完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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夏回 セイトプの思想


スタートライン

 キングヘイローがチーム<アルビレオ>に入ったその日から、彼女が本格的に練習に参加し始める夏合宿が始まるこの日まで。そこまでの時間はあっという間に過ぎて、まさに光陰矢のごとし。一日一日はあんなに長くゆったりしているのに、振り返って見る時の流れはいつも一瞬だ。それだけ無駄が多くて、積み重ねられているのは微々たるものばかりということかもしれない。ゆっくりとした変化ばかりで、大半は何にもならない回り道ばかり過ごしているのかもしれない。でもきっと、そのうち一日だって欠けていたら、多分今の私にはなれないんだと、月並みながらそう思う。

 だって、それが積み重ねるということ。抜き出して捨てても大丈夫なものなんて、何一つとして存在しない。長い長い時間が一日や一瞬の集まりでできているって、きっとみんな知っている。複雑に絡み合いすべてに意味を成しているって、当たり前のようにわかっている。もちろん、私もだ。そして今日もその一歩。明日からが本格的な夏合宿だから、今日は単に移動するだけにほとんどの時間を使う日。ある意味ではなんでもない、大きな物事の合間にある時間だけど。

 だけどこれも、かけがえのない。かけがえのない、インターバルなんだ。

 

「それにしても、暑いなあ」

 

 というわけで真夏の午前中、寝癖だけは直したようなぼんやりした頭で街を行く私。目的地は、トレセン学園最寄りの駅である。電車を乗り継いで合宿所まで行くらしいんだけど、最初の駅までは各自で集合。というわけで、そこまでは歩かされる。

 残念ながら寮の前までトレーナーさんが車を出して送ってくれたりはしないらしい。クーラーの効いた車の中で揺られるだけで済むのなら、それが一番良かったのにね。まあ<アルビレオ>と<デネブ>の二チームの合同ともなれば車はいくら大きいのを用意しても狭すぎるし、そもそもあの運転初心者トレーナーさんにおっきなレンタカーを操れるとも思えない。というわけで、納得はする。理解はする。大人しく、飲み込みはするけどさ。

 それはそれとして、暑い。そのことには文句を言っていいと思う。別に誰かじゃなくて、季節や湿気や太陽への文句だし。そんな暑い中出歩かされる理由にも、文句がないといえば嘘にはなるけどさ。

 本当、なんで夏場に外に出なきゃいけないんだろう。電車は速いし涼しいし便利だけど、それに乗るためには駅まで歩かなきゃいけないのが難点だ。快適な旅のためにこうして駅まで暑い中をちまちま歩く必要があるというのは、何か矛盾を孕んでいる気がする。夏に外を歩くなんて、一秒だってない方がいいに決まっている。強いていうなら、釣りの時は例外だけど。

 

 ああ、まったく。夏合宿なんかなかったら、夏休みはずっとエアコンの効いた寮で過ごしてたのになー。そこでごろごろし続けて、ご飯だって寮の中で済ませるくらいのインドア生活を決め込んでやるつもりだったのになー。私がこれから向かう夏合宿というものはその真反対にあって、毎日毎日暑い中更に汗を流すようなトレーニングばかりをするのだろう。はあ、気が重いねえ。

 とはいえそんなことをちゃんと思っているくせに夏合宿に行かない選択肢を選べなかったあたり、結局私も毒されているのだろう。そこにある特別な時間が、己の身体を鍛え誰かとのつながりを結ぶその時間が、自分にとって必要だと思っているのだろう。クラシック三冠、最後の一つ。菊花賞に向けて、できる限りを尽くそうと。

 それにきっと、単純に。必要性なんかなくても、私は夏合宿に向かってしまう。これから始まる時間に、わくわくしてしまっている。だから、仕方ない。朝早くても暑くても、だからこそ楽しみだと思ってしまうのなら。

 足取りは弾み、尾は揺れる。既にたらりと流れ始めた汗が、予感を呼ぶ。

 夏が、始まる。その、予感を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、スカイさーん!」

 

 駅に着いて改札まで行くと、そんな感じで先客がいた。わりかし早めに着いたつもりだったのに、彼女の方が早かったみたい。いつもは大人しくて柔らかい表情の多いその顔に目一杯の笑みを浮かべながら、そんな先客たるフラワーがこちらに手を振ってきた。彼女のぶんぶんと大きい身振りを見ると、いつもと違って年相応というかなんというか、という感じ。それを見るなり、唇の端っこから思わず笑みがこぼれてしまう。可愛らしいな、元気だな、ってさ。でもきっと、それくらいには彼女もいつも通りじゃない。普段の彼女とは印象が違うのも、それだけ夏合宿を楽しみにしているからだろう。

 これから私たちを待つのは、ちょっとばかり特別な日々。みんなで一緒に朝から晩までを過ごす、「また明日」のない繋がったままの時間。それはやっぱりどうにも、楽しみにしてしまうものだろう。君も、だし。もちろん、私も、だった。

 

「おはよう、フラワー。まだフラワーしか来てない?」

「はい。早く来すぎちゃいました」

「なるほど。それなら私もちょっと早かったかな? やる気満々みたいに思われちゃうなあ」

「いいと思いますよ、やる気満々で」

 

 そう言って、フラワーはふふっ、と口元を押さえる。そういう彼女も、この様子じゃあ十二分にやる気満々なのだろう。<デネブ>のリーダーとしてトレーニングメニューだって夏合宿専用のものを考えてきていて、他にもたくさん今日からのための準備をしている。つまり、フラワーにとっては夏合宿はある種の大一番。さながら大一番のレースのように、その努力が報われる瞬間が今日なのだ。

