完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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これは、私が大人になるまでの話。
褒められたいなんて子供っぽい願いを抱えていた私が、終わりにたどり着く話。
これ以上ないくらいの、最高の終わりにたどり着く話。
その、はじまりの話だ。


第一章 青空とアルビレオ
はじまりの気持ち


 

 

 褒められたい。そんな子供じみた動機だって、本当に子供ならなんの問題もない。だから小さい頃の私の行動には、いつもそういう理由がついて回っていた。頑張っていて偉い、いろんなことを考えていてすごい、そうやって褒めてもらえるのは当たり前のように嬉しかったし、じいちゃんは特に褒めてくれたから、私はますますいい気になった。

 天真爛漫かつ元気で無邪気、何も考えていないような表情を無防備に見せる、幼い私がそんなふうに人の気持ちを素直に受け止められたのも、やっぱり子供なら何の問題もない。

 世界の中心に自分を置いて、それで世界のすべてを視界に収められているのだと誤認していたとしても、何の問題も。けれど──。

 

「入学おめでとう──」

 

 ──スピーカーから流れる声をぴくりと耳が拾ってしまい、もう少しで閉ざし切れるはずだった私の微睡は、まるで蜘蛛の子を散らすように飛んでいく。

 教室の奥の奥の片隅も片隅、普段は別の誰かが使っているだろう机に伏せたままゆっくりと目蓋を開く。少し使い込まれた木のにおいがするそれから、下半分のほっぺたにほんのり赤い居眠りの跡を付けた顔を上げる。

 そんなふうに寝ぼけ眼の私がなんとか目覚めた時最初に目に入ってきたのは、座っていたすぐ横の窓の外に広がるキレイな青空だった。

 さて、今私がいるここは無人の教室の一つの椅子の上。そして私が本来いるべきなのが先ほど演説の始まったスピーカーの先、トレセン学園入学式の会場。

 とどのつまりどういうことかというと、やる気のないウマ娘たる私セイウンスカイは、初日からサボりを決め込んでいるのだ。他の全員がいるに決まっている場所に行かず、誰もいないようなところを探してアウトローに過ごしている。

 のんびり気ままに、誰にも左右されずに。あの頃とはずいぶん変わったはずの今でも、天真爛漫なことくらいは変わらない、みたいな。

 というわけで、こんなのも私らしい行動なのだ。すべては気分次第、気まぐれ、ね。

 

「日進月歩──是非とも──」

 

 教室中にはいまだスピーカーから雄弁とした声が響き渡っている。とはいえそこから常に流れている生徒会長にして七冠ウマ娘、最強の皇帝シンボリルドルフさんのありがたいスピーチも、今の私には心地よいそよ風のよう……。いやあ、これを肉声で受け取ってたら緊張して眠れないか、流石に失礼すぎて居眠りを咎められるかだろうなあ……なんて、また眠くなってきたような……。

 そうやって再び瞳を目蓋に閉じ込めながら、思考は緩やかに滑っていく。今度こそ、世界を閉ざすために。まあ色々言い訳には慣れていたから、そうやってスピーチを聞き流して惰眠を貪るまでの僅かな間に、私自身を納得させることはできた。私の良心らしきもの、なけなしのそれを説き伏せる論理を並べてしまうことは簡単にできた。

 

 

 どうせ私なんていなくても、入学式はつつがなく進行しているし、とか。だから気にするな、そのままサボってしまえ、とか。きっとこれからも、予想通りで、期待以上なんかには、とか。滑って、滑って、滑り落ちていく。

 表面的な思考から、少し深くにある暗がりの更に奥の奥まで。浅かろうが深かろうが、どうでもいいこと、だった。まるでそのまま眠りに落ちたなら、奈落の底まで落ちていきそうなほど、だった。

 

「何してるんだ、こんなとこで」

 

 だけどそこで、聞きなれない男の人の声が私の耳に届く。エクスクラメーションマークを付けてるようでもないのに、その人の声は地声の時点で、今日この日の時点で既にうるさかった。

 あとから振り返れば。あくまであとからの話で、その時の私にとっては、気持ちよく眠れるはずのところを見知らぬ男が叩き起こしてきた以上ではなかったけど。

 

「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」

 

 あとから、あとから振り返ったなら。この正論男は最初から、私を掬い上げていたのかもしれない。鬱陶しくて暑苦しくて、それでいて私より本心を隠しがち。そんな面倒だけど不器用すぎるくらいに真摯な、私のトレーナーさんは。

 これが、すべてのはじまりだ。

 

 

 

 

 

 

