完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

10 / 39
三強

 脚だけでは勝てない。技術だけでは勝てない。気持ちだけでは勝てない。つまり勝利には、心技体が揃っていなければいけない。いかにも我らがトレーナーさんが好きそうな結論だけど、今の私に見えている結論も同じものだった。今までのトレーニングで一応の完成を見せたはずの私は、これからより研ぎ澄まさなければならない。能力も、戦略も、心も。

 そうしてこの瞬間も、そのすべてを伸ばすためにある。それが、今あるトレーニングの理念。ここ最近の私の、トレーニングへの心持ち、みたいな。

 

「セイウンスカイ、次はうちの子たちと併せをやってみなさい」

「はーい、わかりました」

 

 <デネブ>のトレーナーさんに軽く返事をして、汗も乾かぬうちにグラウンドへ戻る。

 今日は<アルビレオ>と<デネブ>の合同練習。皐月賞で告げられた通り、<アルビレオ>と<デネブ>はこれから提携してやっていくらしい。その何度目か。しっかり回数は覚えてないけれど、まだ片手で数えられるくらいだと思う。でも両方に所属してた経験のある私としては、既に慣れたもの、なのかもね。

 

 とはいえその大規模な合同練習というもののの目玉に据えられているのが、日本ダービーに向けての私の特訓という事実は、ほんの少しむず痒いかもしれない。<デネブ>の方が人数が多いし、その人数と指導者の組み合わせでいつもよりトレーニングに幅が出るのはいいことなんだろうけど、あからさまに両チームのメンバーが私に注目しているのまでは慣れないな、と思った。両方知ってる顔ばかりだけど、ふたチームぶんの視線をまとめて受けるのは流石にむずむずするというか。でもきっとそれくらい跳ね除けなきゃ、ダービーじゃ勝てない。

 ……んだろうなあ。気を引き締めなきゃとは思うけど、やっぱり落ち着かないのも事実だよ。

 とはいえちゃんと、気分は前を向く。私の次の大一番は、そんなに遠くないんだから。近くはないかもしれないけれど、こうやって集中的に特訓されるくらいは当然だ。

 ありがたく受け取り、期待に応える。そして、私のやりたいようにする。

 なら、やるっきゃない。

 

「──で、トップロードさんの今のフォームはこんな感じなんですけど」

「なるほど、確かにそれならもうちょっと、踏み込みを深くした方がいいかもしれないですね……参考になります、フラワーちゃん」

 

 ……と、少し離れたところからはそんな会話も聞こえる。トップロードさんとフラワー、二人のチームのリーダーの会話。やっぱりリーダー同士なだけあって、結構気が合うのかな? そしてもしそんな気の合う二人が仲良くなるきっかけが私の存在だったとするなら、嬉しいような、なんだか恥ずかしいような。いや、二人ともフレンドリーな性格だし、立場が同じってだけで私抜きで仲良くなれるか。

 まあでもちょっとくらい私がいた意味が、なんて……と、気を緩めてる場合じゃない。私は私に集中しなくちゃならない。私自身を疎かにしてしまえば、それは誰かの期待を裏切ることと同義だ。私が頑張るのは私のためで、周りのため。それもやっぱりコインの裏表で、本質は同一の理由を持つ。

 私は、独りじゃない。

 だから、支えてくれる人たちの期待を裏切るわけにはいかない。

 だから、支えられた私を裏切るわけにもいかない。

 すべての練習に、ちゃんと意味を持たせなきゃ。しっかり、本番に繋げなきゃ。

 ……まあ、予想はどんどん裏切っていきたいけどね。誰かをびっくりさせられるなら、それは期待を上回る結果ってことだから。

 独りじゃない。いくばくかの足踏みのあとにトレーナーさんやキングをきっかけにして、そんな当たり前のことに気づいてから、私はまたトレーニングにしっかり向き合えるようになった。また、だから、単に皐月賞前に戻っただけにも見えるけど、多分それだけじゃないんだって思う。着実に、あれよりも先に進んでいる実感がある。

 新たなものを、見つけられている。

 そう、私にとっての新しい導。褒められたいって気持ちや、走るのが楽しいって気持ちに続く、更に抱えた私の願い。観客全員を驚かせるような、そんな記録だけじゃなくて記憶にも残るような鮮やかなレースをしてみせるのが、私の新たな目標だ。予想を裏切り、期待に応える。それは、今までなかったものだ。私の、新しい夢だ。今の私だからこその、夢なんだ。

 トレーナーさんの不安を裏切れた皐月賞の先に、初めて褒めてもらえたあの日の先にあるのが、紛れもなく今の私。その今の私の気持ちは、着々と大きくなっていく。

 スペちゃんにもキングにもない、私独自の強み。私にしかなくて、だからこそ他人にも負けずに張り合えるもの。それを見つけられたのだから、この変化もまたいいものだった。独りじゃないって気づけたから、私はみんなの期待の先へ進める。

 それが、積み重ね。これからの、先だ。東京優駿、日本ダービー。運命の場に向けて駆け出すスタートの気持ちは、私の成長を表していた。

 だん、と大地を蹴る。また一日、決戦に近づく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習を終えてチームの部屋に戻ると、小さな明かりの下でトレーナーさんが書類の山と睨めっこしていた。そういえば今日は<デネブ>のトレーナーさんが練習を主導していたから、この人はここに篭りっぱなしだったのか。それでも当然休むことはない、人が入ってきたのにも気づかない。やれやれ、ご苦労様ですね。

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「おお、スカイ。お疲れ様」

 

 見るからに忙しそうなのに、わざわざこちらに向き直って挨拶するトレーナーさん。いつもの暑苦しい表情も崩してないけど、その端っこに若干疲れが見える気がする。

 この人が疲れを見せるなんて、ほんの少しだとしても珍しい。いったいそんなに頑張って何をしているんだろう、そう思ってちらりと彼の手元を覗いてみる。ずいっと、前触れなく。

 トレーナーさんが僅かに逃げようとしたけれど、ちゃんと目に焼きつけてやった。

 ……ははあ、これは。彼の手に持たれた書類の上にびっしりと並べられた文字列が指しているのは、どれもレースにおける技術や理論の話。

 そしてそんなレジュメは既に使い古しの様相、真新しい赤インクが色んなところに書き加えられていて、なるほど今日はこの勉強に費やしていたらしい。なるほど、なるほど。

 

「トレーナーさん、ついに根性論とお別れするんですか」

 

