雁夜おじさんwith時計頭   作:れんこんもどき

8 / 8
遅れてしまって、本当に申し訳ない!


第八話 最高は突然、最悪は偶然

「私、藤村大河。あなた達は?」

 芳ばしい金木犀の少女は、腰に両手を当て喜色を滲ませながら質問する。こてん、と首を転がして覗き込む彼女の顔は血色が良く、美麗な顔立ちをしている。

 髪を後ろへ束でまとめ短くしており、格好のいい鼻筋、ぷっくらと滑らかな赤子のような唇。まつ毛は短めに切り揃えられているが、それが彼女の力強い目を注視させてくる。

 その目には期待や興味が覗いていたけれど、ふらふら揺れ続けていた。

 彼女の金木犀が汗に反応し、より強く、より濃厚に漂う。

「ウェイバー。ウェイバー・ベルベットだ」

 そんな大河の質問に間髪入れず答えたのは、ウェイバーだった。

 胸の前で腕組し不機嫌そうに鼻を鳴らしつつも、彼の耳は熱を帯び始めている。大河からそっぽ向いた彼は、ぶっきらぼうにライダーへ通訳を頼んだ。

「うむ、この坊主がウェイバーという名で、余は! 征服王! イスカンダルである!」

 生暖かい視線をウェイバーへと向けながら、ライダーは通訳した。

 そして自身の紹介をする時、彼はポージングを決め込んだ。

 彼の轟音が橋を固定する螺子を揺らし、金属の中で声が反響し続ける。その際、当然のように真名を喋ってしまうが、ウェイバーは雲一つ無い空を見上げて無視をしていた。

 ため息を吐かず何事もないよう振る舞う彼は、洗練されていた。

 ──ボクは分かったんだ。こいつは好きにやらせればいいって。

 誰に教えるわけでもないが、彼は心の中で呟く。

 橋の上で空虚に轟いた名乗りは、大河の心に染み渡りもしないだろうとウェイバーは目星を付けていたが、返ってきたのは予想外の反応だった。

「──カッコいい! 良いわね、その名乗り方! 私も真似しようかしら…」

 天真爛漫にはしゃぐ彼女は、影などなかったように笑っていた。

 ぴたりと止まって腕を組み眉間に皺が寄る姿に、ウェイバーは無性に喉が乾いて仕方なかった。

「と、いけないいけない。しっかりしないと。二人とも、取り敢えず商店街の方にいってみましょ? そこなら話が聞けると思うわ!」

 大河はかぶりを振って腕を解き、両手で頬を軽く叩いた。ふっくらと頬は揺れて熟し、すぐさま元の色に戻っていく。彼女の頬には手汗であろうものが薄い膜となって張り付いていた。

 海から漂う微風によって、彼女の亜麻色髪はゆっくり流れる。髪の一本が頬に付き、その先端は口端に。

 それに気づいた彼女は、眉を八の字にしながら指先で摘んだ。そのまま耳の後ろへと払い、慎ましく息を漏らした。

 なぜだか、ウェイバーの心臓はその息よりも煩く鼓動を発していた。

 

 商店街は騒がしく和やかな空気が漂っている。

 群衆というには少ないが、それなりの人数が通りを歩いていた。

 通りには多くの店が立ち並んでいる。床屋があって、その隣には呉服屋が。雑貨店は三店舗ほど離れた場所にある。魚屋や精肉店はすぐ近くに店を構え、店先には逞しい体つきの男が二人。

 店と店の間には小さな隙間があり、そこを覗けば何かの配線や換気口が無骨な姿を現し目を引いた。そんな路地裏の奥には、毛並みが光を照らす黒猫がいた。

 ウェイバーは視線を逸らして前を向く。

 目の前には、亜麻色の少女。

 鼻歌交じりに歩く彼女は、体を小さく揺らして、笑顔で──

 その様子を見る度に、ウェイバーの心臓は煩くて仕方がなかった。

 気を紛らわせようと深く息を吸うと、色々な匂いを感じる。

 ウェイバーの鼻腔をくすぐったのは、太陽の匂いと、金木犀の匂い。それと、金網の上で焼ける魚の匂いだった。

 香ばしく焼ける匂いに釣られ、そちらを見れば七輪が店先に出され、その上で肥えたサバが焼かれている。皮から溢れ出した油が七輪の炭に落ちてゆき、更に匂いが広がっていく。焼かれたことで身は引き締まり、一口食べれば濃厚な味わいが舌を暴力的に染め上げるだろう。

