完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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このお話は大いに悩み、だからこそより良い道を進む話です


『最高の決着』

 広く。広く。青空は今日も広がっていた。今日も、キレイだった。それを眺めているうちにも、スタンドからはこれ以上ないくらいの大歓声が上がっていて、私の耳を奥までつんざく。

 せめてそれから耳を塞ごうと、意識を逸らそうと、どこまでも広がる青空に、遠い遠い手の届かない青に目を向けようとするけれど。代わりに私の視界を覆うのは、輝かしい黒色。闇とは言えない、言うわけにはいかないひとしきりの黒。

 

「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」

 

 真っ黒な掲示板に映し出される同着の二文字。

 きっとずっと歴史に残るだろう、夢の舞台でのこれ以上ないくらいの互角の勝負。

 そんな「最高の決着」、そこに私はいなかった。

 彼女たちだけが、独りじゃなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「着いたぞ、スカイ」

「ありがとうございます、トレーナーさん。それにしても免許を持っていたとは」

「運転できると担当ウマ娘の送迎には便利だからな! とはいえ、よっぽどのレースじゃないと車を出したくはないが」

「あはっ、そうですよね。初心者マーク貼ってますし」

 

 日本ダービーなどGⅠのような大きなレースとなると、出走ウマ娘は専用の入り口から直接控室に向かうことになっている。理由はもちろん人混みの形成を避けるためで、私たちがそれだけ注目されているということ。そしてそうなればレース場まで電車に乗ったりするのも御法度。こっそり来てターフに出るまではお忍びでいなきゃいけない。

 まあそんな理由で今朝はトレーナーさんに車で送り迎えしてもらった、というわけ。皐月賞の時は<デネブ>のトレーナーさんに送ってもらったから、この人の車に乗るのは初めてだった。……案の定というか、荒っぽい運転だったけど。荒っぽいというか、おっかなびっくりというか。まあ私が自分で運転できるわけもないし、トレーナーさんも初心者だというのなら目をつぶってあげよう。

 なんだかんだでちゃんと送り届けてくれたし、ね。

 

「じゃあまあ、トレーナーさんも頑張って運転してくれたことですし。私も頑張らなくっちゃな」

「スカイ、一つ言っておく」

「なんですか?」

 

 また流れをぶったぎって何かを言わんとするトレーナーさん。一応、何が言いたいのか聞いてやる。まあ、聞かなくても大体わかるけど。

 この感じは応援とかじゃない。それなりの付き合いなので、そんなこともわかってしまう。

 

「油断するなよ。君のライバルは、一筋縄ではいかない」

 

 ほら、やっぱりいつもの正論だった。

 でも私は、今の私はもう知っている。

 これはこの人なりの、期待の表れだと。

 正論を文字通り正しいと証明することが、彼が私に祈った期待なのだと。

 だからこれだけ言ってくれれば十分。十分すぎるくらい、あなたの気持ちは伝わるのだ。

 ……今は、だけど。ちゃんと期待に応えたら、ちゃんとその先は欲しいかな。

 なんてったって、期待以上に予想を裏切るつもりなんだから。

 

「ご忠告、感謝です。じゃ、行ってきますね」

「ああ。行ってこい!」

 

 いつもの通りの大きな声と態度に送り出されて、がちゃりと裏口の扉を開けて私は向かう。

 東京優駿、日本ダービー。

 すなわち、私たちの戦場へと。

 

 

 

 

 

 

 そしてまあ、あっという間なのだ。

 いつも慣れずにそわそわする時間だけど、これはあっという間。レース前の控室、たまに人が入ってくるけど基本は一人のその時間は、一人だからこそ長くて短い。

 心のうちがざわめいて、自問自答を繰り返して。すう、はあと深く一呼吸を置いて、心を落ち着けて。もちろん誰もいないその部屋はとびきり静かだったけど、そのおかげで心臓の鼓動さえも聞こえる気がした。

 とくん、とくん。とくん、とくん。しばらくずっと、それだけを聞いていた。

 勝負服に着替えて、いよいよ本番を待つだけ。この服を着ているだけで、早く動かなくちゃって気持ちにはなった。

 恐れもあるだろう。

 不安もあるだろう。

 だけど多分、これ以上ないくらいわくわくしていた。

 それが紛れもない、私の気持ちだった。

 こつ、こつ。やがてその時は来て、私は地下バ場を歩いてターフへ向かう。ここも静かな空間だけど、その先には騒々しいって言葉じゃ足りないくらいの数の人が待っている。そんな目的地、陽光の下のターフが近づくと、実況さんがこんなことを言っているのが聞こえた。

 

「ウマ娘の祭典、日本ダービー。今日は十五万の観客が、その結末を見届けようとここ東京レース場に詰めかけています!」

 

 十五万かあ。それってどれくらいなんだろうか、全然実感が湧かないや。ここに、それだけの人がいるの? 私たちを見に、それだけの人が集まったの?

 確認しようとしてもそんな相手はいなくて、ただただ現実感のなさを感じるだけ。まあそれでも、それだけすごいレースなんだということはわかる。

 わかるから、観客の数なんて気にしても仕方ない。

 今から私は、そこで走るんだから。

 レース場の外のテレビやらも含めたら数えきれない人数がこの勝負の結末を見届ける中で、私はその中で勝ちを狙いにいく。

 いくら現実味がなかろうと、それは絶対的な現実だ。なら、立ち止まってなんかいられない。

 本バ場入場はもう始まっていて、地下バ場での歩みを進めるたびにまた実況さんの声が私の耳に入ってくる。

 次は、出走ウマ娘の紹介だった。日本ダービーというトップクラスの注目度を誇るレースに出走する権利を得た、クラシック級の有力者たちの紹介。

 そしてその中でまずいの一番に飛び込んできたのは、ひどく聞き覚えのある名前だった。

 慣れ親しんだ、君の名前だった。

 

「弥生賞三着、皐月賞二着。いざ頂点へ! キングヘイロー!」

 