 と、そういうことだろうか。<デネブ>のトレーナーさんを見習って、みたいな。大人になっても勉強しなきゃいけないとは、トレーナーとはまったく大変な職業だ。

 まあ私もそろそろあなたの根性論には慣れてきたところですけど、ちゃんとこれから改善しようとするならありがたいことですね、はい。

 そんな感じで聞いてみたものの、トレーナーさんは若干強めな口調で。

 むすっとしてる、とも言い換えられるかも。

 

「いいや、これはあくまでサブだ。努力を重ねて、闘志を燃やす。そんなウマ娘が一番強いと俺は思っている。……ただ、な」

「ただ、なんですか?」

 

 まあ、トレーナーさんの言うことにも一理あるのは事実だ。努力は大事だし、勝ちたいって思わなきゃ勝てない。それはやっぱり正論。若干かなり、耳が痛い話だけど。私はついついそんな気持ちを忘れそうになって、そのまま立ち止まりそうになるから。

 そのたびにトレーナーさんがそう言っていたのを思い出して、ちょっと前を向き直すようにはしていたから。

 けれど今のトレーナーさんは、それだけではないらしい。私の問いに、少し考えてから答えを返す。

 

「ただ、それだけじゃないとも思っただけだ。努力、頑張り、それ以外にも大事なことはある。色んな手が使えるのは悪いことじゃないだろう」

「なるほどなるほど、それを一人のウマ娘に教わったと」

「……そうは言ってない」

 

 やれやれ、相変わらず頑固なトレーナーさんだ。でも私も他人のことは言えない立場ではある。私に起こった変化のうち、いくらかはトレーナーさんによるものだから。あなたが頑張れって言ってくれたのは、確かに私にとって意味がある。

 ちょっと悔しいけど、それは今までの結果の通り。そしてこれからも、多分そうしていける。だから、少しはあなたのおかげ。でもあなたが他人の影響なんて明言しないのならば、私だって隠しても許されるだろう。

 私の方が言うまでもなくバレバレだとは、こんな鈍そうな人にはそう思えないしね。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 だから。だからもし、私がその代わりに伝えることがあるのなら。

 私は、その代わりになるものを口にする。

 話に割り込むように、だけど二人にはわかる自然な流れで。

 素直さの代わりだけど、こうする以外で伝えられない気持ちを、あなたに伝えるのだ。

 

「どうした」

「私、勝てるかな」

 

 だから私から歩み寄れるとしたら、きっとこういった回りくどい形。

 不安を口にし、それを否定させることであなたの期待を確かめようとする。

 あなたは揺るがないと信じているからこそ、弱い自分を見せてしまう。

 そしてその弱さすらポーズに過ぎなくて、本当の自分はどこにも出てこない。

 そうやって、人を使って自分を奮い立たせてばかり。

 誰かを頼って、けれど頼りきれなくて。

 独りじゃないけど、誰かに全部を見せるのは怖い。そう思ってしまう、曖昧な私。

 まったく本当に、難儀で、卑怯な性格だ。

 ……でも。

 

「もちろんだ! 君は『走る』、そう信じている」

「私、期待に応えるのは苦手なんですけど」

 

 でも、あなたはそうやって期待を返してくれる。私の誘導通りに、むしろその予想を超えるくらい素直に。そういう意味では、ある意味びっくりさせられてるかもしれない。

 とはいえ、私なりの期待への応え方というものはこれまた面倒で。

 だってそれはきっと、番狂せで驚かせることだ。つまり、ある程度は不安に思ってもらわなきゃ成立しないのだ。不安を裏切り、予想を超える。そうしてやっと、私は誰かの期待に応えられる。溢れるほどに歓喜を注いで、ようやく私は私を満たせる。

 だから、そうやって真っ直ぐなのはやっぱり苦手だ。真っ直ぐ、純粋に大きな期待を寄せられるのは。いつもの苦手さとは別種かもしれないけれど、トレーナーさんはやっぱり苦手なタイプってこと。

 期待が純粋であればあるほど、応えられなかったらどうしようって不安が増える。だからいつもやる気ない素振りをして、努力や根性は苦手で。そうすれば、期待はほどほどだ。勝ったら大金星、負けたら仕方ない。それくらいの期待が、私という器には似合っている。

 だから、あなたのことは苦手。

 私の努力や根性をひたすらに信じて、そう信じたぶんの大きな期待を寄せてくる、あなたのことは、ね。

 本当はちょっと、憧れているのかもしれないけど。

 努力と根性を信じきれなかった幼い日の私が、それを持ったまま大人になれたあなたを羨んでいるのかもしれないけど。

 いまだに、焦がれたままなのかもしれないけど。

 

「君は皐月賞を勝った。ダービーでも有力候補だ」

「それはどうでしょう。私の評判、知ってます? 皐月賞はフロック、まぐれだって。次はスペちゃんだって」

「そんなものは一部の意見だ。いいかスカイ、諦めるな」

「また、正論ですか」

 

 ダービーに向けての特集は、既に色んな雑誌や新聞で組まれ始めていた。そしてそこに多く並んだフロックという言葉が、私に対する世論。皐月賞はまぐれで、実力ならスペちゃんが勝つ。それが、一般的な意見というもの。

 だから私は、それをあえて受け入れるのだ。もう、そういう強さを持てたから。

 あれはまぐれだと侮るのなら、そんな前評判さえ逆手に取ってびっくりさせてやろう。それが私なりの、私だから出せる結論。すべてのものは、おいそれとは変わらない。だけど着実に変化するし、それを認識するのは己からの見え方だけ。だから、そう見えているだけ。

 それを裏切るのが、私の仕事なんだ。私にしか、できないことなんだ。

 もちろんトレーナーさんが言うように、それは一部の意見ではある。だからどんなふうに言われても気にする必要はない、それだって一つの論理かもしれない。やっぱりこの男らしい、正論かもしれない。

 でも。でも私には、正論だって似合わない。

 なんたってあなたとは、心底噛みあわない人間なんだから。

 

「正論でみんなが納得できるなら、苦労しませんよ。それに私はいいんです。期待と不安への折り合いの付け方、もう見つけましたから。この前評判は、私の強みです」

 

 そう、告げる。一般論も正論も、全部私の論理で超える。知らない誰かも知ってる大人も、誰だって私の走りを完全に予見することなんてできやしない。それが私の、折り合い。全部を認めること。全部を認めた上で、自分の力でひっくり返して束ねてみせること。そうやってこの頑固な正論男さえもびっくりさせてやろうと、そう決めたのだから。

 きっと私はあなたさえも、手のひらの上に載せてみせるんだよ。

 

「折り合い、か。諦めとは違うんだろうな」

「はい。セイちゃんも大人になったってことです」

「ならよかった。期待してるぞ」

 