「さぁさぁ、この時期旬のサバはいかがですかぁ!? 今なら試食もできますよぉ!」

 魚屋の店主は声を張り上げ、周囲の人間へと宣伝をする。一人、二人と匂いに釣られ引き寄せられていく中には、ライダーの姿もあった。

「魚か。どれ、一切れ頂こう」

「お兄さんでっかいねぇ! はいこれお箸、使い方は分かる?」

「無論、知っているとも」

 店主とライダーの体格は二倍の差があった。しかし、店主は物怖じせずに笑顔で話しかけた。

 ライダーの分厚い手のひらに小さな木の箸が収まる。

 彼は器用に数度動かすと、満足そうにサバを見た。皮に焼き目がほどよく入っており、油と気泡が少しずつ溢れていた。

 箸先を皮へと入れてゆく。

 皮が心地よく砕ける音と共に、油が七輪に溢れ出した。箸を広げると、白身が見えた。脂が乗った肉からは香ばしい香りがして、誰かが唾を呑み込む音が聞こえる。

「では……」

 左手を皿のようにして、口の下に置いたライダー。

 箸先で白身を摘むと、口にゆっくりと運んでいく。舌に乗せ、口を閉じ、数度の咀嚼。

 目を閉じて噛んでいた彼は、やがて呑み込むと目を見開いて箸を店主へと返した。

「ん、こりゃうまい! 炭の匂いと魚の脂。繊細な味ながら塩味がよく効いている」

「でしょう? ここ最近は旨い魚がよく取れるんです」

「気に入った。一尾貰おうではないか」

「毎度あり!」

 ライダーは懐を探ると、小さな財布を取り出した。

 使い古され、皮が草臥れてしまっている財布。しかし、その財布は汚れ一つ無い。

 到底彼が使うように見えないその財布は、ウェイバーの物だった。

 