 ……よかった。その名前を聞いて、私はまずそう思った。

 キングヘイローの名が告げられて、心底ほっとした。

 ダービーが近づくにつれて、あれだけキングは他人を避けていた。その内容はわからないままだけど、だからこそ心配して、こちらまで不安になっていた。

 だけど、キングはここにいた。

 それならそれだけできっと、キングはいつものキングだと思えた。

 だって、こうやってレースに出てきている。たとえば皐月賞の時の私は、レースからさえ逃げようとしていたから。けれどキングはそうではなく、逃げずに立ち向かえている。

 私の不安は、払拭されたのだろう。

 独りで立ち直れない、抱えられないような子ではなかったのだろう。

 それならば、私はそれでよかったと思うのだ。

 純粋に、よかったと。

 君を包む霧が晴れているのなら、私の心配なんてない方がいいに決まっているから。

 

「皐月賞の雪辱は果たせるのか! 奇跡を起こせ、スペシャルウィーク!」

 

 そしてすぐに、スペちゃんの名前も呼ばれた。当然のように、一際大きな歓声が連なる。まあそりゃそうだ。一番人気、今日の大本命。それが今日のスペちゃんが背負うもの。

 そして彼女が果たすのが皐月賞の雪辱と言うのなら、私が一番負けられない相手。

 敗北の悔しさと、この勝負への最大の期待を両方背負った君が、今日の一番のライバル。

 絶対、勝つんだ。決意を込めて、一歩、二歩。

 次に、姿を現すのは。

 

「皐月賞ウマ娘、悲願の二冠へ! トリックスター、セイウンスカイ!」

 

 そうして、私の番。

 スタンドからの大歓声が、十五万を超えるらしいそれが私に向けられる。平静を装ってはみるけど、どうしても身体の中から熱がぼうっと湧いてくる。

 これはきっと、武者震いってやつなのだろう。もちろん当たり前のように、後ろ向きな気持ちだって持っている。今すぐ逃げ出したいって、そんな考えがゼロと言ったら嘘になるだろう。

 けれど、それでも私は、ここにいられている。悲願。そう、悲願とも呼べるものを欲していられている。皐月賞に続いてダービーだって取ってみせると、貪欲に勝利を望んでいる。

 勝利を分け合わなきゃいけないなんて、誰も決めていないんだから。

 そして観客席の前の方をよく見ると、<アルビレオ>と<デネブ>のみんなが一緒になってこちらを見ていた。チームのトレーナーさんたちも仲良く並んでいる。もちろん、私を応援するため。私の勝利を、期待しているから。私は一番人気じゃないかもしれないけど、私を一番だと思ってくれている人はいるんだ。そういうことに違いなかった。

 なら。

 なら、そのためにも。

 なら、負けないよ。

 スペちゃんにも、そして。

 

「さあ、最後にやってきました! 一枠一番、ここまで五戦五勝! 無敵の怪鳥、エルコンドルパサー!」

 

 エル、君にも負けるつもりはないよ。

 実は私は、エルのことをあまり知らない。それなりに仲良くはしているけれど、深く深くで考えていることは多分まだ知れていない。

 そのマスクの裏にどんな気持ちが隠れてるのか、見当もつかない。

 まあそれは、エルから見た私も似たようなものかもしれないけど。私も大概隠し事をしてしまいがちだから、お互いに表の態度の裏側に隠しているものはあるかもしれない。けど、私は決めたんだ。この戦いを通して、君の目を、私に向けさせてみせるって。そう、決めたんだ。

 エルは言ってたよね、スペちゃんには負けないって。なら、私にはどうかな? 私のことも、ちゃんと視界に入れているかな?

 もちろんそれは、やってみなくちゃわからない。ライバルに相応しいかなんて、やってみなくちゃわからない。

 けど、それはやる価値があるって意味だ。

 だから、だから私はやるんだ!

 

「さあ各ウマ娘、いよいよゲートに入ります!」

 

 ゆっくりと、周りの皆がゲートへ向かっていく。

 私も行かなくちゃ。

 大丈夫、怖くない。

 ゲートに入ればすべてが決まり、わからなかったことも全部わかる。

 だけどそれでもやれることは増えないのだから、やれる通りにやるだけだ。

 いつものように逃げを打って、ペースを掴む。そう、いつも通りにやればいい。

 それが私らしさで、私にとって一番勝利に近いやり方だ。

 

「ゲートイン完了。さあ、今年の日本ダービー、いよいよ開幕です!」

 

 そうしてまもなく。がこん、といつもの音が鳴った。

 ここで勝つのは、もっとも「運のある」ウマ娘。

 ならばトリックスターたる私が今日誑かすのは、運命そのものに相違ない。

 勝利の女神よ、私に微笑め。

 

 

 

 

 

 

 がこん! そうして、一斉にスタートする。どこどこ、どこどこ。各々のペースでアトランダムに大地を蹴る蹄鉄の音は、いつ聞いても心地よい。でもね、私はそれを横並びで聞くのは、そんなに好きじゃないんだよね。競り合って、真横や前からそれが聞こえるのはさ! だから、まずは──!

  

「さあ、まずは誰がハナを取るのか! 外から行ったのはセイウンスカイ!」

 

 そう、今回も逃げさせてもらうよ。ハナを取って自由気ままに、他人の足音なんてBGMにするのが一番だ。やっぱり足音なんてのは、私からすれば後ろから聞くに限る。競り合うより追いかけるより、私は追われて逃げる方がいい。別にそれが追い立てられてるなんて思わないし、性にも脚質にも合っている。だからこれこそ、逃げるが勝ちってね!

 

 ──でも、そうやって踏み出した時だった。実況の声と視界の異常が、私の前に重なる。

 目の前に立ち塞がり、晴れた空に夕立を起こすみたいに。

 

「キングヘイロー、果敢に行く! ハナを取って行ったのはなんとキングヘイロー!」

 

 ……自分の耳を疑った。えっ、なんで。どうして、君が。でも私の眼は、確かに前を往く一人のウマ娘を映していた。たとえ私の耳が塞がっていたとしても、私の見る世界は嘘を吐くはずがなかった。だから、わかった。ようやく、わかったのだ。

 私が今見ているのは、もう何度も見慣れた姿だった。友達として、毎日教室で見かける姿だった。独りを選ぶようになった最近だって、姿を見れば目で追って気にかけるくらいだった。

 けれど。けれど、そうではなかったのだ。私の前を往き、私以上のハイペースで逃げを打って。そのまま後方に聞こえるだろう私の足音を確認して、その上でちらりとこちらを振り向いたその眼は。

 血よりも紅い、敵意に満ちたその瞳は。

 

『ようやく、私を見たな』

 