 なんて感じでいいように言ってやれば、トレーナーさんは素直にそれを受け止めて……あれ。もしかして、初めてトレーナーさんを言い包められたかもしれない。これは私の成長の証? 口ばかり上手くなっても仕方ないけど、それなりに自分の芯ができてきたということかな。

 うーん、いや、そうじゃないかも。いやそれもきっとあるとは思うけど、それだけじゃないかも。変わったのは、私だけじゃないかも。

 だってこの会話は、私だけでしていたものじゃない。

 むしろ変わったのは、もう一人。

 私たちは、独りじゃないから。

 

「でもこれだけは言っておく。スカイ、俺は君に期待している」

 

 トレーナーさんの方も、少し変わりつつあるのかも。今の台詞はやっぱり、いつもと変わらない真面目で暑苦しい台詞なんだけどさ。

 でも、それから受ける印象も違う。私からの受け取り方が変わったのもそうだけど、きっとトレーナーさんがその言葉を口にするために考えていることも変わっている。なぜならもう、私たちは互いをそれなりに知ってしまったのだから。

 知った上での、言葉だから。

 最初に会った時のトレーナーさんは、死ぬまで調子を変えなさそうに見えたのを思い出す。こいつは私のことなんて何にも知らずに、知ろうともしないままで突き刺さるようなことを言い続けるんだって思っていた。だけどあれからほんの数ヶ月で、この人の色んな面が見えた。

 正確には、見えるようになった。見せてくれるようになった。私が彼に弱みを見せるように、彼も私に弱みを見せている。そんなふうに、お互いを知った。

 まだちょっと納得いかないことは時折あるけれど、私にとってトレーナーさんは、ちゃんと信頼できる人だ。互いを知って、支え合える人だ。

 でも、ならば。こういう疑問も、浮かばないことはない。そこまで関係性が変化して、最初の印象では受け入れるつもりなんかなかったものを受け入れて。そこまで見え方の変わったトレーナーさんを、どうやって私は最初に会った時のトレーナーさんと同一の人だと認識しているのか?

 とはいえそれに答えるのは、簡単だ。まあ見た目とかそんなのは置いといて、それ以外の理屈で簡単な答えがある。そしてそれは簡単だけど、ついさっきわかったことだ。

 今も昔もあなたはあなただと、さっきちゃんと教えてくれた。

 

「うん。しっかり見ててね、トレーナーさん」

 

 私への期待。それだけはずっと、ずっと変わっていないから。

 何度も揺らぐ私へ示された、寄り添い照らす道標。

たとえフロックと言われようと、そちらに流されないように灯された灯台。

 それが、あなたからの期待なんだ。

 これがある限り、私はみんなに注目される本命じゃなくたって闘える。

 どんなにみくびられても、あなたのぶんの期待があれば十分だ。あ

 なたが褒めてくれるなら、それで頑張ろうって思えるんだ。

 そう、きっと。きっと私が逆境に対して、「驚かせたい」と言えるのは。そう言えるようになって、新しい夢を持って、未来に向かって進めるのは。

 きっと、あなたのおかげだと。それもいつか伝えられたらいいな、そう思った。

 それが、今の日常。

 次の大舞台に向けた短い期間に存在する、今だから過ごせる日々の一つだった。

 

 

 

 

 

 

 五月になった。当然四月より日本ダービーが近づいているのもそうだけど、月日の巡りはそれだけではない様々な変化をもたらす。たとえば春の陽気というには少し暑くなってきたり、たとえば釣れる魚が変わったり。

 そんなふうに誰にでも関わる変化と、個人的な変化が入り混じっている。気候は誰でも、釣りは私とトレーナーさんなどなど、そしてダービーは観客と出走ウマ娘でまた違う。まさに、色々なものが入り混じる。変化とは、やっぱりそういうもの。

 だからどれも大事で、どれも替えが聞かない特別なものなのだ。

 とはいえ、やっぱり物事の大小はある。目を凝らさないと気づかないような些細な変化もあれば、誰でも気づくような大きな変化もある。

 といえわけでここ最近で一番大きな変化は、何と言ってもNHKマイルカップだった。私たちの同期エルコンドルパサー、初めてのGⅠレース。けれどそんなことに重圧なんて全然感じないってふうで、エルはここでもニバ身近くの差をつけての快勝。強豪集うGⅠでも無敗を更に積み重ね、最早敵なしといった感じ。

 それはまあ、いいことだった。テレビで見てて、おおっとなるくらいには喜んだし、よかったと思った。

 ──だから、そこまではよかった。

 そこまでは私も、テレビの中のエルを他人事のように見てたんだ。

 もちろん初めてのGⅠレースを勝利したことは大きな意味のあることだけれど、やっぱり友達としてそれを見ていた。

 だけど、そのあとのインタビューが、それを聞いていた皆に少なくない衝撃を与えることになる。エルの所属するチーム<リギル>のトレーナーさんが、勝利の興奮冷めやらぬうちに焚べた更なる炎。それはやはり「最強」への一歩で、エルにとっては望むべく戦場。

 だけど、衝撃的だった。

 私の立場にとっては、特に。

 

「次は日本ダービーに出走する」

 

 そう、エルのトレーナーさんは言った。淡々と、だけど強い口調で。

 エルコンドルパサーは無敗のまま、最強を保ったままダービーに挑戦する。より過酷な戦場へ、傷を知らないコンドルは舞う。

 傷など知る必要がないと、それこそが真の強者だと言わんばかりに。

 楽には勝てないな、そう口から漏れたのを覚えている。エルコンドルパサーのダービー出走が告げられて、また私の勝利へのハードルは高くなる。

 フロックなんて言いがかりみたいなものだけど、立ち塞がるライバルの実力は紛れもない本物だから。ダービー本命のスペちゃん、そして更にもう一人。それはやっぱり、私の壁。

 ダービーで、エルと初めてぶつかり合う。そのことは、言葉にするより重くのしかかった気がした。それでも負けられないと、そう思うのもきっと事実だったけど。

 けれど。けれどもっと、もっと私の心に深く突き刺さったのは、そのあとのエルの言葉だった。それは自然と出てきた言葉だっただろう。それはとても前向きな言葉だっただろう。

 だからこそ、彼女の宣言は高らかだった。君は、しっかりとこの先の闘いを見据えていて。

 

「アタシ、ダービーでも勝ちまーす! スペちゃん、ガチンコ勝負デース! 待っててくださいねー!」

 

 そしてきっちりと、ライバルの方を見据えた宣戦布告だった。

 それは紛れもなく、負けたくないって気持ちだった。

 エルのライバルは、スペちゃん。確かにそれは順当な発言だ。現状ダービー最有力なのが、スペちゃん。それが今の、世間の評価。そしてそこに迫りうるのが、エル。突如現れた刺客たるエルコンドルパサーの人気は未知数だけど、きっとその実力は疑われない。