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 さて、せっかくのサボりと昼寝を見知らぬ男に邪魔された哀れなセイちゃん。とはいえそれなりに悪いことをしている自覚はあるので、そんなふうにちゃーんと糾弾されると分が悪い。「入学式なのに何してるんだ」と問われた際、「サボりで何か悪いですか」なんて初対面の人に開き直るほど喧嘩を売りたがりではない。度胸がないともいえるかもしれないけど、まあそれはそれ。

 というわけで、私の初手はこうだった。この場を潜り抜ける、駆け引きの初手、みたいな。

 

「おや。いきなり入ってきて、どちらさまですか〜?」

 

 と、思いっきり話題をそらす。多少強引ではあるけれど、どう転んでもうやむやにしやすい一手だ。それを更に突っ込まれても、話がどんどんずれていっても。

 なのでまあ、安全を考慮した初手だったんだけど。

 

「俺か? 俺はここのトレーナー、チーム<アルビレオ>のトレーナーだ。君は?」

 

 そうやって話題を逸らしたのに、目の前の男、本人曰くチーム<アルビレオ>のトレーナーさんは、この上なく真正面から話題を受け止めて、そっくりそのまま真っ直ぐに返してきた。

 まあトレーナーなことに驚きはない。ウマ娘がトゥインクル・シリーズを駆け抜けるのにはチームへの所属とそれを指揮するトレーナーが必要で、トレセン学園とはそもそもそんなトレーナーと担当ウマ娘を引き合わせる場所。それくらいは私も知っていて、ならばトレセン学園にいるヒトが学園関係者かトレーナーの二択なのも自明の理。

 なんて、それは割とどうでもいい。この人がどういう人かなんてのは、どうでも。

 今の私にとって大事なのは、この場を切り抜けるための方法。ここまでのほんの僅かな会話で、既にわかったことがある。

 人を見た目で判断するのはあまりよくないとはいえ、その濃くて太い眉と、いまにも輝きだしそうな白い歯とか。

 ボリュームの基準が私とは違うんだろうなって感じの大きな声と、それに乗せられてこちらに投げつけられるひたすら直球の言葉たち。

 ここらへんがまとめて合わせて、眼前の男の大体の人物像を私の脳裏まで印象づけてくる。いわゆるファースト・インプレッション。それは単純であっさりして、若干かなり出したくない結論だった。

 こいつは私の苦手なタイプだ。暑苦しくて、バカに真面目で、全然融通の利かないタイプ。とびっきり、本当に苦手な、相性最悪の人間だ! 

 

「ごあいさつどーも、私の名前はセイウンスカイです。まあ、これきり会うこともないでしょうけど」

 

 そう露骨に冷たく言って、がたんと雑な音を鳴らしながら席を立つ。この男のせいで眠気も飛んでしまったし、まだ未知の場所であるこの学園の中をうろちょろ探索してみようかな。サボりを咎められた直後になんだが、入学式に今更出るのはやっぱり居心地が悪いし。

 とにかくこの教室からは出てしまおう、そのつもりだったのは確かなこと。別にこの人が悪いわけじゃないけど、ウマが合わない人間が二人きりで同じ空間なんて碌なことにならない。お互いのためにもさっさとこの縁は切った方がいいだろうし、それをあっちからしてくれそうにはないし。

 そういうわけで、私が立ち上がった時だった。そんな私の気なんて露ほども知らないって感じで、目の前の脅威はやっぱりストレートな言葉を私にぶつけてくる。本当に、私の気なんて露ほども知らないで。

 

「セイウンスカイか。いい名前だな、覚えておこう。俺は走りそうなウマ娘の名前は覚えておくことにしてるんだ」

 

 何も知らないくせに、一言で急所までえぐってくるのだ。本当に相性が良くない、心底そう思った。

 

「……なにそれ、本気で言ってますか」

 

 走りそう、だなんて。それは、それが私にとってどれほどの。どれほどの意味を持ってるかなんて、絶対に知らないくせに。

 つい、足が止まってしまう。どうしてもどうしても、逃れられない言葉だったのだろう。そっけないそぶりでも、答えなければならない会話だったのだろう。

 だから、言葉を繋いでしまって。切り離すはずだった会話は、私自身のせいで本格的に始まった。私が始めたそれを、この男はしっかり掴み返した。 

 

「ああそうだ。トレーナーとして、自分の目には自信があるぞ」

「あなたのチームはなんだか暑苦しそうで、私としてはごめん被りますけどね」

「そうだな! <アルビレオ>の練習はそれなりにハードだと自負している!」

 

