九月になった。つまり夏合宿は終わったし、それから数日もせずに新学期が始まった。というわけで、特別な夏は終わったのだ。長く長く、あっという間に。
そんな夏合宿最後の日は、練習も抜きで色々変なことをみんなでやってた気がするけど、最終日だからって言い訳で私も抵抗なく乗っかってしまっていたような。たとえば最後の宴といわんばかりの焼肉パーティで、率先して肉焼き役を務めていたのは記憶に新しい。いくらフラワーも手伝ってくれたとはいえ、私ともあろうものがそのような面倒そうな仕事を引き受けてしまうとは。そして今もそんなに後悔していないのだから、やれやれセイちゃんったらどういう風の吹き回しですか、という感じである。
まあ、それはそれ。忙しかったし美味しかったし楽しかったけど、それはそれ。最終日は片づけも含めて色々特殊な立ち回りだったけど、つまりは焼肉パーティ以外にもお遊びの類が実施されたということである。
そんな他の夏合宿ラストの忘れられないイベントといえば、うちのトレーナーさん主催の、暑苦しい決意表明合戦。暑苦しく元気よく、チームメイトの前で今後の目標を叫ぶ、というもの。ちなみに<デネブ>のトレーナーさんは乗り気じゃなかったので、フラワー含めた自分のチームメイトを率いてその時間に片づけの方とかをやってくれていたらしい。それは本当に申し訳ない、すみませんうちのものがこんなやつで、と謝るばかり。なんて、ちゃんと謝るタイミングも存在しなかったのだが。そもそもあの男、そこで気遣わせてるのに気づいたらしょぼくれちゃうだろうし、そこは黙ってこっそりお願いする他なかったのだ。
とはいえ私もそちらを手伝えれば、絶対にその方が良かったのだけど、「スカイ! まずはお前からだ!」とかトレーナーさんが言ったから……いや普段だったら逃げてただろうに、結局それに乗せられた自分自身の責任だろうと言われると、やはりぐうの音も出ません……。
まあ何はともあれ、そうやって決意表明をしたわけで、その内容についてキングが突っかかってきて(キングを差し置いて菊花賞で勝つなんて行ってしまったのがまずかっただろうか)そのまま次に壇上に上がったりして、そこからあれよあれよと流れができてしまって。
そうしてみんなが次々に、トレーナーさんの思惑通りに叫び出す。各々の目標、それぞれの夢。近くても遠くても、その手に掴むと宣言していった。色んな意味でトレーナーさんらしい、強引ですらあるイベントだったけど、ちゃんと意味はある気がした。なんだかんだでこの人は、チームのためにって考えてるんだなって。
そして、最後に。満を持してともいえるタイミング、最後の一人として喋り出したのは、トップロードさんだった。明るい栗毛の毛先まで揺らしながら、曇りのないトパーズの瞳に精一杯を込めていた。まだ小さな世界に向けて、これから広がるんだって宣言するように。
それは、それはとても。
「私、デビューを決めました!」
って。輝いて響く声だった。
「不安なこともありますし、怖いこともあります。でも、楽しみです!」
とか。煌めいて羽ばたく言葉だった。
自然と拍手が巻き起こって、特にトレーナーさんは手を叩く音が大きかったように思う。そのちょっと大きくて硬い大人の手のひらが、派手な動きで何度も重なるのが見えた。私もやっぱり、ぱちぱちと鳴らしていた。心から自然と漏れるような、そんな手のひらの動きだった。もちろんここに来る時の電車の中で、既に聞いていた内容には相違ないのだけど。だけど、だからこそなのだ。そこに込められた想いは、より一層強く感じたから。この夏を通した、確かな変化を見た気がしたから。そしてそれはきっと私も同じだと、自信と決意を胸に重ねたから。
だから、また前を見た。変わった未来と、変わっていく世界を見た。これまでと、これかを。また一つ、成長できたのだと。
そういったわちゃわちゃが二日前の出来事で、一日だけ休んで今日の朝。実質的な夏休みは一日だけだったけど、そんなのお構いなしに目まぐるしく新しい季節が始まる。