 誰に聞いたって、きっと当然みんなそう評価する。

 ……そして、だ。

 そしてそれだけ二人が抜きん出るぶん、そのぶん一段人気が落ちるのが、私。そのことはわかっていた。ちゃんと、理屈ではわかっている。フロックであるという分析なんて、いやというほど目にしてきた。スペちゃんと私とでいかに実力差があるかなんて、色んなところで散々聞いた。それでも他人の評価なんて気にしないって、そう決めていたはずだった。

 それさえひっくり返す武器にするって、そう決意したはずだった。

 けれど、勇猛果敢なエルの言葉をテレビで聞く私は、知らず知らずのうちに強く掌を握りしめていた。悔しいって、思っていた。期待薄でもどんとこい、そんな考えが初めて揺らいだ。テレビからは先のエルのレースのリプレイが流れていて、やっぱりそこで見る通り彼女は強い。それをずっと見つづける。その上で、まだ思う。

 けれど、それでも。

 私は、絶対に。

 

(負けて、られない)

 

 スペちゃんとは、弥生賞でも皐月賞でも鎬を削った。

 なら、私たちは互角のはずだ。それまでぶつかり合って、だからこそ私たちにしかわからないつながりがあるはずなんだ。

 だからスペちゃんのライバルは、私だ。人気がなんといおうと、私はそれには縛られない。

 そう思った。

 そんなふうに、その意識から強く闘志を燃やす自分に、気づいた。

 焦っているようにすら、感じた。

 今までだってそう思っていたはずなのに、殊更強く感じてしまった。

 でも、その理由は明白だった。

 エルが、スペちゃんへの宣戦布告をしたこと。それが理由。

 エルのライバルが、スペちゃんだと示されたこと。それが理由。

 エルもスペちゃんも互いを視線で追いかけて、私なんか見ようとはしない。そんな恐れにも似た対抗心が、私の軸を揺るがす理由だった。

 期待や人気をひっくり返すという点では、私の今の位置はむしろちょうどいいもののはずではあった。私はそう定義した、人気を気にするより利用してやるって決めたはずだった。

 だけどそれでも、意識してしまった。エルの宣言が、私にそれを気づかせた。人気や実力を気にしないと見ないようにすることは、逆にそれらを意識することに相違ないと。

 そういうことかも、しれなかった。

 なら、私は折り合いをつけきれていないのだろうか。私がこの数日でつけた自信は、偽りのものだったのだろうか。虚勢に過ぎず、また閉じこもってしまうのだろうか。

 そんなのは嫌だった。それこそ期待を裏切ってしまう、だから前へと進みたい。そう思うのは、間違いなかった。でも、進むためには? 今ある決心は過ちで、それを取り消さなければ正しく進めないとしたら?

 間違いを取り消すのも、進歩の一つ。

 それは幼い頃の私が、消せない記憶が知っているものだった。

 そのまましばらく、食堂の片隅に座ったままだった。

 テレビはもう次の番組に切り替わっていた。切り替えられないのは、私だけだった。

 また、立ち止まりそうになっていた。

 一度固定したはずの決心が、新たなる変化で歪んでいくこと。これも変化。成長と呼べるもの。ならば、私は受け入れなければならない。それはわかっていた。

 だけど、受け入れ方がわからなかった。今気づいた対抗心を受け入れて、それに対応した気持ちを持つべきなのか。

 

 それとも自分の中に宿した、これまでの積み重ねが生んだ新たな気持ちを守り切り、最後まで貫くべきなのか。

 悩んで、悩んで。ずっと悩んで、噛み締めるたびにその苦悩は形を持っていった。

 ライバル達は強い、改めてそんな当たり前を実感した。そしてそれに並び立つ自分はどれだけ強いのか、そう思うのも無理はなかった。

 また、あと戻りしてしまいそうになる自分がいた。

 また、立ち止まって諦めそうになる自分がいた。

 内容が全く頭に入ってこない画面を、ただ見つめていた。かつての自分なら、そこで立ち止まっていただろう。正解の見えない問いなんて嫌いだし、感情に振り回されるのだってまっぴらごめんだ。それが私だった。私らしさというものがあるなら、そういうある種冷めて一歩引いた考えにあるのだと思っていた。

 少なくとも、昔は。

 

 

 けれど。けれど気づけば私は、無我夢中で走り始めていたのだ。

 頭で考えるより先に、外へと飛び出していた。

 更衣室に向かいジャージに着替えて、靴紐が半分解けそうなのにも構いもせず、他のチームの練習で埋まっているコートを横切って。

 そうしていた。

 ひたすらに、走りたかった。

 それだけ、全力で走りたいだけだった。

  自主練に励むなんて、本当今の私はどうしてしまったんだろう。そう思いながら、川沿いの一本道を走り抜けた。誰が見ていようと、見ていなくても関係なく。

 かつての私は、誰かに見てもらうためだけに色々なことをやっていたのに。

 誰かに褒められたいって、褒めてもらうためにあくまで他人のための行動ばかりだったのに。

 そんな幼い頃とは違って当たり前だけど、少し前の私とも違っていた。

 やっぱり、顔色を窺っていた。どうしても、自分には価値を見出せなかった。

 誰にも迷惑をかけない、そのために独りでいた。

 だけどその時わけもわからず走っている私は、確かに自分のために行動していた。それは変化。そして成長。ひとりぼっちで、自分自身を理由に行動できていた。

 けれどそれができるのは、独りじゃないとわかっているからこそなんだ。

 がむしゃらに進んでも、その先を導いてくれる誰かがいる。

 言語化できない動機でも、それを抱きしめられる形にして与えてくれる誰かがいる。

 期待してくれる、信頼してくれる、勝負を仕掛けてきてくれる。

 だから私はこの学園で、ここまで来れたのだと。

 他人がいるからこそ、自分の意志を見つめられたのだと。

 その日の夜までひたすら走りつづけて、そこまでして私は少しだけ答えを見つけた。シンプルだけど、長々しい答えだった。

 たくさんの意味を込めた、たった一言だった。

 

「やっぱり、走るのは楽しい」

 