 そう、全身を涸らすような叫びを孕んだ、揺れど彷徨わぬ視線だった。たとえ耳を塞いでいたとしても、骨の髄まで伝わってしまうだろうほどの、自らさえ引き裂く絶叫だった。

 

 

 

 

「キングヘイロー、二馬身のリード! セイウンスカイは二番手につけています!」

 

 圧倒的ハイペースで逃げつづけるキングヘイロー。私にハナを譲らない、そのための走り。これを強引に追い越すのは得策じゃない、そう思ってキングの少し後ろにつける。そっちがどう来ようと、私はそれに対応した走りをする。そうやって努めて冷静にいなくちゃいけない。それが当たり前。そうでなくちゃ勝てない。

 そのはず、なのに。

 どうしても、さっきのキングの眼がチラつく。見えたのは薄く開かれた瞳だけだった。口元だってはっきりしないし、顔の全体なんて全くわからない。それでも、その感情が突き刺さった。それほどまでに、私はキングのことをよく知っていた。一瞥すれば気持ちを読み取れる、それくらいの友達だった。

 そう、それくらい。彼女のことはそれくらい、知っているはず、だったのに。

 それなのに、どうして。どうして私は、彼女の抱えていたものに少しも気づけなかったんだろう? そんなことを、この瞬間にさえ考えてしまう。そんな場合じゃないはずなのに、心は奥までざわついてしまう。心臓が圧迫される感覚は、決してこのハイペースだけが原因じゃない。苦しい、痛い。走る感覚の楽しさよりも、それが勝りそうになる。

 ……でも、それでも! 

 

「セイウンスカイ、徐々に進出! キングヘイロー、懸命に逃げます!」

 

 それでも、負けられない! スペちゃんやエルに勝つためには、ここでペースを握らなきゃ! そう、自然に浮かぶ思考があった。まだ、勝負は決まっていない。だから、立ち向かうライバルには勝たなきゃいけないと思いつづける。その気持ちをもう一度軸にして、ひたすらに走る。

 けれどそこでまた、キングと眼が合う。互いを、互いの顔を見据える。視線を合わせ、表情がわかる。今度は、彼女の口元まで見える。歯を食いしばって、揺れる瞳が私を必死に捉えようとする。キングの顔つきが、懸命に走るウマ娘のそれだと思い知る。私と、同じだと。

 そしてそこで、やっとだった。そうまでして、やっとだった。レース後にわかればいいやなんて、遅すぎた。レース中のこの瞬間でも、もうこんなに遠いのに。

 やっと。やっと私は、彼女が私を恐れていたのだと気づく。敵視していたのだと気づく。

 彼女のライバルは私だったと、気づいた。

 

「セイウンスカイがここで満を辞して先頭に立った! キングヘイローは下がっていく! ここでいっぱいか!」

 

 すれ違う、ほんの一瞬だけ私たちは交差する。けれどそこで僅かに生まれるつながりを使って彼女の顔を覗く余裕は、今の私には残されていなかった。肉体的余裕も、精神的余裕ももう存在しなかった。キングが作ったハイペースは、先頭に代わった私が引き継がなきゃいけない。そうしなきゃ、追い越されてしまう。そうしなきゃ、せめて彼女に向き合えない。私を敵と、ずっと見定めてくれていた彼女に。今更でも、向き合いたいのに。

 けれどこれは勝負の世界。私が弱みを見せたなら、他の誰かがそこに食らいつく。そういう世界。キングからハイペースを引き継いで、あまりリードも広げられないまま体力を奪われた私に迫り来る次の敵。私は誰にも負けない、そう訴えるような力強い足音。何度も聞いた、地面を裂いて砕くような蹄鉄の音。来る。私を抜きに、来る! 

 

「その後ろから間を割ってスペシャルウィーク! スペシャルウィークが上がってきた! スペシャルウィークと、セイウンスカイか!」

 

 やっぱり、君か! 私のライバル、そう認めたスペちゃんは健在。終盤となればスペちゃんの本領、末脚では勝てないってわかってる。けどここは坂道、スペちゃんの苦手な坂道なのは計算通り。なら、私にも勝機は──! 

 

「並ばない並ばない! あっという間だ! あっという間にかわした! スペシャルウィーク! 先頭はスペシャルウィークです!」

 

 ──スペちゃんは、皐月賞よりずっと強くなっていた。坂道という弱点を克服する、ピッチ走法への切り替え。きっとあのピッチ走法も、皐月賞の経験を踏まえて特訓したのだろう。それはわかる。当然、わかっている。私だけじゃない、みんな成長しているに決まっている。それは、わからない方がおかしい。そこまで自惚れていたわけがない。ライバルが強くなるからって、それ以上に強くなればいいって思ってたんだ。だから、そこに文句を言うはずがない。スペちゃんが、スペちゃんがこれだけ強くなっていること。それを冒涜する言葉なんて、どんな理由でも吐けやしない。

 でも、私だって。

 

「全力の、はずなのに」

 

 絶え絶えの呼吸から、それでも漏れ出る言葉があった。でも、でも。どんどんと差をつけられていく。だからそんな言葉さえ届かない。これだけ必死に走っているのに。勝ちたいって、全身がそのためだけに動いているのに。全力の、はずなのに。全身全霊を振り絞って、そして対等に競い合うはずなのに。

 絶対に、絶対に諦めたくない。私の中身はそれだけだった。空っぽになるまで走りに尽くして、内側に残るのはそれだけだった。今だけは、諦めたくない。そう思う、それだけしかなかった。

 

「くっそおおおおおお!!」

 

 だから、なけなしの力を振り絞って叫んだのだ。なりふり構わないから、もう手段は選ばないから。私が勝ちたいって思った、この気持ちだけはどうか壊さないでください、そう願った。負けるとしても、全力の私を認めてくださいって、みっともなく願ってしまった。

 ……だけど。

 だけど、そんなのは勝負の場には要らないまのだ。慈悲や情けなんて、かけるだけお互いを傷つけるものだ。それを実証するかのように、私の横をものすごい勢いで一人のウマ娘が掠めて行った。……参ったな。

 もう、私はここまでなのにさ。

 

「やはり、やはり来た! やはりここで来ました、エルコンドルパサーです!」

 

 三強の対決は、そこで終わり。そこから先にあった大迫力の競り合いは、スペちゃんとエルだけの、二人だけの世界。私は後ろに沈んでいきながら、掲示板に滑り込むのが精一杯だった。