今日は新学期最初の日、行われるイベントは体育館での始業式。そして今の私は、そこにいる。サボりも居眠りもせず、真摯に会長さんの話を聞いている。あくびを頑張って噛み殺し、落ち着かないパイプ椅子からもお尻を浮かせたりせずに。いつかの入学式のことを思えば、私が真面目に始業式に出ているなんて、本当にとんでもない変化である。
やっぱりおかしくなってしまったんじゃないか、私。まあそんなふうに自分が心配になってしまうのも、無理はないというか真っ当というか。真面目にやってる方が変なやつ扱いなのは、自分に対してとはいえおかしな話だろうか。
でも、今の私は色々と変わった。それは事実だ。過ぎた時間に願いを馳せて、新たな時間に祈りを澄ませる。それは立派なことだけど、私はそんなに立派な人間だったっけ、みたいな。過去にあるのは後悔で、未来に望むのは平穏で。私という存在は、そうするつもりだったはずなんだけど。
確かにその思考はまだコインの裏側に貼りついたままだけど、表側には前向きな欲求がどんどん湧いてくる。瞳は果てなく開けた先を見ていて、袋小路で収まることを避けようとしている。……でもそう考えてしまうのは、避けられないや。なら、仕方なく受け取りますか。
そんな思考の終わりに、会長さんの声が混じる。全校生徒に向けた、私にも向けた締めの言葉。
「勇往邁進。君たちトレセン学園の生徒すべてが、これまでもこれからも成長していけることを願っている」
これまでも、これからも。そしてそれを受けて私が思ったことは、割と単純明快で。
今の私を包むあらゆる感覚も、結局は成長、変化の一つ。やはり踏み出しているのだと、そういうことだった。
「みんな、久しぶり!」
「はい。私もスペちゃんに久しぶりに会えて嬉しいです〜。やっぱりエルだけじゃ、寂しい時はありましたから」
「ちょっとグラス! アタシじゃ役不足デスか!?」
「それは誤用ですね」
今日は始業式だけで、いくらなんでも初日から授業はない。つまりお昼にはもう寮に帰れるんだけど、やっぱりいつものみんなで食堂に集まっていた。まあ周りを見れば大体他もそんな集まりみたいだし、考えることは皆同じというやつか。久しぶりだから、友達に会いたいってやつ。どうしても、大切な友達だったから。
「はあ……。相変わらずね、あなたたち。まあ私も、スカイさんと話すのは飽きてきたところだからちょうどいいけど」
「あらキングちゃん、夏はセイちゃんと一緒だったんですか?」
「あっ、それは」
「そうなんだよグラスちゃん、なんと夏合宿に合わせて移籍してきてさ。セイちゃんのことが恋しくてたまらないんだって」
そう言った瞬間からキングが激しい抗議の目を向けてきているが、別にチーム移籍は頑張って隠すほどのことでもないだろう。いや、それ以外の言動に抗議したいのかもしれないけど、そこは認知してあげません。
それにしても夏合宿を終えて、やっぱりみんな見違えた気がする。なんとなく身体の仕上がりが違うし、雰囲気も一段深みを増した、というか。しばらく会っていなかったぶん、夏合宿前とのその差はくっきりとわかる。もちろん、一日一日の努力の積み重ねなのだろうけど。それがあったから今日久しぶりに会って、見違えたと思えるほどに変わっているのだろうけど。やはり、みんなに積み重ねがある。やはり、みんなが成長している。ならば、私だってそのはずだ。負けてられない、勝ちたいって、改めてそう思った。
「それより、スペシャルウィークさん。今度の京都新聞杯、私が勝つわよ」
こほん、こほん。咳払いで話題の切り替えを試みた(このままいけばキングをからかい続けて終わるところだったので)のち、キングがびしっとスペちゃんに向けて宣言した。
紅い瞳と紫の瞳が交差して、私たちを包む空気がぴりりと引き締まる。この夏、キングもまた変わった。今までは私くらいしか知らなかったそのことを、この瞬間みんなが感じ取る。そして私も、彼女の変化を思い知る。更に、更に強く、だった。彼女は、更に強くなったのだ。
「……うん。負けないよ、キングちゃん」
「もちろん。あなたもそうでないと張り合いがないわ」
互いに全力で。そう、互いで互いに宣言する二人。全力の戦いこそ、ライバルの証明だから。私たちは、誰もがライバルだから。
そうしてそれを見ている方にも、呼応して奮い立つものがあって。続くように、グラスちゃんも言葉を紡ぐ。私たちは、独りじゃないから。