「待て待て待てぇ! 何ボクの金を使おうとしてるんだよ!?」

 人だかりをかき分けるようにしてライダーの元へと走ったウェイバー。その後ろから苦笑しつつも大河が付いていく。

 ライダーの肩を掴み後ろを振り向かせるが、彼は視線を逸らさず当然のように笑っていた。

「知らんのか坊主。旅に軍資金は必要不可欠だぞ?」

「それは軍資金じゃなくてボクの財布だろ! さっさと返せ!」

「まぁまぁ、こいつを食ってみろ。そうすれ…ば……?」

 ライダーは七輪を指差すと同時に視線を動かす。七輪の上にあったはずの魚が消え、金網の奥に火種の残った炭だけがあった。

 ウェイバーの背後からひょっこりと顔を出した大河が眉を顰め、辺りを見渡す。

 周囲の人々は困惑した様子であり、それは店主も同様だった。

 彼女は七輪を見ると──ふと気づく。

 金網に油が糊の代わりとなり黒い毛が付いている。しゃがみ込んで手に取ろうとすれば、風が吹いてしまい空に飛ばされてしまった。

 あ、と小さく漏らす彼女の耳へと風に乗って、にゃー、と甘い鳴き声が聞こえた。

 声のするほうを見れば、一匹の黒猫が座っていた。その前には焼鯖が落ちている。尻尾を左右に振り、前足の毛並みを整えようと舐めていた。

 猫は先程より甘く鳴くと、焼鯖を咥えて通りを走り去っていく。

「あんのどら猫、またやりやがった!」

 店主は額に青筋を浮かべ、顔を真っ赤にしながら言った。

 鼻息を荒くしている彼に、しかし大河は動じること無く話しかける。

「おじさん、あの猫知ってるの?」

「あぁ、大河ちゃん。最近うちの魚を持ってく奴でね。上物ばっか盗ってくんで困ってんのよ!」

 しかし、店主は猫を追いかけようとはしなかった。

 彼は腰をこんこん叩き、深くため息を吐く。

「あいつ、いっくら追いかけても狭い路地ばっか通ってくんで、昨日腰を痛めちまったんだ。歳っつぅのは嫌だねぇ、ほんと」

「見た所、齢五十と言った所か。確かにその歳から肉体は衰え始めるからな」

 店主はライダーのほうを向き、感心するように息を漏らした。

「お前なに言ってんだよ!? すみません本当に!」

 ウェイバーはライダーの代わりにぺこぺこ頭を下げると、彼の腕を掴もうとする。

 しかし、その腕は横から伸びた手に止められた。

「おじさん、猫ちゃんなら私()が捕まえるわ!」

 ウェイバーの手首を掴んだのは、大河である。

 柔らかくも所々に豆がある筋肉質の掌に手首を包まれた彼の顔は赤いが、その赤みは直ぐに消え失せた。

 ──私達?

「いやちょ──」

「ほら、行きましょ!!」

「おぉ、気をつけてぇな大河ちゃん、彼氏さん!」

 ウェイバーは店主の言った言葉に一瞬呆け、しかしすぐさま反論しようと口を開こうとするがその前に大河に引きずられていく。抵抗する暇もなく、彼は消えていった。

 彼の情けない声が商店街に木霊し、引きずられた後には土煙が立っている。

 その場には微笑ましいものを見る目をした人だかりと、目を覆いながらうんうん頷く店主、そして呑気にも魚を買うライダーだけが残った。

 

 商店街の路地裏は、太陽が昇っていようと暗がりのままであった。

 壁に支えられた鉄パイプは建物の中に繋がっていて、おそらくは換気扇の役割を果たしているのだろう。光が当たらないからか、鉄さびがこびりついているように見える。

 辺りには鉄さびの匂いが充満している。

 どうやら、目には見えない場所で錆びている所もあるらしい。

「んむむ……」

 地面に接する換気扇の僅かな隙間を覗こうとする大河。

 地面に手を当て、腰を下ろしている。

 まともに清掃もされていないのか、油と埃で薄汚れた地面に膝が当たっているが彼女は気にせず猫を探していた。地面には割れた空き瓶の欠片も落ちている。

「……」

 その彼女の背後でウェイバーは未だに立ち尽くし呆けるばかり。

 ──彼氏さん、彼氏さん。

 先程の言葉が彼の中で反響している。

 ウェイバー・ベルベットは学生の身ではあるが、そのような甘酸っぱい関係を持ったことはただの一つもあり得なかった。学友こそいるが浮ついた関係ではないし、彼とそういった関係になりたいという人間も彼自身聞いたことがない。

 魔術師の多くは、家系と血筋に誇りを持ち合わせている。血脈のように紡がれた魔術の歴史は、彼ら自身の尊厳とも言っていい。

 故に恋人だとか、婚約者だとかは優秀な血筋の者と結ばれるのが魔術師の暗黙の領域だった。

 ウェイバーは魔術師としても、血筋にしても三流以下の人間だった。

 ロンドンに存在する魔術師の本拠地──時計塔。

 彼はこの時計塔に入る為に受験をし、一度()()()。その後、家にある家財のほとんどを売払い、裏口入学を果たした。

 端的に言って、彼は魔術の道を目指せる実力を持ち得なかった。

 血筋についてもそうだ。

 彼の家に魔術が伝わったのは、祖母がまだ若く美しい頃である。

 魔術師の愛人の一人であった祖母は、男に抱かれた晩に軽い余興で魔術を見た。その後、生まれた子供に思い出話のように軽く教え、老衰でこの世を去った。

 子供は教えられた魔術に興味関心を一切持たず、しかし家族の大事な記憶であったからか自らの子供にも魔術のことを教えた。

 そして、ウェイバー・ベルベットが魔術を継いだ。

 一般の出であるウェイバーの血筋は優れたものでなく、当然時計塔では侮蔑の対象であった。

 時計塔で彼が好意的な視線に晒されたことはほとんど無い。

 そんな自分にとって、この街は心地よかった。

 