 

「そっかあ。フラワーがそう言うなら、そういうことにしとこうか」

「はい。もちろんスカイさんには菊花賞に向けて、特別メニューを組んできましたから」

「菊花賞、ね。確かに夏合宿で一番大きな目標を立てるとしたら、そこになるよね」

 

 それは言うまでもなく、だった。クラシック三冠最後の頂、菊花賞。そこが、私の目指す次の夢。もちろん一筋縄ではいかない、格式と激しさを兼ね備えた偉大なレースだ。特筆すべきはその距離で、皐月賞や日本ダービーよりもスタミナが求められる。クラシック級の多くのウマ娘はここで初めて3,000mを走ることになり、そして体験したことのない距離において極限状態まで追い込まれる。

 ただ脚を動かすだけでも負担になってくる距離で、それでも冷静にレース展開を把握し勝利への糸口を掴むこと。思考の余裕を奪われ、体力の限界を試され、その上で、最速でゴールを駆け抜けること。底力とでも呼ぶべきそういった要項が要求されるからこそ、菊花賞で勝つウマ娘はこう言われている。

 もっとも「強い」ウマ娘だと。

 上等だ。私への試練としては、それくらいなら申し分ない。自分の力を示すため、絶対にこのレースで勝ってみせる。

 勝つんだ。そんな誓いの闘志を、瞳と心臓に宿した。

 するとフラワーも、言外にあった私の気持ちを汲み取ったみたいで。彼女なりのエールを、素直に送ってくれる。君の期待も、今度こそ。

 

「はい。私も、スカイさんに勝ってほしいですから。その、本当は今は同じチームじゃないですけど」

「……ありがとう。うん、すっごく嬉しいよ。……まあ、それに、なんだけど。実は同じチームだから応援するってなると、一つ問題が出て来ちゃうしね」

「それは、どういう……?」

 

 私のその言葉尻を聞いて、きょとんと頭にクエスチョンマークを浮かべるフラワー。細い首が、彼女の小さな頭を疑問で傾げさせる。

 ……そういや当然、そことそこは初対面か。私から見ればフラワーも「彼女」もどっちもよく知ってる子だけど、そこ同士の相性についてはさっぱりわからない。うーん、仲良くできるだろうか。新しいつながりからまだ見ぬ化学反応が起こるとして、その実験は成功するのか、はたまた。

 ……まあとりあえず、フラワーの疑問は解消しておこう。前もって心構えさせておくくらいは、私の役目な気がするし。

 

「ああ、実は<アルビレオ>に新メンバーが入ることになってさ。この夏合宿から。その子が、私の同期。クラスメイトでもあるね」

 

 私が割となんでもないふうにそう言ってみたのに、彼女は目を丸くして驚いている。あんぐりってほどじゃないけど、その小さな口まで若干ぽかんとしちゃってる。今日のフラワーは表情豊かで、いつもより見てて楽しいなあ。

 

「えっ、そうなんですか! そうとわかってたらその方にも菊花賞用のメニューとか、あと歓迎会とか」

「やっぱり、うちのトレーナーさんから聞いてたりはしてなかったか」

 

 まあ、そこは期待してなかったけど。それにトレーナーさんが無責任というよりは、そのあたりのことについては私に任されてる気がする、みたいな受け取り方をしてやれる。そう思うのはあの頼りない時は頼りない男に慣らされてるからかもしれないけど、それくらいは許してやろうかな。なーんて、セイちゃんも結構他人に優しくなったなあ。

 というわけで、フラワーのあたふたについても任された。忙しなく動く耳と指先を眺める権利も、彼女の言葉と共に貰ってしまおうか。

 

「聞いてないです……。確かにスカイさんの菊花賞特別メニューとか、私が勝手に考えてたことではあるんですけど」

「ほほう、フラワー特製と。それはセイちゃんも頑張らないとですねえ」

「あっ、今のは」

 

 ついぽろっとこぼしてしまった秘密と共に、また露骨に慌てふためく。可愛いなあとも思いつつ、トレーナーさんはそれくらい伝えておきなよ、とはやっぱり思う。いや、フラワーが私のためにそれだけ色々考えてくれてたのはこっちも想定外だけどさ。でもそうなると歓迎すべき新入り、つまりキングヘイローのためには何も用意されていなくて(うちのトレーナーさんが何か上手い気配りができるとも思えないし)。

 私だけ贔屓されたんじゃ、せっかく入ってきたキングが拗ねて辞めちゃうぞ。きっと「一流の私を差し置いて、スカイさんだけ特別待遇ってどういうつもり!」とか、そんな文句を言われてしまう。ああ、なんて可哀想なフラワー。いやでも流石のキングも、こんなに可愛くて一生懸命なフラワーにはキツく当たらないか。

 

 じゃあ代わりに詰られるのはトレーナーさんか、私? うーん、どっちだろ。想像上のキングにはああ言わせてみたけれど、本物は何をのたまってくれるのかは実際わからないや。

 

「一流の私を差し置いて、スカイさんが一番乗りってどういうこと!」

 

 それでも実物のキングがそう言うのなら、似たようなことも言うか……あれ? すんなり受け止めてしまったけど、今聞こえた声は幻聴じゃない。知ってる声、さっき想像したばかりの声。ぴくり、と耳で反応し、くるり、と後ろに振り返ると。

 まさに噂をすればなんとやら、だった。朝からばっちり決めて、それでこの時間に意気揚々と来れるのはフラワー共々大したものだ。いや、それは私もなのか?