「ふふっ、私たちも負けてられませんね。京都新聞杯より前に、毎日王冠がありますから」
「あっ、グラスちゃん、それって……」
「はい。スズカ先輩も出走するそうですね」
「アタシも出まーす! スペちゃん、応援よろしくお願いしますよ!」
「あら、スペちゃんはエルじゃなくて私を応援してくれますよね?」
「ええっと、それは……」
「冗談ですよ〜。スズカ先輩を差し置いて、なんて言えませんから」
最初はビシッとあとはゆるっと、そんなグラスちゃん主導らしいやりとり。グラスちゃんとエルに、それにスズカさんにも囲まれて、人気者だなあ、スペちゃんは。それに比べて人気のない私も応援に行きたいのは山々だけど、あいにくその日は予定がある。……この感じだと、友達は誰も応援に来ない気もするけど。そもそもみんな知らないんじゃないか、私にも同日にレースがあるなんてこと。今からでも言うか? いやいや、流石にそれこそエルとグラスちゃんには仕方ないし、スペちゃんの憧れの先輩がスズカさんだってことくらいは私だって知ってるし……。
「心配しなくても、私は見にいくわよ。チームメイトなんだから」
「おお、お嬢様に慈悲を賜るのはとても光栄でございます。というか鋭いねキング、ひょっとしてエスパー?」
私としてはそれはちょっとした感謝と冗談半分半分くらいの発言だったんだけど、言ったさばからはぁ、とため息を吐かれた。まあ京都大賞典に出ることは言っていたから、それくらい察知するのは当たり前か。いや、そこ以外の態度からため息混じりの発言を引き出してしまった気がする。さっきからそんなのばっかりだけど、いじりがいがあるキングにもちょっと悪いところはあると思うな、うん。
ともあれしっかり君に見られるのなら、今回だって手は抜けないや。まあ、そんなつもりなんて最初からないけどね。夏を終えて最初のレース。菊花賞に向けての試金石。相手はいつものライバルじゃなく、シニア級の強豪ウマ娘たちみたいだけど。
それは負ける理由にはならない。諦める言い訳にはしない。どんな相手でも、って、そんな強がりを、たまには吐いてみようじゃないか。不安はもちろんあるとしても、そんなものを超えられるだけの気持ちだって持てるようになったんだ。
きっとこれも、これだって私の変化。スタートラインから踏み出した、その先。
そうして、その日はすぐにやってきた。しんとした、レース本番を間近に控えた控室。体操服に着替えて、私はそれなりにリラックスしていた。いや、体操服の短パン半袖は若干寒くなってきた季節ではあるけどさ。今日の私は七人だての四番人気。そもそも今日という日の全国の注目はどちらといえば、ここ京都じゃなくて東京の毎日王冠に向いている。実質GⅠとまで言われている、それくらいの激戦が東の方で繰り広げられていて、こっちはそれほど、ほどほど。でもそれくらい注目されていない方が、驚かせ甲斐があるというものだろう。軽く見ていた者をあっと言わせて、見てもいなかった者を振り向かせる。それが、今の私の期待への応え方。一見薄い期待でも、全部釣り上げればとんでもない大物かもしれないんだから。
そんなふうに一人集中、チームメイトの訪問やらはあらかた終わって静まり返ったレース直前の時間だった。こんこんと、若干大きめに扉が叩かれる。うっすら見える影の大きさ、扉越しでもちょっと伝わる暑苦しさ、それらからして、あれは。
「スカイ、入っていいか」
「いいですけど。トレーナーさん、どうしたんですか?」
やっぱり、トレーナーさんだった。一回ちょっと前の時間に色々着替えたりの時に会話はしていたし、それであらかた言うことは言ってもうとっくに観客席に行ったものだと思っていたけど、何か用事でもできたのだろうか。
そう思いながら招き入れると、椅子も引き出さずに立ったまま。すぐに、答えはわかった。その石ころを飲み込んだみたいな喉仏から、言いたいことがなんなのかは。
「さっき、毎日王冠の結果が出た。サイレンススズカの勝利だ。異次元の大逃げだと、そう実況が言っていた」
「それはそれは。スペちゃんは喜ぶけど、グラスちゃんとエルは悔しいだろうなあ」