「そこを探したってネコは見つからないだろ」

 ウェイバーは大河の傍に歩み寄り、膝を着いて肩を軽快に叩いた。

 言葉が伝わらないことは分かっていたが、それでも言葉を発した。

「どうしたの?」

 彼女は顔を上げて、訝しげにこちらを見ていた。そんな彼女に彼は手を差し伸べる。彼女はその腕に目をぱちくりさせながら手を取り、起き上がった。

「これ、使ってくれ」

 彼がズボンのポケットをまさぐると、中から丁寧に三つ折りされた綺麗な白いハンカチが。

 そのハンカチを彼女に差し出すと、彼は大河の膝を指さした。

「え…あ! ごめんなさい、ありがとう!」

 大河の膝は灰色に薄汚れており、それを見てようやく状況を理解したらしい。感謝を述べながらハンカチを受け取り、汚れを拭き取った。

「洗って返すわ」

「いい、大丈夫だ」

 ハンカチは汚れを綺麗に吸い取り、灰色になっている。それを申し訳なさそうにしながら、彼女はそんなことを言った。勿論、言葉は通じないからジェスチャーを混じえて。

 ウェイバーはその言葉に首を振るいハンカチを取り返しズボンの後ろポケットに突っ込むと、手招きをして換気扇の上を指した。

「あっ……」

「見えるか? ネコの足跡だ」

「え、あ、キャット?」

 換気扇の上は埃と油まみれだったが、ぽつぽつ猫の足跡が残っている。それだけでなく、足跡の近くには艶のある黒毛が落ちていた。

 ウェイバーは足跡を指さし辿ると、それは換気扇から地面を移動し排水溝で途切れていた。

「そっか! 路地裏を通っていたのは下水道に逃げるためだったのね!」

 大河は近くにあるマンホールを掴むと、そこを開けようとし────

 ────不思議な力で固定されているように、開くことは無かった。

「あ、あれ…前は開いたのに! ぐぎぎぎぎ!!」

 歯を食いしばり腕いっぱいに力を込める大河。血管を浮かび上がらせ鼻息を荒くしているのにも関わらず、びくともせず蓋は閉まっていた。

「ぬんがぁぁぁぁ!!?」

 乙女の尊厳を捨て去った奇妙な声を発しつつ、彼女はどうにかして抜こうとし、しかし手が滑ったのか尻から地面に激突した。

 

 ウェイバーの目には見えている。

 マンホールに、波のような魔力が巡らされている。その魔力は幾重にも重なり合っていて、そして一つの魔術式になっていた。

 ──これは……。

 

「何してるんだい?」

 

 ねっとりと薄気味悪い声が耳の底から這い上がる感覚が、ウェイバーを襲った。落ち着き払っていながらも明るい声色は、体全体を巻き付ける鎖のように感じられる。

 慌てて後ろを振り向けば、大通りからの光で照らされる男がいた。

「ッ…!?」

「ん? あぁ、ごめんごめん。驚かせちゃったかな」

 ひらひらと左腕を振りつつ「警戒しなくてもいいよ」と呑気に喋る男。垂れ下がった右腕の手の甲には、血が飛び散った跡のような『令呪』が刻まれていた。

 ウェイバーは咄嗟に両手を背中側に回し、ライダーを此方に呼ぼうとする。

『ライダーッ! 早く来てくれッ、敵マスターが目の前に居るッ!!』

『相判った! 直ぐ向かう。それまで持ち堪えろ坊主!』

 

「お〜い、聞こえてるかい?」

「あ、外国人なんです。日本語が分からないらしくて……」

「道理で欧米顔だと思ったんだ! 所で、さっき尻もち着いてたけど大丈夫かい? ハンカチ使う?」

「いえいえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 男は大河の言葉に安心した顔を見せ、にこやかな笑みを浮かべた。