 ……はぁ。こりゃダメだ、と再確認する。相性は最悪だと、もう一度。一瞬彼の言葉に惑わされかけたけど、少し平静を取り戻せた気がした。根本的な苦手意識というものは、時に防衛本能の如く己を助けてくれるということだろう。

 シンプルな理屈で、私からすればハードさを自慢するチームなんてまっぴらごめんだ。だって私はそういうのじゃない。やっぱり、そうじゃないはずだ。のんびりゆるゆる、ゆるーいチームがあれば、それがこの上なく性に合ってて……そうだ。

 

「そうだ。トレーナーさんなら他のチームにも詳しいんじゃないですか? 教えてくださいよ、練習の楽そうなチーム」

「それなら<アルゲニブ>なんかは、そういう話を聞くな」

 

 そしてまた素直に真面目に、手に取りやすすぎるくらいにすんなり答える。みすみす他のチームを紹介するなんて、この人は自分が何をやっているのかわかっているのだろうか。

 あんな言葉を投げつけておいて、やっぱり、手を放すんだ。

 ……まあ、いいか。それは他人の責任じゃない。どちらかといえば私だって、悪くない。それはとっくの昔に知ってることだ。

 わかるのは、ただ一つ。

 

「ありがと。それじゃ、ばいばーい」

 

 どうせ私なんて、どこに行ったって。

 それで、いいのに。

 

「待て」

 

 ここに来て、私はもう一つ別のことに気づく。判断のミス。もう、遅かったけど。

 この男はこういう状況に一度持ち込んだなら呼び止めるくらいには、強情だということ。

 

「……なんですか。別に私がどこに行ったって、いいじゃないですか」

 

 あと、正確には更にもう一つ。こんなに、こんなにも私が。

 とっくの昔に区切りをつけたはずの今更のことで、こんなにも、こんなにも。

 

「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」

 

 ……なんで。二重にそう思った。

 なんで私は、ここまでこいつの話を聞いてしまっていたのか。いつの間にか向き直って、こちらまで言葉をぶつけているのか。

 そうやって、今更。今更、私みたいなのが、そんな前向きな言葉に反応してしまうのか。

 

「なんですかそれ。藪から棒に、知ったようなことを」

「トレーナーとして、自分の目には自信があると言っただろう」

「要するに勘と大して変わらないじゃないですか。さっきからずっと」

 

 なんで。いい名前だとか、走りそうだとか。諦めるな、とか。

 さっきからずっと、ずっとそんなのばっかり。無知だから言えるんだって切り捨てたくなるような、心無い言葉の数々。

 それに心を込めていることくらい、ここまでののやり取りだけでももうわかってしまうのに。あなたが本気で、本気で私にそんな言葉を投げているのだと、既にわかってしまっているからこそ。

 

「君は強くなれる。これはそのためのアドバイスだ」

「初対面の人にそんなこと言われても、説得力なんて」

 

 この男とは数分前の初対面で、私のことなど何も知らないとわかっているからこそ。その言葉の本質も、同時にわかってしまっていた。

 私にとって、それが紛れもない「正論」だった。すべて、すべて。優しさや同情などではなく、私が本当に欲しかったものをこの男は射抜く。

 それはかつて私が諦めたもの、だったのに。無責任にさえ思えるその純粋で色のない後押しが、遠い昔の私にとって世界の中心だったことなんて、絶対に知らないくせに。

 それでも出会いがしらの説教から自己紹介から何から何まで、この男が嘘や気遣いなんてしてないのはわかる。だから、その言葉さえ本心なのだろう。なにより私自身が、そう願ってしまっているのだろう。

 その言葉こそ、一番の正論であってほしいと。それを理解してしまった瞬間、ほんの少しまで穏やかに凪いでいた私の思考は嵐の如く渦巻き始める。

 なんで、どうして。理解したくない、相容れたくない。

 だってそれは、もう忘れたはずの気持ちだ。

 その気持ちは過ちで、はじまりなんかじゃなかったと証明した。そう、諦めたんだよ。

 なのに、どうしてそんなことを言うんだ。

 私が諦めたものを、私が諦めた過去を、なんでこの正論男は、そう言い当ててしまうんだ。 

 何も知らなくて無責任、そのはずなのにどうしてそこまでこちらを見据えてくるんだ。

 何も知らない、何も背負えないのに、そんなふうにすべてを見抜いてくるんだ。

 ゼロ地点でむき出しのままの私に、そんな私に期待なんかされてしまったら。

 

「俺は俺の目を信じている。君は『走る』と」

 

 そこまで言葉を尽くされたら、期待すら裏打ちされてしまうじゃないか。期待すら、正しくなかったはずの期待すら。消えたはずの、遠いはずの、届かないはずの、諦めたはずの。