 走りたい。それが私自身の気持ち。

 だから色んな理由をこじつけて、私は走ろうとしているんだ。

 たとえばライバルのため。たとえばトレーナーさんのため。

 たとえばチームメイトのため。

 たとえばファンの期待のため。

 たとえば前評判を見返してやるため。

 たとえば勝った喜びを噛み締めるため。

 そしてたとえば自分の行動で、驚く誰かの表情を目に焼きつけるため。

 今まで複雑に入れ違ってきたそれらに通じるものがあるとすれば、すべてが走る理由だったということ。だからシンプルで、複雑だった。

 もしかしたら、私は子供だから理由を絞りきれないだけなのかもしれない。時には思ってもないことを言ってまで、自分の心を隠してしまうこともあっただろう。

 でも、それだけきっと大切なんだ。

 隠してしまうのも、大切だから。理由を数多に持ってしまうのも、それだけ大きい気持ちだから。私にとって走ることは、大切なことなんだ。

 それは幼い時に閉じ込めたはずの感覚。

 だけどその日のその瞬間、明確に私の中に蘇った。

 ならば、走ろう。

 理由はなんであれ、走りたいのなら。

 ダービーが刻一刻と近づく、五月の幕開け。

 一番大きな変化は、そのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてまた、それから幾日か経った。ダービーもいよいよその日が迫ってきて、出走者や枠番も確定した。私は六枠十二番。悪くない。そして人気投票の中間発表も。私は三番人気。これも悪くない。悪くないくらいが、ひっくり返すにはちょうどいい。

 つまり、抜群にいいってこと。最高とは、言わないけどさ。だけど決まったことは決まったことだし、ちゃんと前を向かなきゃね。

 

「セイウンスカイ、時間よ」

 

 そんなふうに控室でうんうんスマホに映る出走ウマ娘リストを眺めながら頷いていると、<デネブ>のトレーナーさんに呼ばれた。

 ちなみに私がどこの控室にいるのかというと、レース場とは違うテレビ局的なビルの一室である。そして私が今何に呼ばれたかというと、ダービーに向けての記者会見である。そしてなぜ<デネブ>のトレーナーさんがここにいるかというと、あの男が恥ずかしがって記者会見を拒否したからである。恥ずかしいからとは言ってなかった気もするが、そんなのはきっと隠してるだけだろう、トレーナーさんだしなあ。私からすれば提携チームは便利屋じゃないしそこは代わっちゃいかん立ち位置だろうと思うんだけど、それを引き受けるこの人も結構お人好しなのかもな、と目の前の女の人に目配せした。

 

「……なによ。一応私は横に立ってるけど、何か聞かれたらあなたが答えるのよ」

「えー、ひどい。監督責任は」

「それはあなたのトレーナーにあるはずのものね」

 

 それは確かにその通り。そこら辺はしっかりしてるというか、お人好しとはいえ厳しさはある。まあそれでも<デネブ>のトレーナーさんなりに、私のために協力してくれてるって事実は確かにある。

 それは、嬉しい。結構妙なルートを通ってできたつながりだけれど、ちゃんとそれが維持されてるってわかるのは嬉しい。

 なんて、そんな感慨に浸るための日じゃないんだけどね、今日は。ダービーに向けての記者会見、そんじょそこらの女の子には荷が重い仕事だ。

 はあ。それにしてもやっぱりというか、大いに緊張しちゃう。いやもう記者さんたちの前に行かなきゃいけないんだけど、緊張をほぐすための時間をもらえるならいくらでも欲しいくらいだよ。たくさんの人の注目を集めて、テレビや新聞やら色々な形で発表されるために喋るなんて。この私が、そこらの庶民だった私が、だ。

 まるでスターになったみたいだな、なんて考えてしまうけど、もしかしたら本当にスターなのかもしれないな、とも思う。

 そんな大それた考えが浮かぶくらい、浮かれちゃってるのかな、私。

 それでも、確かなことはある。そんな考えを補強しかねない、一番星のように揺らがないきらきらの事実が、トゥインクル・シリーズには存在する。

 人々に夢と希望を与えるのが、スターウマ娘というものであること。

 そして一生に一度きりのクラシック戦線は、それをもっとも鮮やかに演出するということ。

 そしてそこに、その中心に私は飛び込んでいるということ。

 それらの事実は、私と憧れを目一杯近づけてくれているのだ。

 テレビや雑誌に、私の名前や姿が挙げられるようになっていた。なんでもなく道を歩いている時に、ファンの人に見つかって声をかけられることもあった。それならやっぱりもしかしたら、今の私はスターみたいなものなのかもしれない。

 いや私だけじゃなくて、「私たち」だろうか。私たちの世代のライバル関係は、もはや私たち自身には想像できないくらいの注目の的になっている。比類なき力を持つライバルがいて、だけど別の力を持って私はみんなと競い合えている。それが、栄光のクラシック三冠というもの。後にも先にも今だけの、同期だからこそ闘える挑戦の場。

 そこに、私もいられているんだ。期待されて、勝利を欲しているんだ。

 そんな栄誉あるレースに名を連ねられるなんて、ましてや勝ちを狙えるなんて、私には思ってもみなかったことだ。

 そしてきっと、私だけじゃ無理だったことだ。独りじゃないから、ここまで来れた。

 一人、また一人。色んな人に支えられたから、ここまで来れたんだ。

 よし、なら行くしかないよね。記者会見だって、私に期待してくれている人に向けての恩返しみたいなもの。まあ本当に恩返しをするなら、やっぱりレースの結果で示すんだろうけどさ。

 それはそれとして、今日だってしっかり大事なイベントだ。

 <デネブ>のトレーナーさんに連れられ、私は私の行くべきところへ向かう。立ち上がり、歩みを進める。一歩一歩は走るのより遥かにゆっくりだけど、それでもこの歩みにはきっとちゃんと意味があるんだ。

 それは、わかっていることだった。

 

「セイウンスカイさん! ダービーに向けての意気込みをどうぞ!」

 

 壇上に上がると、早速そんな感じの質問が。定型句とはいえ、熱心な感じが伝わるとやっぱり緊張してしまう。そして他にも何人か、同じようなことを聞いてきてる。そんなに色々な人から色々なことを聞かれても対応しきれないや。逃げるように<デネブ>のトレーナーさんの方をチラリと見ると、口をにこりと固定させて動こうともしていなかった。仕方ないけど、ひどーい。

 それにしても、何を言えばいいのやら、意気込みなんて大層なもの。元気いっぱいなのはスペちゃんかエルがやってるだろうし、私がやるなら私らしい差別化が必要だ。そう、少し悩んでみた。そこは顔に出さない。ポーカーフェイスで基本は乗り切り、いざという時にわざとらしく表情を作る。

 たとえばこんな感じで、言葉を吐き出すとともに。

「皐月賞勝ったのに、三番人気なんですよねー」

 そう、さも残念そうに口にしてみる。ちょっと目を伏せて、しょぼくれたふり。まあ、ふりってだけじゃない。確かにそれに悩んだこともあったのは、私の中の事実として存在する。やっぱり期待されてない、人気はそれを証明する事柄とも言えなくもないから。