 終わってみれば、そんなもの。当たり前みたいに、勝てなかった。

 まぐれだって前評判が、正しかった。それもきっと、誰も悪くない。期待されて、それなりには走った。勝てないとしても、勝つ方が難しかった。そう、思えばよかったのに。そう、諦めてしまえばよかったのに。

 それでも、どこかで諦められなかった。全部が終わったあとにそんなふうに思っても、虚しいだけだとわかっているのに。

 二人の対決は写真判定にもつれ込むほどだったらしい。私からは遠すぎて見れていないから、よくわからないけど。ふと目を向けた青空は、やっぱり今日もキレイだった。ずっと見ていたら、涙が溢れてしまいそうなほどに。だからほどほどにして、歓声を巻き起こしている掲示板を見遣る。私には、泣く資格なんてないんだから。

 

 

「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」

 

 写真判定の結果は、まさかの同着だった。きっとこれはものすごいことで、ある意味では最高に良い結果だ。いい勝負だったんだ、それをこれ以上なく理解できた。スペちゃんとエルはいいライバルだったんだ、それを痛いほどにわかってしまった。抱き合ってまで健闘を讃えあう二人を見て、純粋にそう思った。これこそが、「最高の決着」。ただ、そうとだけ思っていた。

 悔しいとは、思えていなかった。私なんて、この場には必要なかったのに。そんなことはどうでもいいって、そう考えるほど悩めていないって、そう感じてしまった。やっぱり私は、敗北に慣れていないのだろう。負けを悔しいと思えないし、勝利の喜びには浮ついてしまう。そんなのは、呆れるほど贅沢な悩みだろうに。そんな甘さが、私を停滞させていたかもしれないのに。

 そのあとスペちゃんとエルから握手を求められた時、私は自分の気持ちを隠せていただろうか。二人が眩しくて羨ましいなんて気持ちも、悔しいとは思っていなかったなんて浅はかな気持ちも、それ以上に抱える罪への気持ちも。それを隠せていたか、わからなかった。そもそもそんな自分の気持ちが、本当はどこにあるのかも。私みたいな空っぽの人間が、どこまでそれに本気になれていたのかも。

 なにも、なにも。本当になにも、わからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下バ場に、こつりこつりと足音が響く。私一人の、何も踏む資格のない痩せた空っぽの脚から響くものだ。音も軽くて、それが空っぽに聞こえるのも私と同じ。そんな気がした。他の子がみんないなくなったあとに、隠れるようにようやく歩き出しているから、ここには私しかいないはず。私みたいなみっともない敗者の歩みなんて、誰も気には留めたくもないはず。そのはずだから、これでよかった。

 もう少し歩けば、チームの誰かやトレーナーさんが出迎えてくれるかもしれないけど。そうしたらまた、私は誰かに支えてもらえるのかもしれないけど。それでも、今はこうありたかった。今この時だけは、独りになりたかった。

 けれど少し進んだところに、立ち塞がる影がある。私の孤独を邪魔する存在は欲しくはなかったけれど、そこにそうしているのが誰なのかはだいたい見当がつく。私なんかにまだ何か伝えなければいけないと考える誰かのことは、独りを選びながらもどこかで予感していたものだった。数刻前まではまるでわかっていなかった彼女の気持ちも、今なら少しはわかるから。

 近づいて、近づいて。一歩を進めるたびに、その顔が細かく見えた。少し見るだけでわかるくらいにその表情は崩れていたけれど、それでもその存在を私が受け入れるのには時間がかかった。間近に来て、やっとだった。

 そこに立っていたのは、キングヘイローだった。ダービー一五着、そんな惨敗を今日抱えた、私の友達だった。

 そして、私のライバルだった。そのはず、だったのに。そうしていなかったのが、私の今日の罪だった。

 いつもは強気な顔を崩さないお嬢様は、みっともなく泣いていた。それもまた、初めて見る顔だった。レース中に見せた私への恐れと敵意とは、また違う表情だった。やっぱり、私は彼女のことをなにも知らなかった。そんなふうに悔しがっている君の感情を、わかっていても受け止めるのに時間がかかったのだから。寄り添えてなんか、いなかったのだから。

 悔しさを露わにして、隠そうともしないで。ぼろぼろと滝のように涙を流しながら、拭うことさえしないで。悔しいかさえわからなくなっている、そう思おうともしたくないだろう今の私とは対照的だと思った。そんな誰にも見せたくないだろう顔を、彼女は私に晒していた。

 

 

 暴走気味にハナを進んで、後半は見事なまでに失速して大敗。そんな走りをしたあとなんて誰にも会いたくないだろうに、それでもキングヘイローはそこにいた。私を、待っていた。泣きながらでも、待たなきゃいけないと思っていた。

 その理由も、だいたいわかる。それなりに、私は彼女を知っているから。

 今回のキングの走りは、失策と言ってしまっていいだろう。保てるわけがない、超ハイペース。そしてそれを理由に自分から崩れての、らしくない走りかた。それ自体は、どうやっても、負けに繋がりやすいものだろう。それは仕方ない。

 けれど仕方ないとわかった上で、彼女はそこに一つの想いを抱いてしまったのだろう。

 どんなにハイペースでも、ペースは作っていた。作ってしまっていた。先頭に立って、逃げウマとしてレースを引っ張った。そして、他のウマ娘のペースメイクに影響を与えたのだ。その中で一番自分の走りを惑わされたのは、きっと他ならぬ私だった。逃げウマとしてハナを取りレースを支配するのが定石のはずの私は、キングにハナを取られて他人のペースを握れないどころか、逆にペースを握られたウマ娘の典型のような結末を迎えた。

 それほど末脚に自信がない以上、引き離されては勝負ができない。だからむりやりキングのハイペースに付き合った結果、息を入れるタイミングを失った。そしてそのまま最後は沈み、敗北を喫した。それは、今回のレースの分析の一つ。私の敗因を並べるなら、最初に浮かぶだろう一つ。

 だからきっと、キングはこう言いたいのだろう。気高くてお節介な、君みたいな子なら。

 

「あなたが負けたのは、私のせいだ」

 