 とうの昔に、終わったはずの。

 

 

 

 

 

 

 なんてことない日だった。強いて言うならその日も青空だった。来る日も来る日も道行く人に可愛がられて優しくされて、すっかり近所の人気者になっていたと思い込んでいた幼い私がいた。だからその頃の私は、今日も褒められるような立派なことをしようと意気込んでいた。それが世界のすべてで、私が何かをすることは誰かの期待に応えることなのだと思っていた。

 先に言っておくとするなら、これは誰かが悪い話じゃない。取るに足らない言葉で過剰に傷ついた私自身も含めて、大した話ではない。

 当たり前のことで、きっと世界が壊れたわけではない。その程度の、話だ。

 ただ、私が聞いた会話はこうだった。いつものように家を出て、少し歩いたあたりでメンコもつけてない私の耳が拾った話し声。

 いつも私に優しくしてくれて、いつもなんでも褒めてくれる、近所のおばあちゃんたちのなんでもない言葉たちだった。

 

「セイちゃん、いつかはトレセン学園に行ってしまうのかねえ」

「どうだろう、あそこはとんでもなく厳しいって聞いたよ」

「流石に大変かねえ、可愛い子だけど」

 

 ひょっとしたらその会話だって、優しさから来たものかもしれない。私に聞かせるつもりだってなかった、そんな時でも私のことを可愛がってくれていた、そんな会話。

 けれど幼い私にとっては、忌避すべき冷たい現実だった。

 微笑ましく、可愛らしい。それが私への賞賛の正体で、私は私が思っているほど素晴らしくなんてなかった。あまつさえ自分のことを天才だとすら思っていたけれど、何でもないことを優しくしてもらっていただけだった。

 幼少期の無根拠な傲りに、一筋ぴきりとヒビが入ったのは、その瞬間。ああでも、それだけならよかったのだ。結局私は私自身で、己の幻想にとどめを刺すことになる。

 だからやっぱり、誰も悪くない。

 本当のことを知るには、愚かな子供が現実を知るには、それだけでは足りなかった。その話を聞いた時の私はまだ、自分のことを信じていたのだ。

 私が聞いたものが自分への優しさから来る善意の本音であることを疑う理由なんてどこにもなかったのに、そこで一つ誤った。まだ一桁の年数も積み上げてないような私の今までの世界が正しいと、自分を信じてしまった。酷く拙い私なんかの積み重ねが正しいと、そういう判断の過ちを犯した。今までの方が間違っているなんて、もう少し賢しければ容易に判断できたのに。そういう意味でもやっぱり、私に子供離れしたものなんて何もなかったのだろうけど。

 それでもまだ、信じていた。たとえばトレセン学園に入れば引っ張りだこだとか、たとえばトゥインクル・シリーズの歴史に名を残せるとか、まだ、まだ無邪気に夢を見ていた。

 夢を叶えられるのはほんの一握りの人間だけなのに、この期に及んでなお私と無縁のものに縁を感じていた。

 そして夢見る少女は、見知らぬ街へと飛び出したのだ。とはいってもその頃の私の小さい脚では、三十分ほど歩き続けて、ようやく周りを知らない場所にできたくらいなのだけれど。そして結局、今まで見ていた世界なんてそれで抜け出せる程度の狭さだったのだけれど。そのことにも、幼い私は気づかなかった。

 ここから先の未知の世界で、そこでもまだ私は価値があると、そのことを信じようと必死だったから。ちっぽけな私の気の持ちようなんかでは、世界は一ミリだって変わるわけないのに。

 

 一歩、くたびれ始めていたはずの脚で一歩、私は私の知らない世界に足を踏み入れた。どこに居ても私は優秀でチヤホヤされて、知らない場所を出歩けば新しい人が私に期待してくれて、よしんば未来のトレーナーが私に見込みを感じて、スカウトまでされてしまうかもしれないと。

 そんな無知で無価値で無意味な、私だけがそれを知らない一歩だった。

 皆が私を愛する場所を作ってくれていただけで、世界は私を愛してなどいなかったのに。

 そこから先は、何も起こらなかった。本当に、何も起こらなかったのだ。

 語ることがないだけで、感じた時間のすべては今でも覚えているのだけど。幼い足取りで数時間街をうろちょろして、当たり前のように他のウマ娘を見た。

 私程度のものなんか、ありふれていることを実感した。

 それでお昼はゆうに超えた。お腹は空いていたしどんどん帰りたくなったのに、それでも間違いを認められない根性の悪さだけが一人前だった。

 昼下がりまでひたすら歩みを止めずに遠くの河川敷まで来て、幼い思考で最後の望みを託した。そこにあった小さな世界に、すべて。

 走って、走って、河川敷という小さなコースを何周も走った。いくらその頃はちゃんと走るのが好きだったからって、自分で自分に拷問をするような量を走った。この走りを見れば、私に才能があると誰かが言ってくれるんじゃないかって。