 でも、それだけじゃない。決して低くない人気は、私に期待してくれている人もいることの証明でもある。それに私の戦績を不安視する人も、ひっくり返してしまえばいい。

 さながらコインの裏表のように、プラスとマイナスは一体なんだから。

 期待も不安も、私を見ている証だから。

 ならばきっと、ひっくり返せば全部が賞賛に変わるはず。

 だから、この瞬間も。私が告げる次の句は、これ以上ない宣戦布告。

 私らしい、決意の仕方。

 

「でもこれって、私が勝てばみんなびっくりするってことかな? ならセイちゃん、頑張っちゃいますね♪」

 

 そう軽ーく言ってのけると、記者の人たちがにわかに盛り上がってくれた。私に向けて炊かれたフラッシュの合間に見える呆気に取られたような表情と、ざわめきに混じって聞こえる、急いでペンを走らせる音。

 それを聞いて、見て。ぴくぴくと、全身で感じて。その瞬間に、私の身体にぞくぞくと走り抜けるものがあった。うん、やっぱり。やっぱりこうやって、誰かの予想を裏切ってやるのは。そうするのは、とっても気持ちよくて、楽しい。

 ならきっと走る時にそうすれば、もっと楽しいはずに違いない。

 この感覚は、私の武器になる。

 そんな確信めいたものが、私の中で芽吹いていた。

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様です、トレーナーさん、スカイさん」

「ありがとうフラワー。いやー、緊張して全然喋れなかったよ」

「そうかしら? そうは見えなかったけど」

「そういう素振りを見せないのも、トリックスターってやつですよ」

 

 控室に戻ると、付き添いで来てくれていたフラワーが私と<デネブ>のトレーナーさんを出迎えた。労ってくれたので、私の言葉通りの態度で柔らかく答える。

 トリックスター、そんな感じで。それは最近私の説明がどこかでされる時、よくその枕についている言葉だ。捉えどころのない振る舞いで、皆を惑わせるキャラクター。そういうものを、トリックスターと呼ぶらしい。

 悪くない響きだ、と思っている。

 しっくり来る、そんな直感。

 

「でも、よかったです。さっきのスカイさん、本当に楽しそうに喋ってました」

「まあ、そうかもね。フラワーには結構、悩んでるところを見せちゃってたかもね」

「それでも、今のスカイさんは違いますから」

 

 今の私は違う、かあ。フラワーがそう言うなら間違いないのかも。私自身にも、実感がないわけじゃないし。皐月賞を糧に、私はその先へ進んでいけている。あそこで勝利したのは私だけで、そこでの勝利というものを糧にできるのは私独自の強みともいえる。やはり積み重ねが存在して、そのうちの大きな一段に皐月賞は加えられている。もちろんそれに甘んじるという意味ではなくて、そのことをしっかり踏み締めていくという意味だ。

 そう、私だって変わったんだ。期待だけじゃなくて、不安さえ力に変えられるようになっている。そう、成長しているんだ。もちろん、勝てるかなんてわからない。スペちゃんもエルも強敵で、どちらかといえば分が悪いだろう。だけどそれでも怯まないことこそが、私の一番の成長だ。ライバルとは、高めあうものだと知っている。ライバルとは、遠慮も配慮も要らない存在だと知っている。

 誰か一人しか勝てないからこそ、誰もがそれを求める、勝利という栄冠。

 それを私も望んでいて、エルもスペちゃんも望んでいる。そう、よく知っている。

 一度きりのこの瞬間に、何を犠牲にしても叶えたい覚悟がある。

 すべてを、そこに賭けてみろ。

 ライバルを、信じて。

 なによりそれに立ち向かう、自分を信じて。

 勝利を、魂に誓うのだ。

 

「私は負けないよ、フラワー」

「はい、応援しています」

 

 そう宣言し、そこに背中を押す言葉を貰う。また一つ、期待を心に刻んでいく。

 背負う期待も見返すべき不安も、すべてが一瞬にかかっている。

 その一瞬で盤上をひっくり返せるか、それが私にとっての勝負だ。

 次なる決戦。その時は、近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダービーが間近に迫っても、当の私たちは仲良く昼食を囲みつづけていた。友達なんだから当たり前ではあるけど、数日後にはばちばちやり合うのにね。そんなの全然気にしてないってわけじゃないから、こうやってにこやかに話すというのは少し怖いところもある。

 ……まあでも、やっぱりこの時間は落ち着いちゃうけどね。

 

「ほら見てよセイちゃん、この雑誌!」

「アタシとスペちゃんと、セイちゃんの写真が表紙です! ダービー特集はアタシたちで一杯デース!」

「まあ今更そんなこと言えないけどさ、自分の写真が雑誌に載るのって、恥ずかしくない? テレビに映るのもむずむずする」

「ふふっ、みなさん頑張ってくださいね〜」

 

 和気藹々。なんだかんだと言ったって乗っかる私に、それを保護者みたいに見守るグラスちゃん。勝負の時になれば手なんか抜かないんだろうけど、私みたいな半端者は釣られて気が抜けてしまいそう、なんて。

 ……それにしても、よく考えたら、だけど。ひょっとしたらこの会話、側からみればそれなりに豪華メンツなのかな? そんなことを思いながら、大きな六人掛け用テーブルを囲う友達を、私含めて眺める。エル、スペちゃん、私のダービー三強に、今は怪我してるけど実力は折り紙つきのグラスちゃん。

 こうして見ると、実力者の集い、かも。私がその中に入っているのは、なんというかまだちょっと信じられないところはあるのだが。

 ……まあでも、これでも一人足りない。

 錚々たる顔ぶれだと他者が認識するとしても、私たちの感覚では一人の欠落がある。

 その一人とは、実は最近会話をしていない。食事の時も休み時間の時も、いつも知らないうちに一人でどこかへ行っている。ダービーを控えて自分なりに悩んでいるのだとしたら、私たちが気にかけても逆効果なのだろうけど。

 だってそれなら、悩みの種は当の私たち。彼女──キングにとって一人の時間が必要だというのなら、それは友達として尊重したい。

 彼女を独りにしてしまうことが、もどかしくないわけじゃないけれど。

 かちゃかちゃと、食器の擦れる音だけが聞こえるタイミングが生まれる。

 そんな僅かな沈黙が時折挟まるのは、皆が彼女を心配している証拠ではある。ついつい、そこにぽっかり空いたものを意識してしまう。だけどそれを明確に話題に出せば、そのことはきっと彼女の苦悩をぞんざいに扱うことに等しい。