 男の装いはゆったりとした薄紫色のジャケットに白いTシャツ、豹柄のベルトとこれまたゆったりとした色褪せた黒色のズボンだった。髪色はオレンジ色で、少し軽薄な印象を与えているがこれが似合っている。

「こんな所でなにしてたんだい?」

「今猫を追いかけてて、下水道に逃げちゃったみたいなんです」

「──へぇ……下水道かぁ……」

「? なにか言いました?」

 大通りから賑やかな人の声が聞こえ、男の声はかき消された。

「オレも猫捕まえるのに手伝いたいなーって」

「え!? 良いんですか!?」

 ウェイバーは冷や汗を掻きつつも、どうすればこの状況から脱出出来るかを思考していた。大河と男は和気藹々と話し続けているが、このままでは間違いなく男は同行することになるだろう。

 大河の手を引っ張って逃げてもいいが、男が何をするか分かったものではない。

 時間を稼ごうにも、男は大河を見ているようでその実ウェイバーを見ていた。

 多くの視線に晒されたからこそ、ウェイバーはその視線に純粋で理解しがたいなにかが詰まっていると理解できた。理解できてしまった。

「アンタ、さっきから手を後ろに回してるね。どうしたんだい」

「いや、これは……その……」

「見せてよ」

 男はそう言うと一瞬でウェイバーの右腕を掴み、有無を言わせず無理矢理動かす。彼は右手の甲を確認し、目を大きく見開いた。

「怪我してるじゃないか」

 ウェイバーの右手には、赤く滲んだハンカチが巻かれていた。

「あ、本当だ!? 大丈夫? 痛い……に決まってるわね! 待ってて、包帯貰ってくるから!」

 

 大河は慌てて身を翻し、大通りに抜けていった。

 風もかくやと言わんばかりの速度で、ウェイバーは静止の言葉をかける暇さえ与えられない。

「うひゃぁ、最近の子は凄いなぁ」

「手、離してくれませんか」

「おっと、Sorry♪」

 ウェイバーが腕を動かしながら言うと何が楽しいのか、彼は鼻歌交じりに手を離した。

 ウェイバーの左手には血の着いた空き瓶の欠片が握り締められていた。ばれないようにそっと、欠片を袖の中にしまい込んだ。

「ねぇ、アンタ。あの子は恋人かなんかかい?」

「……」

「英語で喋ってるんだから、少しは反応してくれてもいいじゃんか」

「……」

「ちぇっ、つれないなー」

 

「ふふんふっふふ♪ ふふんふっふふ♪」

 それから何分経ったのだろう、一分、二分。いや五分は経ったかもしれない。ウェイバーの喉が今にも乾きそうになるが、実のところ三十秒も経っていなかった。

 引き伸ばされた時間の中で、頭に鼻歌が入ってくる。

 男の鼻歌は即興で作られているのだろうか、奇妙なリズムで歌われていた。 

「アンタ、マスターってやつなんだろ?」

 男は突然、鼻歌を止めた。

「何を言ってるのか──」

「人間は嘘を付く時、少し考えてから話す人と咄嗟に話す人に分けられるんだ。これ、実体験ね」

「オレは旦那みたいな魔術師ってやつじゃないけど、それでも何となく分かるんだよね。アンタが他の人間とは違うのも、何となく分かる」

 男は懐を探ると、小さなパレットナイフを取り出した。

 ウェイバーが後ろに下がる前に、彼は空気を刺すように喉元へとナイフを突き出し、喉仏に刺さる直前に停止した。

「ッ〜〜!?」

 ウェイバーの目線はパレットナイフへと釘付けになっていた。

 それは、これから殺されるかもしれないという恐怖もあったが、それ以上に奇妙なナイフを突きつけられていたからだ。

 持ち手は皮で出来ている。でも、動物の皮ではなかった。

 ──人だ。

 持ち手部分が人の指を正確に再現した代物であると脳髄に叩きつけられる。皺の一つ一つが先程まで熱を帯びて生きていたのではと考えさせるほど、それはそれは生々しかった。

「お、分かる!? これさぁ、作るのに凄く苦労したんだよ。(なめ)しをこの小ささでやるって集中力が問われるからさ。刃部分は肘の骨を使用したんだ。加工しやすくて硬い部位はそこぐらいで──他にも──」