 

「あっ、キングじゃん。おはよー」

「おはよう、スカイさん。集合時間はまだ先なんだけど、どうしてあなたがいるのかしら」

「なにそれ、私だってたまには早く来てもいいんじゃない?」

「……それはそうだけど。私が一番だって決まってるわけじゃ、ないけど」

 

 まったく、その程度の軽口でそこまですぐにしおれないでほしい。なんで私が正論パンチをする側みたいになってるんだ、いつも苦しめられてる側なのに。それで微妙に気落ちされたらまるでこっちが悪いみたいだし、それに。

 それに、だよ。そんな露骨にしょんぼりしたキングのせいで、もう一人しょんぼりした女の子が生まれてしまったのだ。もちろん、私じゃなくて。

 

「あの、ごめんなさい……」

「へっ?」

 

 キングの「へっ?」に合わせて、おずおずと私の後ろから出てくるフラワー。うん、なんたって今日の一番乗りはフラワーだからね。その目の前で一番に拘るのはちょっと大人気ないぞ、キング。

 そりゃあまだ私たちだって子供だけど、後輩の前ではちょっとくらい大人にならないと。大人気ないというか、子供っぽい拘りを見せちゃうのはよくなかったんじゃないかなあ……なんて、多分私で隠れてフラワーのことは見えなかったから、キングから彼女の存在には気づいてなかっただろうというのは置いといて。

 置いといて、うん。そうなると、参ったな。

 

「あの、私はニシノフラワーと言います……ごめんなさい」

「えっえっ、ちょっとスカイさんどういうこと」

「あーあ、セイちゃんはしりませーん」

 

 いきなり初対面の子に謝られて、今度はキングが慌てる番。流石にここまで変なこじれ方から始まるなんて思いもよらなかったから、頭を痛めるくらいはしてやるけど、もう私の手には負えない。フラワーかキングのどちらかが泣きそうになったら一応止めようかなんて思いながら、そのまま二人の心底ぎこちない自己紹介を眺めていた。

 そして二人のそれがなんとか落ち着いたあたりで、徐々に集まってきた他のチームメイトやチーム毎のトレーナーさんたちと合流して。「おはようございます」って言い合って、和気藹々と色んな人とこれからの夏合宿のことを語らって。そうしてやがて、電車に乗った。

 これから先へ、向かった。みんなで。一緒に。

 

 

 

 

 

 

 がたん、ごとん、がたん、ごとん。最初の方は静かに横滑りするように平たい都会の線路を走る電車も、街を離れて乗り換えるほど乱雑に揺れるようになっていく。乗り換えるたびに車体はより小さくなり、見える景色も緩やかに変わっていく。世界の車窓から、なんて大層なことを言わなくてもいい。窓の外の見え方の変化は、私にはこれくらいで充分だ、外を眺めながらそんなことを考えていた。これも一つの世界。小さな窓からすーっと流れていく、いろんなものが集まってできた一つの結晶。そういう、世界だった。

 ようやく朝日が真上にやって来て、呼び名を変えそうな頃だった。それでもじーっとぼーっと外を眺める私に、話しかけてくる人がいた。

 

「スカイちゃん、外に何かありますか?」

「あっ、トップロードさん。いえー、ただ眺めてた感じです」

「わわっ、すみません、邪魔しちゃいましたね」

「そんなことないですよ、お話ししましょう」

 

 そう促すとトップロードさんはずずいと私の隣に座ってきて、私に追従するように窓の外を見る。一回り大きなトップロードさんの身体は、肉もなければ骨も細い私の身体とそうやって並べられるとやっぱり目立つなあ、と思った。

 お話ししようって自分から言ったのに、彼女はしばらく外に見入っていた。まあ、そうなるのも無理もないと思う。見知らぬ土地、まだ見ぬ世界。未知を前にした人間としては、至極当然の反応。そんなのどうしたって、心は躍ってしまうから。それはどうしようもなく、光って見えるものだから。

 やがてトップロードさんの口から一つ、言葉が漏れた。風景に対して自然と漏れる、単純だけど純粋な言葉。青い、青い言葉だった。

 

「綺麗、ですね……」

「不思議ですよね。きっとなにか芸術的だったり、そういうわけじゃないはずなのに」

 

 そう返す私も、きっとここにあるものを綺麗と感じ、それに魅せられている。それも含めて、

不思議だった。不思議、本当に不思議。だけどそんな不思議を共有できるのなら、はっきりしないままでも素敵なのだ。

 

「ほんとに、不思議ですね。私、きらきらしてなきゃ、期待に応えなきゃ、そう思う時が結構あるんです。……でも、それだけじゃない。こうやってふと見た時に素敵なものだって、たくさんあるんですよね」

「期待ってきっと、誰でもそれなりに背負ってますから。でもそれに応えられるのは一握り。なら、他にも素敵なことがあっていいはずですよ」

「そう、ですね。もちろん私は、やっぱり応えたいって思っちゃいますが」

「それだって悪いことじゃないですよ。トップロードさんのいいところの一つ、です」

 

 そしてきっとそういうふうに語るトップロードさんにとっての自らに対する期待への応え方は、私のものとも違うのだろう。私が悩んで自分なりのやり方を見つけたように、きっとトップロードさんも悩んで、悩んで。

 同じように期待を背負い、同じように応えたいと望んでも、そこに対する答えには差異がある。人それぞれの、固有のものがある。だから私たちは、他の誰にもなれない。そして、他の誰かが自分に成り代わることもない。だから、自分は自分だけ。自分の勝利は自分のものだと、誰もが胸を張って言える。当たり前だけど、大事なことだ。それを二人で認識した。それぞれが、私たちであることを。