 大切な友達だからこそ、微妙な空白をみんなが意識してしまう。

 そしてそれを取り繕おうとするためか、最近私から話題を切り出すということは多くなっていた。せめてもの、友達のためだった。

 

「そういや知ってる? クラシック三冠にそれぞれ求められる、必要な条件。自分が出るのに、私覚えられなくって」

「皐月賞はもっとも『速い』ウマ娘が勝つ、菊花賞はもっとも『強い』ウマ娘が勝つ、ですね。セイちゃん、これくらいはたとえ出走しない私でも知っていますよ」

「そしてダービーは、もっとも『運のある』ウマ娘が勝つ、デース! アタシ実は、今朝自販機でジュースを買ったら二本目が出てきました!」

 

 というわけで話題を変えてみたのだけど、グラスちゃんとエルはちゃんと覚えてるんだね、流石。そしてエルのその強運も流石……と言っていいのだろうか。とはいえそれ自体は「運のある」をしっかり肯定するものだし、やはり強敵か、エルは。

 それに比べたら私は運がいいことなんて……おや。

「おっ、当たった。アイス、もう一本だって。私も運、あるかもなー」

 実はぺろぺろと舐めていたアイスキャンディーの根本の棒に、「当たり」の三文字。これは意外と、滅多にないラッキーじゃないか? もしかして、ちゃんと私も「運のある」ウマ娘。

 まあそんなのを抜きにしても、タダでアイス二本目はありがたいよね、うん。

 

「セイちゃんもエルちゃんも、私どうしたら……ああっ!」

 

 私たちの急な強運アピールに慌てたスペちゃんが、うっかり手元のコップを倒してしまう。中身に半分くらい残っていたジュースが、ばしゃー。

 こりゃ、運がない。

 

「スペちゃん、大丈夫ですか?」

「ありがとうグラスちゃん、でも私もうダメかも……」

「コップが落ちなかった分、幸運ですよ♪ 何事も捉え方、ですから〜」

 

 なるほど、見え方次第で幸運の基準も変わるということか。こういう些細なことからでも活路を見出すやり取りに関しては、やっぱりグラスちゃんが一番強いな、と思った。

 そうやって運を自分の手で手繰り寄せるのも、確かに強さの一つなのかもしれない。そもそも「運のある」なんて、その当日その時に初めて意味をなすことでもあるし。

 当然だけどここでアイスを当てたからって、油断なんかできやしない。

 それも世界の見え方の一つ。

 私なりの、闘いの解釈だ。

 ……そして、もし。もし、で、今となってはありえない仮定だけど。

 それでももし、ここにキングがいたら、どんなことをしていただろうか。

 どんなことを、言っていただろうか。

 不意に、密かに、誰にも言えずに、だけど確かにそんなことを考えてしまう。

 それだけやっぱり、影が落ちていた。

 キングなら、どんなふうにこの場にいたのだろう。

 「一流の私なら当然!」って、何かしら幸運を引き当てるだろうか。

 それとも「キングが選んだ道が、幸運そのものなのよ!」とかわけのわからない理屈を並び立てるだろうか。

 不思議とそういう情景は思い浮かべることができて、どちらも十分ありえそうに思えたけど、どちらの言葉も今は聞こえない。

 ここには、彼女はいない。

 ただ独りで、今日も何かを悩むだけ。

 キングの背負うもの、それをまだ私はちゃんと知らない。お母さまという重圧を僅かに窺い知るだけで、彼女が何をどう考えるのかなんてちゃんと知ることはできていない。

 強気に見えて案外お人好しで心配性なあのお嬢様が、今どんな悩みを抱えて独り闘っているのか。それはわからない。

 私と君の付き合いは、きっとそこまで深くはできていないからわからない。

 友達なのに、まだまだ知らないことばかり。

 だから、わからない。わからない、わからないけど。

 それだけで、そこからは解決の方法も何も提示できないのだけど。

 それでも、ただ。ただ、君が心配だった。

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様! 今日はここまで!」

「お疲れ様でした、みなさん!」

 

 今日もトレーナーさんとトップロードさんが仲良くトレーニングを締める。私はいよいよダービーまで大詰めといった練習内容で、今日も我ながら大変頑張った。無茶は当然していないけれど、それのぎりぎりまではやらされた気がする。

 そんな疲れを象徴する汗を夕日にかざしていると、オレンジに染まって立ちつくす私の元にトップロードさんがやってきた。本当、この人のこの元気はどこから出てくるのだろうか。

 

「お疲れ様です、スカイちゃん! 最近色んなところでスカイちゃんのことを見かけて、私もうすごく……すごく嬉しくって! ダービー、頑張ってください!」

「うわっ、トップロードさんにも見られてましたか」

「何処に行っても見かけますよ! クラシック三冠は、それだけ重要なレースなんですからっ」

 

 その真っ直ぐな目を、全身の汗とともにきらきらさせるトップロードさん。もしかしてこの人も、クラシック戦線に結構夢を持ってるタイプなんだろうか。

 学年は私より先輩だけど、トップロードさんはまだデビューはしていない。なら、そういう意味では私が先輩なところもあるのかな。だからそういう夢を持っていて、そこで走ることができる私にちょっとした憧れを向けてくれている、のかも。

 そうだとしたら少しくすぐったいけれど、これも誰かの夢を背負うことなら、やっぱり負けるわけにはいかないや。

 

「確かに、そうなんだろうなあって思います。皐月賞の時もすごい盛り上がりでしたし」

「ですよねっ! でも、それだけプレッシャーだろうなって、そう思うこともあるんです。私の番が来たとして、その時私は期待に応えられるだろうかって。……すみません。スカイちゃんを励ましに来たのに、これじゃ私のお悩み相談になってますね」

「いえいえ、トップロードさんの弱音なんてたまにしか聞けませんし。ラッキーだと思っておきますよ」

 

 確かにトップロードさんが、自分の弱音のようなものを吐くのは珍しい。

 とはいえ、そんなのは誰にでも言えることでもある。みんな気丈なことは他人に言えても、自分の弱音は独りで隠してしまう。たとえば私もそうしてきたし、たとえばトレーナーさんにもそういうところがある。

 それを誰か信頼できる他者に漏らして、人はその時だけ弱さを見せられる。

 その時だけ、だ。

 だってその時以外は、強くあらねばならないから。

 だからトップロードさんに私が弱音を吐いてもらえるなら、それは信頼の証となるもの。そのことがちょっと嬉しいのは、どうしても事実になってしまうことだ。

 

「そうだ、お詫びと言ってはなんですけど。私もスカイちゃんの悩みを聞きますよ! ダービー前に晴らしておきたいものがあるなら、言ってみてください!」

 