「お前、イカれてるのか!?」

 絶叫に近いウェイバーの声はねずみ一匹感じさせない路地裏に反響し、男の鼓膜をつんざいた。

「ハハハ、イカれてなんかないよ。オレはオレのしたいことをしてるだけだもん。まぁ、世間一般ではイカれてるらしいけど」

 男は純真な子供のように笑いながら、少しずつ首に刃を食い込ませ始めた。

 ぷっくりと凸凹し始めた血管から、少量の血が垂れる。

「オレにとって殺人は当たり前なんだ。生まれた時から(さが)を無視するなんて、間違ってるよ。そりゃ、殺人は悪いことだって皆言うけどさ? オレみたいな生まれつきの人間は必ずやるし、やろうとする。だから、仕方のないことだと思ってよ」

 ウェイバーは魔術で抵抗するために、魔力回路を開いた。

 ──なんでもいい、なんでもいいからこいつをどうにかしないと!

 彼は後ろ手に隠していた空き瓶の欠片を突き刺そうと、大きく振り上げ下ろした。光を呑み込む薄茶色の硝子は表面が鈍く光っている。

 肩口目掛けて落ちる腕は、しかし男の手によって掴まれた。

 そのまま音を立てて壁に打ち付けられ、ナイフがより深く首に食い込まされる。

「いやぁ、危ない危ない。そこまで格闘とかの経験はないからさ、危うく殺されちゃうかと思ったよ」

「ぐっ──」

 ウェイバーは指差しの呪い(ガンド)を発動せんと指を立てる。男がそれに気づいた様子はなく、彼の不出来な攻撃魔術でもそれなりの効果が出ることだろう。

 「同じマスターのよしみってやつで教えておくよ。オレの名前は雨生(うりゅう)龍之介(りゅうのすけ)。覚えなくてもいいよ、()()()()()君?」

「な!? なんで名前──」

 

 

「そこまでにしてもらおうか、若造」

 

 

 その声は、ウェイバーにとってここ最近慣れ親しんだ声である。

 路地裏に暑苦しくも威厳のある声が、低く響いた。

 その声を聞くだけで冷や汗が止まり、体がまともに動けるような気がした。

 天使の喇叭(ラッパ)が鳴った時の人の気持ちというのはこういうものなのかもしれない。

「ライダー!」

「うわぁ……!(あね)さんの言った通りだ! 雰囲気が違うや!」

 龍之介と名乗った男は危機的な状況であるはずなのに、嬉しそうに笑っている。

「お主、頭が飛んでおるな。その匂い、一体何人殺してきたのだ? 一人二人では到底染み付かんぞ、この死臭は!!」

「確か、六十六人だったかな。最近は家族とかを率先して襲ってるからさ、結構伸びるんだよね」

 龍之介は考える様子もなく、さらりと言ってのけた。

 六十六人、それだけの人間が彼によってこの世から消えている。それは、どこまでも彼が人間として終わっていることを両者に理解させた。

「フンッ!」

「ととっ、作品は傷つけないでよ。どんなものでも、オレにとっては大事なモノなんだから」

 ライダーは瞬時に足を踏み鳴らし、龍之介の眼前に拳を振るった。しかし龍之介は肌の産毛と拳が当たるギリギリで横に顔を逸らしてみせる。当たるかと思われた徒手は、そのまま伸び切って路地裏の壁に大砲のような跡を遺した。

「姐さんの言った通りだなぁ、今日は帰るとするよ。またね、ウェイバー君」

「逃がすと思うか!」

「じゃあね。また明日とか!」

 