 

「ありがとうございます。そういえばスカイちゃん、私決めたことがあって」

「はて、なんでしょうか」

 

 少し流れを変えるように、トップロードさんは話題を切り出す。なんだろうか、そう私が問うと、トップロードさんは答える前にすーっと深呼吸。よし、という感じで宣言する。きっと、それは重大な決断なのだろう。彼女にとって、世界の見え方を変えるほどに。だから、前触れがなくとも。唐突で大きすぎる、そんな宣言であったとしても。

 

「私、デビューすることにしました。今年の冬くらいを目標に、それを目指して頑張ることにしました。そういう意味では、スカイちゃんの後輩になります」

 

 晴れやかに笑っていた。青空を照らす、太陽みたいに。

 だから、私はそれを心から受け止めたい。私から、背中を押してあげたいんだ。

 

「後輩、ですか。私もまだまだひよっこですし、そもそもトップロードさんが後輩って、ちょっとくすぐったい気はしますけど」

「私も正直、変な感じというか。いざ決めたのに、実感が湧いてないというか。このまま走り始めていいのかな、とか。思うことはあります」

 

 なるほど、なあ。後輩、後輩かあ。でも確かにそんな悩みを抱えられると、後輩って感じはしちゃうかも。

 

「わかります、それ。周りのみんなの決心が眩しくなる時」

「はい。でも、負けたくない相手ができたんです。勝ちたい、相手が」

「自分だって、ってやつですね。先輩風を吹かせてみると、それがライバルってものになります」

 

 そう、私がそう言うのは一つの正解。ライバルが、勝ちたい相手がいるから。それはきっと、私たちが走る原動力の一つになる。他人の強さを目の当たりにして、それでも自分がって思えること。誰かのために、自分のために、ライバルの全力に応えるために、勝利を目指せること。そのことはきっと私たちが走るためには、必要不可欠なものだ。

 そしてそんな自信が生まれたからこそ、今の私は飛び立てていて。まだまだ不安になる時も思い悩む時もあるけれど、だけどマイナスをプラスにできるだけの理由はあって。

 トップロードさんも、同じなんだ。自分も一緒に走りたいって、思えたんだ。ライバルと、一緒に。走りたい相手が、できたんだ。少しの感慨を込めて、先輩から後輩へのアドバイス。いつもとはあべこべだけど、これも一つの変化と成長。お互いに踏み出したからこそ、言えることがあった。

 

「はい。ライバル、私にもできたんです。それに、です。まだきっと、ずっと先の話になると思いますけど」

「あんまり先のこと、考えすぎてもなんですよ?」

「それは、そうなんですけど。でも、でもですよっ。……あ〜、ちょっと恥ずかしいです」

「そこまで言われたら、逆に気になっちゃうじゃないですか」

 

 なんだろうか。勿体ぶられたら、気になってしまうのは事実だし。なので私がそう言ってしまうと、はあ、と口には出さずに顔を俯かせる。

 こうなったら仕方ない、そんなトップロードさんは絶対言わなさそうな台詞が聞こえそうなくらい、すっかり堪忍した様子で。

 だけど、最後は前を見て。彼女は私に、たった一つの言葉を告げた。まっすぐと、私を見据えて。

 

「私、スカイちゃんとも走りたいんです」

 

 私に向けて、そう告げた。より澄んだ青のようだった。透き通って、だから私の奥まで届いて。心臓のあたりが、ほんのりと温かくなった。

 

「なるほど。私としては大歓迎です。もちろん、手加減はしませんけど」

「それはこちらこそですよ、スカイちゃん!」

 

 そうやって、互いだけを見ていて。私とあなたの二人だけ、そういうやりとりで。がたんごとんと相変わらず揺れる車内で、そこだけに際立つ世界があった。

 だけどきっとこうして相見えられるのは、一人だけじゃない。目と目を合わせて心を込められるのは、一人きりじゃない。たとえばどこか他の場所で合宿している同期のみんなだって、この夏で何度も互いを想い合い、牙を研ぐだろう。誰のことだって忘れず、誰のことだってライバルのまま。全員と本気で向き合いたいと、貪欲に願うのだ。

 そうしてすべてを見据えるからこそ、勝利さえ瞳に捉えられるのだと。勝ちたいって気持ちは、独りじゃ絶対に持てないんだ。まもなく砂浜を映しこむ車窓も、私たちにそう告げている気がした。それは、夏合宿の始まりを告げる合図だから。

 今日電車に乗ってからここまで、ずいぶん長い道のりだった気がする。ひょっとしたら合宿を告げられてからかこの日を待っていた時間より、ずっと。でも届いた。でも、待ち望んだその日は来た。どんなに永くても、ゴールはその先に待っている。それを、改めて認識した気がした。

 多分同じことを、夏合宿を終えた時にも思うのだろう。ここまではあっという間なようで、積み重ねたものはその長さを証明しているのだと、そう感じるのだろう。違うのは、目指す場所。そしてそこで過ごしたものだけじゃない、今までの私がすべて通ってきた時間だ。二ヶ月後の私はその二ヶ月があるから、今よりも先を見ることができる。

 逆に言えば今のうちからすぐに、そんな遠くを目指すことはできないけれど。だけどそう簡単にはたどり着けない場所だとすれば、いや、そうでなくちゃ意味がないんだから。そこに時間が必要だから、その先には私の知らない意味があるんだ。 

 これからの時間がたとえ刹那でも、たとえ那由多でも。どれだけの時間がそこに存在するかなんて、はっきりしなくていい。新しい時間。新しい経験。それらがまだ見ぬ未来を私に見せてくれることに、変わりはないのだから。

