐一教えるつもりはないが、託された思いを無碍にすることは考えられなかった。
夕日に照らされる勝者と敗者。
沈みゆく太陽は、二人の関係の始まりを祝福しているように見えた。