 改めて、この人はいい人だなあって思う。そう自然な流れで悩みを聞かれるとなると、私だって吐き出さなきゃ失礼な気すらしてしまう。こうやって言いにくいことも言わせてしまうのだから、トップロードさんは本当にいい人なのだろうな、と思うばかり。

 そんな表現でちゃんと表し切れているか不安なくらい、いい人だ。

 それにちょうど、一つ悩みはあったし。私が抱えて、悩むことはあったし。

 独りで抱えるのが正解かもしれないけれど、やっぱり私は誰かを頼りがちだから。

 それを、少し話そうか。

 友達の話だ。そして先の話題にも繋がる、弱音の話。

 私の弱音。

 

 そして、君の弱音だ。

 

「私の友達、ちょっと前から何か悩んでるみたいなんです。独りで悩んでいるみたいで、でもその原因がわからなくて、手出しできなくて。あちらから言われないことは、無理に引き出せる気がしなくて」

 

 意地っ張りだけど私のことを何かと気にかけてくれていた、私の友達の弱音。

 それを閉じ込めさせてしまっていることが、今の私の悩みだろう。もちろん、友達思い、なんて殊勝なものじゃない。もっとちっぽけな、単なるエゴイズム。

 いつもの君を、見たいだけ。

 

「きっと、悩みを打ち明けられるほど仲良くないからなんですよね。私が信頼されきってないから、あちらからは言えない。そして私からも、言えない」

 

 ダービーを控えた時の悩みとしては、ずいぶんと甘っちょろい話かもしれない。友達とちゃんと仲良くないのかも、なんて、今抱えるには優しすぎる気持ちかもしれない。

 それでも気がつけば、そのことばかりがぽつりぽつりと。やっぱりこれは、私の弱音でもあったから。私が抱える、今だから抱える悩みでもあったから。

 弱さだった。

 甘さだった。

 闘いの前にこぼすものではなかった。

 だけどそれを聞いたトップロードさんの表情は真剣で、その上で柔らかくて。包み込むようなその表情を見て、この人に話してよかったと思えた。

 私はやっぱり、独りじゃない。

 そしてトップロードさんは私の言葉を一通り聞いて、一つの考えを示す。彼女が私に述べたのは、意外な回答だった。

 

「それはですね、逆なんじゃないかなって、思います」

「逆?」

 

 逆。私とキングの間に、まだ溝があるから。

 だから悩みを打ち明けてもらえないのだと、私はそう思っていたけど。

 その、逆。

 

 

「そう、逆です。仲が良いから打ち明けられないんですよ、きっと。相手のことを想うから、言えないことだってありますよ。スカイちゃんだって、友達には言えなくても私になら言えること、今言ってくれたじゃないですか」

「それは、トップロードさんを信頼してるから」

「はい、それはありがたいことだと思います。けど、信頼の形が違うんです。適度な距離感だから言えることだってあります。いつからか隠し事もできないくらい仲良くなることだって、あります」

 

 色々な、信頼の形。

 人と人の、つながりの形。

 そんなものが、あるのだろうか。

 私にも、それを持てるのだろうか。

 今こうやって遠くで悩む君とも、いつかは自分たちの根幹にある苦悩を語り合えるだろうか。

 

「そう、でしょうか。私には結局、それなり以上の友達を作れないのかと思ってました」

「それこそ逆です。それなり以上だからこそ、その子が悩んでることすら心配になっちゃうんですから」

 

 そう、なんだ。トップロードさんの告げた話は、未知の価値観なのに不思議としっくり来る気がした。私とキング、それなり以上の友達なのかな。だからこそ、私は今心配なのかな。

 そんなことを言い当てられるのは、少し気恥ずかしいような気もする。でもそれなら、私たちはちゃんと友達なんだ。

 そしてそうだとしたら、私はどうすべきなんだろう、そうも思った。少し前向きになったぶん、新しい問題を見つけた。

 どうやったら、友達の悩みを取り除く力になれるだろう。

 どうやったら、君のために──。

 

「──ひょっとしたらその子も、ダービー出るんじゃないですか?」

「……鋭い、ですね」

 

 不意に、トップロードさんは一つのことを類推する。

 それは事実であり、その通り私の友達は日本ダービーに出走する。だからこそ、悩んでいたのかもしれない。間近に控えた本番を、彼女が万全に迎えられるのかって。

 独りじゃないって、そう思えているのかって。

「ならスカイちゃんの悩みを解決する方法は、簡単です」

 ぱん、とトップロードさんが手を合わせて。これぞ名案、そう言わんばかりに告げた。

 また、私には思いつかないやり方。

 単純で、シンプルで、だからこそ私には見えなくなっていたもの。

 

「一緒に走ってみて、そのあと聞いてみたらいいんです。勝負のあとなら、なんだって言えちゃうんですから」

「そういうやものでしょうか」

「多分、ですけど……」

 

 多分、って。軽くずっこける。最後に不安は残したものの、トップロードさんの言っていることは間違いではないと思った。走る前に悩んでもわからないなら、走ったあとならなんでも言える。それはきっと、正しさの一つ。

 なら、それでいいか。とりあえず走ってから考えてみる、それはとってもわかりやすい。考えてから走ったら、きっとぐちゃぐちゃになってしまうから。

 やっぱり、私たちはきちんとダービーの大舞台を意識しなきゃいけない。そこで勝つということが、なによりも大事なことなのは間違いない。トップロードさんの言うことは、多分そういう意味も含む。

 なんだろうと、まずはちゃんと走るのだと、そういうことだ。

 

「ありがとうございます。おかげですっきり走れそうです」

「お役に立てたなら、なによりです! 観客席から、スカイちゃんが最初にゴールするところ、見てますね!」

 

 そう言って、汗まで光に変えながら爽やかに笑うトップロードさん。

 この人の期待も背負うのだ、そう思った。

 やっぱり、負けられない。スペちゃんとエルがどれほどの強敵でも、私が勝つ。

 二人きりの夕暮れで、目の前の人だけじゃないすべての人にそれを誓った。

 だって、支えてくれているのだから。

 だって、予想は裏切っても期待は裏切らないのだから。

 だって、私は。

 私は、独りじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、ダービー当日。

 当日も当日、レースの真っ只中。

 本人と言葉を交わすことなく、走り切ることもなく。

 それより先に私は、彼女の真意を知ることになる。

『ようやく、私を見たな』

 ハナを切る彼女が私の方を振り返る時、その眼はそう叫んでいたから。

 明確な敵意を、私に向けていたのだから。

 




オマージュです
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。