 

 

 

 

 

 

 朝七時の起床から一日が始まる。早い。眠い。もとより慣れないところじゃ寝れないなんて性分ではなかったから、睡眠不足にはなっていないんだろうけど。むりやり叩き起こされはしないとはいえ、トップロードさんとフラワーがみんなを起こして回る。そうして最後にトレーナーさんがとびきり大きな声で「おはよう!」と言ったあたりで、眠気はむりやり吹き飛ばされてしまう。今日もかあ、みたいなのをぼさぼさ頭で嫌でも確認させられる。

 そして起きたらすぐに宿の外に出て、全員でラジオ体操。<デネブ>のトレーナーさん曰く、ラジオ体操というのはとてもよく考えられたメニューらしい。初日に結構熱弁していた。別にトレーナーさんがたは肉体労働なんてしなくていいのに、わざわざ二人とも率先して参加していた。まああの暑苦しい男の方はいかにもそういうのが好きそうだから、そこまで驚きはなかった。……<デネブ>のトレーナーさんはまあ、好きみたいですね、はい。

 

 ちなみに我々ウマ娘側の体操への態度はどうかというとまちまちで、フラワーみたいに真面目にきびきび動いてる子もいれば、トップロードさんみたいに楽しそうにやってる、トレーナーさんの同類みたいな人もいる。

 ちなみに朝弱サボり魔の私を差し置いて一番辛そうなのは、ものすごく肩肘張ってるキングヘイローというウマ娘です。もちろん慣れないメンバーといきなり共同生活、というのはあると思うけど、合宿中この子は常にぎこちない。特にフラワーと話す機会がある時は、なんとなく初日のあれを引きずってるみたい。これこそ、ぎこちない。多分お互い真面目だから、打ち解けさえすれば、という感じではあるんだけどさ。いつになるやら、困ったものだ。友達と友達だから、ちゃんと仲良くしてほしいんだけどな。

 何はともあれそうやって合宿の一日は始まって、そのあと朝ごはんを食べたら九時頃からもうトレーニングが始まる。早い。眠い。やっぱり、この時間はまだそう思わされる。日によってそのトレーニング内容は変わるけど、共通しているのは時折一時間の休憩を挟みながら日が暮れるまで動きつづけること。

 当然、わかってたことだけど、夏合宿のトレーニングはしんどいです……。<デネブ>の考え抜かれた理論派のトレーニングと、<アルビレオ>の限界まで追い込む根性派トレーニング。それらが混ざった特製のものができあがってしまっているので、いいとこ取りでもあり悪いとこ取りでもあるような。いいところは綿密なところで、悪いところは綿密すぎて手を抜けないところだから、結局これもコインの裏表に近いかもしれないけどね。

 だからまあ、それなりに受け入れられるのだ。なんだかんだでみんなで一緒に頑張る感覚は、そうやって皆でこなすものが充実したトレーニングだという事実は、ちょっとばかりの高揚を生んでしまうから。

 そうして今日も夜になる。慣れてしまえばなんということはない、とまではいえないにしても、身体はそれなりにこの厳しいトレーニングに適応していた。とどのつまり、仕上がってきているというやつ。菊花賞に向けて、まだまだやらなきゃいけないことは山積みだけどね。

 そう、決意を見据えた。見据えた先には、他にも見えるものがあった。夕陽に染まる海と、それを背景に息を切らせているもう一人の菊花賞挑戦者。私の先に立ち塞がる、懸命な一人の少女の姿を見た。友達の姿。ライバルの、姿。

 

「おつかれ、キング。今日の夕食も楽しみですねえ」

「はぁっ……はぁ……。私は、もう少し」

「あれ、キングも居残りするの? 出し抜こうと思ったのに」

「張り合うなら、歓迎よ」

「それはそれは。私としては、やっぱり一人で走りたい気分かもしれないけど」

 

 

 そう言ってみると、キングは少し困ったような表情を浮かべる。そう言われても、みたいな。そして私が彼女のその顔を見て突然砂浜を走り出すと、さらに困ったような声が聞こえた。やっぱり振り回しがいがありますね、この子は。

 

「ちょっと、スカイさん!?」

「ほらほら、走るんでしょー? それとももうちょい休憩したかった?」

「……もう! 望むところよ!」

 

 そうやって、二つの影が駆けてゆく。紫に染まり始める夏の空の下、影がどんどん伸びて薄くなっていく。合宿中なら、どんなに夜遅くまで走っても門限はない。夕食は食べ損ねるかもしれないけど、それも一日くらいなら、あと道連れがいてくれるなら。

 悪くない、そう思った。

 踏み締める砂浜は、柔らかく私たちの足跡を受け止めていた。

 

 

 

 

 

 

 街から離れた場所では、星がよく見える。普段は電灯にかき消されてしまう煌めきが、ここなら輝いていられる。すっかり真黒と化した空を見上げて、そんなことをふと思う。真黒に浮かぶ星々を見て、そんな考えが浮かび上がる。

 トレセン学園に来たばかりの時も確かこんなことを考えたなと、それも思い出した。夜の星を見るのは、あの日と同じ。だけどあの時と夜空の見え方が違うのは、場所や時間の問題もあるだろうけど、きっとそれだけじゃない気がした。もちろんどちらにせよ、空はキレイなんだけどさ。