 やっぱり私は光り輝くものを持っていて、それによってこの現実が変わるんじゃないかって。ずっと頑張れば、一日中頑張れば、なんて。

 ひょっとして最後まで残っていたのは、これまで積み上げてきたものを無駄にしたくないなんてだけの気持ちだったかもしれない。

 努力は報われるって、誰かに言ってほしかったのかもしれない。

 そしてだけどやっぱり、何も起こらなかった。

 だから私はその日初めて、諦めることを覚えた。

 真っ暗な道をぐしゃぐしゃになりながら歩いて家に帰った時、近所の人みんなが心配して待ち構えていた。駆け寄って、抱きしめてさえくれた。それだけ大切にされていたのだろうな、それは幼心にわかった。それだけ心配をかけたのだろうな、それも多分思った。

 そしてそこにあった心配というものは、その日まで私が受けてきた賞賛と本質的には同じものだ。私への優しさや思いやりから来るもので、たとえばコインの裏表のように同質なのだ。その日までの私は、周りに心配をさせつづけていたのと何ら変わらなかった。何にも才能なんか持ってない私のための、そんな私を傷つけたくないための優しさからの扱いだったのだから。

 ここまで言語化できるようになったのは最近のことだけど、この日に覚えた思考回路はその日からずっと抱えている。

 世界は変わらない。だけど私の世界の見え方は、泣き疲れてぐっすり寝てから変わったのだ。

 

 その次の日からの私。

 ダメなりに手のかからない、誰にも迷惑をかけない私。

 身の程を知って、才能も期待も要らないと言い切れるようになった私。

 それが、今の私の原点だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬、そんな過去の青臭くて泥苦い思い出が私のはらわたを埋めつくす。態度には出さない、そこまでこいつに教えてやる義理はないが。

 だけどそれでも思うところは生まれてしまって、私は言葉なく先程まで考えていたのとは違う行動を取る。去るつもりの踵を返して、振り向いて、目の前のシャツ姿の男の方を向く。

 その強い黒々とした瞳からは目を逸らして、そんな服装に視線を落とす。

 ……もうわかり切った通り、私と話すには合わないに決まっている。

 

「目を逸らしたな。やっぱり諦め癖がついている」

「……暑苦しくて、まともに見てられませんよ」

 

 そんなところまで、ちくちくぶすりと言葉で貫いてくる。限界だ、と思った。どうしてエスパーの如く、私のすべてを見抜いてしまうのか。何も知らないくせに、いや何も知らないからこそ的確に性に合わない言動を振りまいてくるのか。

 もう今の私には合わなくなってしまった子供の頃の感情を揺さぶるような、そんな言葉を。

 そう、もういいだろう。今度こそこの場を離れなければ、そう思った。会話が足りてる足りてないじゃない、話せば話すほど苦しくなるはず。そんな噛みあわない感覚がお互い様かはわからないが、少なくとも私は今苦しい。

 つくづく苦手なタイプの人間だと思った。何から何まで噛みあわない、相性は最悪だと。そのくせ私を捕まえそうになるから、一刻も早く関係を断ちたい。

 また今ある自分を善意で否定されるなんて、まっぴらごめんなのだから。積み上げたものを壊されるなんて、もう二度と味わいたくない感覚なんだ。

 

「じゃ、今度こそ。もう入学式も終わりそうですし、私も帰らなくちゃ。さよーなら」

 

 そう言い捨てて、耳を絞って背を向けた。ぎいぃと大きめの音が鳴るくらい、木製の床にしっかり踏み込んで駆け出した。

 なりふり構わず、お次はつるつるとしたリノリウムの廊下を全力ダッシュ。お別れの挨拶はしたし、「学園内は静かに走るべし」って校則だって破っていない。口やかましい正論男でも、これなら文句は言えないはず。

 そうしてひたすら走り続けて、気づけば校門の外まで出てしまっていた。硬いレンガの床に正午を回ったぐらいの雲浮かぶ青空、そんな足元と視界の大きな変化に気づいてようやく私は立ち止まった。一応振り返ってみたけれど、流石にここまですれば振り切れていたみたいだった。ただ、そうでもしないと追いかけてきそうな気がした。