 けれどもし君の流している涙に一厘でもその感情が混じっているとしたら、キングヘイローというウマ娘は優しすぎる。私には、そんな価値はない。私には、君にそんな気持ちをかけられる資格はない。私は君を、本気でライバルとして見ていなかったかもしれないのに。ちゃんと敵意を向けるということを、優しさなんて言い訳で忘れていたのに。キングはずっと、私を見ていたのに。私が君を見ていないことに気づくほどに、見ていたのに。

 スペちゃんやエルが私に手を伸ばしたように、私はキングに手を伸ばせるだろうか。ライバルとして見ていたと、今更表せるだろうか。友達としてしか、彼女を見ていなかったくせに。今更、だった。だって慈悲や情けなんて、互いを傷つけるだけなんだから。すべてが終わったあとに諦めたくないなんて、虚しいだけなんだから。

 何も言わず、何も言えず。ゆっくりと彼女の横を通り過ぎる。キングも何も言わない。それとも私と同じで、何も言えないのかもしれない。どちらでもよかった。私のことを見損なうなら、それでいい。それがいい。せめて気持ちよく、君が袂を別てるなら。そのためなら、今でも同じ気持ちを持っていい。私は涙を流せないという差はあるけれど、それくらいの差はあっていい。悔しさを噛み締められるか、その資格の差。互いに別れを告げるために、同じことと違うことを見つけよう。もう、それでいいんだ。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 訣別とは、そういうこと。私たちは、独りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの昼寝が長すぎたわけじゃなかった。今日の昼はダービーだったんだから、当然だ。恐ろしい悪夢から逃れようとしたわけでもなかった。悪夢を見るほど苦しい思いをしているわけがないのだから、当然だ。ただ、何度か目を見開いて、まだ夜なんだ、そう何度も同じことを思った。朝が来ればすべてが元通りなんて、もう信じられるはずがないのに。待っているだけじゃ何も変わらないって、散々学習したはずなのに。無意味に河原を周りつづけながら、誰かの助けを盲信的に待っていたあの日と、私は何も変わっていない。

 よろよろと薄い上体を起こす。全身にはギリギリ昨日の、感覚的にはまだ今日のダービーの疲労が色濃く残っていた。ふくらはぎを筆頭に節々がすっかり筋肉痛で、しばらく歩きたくさえありません、そう脚が言っているような気がした。せめてちゃんと眠りにつけていたなら、今もう少しマシだったかもしれない。ウマ娘にとって己の身体は資本であり、その管理だって大事なことだ。

 それでも私はベッドから起き上がり、寝巻きのまま顔を洗いに洗面台に向かった。私の身体なんてどうだっていい、そんなやけっぱちにも思える目覚めだった。そんな、心底酷い目覚めだった。明かりをつけて鏡を見ると、酷い顔が映っていた。手入れせず布団に潜ったから髪の毛はぐしゃぐしゃで、冷水を叩きつけても顔つきはやつれたままだった。年頃の女の子なのだから、これだって管理しなきゃいけないことなのだろう。それでも、私は。

 それでも私の心は、何も許してはいなかった。私を断罪するでもなく、ただ何も許さないと告げていた。休むことさえも、耐えられないと。

 そんな感覚。誰もいない、はじめての夜だった。

 

 

 

 

 

 

 ぎぃ、と扉が開く音。昼間なら必ず扉を開くその音に誰かが耳を立てるだろう寮の広間だけど、今は私に反応する者は誰もいない。この瞬間の寮は私一人だけの独壇場、そう言ってみれば聞こえはそれなりに良かった。

 寮長のヒシアマさんすら寝ているから、今ここにいるのは本当に私一人。やがて日が昇るまでの僅かな時間に過ぎないけど、今は、今だけは独りだった。ふらふらと寝起きのみっともない足取りでも、独りになれるというだけで歩みを進めた。でもそれが前を向いているのか後ろを向いているのかなんて、ちっともわからなかった。

 闇の中を進むうちに視界は暗さに慣れてきていて、灯りをつける必要は感じられなかった。寝静まっているみんなと同じように、私の身体もこの闇に溶け込んでいる。けれど心の動きだけが、私を独り際立たせている。目覚めているのは、私だけ。私、独りだけ。

 とはいえ似たようなことはきっと今のこの寮だけじゃなくて、すべての夜にありふれているのだろう。たとえばこうやって広々としたソファを占有して、無為に時間を過ごすようなことは。あるいは今この瞬間さえ、どこかで私と同じような誰かはいてもおかしくない。こうやって独りで夜を過ごすことは、ありふれていて特別じゃないだろう。

 だけどそうやって誰かと同じであることは、独りであることを否定する材料にはならない。同じことがどんなにあっても、違うことがその中で見つかっても、どちらにせよ、それだけでつながりを持つとは限らない。たくさんの誰かと同じ空間にいても私が独りなように、同じ状況であることだけが担保してくれるものは何もない。踏み出してつながりを持たなければ、誰もが独りのままだから。手を伸ばして掴み返されなければ、人は隣り合っていても寄り添うことはできないのだから。あの時、私が彼女の横を何も言わずにすれ違ったのと同じだ。

 そして、なにより。なによりまず、当人が独りを望んでいるのなら。つながりなんて要らないと、独りでありたいと願うのなら。

 それならば、踏み出す理由はどこにもない。だから、そこで閉じる。

 暇だな、と思い、何気なしにスマホの画面を開いてみる。ロック解除のボタンを押すと、鮮やかなブルーライトが痛々しく目に突き刺さった。むりやり視界をこじ開けて、夜更かしを決行するには最高のお供かもしれないと思った。私程度が己を不健康に貶めるには、劇的に自らに傷をつける勇気もない、私にとっては。

 ホーム画面を開いてまず目に入るLANEのアプリを開くと、そこには数日分の未読が溜まっていた。大体みんな私がめんどくさがりなのを知っているから、取り留めのない会話を個人的に送ってくる子はいないけど、それでもそこには私のつながりが並んでいた。独りになりたかったはずなのに、それをしばらく眺めてしまった。

 過去の通知を消すだけ消そうかと一瞬思い、やめた。そのためには、僅かでもそこにある会話を見る必要があるから。少しでも誰かの言葉を見てしまえば、たとえ文字列でもそこにあるつながりの重さを認識してしまう気がしたから。なにより「彼女」とのつながりを再認識するのは、今の自分には耐えられない。そう、それは許されていないんだから。私には、君の抱えた気持ちを測り切ることはできない。この先、ずっと。友達だと思っていて、そこのラインで止まっていた今までのように。永遠に、踏み出せない。