 最初はじいちゃん一人の後押しで、私はトレセン学園に来た。それから友達ができて、トレーナーさんやチームの仲間に会って。そして今はなんと、トゥインクル・シリーズを走る私を応援するファンがついてすらいる。たくさんの人が、私に期待している。けれど周りがそうやって変わるように、私自身もきっと変わっているのだろう。今日だって、ひたむきに夜に走り込みをしてしまったみたいに。

 そしてそれは、誰にでも言えること。周りが変わって自分も変わるのは、きっと君にも言えることだ。

 

「砂の上に座ったら、服が汚れてしまうわよ」

「あれだけ走ったから、もうとっくに砂まみれだよ。キングも座ったら? 星、綺麗だよ」

 

 夜の闇の中でもキングに見えるよう、少し大げさな身振りで人差し指を立てて自分の隣を指差してみる。ほら、ここに来なよ、って。若干の躊躇いのあと、指差した場所より少し離れたところに彼女も座り込んだ。……若干素直じゃないくらいは、他の素直さで目を瞑ってあげよう。いや、もしかしたら気恥ずかしいのかもしれない。やっぱりまだ、二人の距離はゼロではないから。ゼロにはならないから。だけど、寄り添うとは完全に重なることではないから。

 ぽつりぽつりと、程なくして会話が始まる。それはキングが<アルビレオ>に入った日の、延長戦だった。つながりは、続いていく。

 

「何を考えていたの」

「まあ、色々と。キングにはあの時話したでしょ、私がここに来た理由」

「お祖父さまのため、だったかしら」

「そう。じいちゃんが私に期待してくれたから。だから、一歩を踏み出せたんだって」

 

 だからきっと、私は最初から独りでは立ち上がれなかったのだろう。期待があったから、最初の一歩を踏み出せたのだろう。期待が怖いのに、本当に期待されなければ諦めてしまう。何度も思わされたことだが、我ながら難儀な性格だ。

「やっぱり、それは少し羨ましいわね。私もあなたに言ったけど、お母さまは期待してはくれなかった。きっと、今もね」

 そうして、キングはその逆なのかもしれない。期待をもぎ取るため、見返すために孤独を選ぶ。自らに期待しないその眼を認めさせるため、そうやって彼女は始まった。いくら周りが彼女に期待しようとも、決して得られていないただ一人の目を向けさせるために。それもやっぱり、難儀な性格だ。はじまりが難儀なのは、あの日話した通りの似たもの同士。

 

「でも、それだけじゃないんだよね。私は今、それだけで走ってるんじゃないって。もちろん最初の理由は忘れない。けど、もっと強くなってるんだって」

「それが、今日の話題かしら」

「ご名答。だってまだ、あの日のあれじゃ話足りなかったし」

 

 そう、これは延長戦。つながりはすべて、どこかからずっと続くものだから。そして私たちは、まだ続いているその先を目指すのだから。変化を積み重ねと定義する限り、痛みや苦しみさえ価値に変えていかなければならない。

 

「ねえ、キング。今更だけど、さ」

 

 だから私たちは、そのために。未来のために、大事なことは絶対に曖昧なままで終わらせてはいけない。だから私たちは、進み続ける。未来のために、だけど、進むのは未来に向ける、この瞬間。

 

「ダービーの話、しようよ」

 

 だから、今。ようやく、本当に踏み出すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「終わった話にするつもりだと、思っていたけど」

「それは私もかな。キングと同じチームに入って、色々話して、合宿もして。ちゃんとキングの目論み通り、それなりに元通りにはなったから」

「……そうでしょう。過ぎたことじゃない」

「でもさ。それじゃダメなんだよ」

 

 確かにキングの言う通り。ある程度あの日の傷跡は癒やされて、このまま緩やかに忘れられるようにできている。その流れに沿えば、きっと元通りに離れる。でも、それで終わらせてはいけない。そう、私は思っている。本当に踏み出すには、まだ足りないと。だって。

 

「だって私たちは、菊花賞に挑むんだから。ダービーをなかったことにして、クラシック三冠を語るわけにはいかない」

 

 だって、そういうことだ。元通りでは、成長できない。

 

「敗北からの反省、かしら。それなら今の夏合宿こそ、既にそれを体現しているわね」

 

 なるほど、キングの言うことも正しい。敗北を糧にする、それは作戦や練習の見直しにも言えることだ。けど、それだけでもないはずだ。実力とは別の、もっと曖昧な話。納得の話。心の話。そんな精神的なものを重視するなんて、トレーナーさんにアテられてる気もするけれど。でも曖昧なものだとしたら、私が尊ぶものでもある。

 

「それともちょっと違ってさ。……私は、すべてを無駄にはしてほしくない。あのダービーに向けて、キングが抱えていたもの。それが全部誤りだったとは、言いたくない。私をライバルにしてくれた、あの君が。根本から間違っているなんて、思いたくないよ」

 

 そう、告げる。本当に言いたかった言葉を、告げる。あの日言えずに通り過ぎた言葉。それを紡ぎたい。あの日聞けずにすれ違った言葉。それを紡いでほしい。それは今からでも、遅くはないんだ。私は、そんなふうに思っている。そして君もそう思ってくれたなら、互いに勇気を出せたなら。

 それなら、きっと。そうでなければ、きっと。

 

「……ごめんなさい。それでもあの日の私は、きっと」

「私のことを邪魔したって? 勝負ってのはそういうものじゃない? 他全員の一着を邪魔しなきゃ、勝つことなんかできないんだから」

 

「ごめんなさい。わかっているの。だから、私はレースに向いてないんだって。自分が勝とうとしたことすら、後悔してしまうから。……でも、仕方ないじゃない」

 