 得体のしれないやつだけど、なんとなくそう思った。なんといっても苦手なもの相手なんて、用心するに越したことはないだろう。

 多分これ以上あの調子で来られたら、こちらも余計なことを口に出していたかもしれないのは事実だったし。そうなればどうなっていたかわからないから、逃げて正解。入学初日から、そこまで誰かに自分を晒すわけにはいかない。 

 ずっと昔に閉じ込めたはずの言葉。

 大人びたふりをする私が、一歩も進めていないことを示すもの。

 それは、誰にも言えなくてもいい。ずっとずっとこの学園をいつか卒業するまでそのままでも、自分自身にすら正直じゃなくても構わない。密かに抱えて、たまに思い出すくらいで十分だ。こんな、感じで。

 

「褒めて、ほしい」

 

 誰もいないことを確認して、その上で誰にも聞こえないような大きさで呟いた。褒められたい、そう口にした。そんなみっともないこと言えない、なんて羞恥心と、褒めるに値しなかったらどうしよう、なんて自尊心が、二人がかりでひしめきあって、口から出た瞬間にその言葉を塞ぐ。だから、声にした私自身にもその言の葉は響かなかった。

 大人になれないのに大人のふりをするというのは、そういうことだから。

 

 

 

 

 

 

 寮に帰ってベッドに飛び込むと、いやに疲れがのしかかってきた。今日は入学式だけで、それもちゃんと? サボったのに。

 まあ理由は紛れもなく議論の余地もなく、あの正論男に決まっている。のんびりとした休憩を中断させ、ずけずけと肌にまったく合わないものを言い、そしてしまいには……そこまで思い返して、気づく。思い返せたことで、気づく。

 気づいてなかっただけで、ほんとはとっくにわかってたんだろうけど。

 

「私、あの時割と嬉しかったのか」

 ぐるり。制服姿のまま真新しい布団の上に乗って天井を見上げて、独り言ののちはあ、と小さくため息をつく。主に、嬉しがってしまっていた私自身に。

 結局、昼行灯を気取るつもりが初日から揺らがされてしまったからだ。ここまで自分を卑下しながらも、それでも私がトレセン学園も目指してたどり着いてしまったことを指摘された気がしたのだ。あの男の言い分は非常に不本意ながら真っ当で、ああ言われて嬉しくなれないのなら、そもそも私はこんなところにはいないはずなのだ。

 どう包み隠したって私がトレセン学園の門を叩いたのは、どこかで自分に期待してほしかったからだ。全部の幻想を捨てたふりをして、それでもいまだにウマ娘らしい『夢』を追い求めてしまっている。

 もちろん、言い訳ぐらいはある。独りではこうはならなかっただろう、結局誰かの後押しのおかげだろうという言い訳はできる。それにすら正直になれないほど、私は強くなかったから。

 その言い訳。ここまで来た一つの理由を話せば、それはすなわちじいちゃん──私の祖父のことである──が応援してくれたというのはあるけれど。

 あの日のあとも、期待してくれた人。今もきっと、期待しつづけてくれている人だ。

 

「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」

 

 それがじいちゃんの口癖だった。私にいつもかけてくれた言葉だった。あの日泣きながら家に帰ってきた私から、本当の事情を聞き出したのがじいちゃんだった。

 私なんかなんでもなかったんだ、みんなに優しくしてもらってたのが悪かったんだ、そんなまさしく子供の泣き言を、じいちゃんは全部聞いてくれた。そうしてそれを踏まえたうえで、変わらず私に頑張れって言ってきたのがじいちゃんだった。じいちゃんは、そういう人だった。

 別にただ一人だけ私に眠っていた才能を見つけ出せたとかではなくて、結局孫可愛さだとは思う。それでも全部を知ったうえで、私をずっと元気づけてくれたじいちゃんがいる。そうすることが正しいと、そう思ってくれた人がいる。

 じいちゃんがいたことが、私をトレセン学園へ向かわせる理由となった。祖父想いの優しい孫、なんかではないと思うけど、その上でも多分、その期待に応えたいというのが理由にはなるのだろう。

 ……そして、あるいは。あるいはそういうことにして、私は私を諦めきれなかった。

 じいちゃんが肯定してくれた自分のために、肯定されたから正しいのだと信じた私自身のためにトレセン学園に来た。

 そうかもしれない、とは思う。そうだとしたら、どうすればいいんだろう、とも。

 この気持ちを肯定と否定で曖昧に釣り合わせている今の状態から、どっちに進めばいいんだ

 ろうって。どちらにせよ、勇気を出すのは怖い。

 道を定めること、また世界の見え方を変えることは、自分自身にとって本当に正しいのかわからない。そしてもし正しいとしても、それが痛いとしたらやはり、怖い。

 幼い頃の私のように、残酷な現実を目の当たりにすることもあるから。

 