 彼はその言葉を発すると、蜃気楼のように空間に溶けていった。

 まるで、元々そんな人物は存在しなかったように、路地裏には静寂だけが満ちていた。しかし、壁に開いた穴が彼の存在を証明しているのだった。

「おーい! 包帯持ってきたっ……て、えぇ…? な、何があったの……?」

「あは〜。なんだか凄いですね〜?」

「はぁ、はぁ。ふっ、二人ともちょっと……はぁ……待っ、待って……」

 包帯を持ちながら絶句している大河の横に、二人の男女がいた。

 片方は何処か浮き世離れした雰囲気を持つ中性的な長身男性で、おおらかな話し方をしているがその目線は少し鋭かった。右目は墨汁を垂らしたように暗く、反対に左目が翡翠色に輝いていて、宝石というよりは(ぎょく)を連想させる。まっすぐ整えられた鼻筋に、程よく湿った唇は柔らかく閉じられ、微笑んでいた。

 絹のように柔らかそうな濡れ羽色の髪を後ろに一つ束ね、それでもなお腰に届くほどの毛量。灰色のスーツコートを着こなしており、赤いネクタイを結んでいる。右胸には顔写真と名札をぶら下げていており、スーツの襟には英数字で『NO.6』と番号が描かれていた。

「僕はホンルと言います。大河さんに包帯を持ってないか聞かれて、ここまで来ました」

 へにゃりと笑った彼は、後ろで息切れをしている女性を紹介した。

「彼女は疲れているようなので、僕が代わりに紹介しますね? 彼女の名前はロージャ=ロジオン=ロジオン ロマノヴィッチです。気軽にロージャさんって呼んで上げて下さい」

「へへ、よろしく……」

 カールさせた茶色の長髪を持つこれまた長身の女性。ロージャと呼ばれた女性は目尻が優しく上がっており、よく笑う人物なのだろう。普段は快活な雰囲気を持っているのだろうが、疲労困憊の様子でありその面影は感じられない。

 腰まで届くよく手入れされた髪は、彼女の性格を表しているようだ。

 口には薄い桜色の口紅を塗っており、毎日手入れをしているのだろう肌は水気をしっかりと持ちぷるりと汗を弾いていた。そんな彼女も灰色のスーツコートを着ており、赤いネクタイを結んでいた。そして、その上からでも分かる健康的な肉感のある体を彼女は持っている。

 彼女の腰下に顔写真と名札がぶら下がっており、スーツの襟には英数字で『NO.9』と描かれていた。

「って、そんなことより! 首に怪我してるじゃない!? 巻くからちょっと待ってて!」

「あ、ああ」

 ──この服、確か昨日の……。

 ウェイバーはライダーに視線を向け、そっと息を吐いた。

 彼が包帯を大人しく巻かれていると、路地裏の換気扇が音を立てながら回り始めるのだった。

 

 

 

 

「おーい! 姐さぁん! 旦那ぁ!」

「おや、リュウノスケ。どうしたのです?」

「実はさぁ! さっき超COOLな少年と会ってきたんだよ!」

 水が滴り落ちる音と、二人の男の声が不気味に下水道に響いていた。旦那と呼ばれた男は、手元で弄っていた肉塊を置くと、龍之介に向き直る。その肉塊は、黒い毛並みであった。

 ぎょろぎょろと蛙のように焦点の合わない不気味な目だが、龍之介を見る彼の目には優しさが籠もっている気がしないでもない。

「それはそれは、実に素晴らしいではないですか。貴方がCOOLな気持ちになればなるほど、私達の活動もより意味を為すというもの」

「ジル、そのクールってやつ止めて」

 二人の間に、一人の少年が割って入った。

 中性的な顔立ちで、肩口まで切り揃えられた銀髪。鼻筋も唇も煽情的で、この場所には似つかわしくないように感じる少年は不満そうに言った。

 彼の目は円が重なっているようであり、覗き込めば二度と戻れなくなりそうな瞳であった。白黒で統一された瞳を持つ少年は裸であった。

「プレラーティ、服はちゃんと着ませんと風邪を引きますよ?」

「そうだよ姐さん。旦那の言う通りだ」

「君は一回黙っててくれ。うぅ、酷いよ我が友! 一夜を共にした仲じゃないか!?」

 プレラーティと呼ばれた少年は『黄金の枝』を持ちながら、さめざめと嘘泣きをするのであった。

 

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