 そうして、振り絞られる声があって。とめどなく、言えないままで閉じ込めようとしたものが溢れ出して。そこには嗚咽が混じっているようにも聞こえたけど、星の方に眼を向けておいた。彼女のその顔は、あの日しっかり目に焼きつけたから。それ以上無理に覗かなくても、君の気持ちは言葉で伝わるから。

 

「仕方ないじゃない、友達なんだから! 勝ちたいわよ、みんなライバルよ! でも、友達じゃない。勝ちたいって気持ちと同じくらい、私にとってはそれが大切だった。……だから、向いて、ないのよ」

 

 それが、彼女が吐露するもの。強くあろうとひたすらに己を駆り立て続ける彼女の、どうしても抱えてしまう弱音。一番、弱い場所。……でも、それなら君に言えることがある。私から君に、伝えられる気持ちがある。君は、独りじゃない。

 

「……向いてない、か。それなら私も一緒。友達とライバルの折り合いなんてつけられてなかったし、そもそも誰も私がトゥインクル・シリーズで走れるなんて期待してなかったもん」

 

 きっと、そうだと思う。彼女が滝のように流した言葉は、きっとどこにでもありふれている。勝敗は敗者を傷つけるんじゃないか、誰しもそんな優しさ故の恐れに思い悩むだろう。大切なライバルだからこそ勝ちたいのに、かけがえのない友達だからこそ慮りたい。それは、矛盾ではあるかもしれない。それは、苦しみを生むものであるかもしれない。

 でも、そんな優しさが間違いであるべきだろうか? 勝負の世界がどんなに過酷だとしても、その気持ちごと捨てるべきじゃないはずだ。それが、私の結論。私の友達に向けての、ライバルに向けての。仲間に差し伸べた言葉に込めた、嘘偽らざる気持ちだった。

 だから、私は。私は絶対に、向いてないなんて、そんなことを君には思わせない。私の、ライバルには。

 

「それでも、私は走ってる。私の走りは、私にしかできないから。私らしさは、私にしかないから」

「……私らしさ、ね。それはきっと、一番大事なものね」

「そうそう。そしてそれはもちろん、キングもでしょ? その優しさは、キングらしさなんだよ」

 

 まだ顔は見ないまま、そんな言葉を託した。私の知ってるキングヘイロー。意地っ張りで、割とお節介で。そして一際優しい、大事な友達。彼女になら、そのまま伝わると思ったから。言葉だけで、声だけで託せると思ったから。

 沈黙。静寂。言の葉を切り揃える僅かな時間。今までも何度かあった、短くて長い時間。だからこの時間も、大切で。

 そのあと、再び強い口調だった。

 

「やっぱり、私はあなたに勝ちたい。それも絶対に嘘じゃないわ」

「でも、負かしたらそれなりに後悔しちゃうんだね」

「かもしれないわね。一流とは時に傲慢でなくてはならないの。矛盾を抱えても、貫くために」

「流石、キングヘイローだ」

 

 ふふっ、と隣で微かに笑う声。そんな優しく笑えるなんて、いつもの高笑いは何処へ行ったのだろうか、なんて思いはしたけれど。それでも彼女が上を向いているのは、確かだった。また笑えたのは、確かだった。

 

「スカイさん、次のレースは京都新聞杯でしょう? スペシャルウィークさんと、当然私も出るわ。負けないわよ」

 

 憑きものが落ちたみたいに、勝気な調子でそう切り出すキング。これももちろんキングらしさで、それ自体は大変結構なんだけど。……それはそれとして、訂正しないといけない。若干、申し訳ない。うん、仕方ない。

 

「あー、ごめん。私はそれ、出ないや。私は新聞杯じゃなくて、京都大賞典の方に出るんだよね。みんなとの対決はお預け」

「は!? ちょっと、どういうことよ」

「まあ、私もさ。ダービーを踏まえて色々考えたってこと、かな。……今度は私の話、聞いてくれる?」

「はあ、仕方ないわね。キングに語る権利をあげる」

 

 そうして緩やかに、攻守交代は互いに告げられる。ダービーの敗北から学べるのは、敗者全員の権利だ。

 

 

 

 

 

 

「私、ライバルに拘ってたんだ。スペちゃんとエルが私より上の人気を取ったから、絶対に見返したいって。ひっくり返せば、みんなびっくりするって。……それで、キングのことを見てなかった」

「ええ。失礼な話よね」

「ほんとにね。勝つってことはきっと、全員を相手するってことなのに。スペちゃんとエルは、私もみんなも見ていたから、勝てたのに」

「でも、スカイさん。私はそれほど、あなたが他人を見てないとは思わないわよ」

「そう、かな」

 

 

 私がキングに言葉をかけたように、キングも私に言葉をかける。互いをそれなり以上に知っているからこその、激励と賞賛の言葉をかける。それはいつかの穴埋め。だけど、それを埋めてなお上に積み重ねるものでもある。これから先へ、進むためのもの。

 

「そうでなきゃ、皐月賞であなたが勝ってるわけないじゃない。私はあなたにまだ一度も勝ってないのよ? それでも、あなたは私に声をかけつづけた。きっと少し違うだけなのよ」

「……うーん、何が違うんだろ。わかんないや」

「自分では、そんなに気づかないかもしれないけどね。あなたも結構、甘ちゃんよ」

 

 ……すとん、と腑に落ちる音がした。キングをライバルとして見れていなかった、あの時の私。そしてそれを今更話に持ち出す、今の私。それらの行動に、すべてに思慮を尽くした私。

 あなた「も」だったか。結局キングのことをとやかく言えないくらい、引き摺っていたのだろう。安易に人を切り捨てないだけの、それだけの強さは既に持っていたんだ。

 