「……そういえば」

 

 いまだ着替えもしないずぼらな私は、思考だけを進めて次の段階へ進む。

 あの正論男も、言ってることを分解してみれば「頑張れ」みたいなものかもしれない、なんて。あの男からじいちゃんに飛ばした思索が、結局そっちに戻ってきた。走れる、とか、諦めるな、とか、私を揺さぶってきたのは結局のところそういう意味。

 あいつはなんか、ひたすら頑張る、みたいなの好きそうだし。

 なるほどその物言いがじいちゃんを思い出させたから、なんとなくドキッとさせられたのか。初日から早速ホームシック気味とは、そうだとしたらなかなか先が思いやられるのだけど。

 いやいやしかし似ても似つかないような、案外要素を抜き出したら似てるような、でもあの男は苦手だし……うーん。

 謎は尽きない。自分にわからないことをわからないまま自分に聞いているのが大抵の自己問答だから、わからないことこそわかり切ったようなものだけどさ。

 そしてそんな感じの無意味な自己問答タイムは、大体眠気の合図。今はまだ夕方だから、この時間から寝ても明日の朝にはならないだろう。着替えてもないしちゃんと布団に潜ってもないけど、眠くなった私の前では大体そんなものは仕方のないことだ。

 明日から早速、トレセン学園での授業が始まる。だから次起きた時にその準備だけして、もう一回しっかり眠って。

 それだけは覚えておいた。だんだんと霞の中に消えていく意識の中で、それだけは。

 だけどやっぱり、今日考えたことも明日やることも中途半端のまま。それでもいいか、そういうことにして。

 ゆっくりだけど少しだけ強引に、私は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

「……ん……」

 

 予定通り深夜に目が覚める。目蓋をこすり、凝り固まった全身を寝っ転がったままじたばたさせて軽くほぐす。

 制服はしわくちゃ、何着か替えはあるはずだから明日困ったりはしないけど、せめて寝間着には着替えよう。……半袖半ズボンでいいか、めんどいし。これまた面倒というか多分共有浴場が開いてないのでお風呂には入らないとしても、シャワーくらいは浴びなければ。

 まあそんな感じで徐々に意識を現実に覚醒させながら、ゆっくりと起き上がる。そうして上体を九十度ぐいっと起こしたところで、自然に外の光に目を奪われた。

 それくらい、今日の昼間そこに広がっていた青空と同じくらい、キレイだったから。

 ……夜空、だった。

 イブニングタイムよりはもう少し灯りの少ない午前三時ごろ、十二分に光り輝く星の海。だけども満天とは呼べない、都会の星空だった。

 都会はいつまでも地上からの光が空の果てまで射していて、その中でも強く光れる星は一握り。星明りの多くは、街の灯りに照らされればそのまま見えなくなってしまう程度の光。

 夜空に光る星々が場所によって見え方を変えるのはそういう理由だと、昔どこかで見たことがある。つまり私が今見ている空は、僅かな力強い星しか見せてくれてはいない。

 世界は変わらないままなのに、どうしてもそうやって見え方は変わってしまう。そのこと自体は悪いことじゃなくて、見えなくなっていく星の方にももちろん罪はない。

 だけどそれでも文字通り、そこには明暗がわかれるのだ。どんな場所でも輝ける綺羅と、いずれ身の丈を知る残滓の、どちらかに。

 私はどちらだろう、そんなことを考えてしまう。これから出会い、競い合うことになるだろうたくさんのウマ娘。トゥインクル・シリーズではきっと皆が自分を信じていて、けれどもその中でやはり明暗は別れる。

 厳しい世界に身を置くことでことでより磨かれて明るく光るか、やすりの代わりにもならないまま夢破れて、暗く闇に紛れるか。私はどちらだろうと、思う。

 

「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」

 

 そうじいちゃんは言っていた。皆のようには自分を信じきれないけど、私が代わりに信じるものだ。けれど同時に思うのは、ここから先は私一人だということ。それはわかっていて、だけどここに来た。

 つまり、私は確かに前に進もうとしている。私自身が、そのことを望んでいるはずなのだ。

 あまり、自覚はできていないのだけど。今よく見えてしまうのはコインの裏側、諦め続けた私の方なのだけど。

 

「セイウンスカイ。君は『走る』ウマ娘だ」

 