 

「……はぁ」

 

 一つ、ため息が漏れた。広いソファの上なのに、自然と身体がうずくまった。閉じ込められているのか、自分から閉じこもっているのかわからなかった。うずくまって、背中を丸めて。指先は握り締めるでもなく、伸ばすでもなく曖昧に丸まる。すべてが曖昧で、すべてに答えは出ない。どこまでも、悩みが尽きないような気がした。

 たとえば、の話。ゲートがいつまでも開かず、大事なレースは始まらずにお流れ。昨日はそうであったらよかったのだろうか? 突拍子もない想像が、突拍子もない夢の代わりに暗く頭の中に浮かんだ。

 眠る代わりに起きることは、きっとぼやけた思考のまま冷たい現実と向き合うことなのだろう。そうして現実の前では夢を見れない代わりに、現実を閉ざす空想に逃げられるのだろう。

 でもそんな安易で邪な考えこそ、確かに今の私にとっては理想の一つだったかもしれなかった。狭いゲートに閉じ込められるなんて嫌いだけど、それ以上に取り返しのつかない感覚が全身に蔓延っていたのが嫌だった。私一人の我慢ですべてが贖えるなら、それでいいとさえ言えてしまいそうなほどに、今ある現実が嫌で嫌でたまらなかった。私なんかが何をしようと、変えられる結果じゃないとわかっているのに。それこそ傲慢だ、あの最高の決着を私如きにどうにかできるわけがないんだ。それはわかっていたのに、そんなことばかりを考えてしまう弱さがあった。

 あのレースの勝者はスペちゃんとエルで、私にもしもはない。「ハナを取れていたら」それだってどうかわからない。取れなかった以上無意味な仮定で、取れたところでようやく勝機が見えるか否か。あの二人が私より強かった、それがまず目に入る結論。私がやるべきはこの敗北を糧にして、前に進むこと。踏み出すこと。それ以外には、ありえない。それこそが、正論というものだ。

 だからたとえばあの正論男なら、当たり前のようにもう次のレースを見据えているのだろう。くよくよしても仕方ないって、いつものように正論を吐くのだろう。私にだって、それくらいはわかる。それが正論で、正しいってわかる。今回ばかりは言い逃れようもなく、正論を飲み込むしかないってわかる。だからきっとそう告げられたら、わかってますよと返す準備はできている。ちゃんと正論を理解していると、そう示す準備は。

 ……でも。でも、だった。

 

「仕方ないじゃ、ないですか」

 

 そう、届かない弱音を。届かないとわかっているから、誰にも聞かれていないとわかっているから吐き出せた一言だった。何度も何度も今までそうしてきたように、救われないとわかっているからこそ弱音を吐けた。どうしたって、変化は怖かった。弱さを曝け出して、それを指摘されるのは怖かった。だから、独りになりたかった。誰もいない、そんな夜が愛しかった。それでよかった。そのはずだった。その瞬間までは、そのはずだった。

 だけど不意に、ぴろん、と。開いたままのスマホから、出し抜けに通知音が鳴った。メッセージの送り主と内容を見て、またため息が出そうになる。こんな夜更けに「起きてるか?」って、普通そんなわけないじゃないか。しかも私が返信サボり魔なことだって知ってるだろうに、そんな中身のないメッセージに返信すると思うのか、たとえ起きてたとして。

 やれやれ、と思った。またため息が出そうになった。この時間にそんなメッセージを私なんかに送ってくるトレーナーさんと、それに柄にもなく返信しようとする私に対して、何度も呆れてしまった。だけどため息を吐き始めたら、それこそ本当に止まってしまう気がしたから。手を伸ばされたのに拒むほど、私は強くなかったから。

だからソファの上に転がしていたスマホを拾い上げて、メッセージを返すのに少しの間をおいて。悩んだからか、あるいは単に気取られないためか。どちらにせよ私は、五分くらいのあと「なんですか?」と返信を送る。既読自体はすぐにつけてしまっていたと気づくのは、だいぶあとのことだった。とっくの昔に掬い上げられていて、つながりを持っていて。だから私は独りにはなれないのだと気づくのは、本当にもっとあとのことなのだろう。

 

「おお、起きてたか!」

 

 送ってから数秒、ノータイムで返ってくる。まったく、どんな顔でこんな時間にそんなことを宣っているのだろう。テキスト上じゃ顔なんて見えないのに、無機質なはずの日本語の並びからあの太眉と白い歯が飛び出してきそうな気がした。

 逆に私の文章から、トレーナーさんは私の表情を読み取れるのだろうか? ポーカーフェイスには自信があるつもりだけど、この人には見透かされているような予感もした。いつもは多分隠せているけれど、今のトレーナーさんはどんなこともわかっちゃってる気がした。まさか私の泣き言を察知して連絡してきたなんて、そこまでは思わないけれど。

 

「たまたまですよ」

 

 私の手つきは拙くて、その程度のメッセージにもやっぱり時間を要した。考えて、悩んで、それでもここにあるつながりを切ろうとはしていなかった。次の返信までの本当に僅かな時間、どうしてこの人は連絡してきたんだろう、そんなことを今更考えていた。……そう考えていたのも見透かしたみたいなメッセージをよこしてきたのには、流石にちょっとびっくりしたけどさ。

 

「そうか。いやなに、少し眠れなくてな」

 

 眠れなかったから連絡した、そんな暇つぶしに付き合わされること自体は納得してやるとして、今はたとえ恋人同士でも許されないような時間帯だと思うけど。デリカシーとか、時折そういうのを感じさせてくれない時があるよね、この人。

 けれど彼に眠れない理由があるとしたらはっきりしていて、それはきっと私と同じ理由。当人かそのトレーナーかの違いはあれど、きっとこの人もダービーの負けを引きずっている。だからまあ、それも受け入れてしまう。同じ理由で同じ時間に、同じように独りなら。そこまで

 一致したのなら、手を伸ばすのも致し方ないのかもしれない。同じであることはつながりを持つ理由にはならないけれど、手を伸ばしてつながりを望む理由にはなる。だから、互いに手を繋ぐ。これはきっとそういう時間。あなたが私に、寄り添う時間。

 ならきっと、ともに過ごすのも仕方のないことだ。それは、わかった。

 

「悔しいですけど、次を考えなきゃ始まりませんし」

 