「そっかあ。キングがあまりに挙動不審だったから、心配しすぎてそれどころじゃなくなってたのか」

「挙動不審は余計よ。もっとも私のそれとは、似て非なるものなんでしょうけど」

 

 うん、それもきっと正しい。私たちが、すべての人を並べたって、誰かと誰かがまったく同じであるわけがないのだから。各々の十数年の変化を積み重ねた上にいる私たちは、さまざまな理由を絡み合わせてこうなっている。

 たとえば不安の原因ひとつとっても、誰にも期待されないが故の自信のなさに起因する私のものと、期待さえ覆すほどの強さで自信を揺るがす人のために立ち向かうキングのそれとでは、同一性を持たないだろう。だけど、期待を軸にしていることは似ている。だから、似て非なる。

 

「似て非なる、か。案外誰とでも自分との共通点を見つけられそうな気もするけどね。みんな似たようなもんかも」

「それでいいじゃない。どこかが一致するとしても、完全には一致しないなら」

 

 うん、その通り。そしてその同一性と違いが、個々の関係をそれぞれ大事にする理由にもなる。誰かと仲良くできるなら、他の関係は要らないなんて、そんなことは言えないのだ。

 すべての関係は、僅かな差異から価値が生まれている。キングも、フラワーも、トップロードさんも、そしてトレーナーさんも。それぞれにしかないものが、私とその人にしかないものがある。違うこと、同じこと。それこそきっと、人それぞれ。

 それはそれとして、話題の本筋はそっちじゃない。私は菊花賞に向けて、順当なルートである京都新聞杯ではなく、シニア級との混合レースである京都大賞典を選んだ。もちろん、それなりに思惑がある。

 

「まあ、そういうこと。話が逸れたけど、それで京都大賞典を選んだんだ。一旦自分を俯瞰してみたくてさ」

 

「ライバルに拘っていたからこそ、そうではない目線を持ってみる。新しいことに挑戦するのは、より強くなるために必要なことね」

「でしょ。だからさ、キングも次試してみたら? 京都新聞杯ならスペちゃんに勝ちたいって、今は絶対思ってるだろうけど」

「他人を気にせず走れ、そういうことかしら」

「うん。だってそれって、最高に自分らしさを活かすってことじゃない?」

 

 そんな私の言葉は口から出まかせにも聞こえなくもないけど、割と本当に思ってることだ。キングはもしかしたら、気持ちをコントロールしたら変わるんじゃないかって。気性難と言っては失礼だけど、私たちの走りは能力だけでできているのもじゃない。そういう意味では、根性とか気力が大好きな<アルビレオ>に入ったのは良かったのかもしれない、と今更ながら。……今更だけど、結構精神論好きそうだよね、キング。

 

「一応、参考程度に受け取っておくわ」

「うん。最後に決めるのはキングだよ」

 

 その言葉で、会話は途切れる。私が最後に告げたように、これからのことは自分自身で決めればいい。それまでは存分に語らって、そうすれば決断の時も独りじゃないんだから。

 満天の星空を、二人で見遣る。静かに、肩を並べて。はくちょう座の周りには、たくさんの星がきらきらと瞬いていた。一際強い光の粒たちが、見えない線でつながりを持っている気がした。息を呑むほどの美しさって、こういうものなのだろうか、なんて。この時間は、今までのすべては、だって。無駄じゃないって、そう思えた。

 それが、私たちの夜。夏合宿という特別な時間の、一際特別な思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 ぐきゅる、と互いにお腹を鳴らしながら、少しだけ夕食をすっぽかしたのを後悔しながら。それでも前向きな足取りで、ずさりずさりと砂浜に四つの足音を立てた。砂と泥だらけのジャージ姿で、すっかり暗くなった道のりを二人で帰った。互いに言葉はなかったけど、それはもう気まずさ故じゃなかった。あの日を乗り越えた、そんな納得があったからこそ言葉は要らなかった。

 ……ああ、でも。あと少し、少しだけ。ふと、立ち止まって。もう一度だけ、口を開いて。

 

「そうだ、キング」

「なによ。早く帰るわよ」

「これこそ、本当に今更なんだけどさ」

「また勿体ぶって。早く言いなさいな」

 

 そう? じゃあ、お言葉に甘えて。

 息を大きく吸った。肺を思いっきり膨らませた。レースのために鍛えた肺活量を、とびっきり無駄なことに活用してやるって決めた。

 君くらいしか、聞いていないしさ。

 

「……ダービー、悔しかったなーーーー!!! くっそーーーー!!!」

 

 腹の底から。心の底から。ようやく。ようやく、吐き出した。最後まで閉じ込めていた気持ちも、底の底まで掻き出した。

 ……ああ、悔しかったなあ! 本当に、悔しかった!

 そして、キングも。私のそれを聞いて、私と同じように立ち止まって。こちらまですーっと聞こえるほどの、深い深い深呼吸のあと。

 

「菊花賞は、私が絶対獲るんだからーーーー!!!」

 

 そう、叫ぶ。全部を込めて、彼女も彼女の気持ちを放出する。光る夜に響く互いの声は、どちらも初めて聞いたくらいに大きなものだった。がむしゃらで、柄にもない。仲間にしか聞かせられない、青臭い感情の爆発だった。

 

「……じゃ、帰ろっか!」

「ええ。明日も早起きだもの」

 

 そして、また一区切り。

 そこにできたばかりのスタートラインから、同時に踏み出した。




悔しがるのはどんなときでも可愛げ
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