 ……って、なんでここであの男の言葉まで思い出すんだろう。ひょっとして、そんなに心に残ったのか。独りでやって来たはずのトレセン学園なのに、早速誰かに絆されたのか。

 それもあんな、とびきり苦手なタイプの人間に。

 

 それでも確かに、私の中にじいちゃんの言葉が沁みていた。同時にやっぱり、あの男の言葉も息づいていた。正直不安だらけだったこれからに、二重の光が差していた。今までと、これからと。今日というはじまりに、二つのものが重なって一つの気持ちを作る。

 一つの強い煌めきで立ち上がれるのが一番いいのだろうけど、決められないことを理由に止まるくらいなら、ゆるくとも進んだ方がマシだろう。

 少なくとも今は、そんな感じの前の向き方だった。

(明日から、上手くやっていけるかな)

 まあ正確にはもう今日なんだけど、自然とそう思ったのは時間感覚含めて否定しないでおこう。そんな先を臨む気持ちとともに、口元には出てこなかったけど心に自然と浮かんだ、そんな笑みがあって。きっと誰もが寝静まっているから、今この瞬間だけならトレセン学園でも上位の前向きさだ。

 それなら案外上手くいくかもしれないな、なんて。初日からこんな生活リズムでは説得力がないとは思うけど、私が勝手にそう思うくらいは許されるだろう。

 ……と。夜空に耽っている場合じゃないな。さっさとシャワーを浴びて、明日の準備を済ませなきゃ。視線を外から部屋の中に戻して、長い長い思考を一旦打ち切る。そうしてゆっくり尻尾を揺らしながら立ち上がって、微かな灯りを、部屋と、心の奥底に点けた。

 温かいシャワーを無心で浴びれば、バスルーム中には湯気とともに曖昧模糊なイメージが立ち上る。これから先の、漠然とした未来のイメージが。

 今日から始まる、新しい生活の一歩目が。

 たとえばありふれた自己紹介や、まだ名前も顔も知らない同級生。一生懸命……は柄じゃないし、そこそこの気持ちで居眠りを挟みながら挑む授業。

 そしていつか立ち向かう、トゥインクル・シリーズ。トゥインクル・シリーズへの向き合い方はまだ保留だ。今日だけでもいろいろなことを考えさせられたし、明日からも色々なことを考えさせられるのだろう。

 そうして、いつかは決めるのだろう。そんなまだ先のことはこれから考えて、さらにその先の未来でわかることだ。多分、そう思えた。

 もちろん不安でいっぱいだけど、私の中に浮かんでくるものは決してそれだけではなくて。心境の変化、なのだろうか。入学式のサボりを決行した時より、少し私は変わっていた。

 そうして耳の先端からつま先まで身体を洗い終えてさっぱりしたあとには、再び心地よい眠気が私を包んでいた。授業の準備など忘れて、ぎりぎり肌着と寝間着らしきものだけ着てそのまますぐにベッドにダイブしてしまう。しっかりとした立派なベッドが私の体重で少しだけ揺れて、なんだか自分が生きてるって感じがした。

 空っぽじゃなくて裸でもなくて、内側と外側にいのちを支えるものがある。湯気や眠気や寝間着や布団だけじゃない、暖かいものが私を包んでいた。

 そしてだからこそ、私の内側にあるものも見えるようになっていた。内側でちゃんと脈動していた、今まで私の身体を動かしてきた私も。多分、そんな感じ。

 眠気交じりで思ってもないことまで考えてる節はあるかもしれないけど、全部が全部そうじゃないだろう。のんびりゆるくふわふわでも、全部が全部嘘じゃない。

 おおよそ、半分くらいは。きっと、そのくらいは。

 ──予定調和を崩した、波乱の幕開け。初日から碌な目に遭わなかったといえばそうだし、それでも誠に遺憾ながらあの正論男のせいで、最終的な気持ちは何もないより前向きだったのかもしれない。これからのすべてのはじまり、新しい日常に、本当にほんの少しだけ期待してしまったということ。

 そこにあった変化は今まで抱えてきたものを崩すには小さすぎて、その時の私はそこにあった意味にそこまで気づいていなかったのだろう。

 けれど確かに、密やかに、それはこれからの積み重ねの一段目。はじまりの気持ち。

 トレーナーさんから、あなたから貰った初めてのものだったと、振り返った今なら思うのだ。

 大人になった、今なら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大人になれないと諦めてしまった、一人の少女がいて。

 不器用な大人になってしまった、一人の男がいて。

 そんな二重星(アルビレオ)は、やがて数多の星を巻き込んで。

 白鳥(キグナス)となり、飛び立つのだ。果てのない青空へ。




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