 けれど、私に伸ばせる手はこういう手だ。あくまで相手の望む答えを、妥当な言葉を引き出すためのもの。すべての流れを打ち切って「助けて」と打ち込めるほど、私に勇気と強さはない。私とあなたの考えには、きっと細かな差異がある。

 それは埋めようと思えば埋められるけれど、一致はしない。だから私は、手を離す。ほどほどに握ったあと、大丈夫だよと笑いかける。本心じゃなくても、別にいい。

 また素早く返信が来る。きっとトレーナーさんは、そのまま思ったことを書いている。だからこんなに返信が早いんだろう、そう思った。私が悩むのは言葉を選んで、つながりを緩やかに終えるためなのに。いつまでも寄り添われては互いに進めない、それがわかっているか必死になっているのに。だから私は必死に、覆い隠そうとしているのに。

 

「そうだな、悔しい。でも君の口からそれが聞けてよかった」

 

 覆い隠そうとしているのに。

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、完敗ですね。みんなに応援してもらったのに」

「……スカイちゃん、お疲れ様です」

「ありがとうございます、トップロードさん。ご期待には沿えなかったですけど」

 

 昨日のダービーを終えて、最後に向かった控室。長い長い地下バ道を抜けたあと、泣きじゃくる彼女とすれ違ったあと。すべてが終わったあと、私のことをたくさんの人が出迎えてくれたのは覚えている。

 

「スカイさん、お水持ってきました。本当に、お疲れ様です」

「ありがとフラワー。いやー、疲れた疲れた」

 

 みんなが、私を労ってくれた。期待したぶん走ったと、この結果でも頑張ったのだと認めてくれた。だからそうやって、努めてやり切ったという振る舞いをした。実際全力だったし、待っていたのは文句なしの結末だ。最高の決着、だったんだ。

 観客席から湧き起こっていた大歓声が、それの証明だった。

 だから、悔いはない。そうでなきゃ、何もかもを汚してしまう。勝者の栄光も、敗者の苦悩も。だからどちらにもなれない私は、悔やむ資格なんて持ち合わせていない。勝者への気持ちも敗者への気持ちも、私のそれはどちらも誰にも見せてはいけない罪悪の結晶なのだから。

 私の罪を、暴かないで。そう希ったのを、覚えている。

 

 

 

 

 

 

「何がよかったんですか?」

 

 思考時間はだんだん短くなる。返信への時間も、徐々に短くなっていく。今すぐ、その物言いを問い詰めたくなる。私のみっともない心を、剥き出しにしたくなる。毒まみれの棘を孕んだとしても、耐えられなくなる。

 私は悔いてはいけないのに。その資格はないのに。だってあの闘いの場に、私はいなかったのだから。空のように高いところを地面から眺めているだけで、近くにいたライバルのことは見てすらいなかった。ライバルと見据えた二人には二人の世界があって、私はそこにはいなかった。それどころか自分に向けられる視線を無視して、いるべき場所を履き違えていた。

 そういうふうに私は考えていて、それは誰にも見せていない。きっと優しさや信頼からその気持ちは否定されないとしても、弱さそのものとしかいえない私の不安を見せたくなかったから。見せてしまえば、大切なつながりさえ揺らいでしまう。

 誰かの中で信頼される私という実像を、裏切ってしまう。それは嫌だった。だから見せたくなかった。せめて誰かの中の私だけは、壊さないように。

 なのに、あなたは。

 

「俺も悔しいからだ。そういう気持ちを一人で抱え込むのは、嫌だからな」

 

 どうしてあなたは、いつもそうやって。やっぱりずるい、そう思った。嫌な思いをしたくないのは自分だけ、そんなふりをして。私より上手く、本心を隠して。あくまで正論に見せかけて、私の弱さにまで正当性を持たせようとする。自分の心を隠すのは下手なくせに、他人の心のために正論を使うのは上手なのか。本当に、困った人だ。

 あなたの中の私は、どうなっているのだろう。そこまで弱さを見抜いていて、どうしてなお期待できるのだろう。わからなかった。どんどん、わからなくなった。会話を深めて理解を進めるほどに、わからないことが増えていった。どうして、なんで。何で私に、そんなにも。

 

 だから、だったのだろう。それを問いたくて、思わずの行動だったのだろう。気づけば私はメッセージアプリのキーボードから画面を切り替え、十の数字を表示するキーパッドを叩いていた。ぴっ、ぽっ、ぱっ。押す番号は決まっている。起きているのも、わかりきっている。少しばかりどきどきするとしても、私はそうすることを躊躇わなかった。

 つながりを、強くしようとしていた。数回のコール音のあと、繋がる。

 

「どうした、スカイ」

 

 いつもよりひどく、落ち着いた声だった。

 

「埒が開かないな、と思って。そもそもトレーナーさんも苦手でしょ、ああいうコミュニケーション」

「どうしてそう思うんだ」

「いつも楽しそうに大声出してるからです」

「その通りだな。声に出した方が何事もスッキリする。思ってるだけより健康だ」

「そうですか。耳が痛い話ですね」

 

 相変わらずの正論。さっきまで私が心の底でうじうじしていたのを、きっと見抜いてるんだろうなって感じの台詞。まったく、正論なんてもので後押しできるのは、正道を行きたいと思っている人だけなのに。

 私のようなひねくれものがそれを正面から受け取っても、ますます塞ぎ込むだけだ。不器用な人だなあ、と思った。本心を隠すのに使うのが正論や根性論だけじゃ、隠しているのがバレバレだ。

 だから、まあ。あなたの気持ちは大体、手に取るようにわかっちゃうんだけどさ。大人しく素直な時は、どぎまぎさせられるくらいに素直なんだもの。

 

「スカイ。さっきも言ったが、よかったと思ってる。君が悔しがっていて」

「自分だけじゃなかったから、でしたっけ。トレーナーさんはそんなに悔しかったですか?」

「負けたら悔しいし、勝ったら嬉しいさ。自分の担当ウマ娘なんだからな」

「意外ですね。私のデビュー戦とか、そんな喜んでくれましたっけ」

 

 そう問うと、彼は少し硬直して。メッセージを含めたここの会話で初めて、彼の思考の迷いが見えた。

 まあでも、結局素直に言ってしまうみたい。この人はどこまでも、そういう人だった。

 

「……あまり他人には見せないようにしてるんだ。その、本人を差し置いて喜びすぎるのも良くないかと」

 なんて、告げられたのは思わず頬が緩んでしまいそうな答えだった。それを私に言ったら今まで隠してきた意味がないだろうとか、今更そんな恥ずかしがる心が残っていたのかとか、なんだやっぱり嬉しかったんだ、とか。色んな意味で、私の心のネジを緩める。暖かい空気に、閉じ込めていたはずの心臓の中身が触れてゆく。

「それは一理あるかもしれませんね。ところでそういう気持ちは抱え込まず、声に出した方がいいと聞きましたが」

「耳が痛いな」

「トレーナーさん、自分に論破されてたら世話ないですよ」

「そうだな。だから今言ったんだ。今なら君しか聞いてない」

 

 ……むぅ。一本取ろうと思ったのに、すぐさま返された、って感じ。なら私の負け、そういうことかもしれない。大人しく敗者らしく、情けない言葉を述べよ、そういうことかもしれない。

 負けたってことを、私なりに話してもいいのかもしれない。

 

「そうですねえ。じゃあ私が今から喋っても、トレーナーさんだけが聞いてくれますか?」

「いいぞ。どんとこい」

「仕方ないなあ」

 

 そうして、私はゆっくりと。ゆっくりと、少しずつ。何度も渦巻き押し留めていた思いを、言の葉に乗せて打ち上げ始めた。独りの気持ちが、独りじゃなくなっていく。

 

「私も、勝ちたかったんです。相手が強くても、怖気づきたくはなかったから。やる前から諦めるなんて、もう嫌だったから」

 

 それは正しい。だけどそれは、私だけが持ち得る感情じゃなかった。だから正しいけど、間違っていた。

 

「その気持ちが私にも向きうるなんて、思ってもいませんでした。誰かと勝負してるつもりで、私は他の誰かからの勝負を避けていた」

 

 ライバルとして見るべきは、一人だけじゃなかったのに。だから私は、勝負の場にいなかった。勝負しようなんて当たり前に持たなきゃいけない気持ちを、どこかで避けて見ていなかった。

 

「私に勝ちたいって思ってた子がいたのに、私はその子を見てなかった。私はその気持ちを、台無しにしたんです」

 

 それが理由だ。私が悔いてはいけない、涙を流してはいけない理由。侮っていたのだろうか。みくびっていたのだろうか。いやきっと、友達だと思おうとしていたのだろう。だけどだからこそ、私は悔しいなんて思ってはいけない。勝負の場にまで優しさを持ち込むのは、なによりも彼女を侮辱する行為だ。だから、泣いてはいけない。何も人の気持ちを想えなかった私なんかには、ほんの少しだって、涙を流していい理由なんて──。

 

「だか、らっ……」

 

 ──そのはず、なのに。頬を伝うものに気づいた私は、それを止めることに精一杯になる。ほんの一厘だって、彼女を想う資格はないのに。今更優しさを見せたって、何もかもが遅いのに。

 彼女が私を最後に慮ったのとは、違うんだ。あの涙は、あの想いは彼女らしさなんだ。私のそれは、君に感化されただけの安っぽい気持ちなんだ。君ほど強くは、泣けないんだ。私は、私には。

 なのに、止まらない。気持ちが溢れる、私の弱さが曝け出される。どうしようもない嗚咽を、電話越しの一人だけが聞いていた。

 そこから先、一つも言葉にはならなかったけど。それを聞いてもらえたことは、よかったのだと思う。

 たとえ言葉にならなくても、声にするだけでスッキリする。そのことは多分、あなたの言う通りだ。

 

 

 

 

 

 

「……すみません、聞かなかったことにしてください」

「それでいい。君はまだ子供だ」

「それならいつか大人になる時、この弱さは捨てなきゃいけないですね」

「違う。捨てずに育てるんだ。この敗北にだって意味はある。スカイ、一つ言っておこう」

 

 結局、正論に次ぐ正論。最初の落ち着いた声に比べて、すっかり元気が戻ったって感じ。だけど私の方も、少しは元気が戻っていたかもしれない。相変わらずの正論に対して、受け止め方が変わっていたから。トレーナーさんの、おかげで。

 

「もう何個も言い聞かされましたけど。もう一つだけ聞きましょうか」

「君は紛れもなく、ダービーの出走者だ。あの場にいた。すべての観客が、君の走りを保証する」

 

 ……それには、何も言い返せなかった。もう、何も言えなかった。だけど、受け止めることはできていたと思う。最後にしっかりと私に述べられた、優しく強い励ましの言葉だったのだから。

 しばらく待つと、おやすみ、と言い残して電話は切れた。もうすぐ日が昇るというのに、今から寝る時間があるというのか。授業を休んで一日ふて寝しろとでも言うのだろうか、自分が私の立場なら絶対そうしないタイプのくせに。まあ確かに今日一日サボるというのは、数時間前なら名案だったと思う。ほんの数時間前の私なら、そうやって時間をかけて独りで解決した方がよかっただろうと思う。だけど、今は違った。今ならせめて、授業中にうとうとしてやる方が良いように思えた。まああんまり変わらないかもしれないけれど、学校にちゃんと行くということが重要だ。あれだけのことがあっても、それでもなおつながりを持とうとすることが。つながりを頼る勇気はまだなかったけど、断ち切る勇気も消えていたから。やっぱり私らしく曖昧だけど、独りよりはその方がいいんだから。

 

 ……さて、猶予は短い。もうすぐ、待ち侘びた朝が来る。誰もいない夜は、ダービーの日の敗北を喰む夜は終わる。夜更かしして改めてわかったのは、朝はすべてを切り替えてなかったことになんかしてくれないって当たり前の事実。人が朝に明確な差を見るのは、地続きになっている変化の積み重ねが、たまたま朝に結実したように見えるだけ。月が時間をかけて沈み、朝日と入れ替わるように。そんなふうに眠っている間にも積み重なる変化が、朝になって目覚めた時に一気に気づいて見えるだけ。だけどそれこそ、常に変化がある証なのだと。どんな時でも日進月歩の如く、踏み出すことが何かを生み出すのだと。諦めなければ、努力は裏切らないと。登りゆく太陽によって象られる青空が、私の眼にそれを見せていた。

 決着した。敗北した。訣別した。なら、それも歩みに数えよう。

 私たちみんなが、未来へ進むんだ。




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