なんて、若干他人事。いや、だって他人事じゃないか。毎日王冠の結果は確かに気になってはいたけれど、それがなにか、今伝える理由が何かありますでしょうか。
「そこでだ。スカイに二つ、伝えたいことがある」
はて。まあそんな他人事だけでわざわざここまで来るトレーナーさんではないだろうとは思ったけど、それにしてもこんな土壇場で、伝えたいことなんて。
そこまでして伝えたいことって、なんだろうか。そうは思ってしまってちゃんと聞いてしまうから、私もずいぶんこの人との付き合い方に慣れてしまったなあ。こう思うのも、もう何度目かって感じさえする。まだ噛みあうタイプだとは思ってないつもり、だけどね。
「一つ。今日は絶対に勝つぞ!」
「そりゃもちろん。勝つつもりがないなら走りませんよ」
「そうだな。俺は君を信じている」
本当、油断ならない。時折こうやってストレートに伝えてくるから、トレーナーさんは油断ならない。何回も聞いたフレーズだとしても、それだけで心の模様が変わるのがわかるから。私の心が掻き乱されて、それでいて更に想いが深く根付くのが、わかるから。
「まあ、それはどーも。で、もう一つはなんですか?」
「二つ。サイレンススズカにも負けるな」
「……意味がよくわかりませんね」
サイレンススズカさんって、それは別のレースの話じゃないか。というか、もう終わった毎日王冠の話じゃないか。この男がセイちゃんにどれだけ期待してくれているのか知らないけれど、いくらなんでも過去の走ってもないレースでどうやって勝てというのやら。
そんな感じで、流石の私も意図を察せない。トレーナーさんの方も説明が足りないと思ったのか、一つ言葉を付け足す。相変わらず、無茶なままのお願いだったけど。
「あちらでは異次元の逃走劇が見られたらしい。鮮烈で、記憶に残るような。つまり今日逃げを打つなら、それに並ばなきゃいけない」
「トレーナーさん、結構無茶なこと言ってません? 私がそんなスーパーウマ娘に見えます?」
でも、言いたいことはわかった。それくらいこの人は、私に期待しているのだとも。やっぱり、トレーナーさんは私を信じているんだって。予想は裏切れど、期待は裏切っちゃいけない。それが私の鉄則。そしてそれだけじゃない、そう勝てって言われたら、おいそれとなんか負けたくなんてない。誰にだって、負けたくない。どんな相手にだって、どんな高い壁だって。あの夏を超えた私なら、その先の未来を見れるはず。
と、そこでトレーナーさんがもう一言。今までのはいつも通りの気合いって感じだったのに、今度は割と予想外な。
「……そこで、一つ考えたことがある。作戦だ」
「なにそれ。トレーナーさん、作戦なんて柄でしたっけ。それについさっき考えたようなの、ほんとに作戦って呼べるんですか?」
「それでも、君の強みは戦略だ。確かに即席だが、スカイならそれでもできる。俺はそう信じている」
「……また」
信じられたなら、応えるしかないのに。それはもう、あなたに決めさせられたことみたいなものなのに。この人はつくづく、少しずるいところがある。直情的で、バカみたいに真面目で。だからこそ、ずるいなあって。
「じゃあ聞きましょうか、トレーナーさんの作戦とやら。負けたらトレーナーさんのせいかもしれませんけど」
「問題ない。負けることはありえないからな」
「はいはい、御託はもういいから」
「ああ。まずは──」
独りじゃない、私たちの作戦。今日懸けるものがそれならば、なおさら負けられないのだ。
さあ、立ち向かおう。私とあなたが、一番強い。
青く艶やかな芝を踏み締めると、バ場はそれなりに重かった。バ場通りの体力勝負になるなら、私はそれなりに不利を受けていると見ていいだろう。歴戦のレースを超えたシニア級のウマ娘が立ち並ぶ中、私は経験も浅い上にダービーでバテてしまっていた「実績」がある。人気薄も納得、まあそんなのも織り込み済みだしね。特に要注意なのは、一番人気のメジロブライトさん。遠くに見えるウェーブがかったボリュームたっぷりの栗毛が、観客席前を横切るたびに黄色い歓声を受けている。あのゆるい雰囲気、グラスちゃんに近しいものがあるかもな。まあ、閑話休題。メジロブライトさんこそ、このレース本命。トゥインクル・シリーズ屈指の長距離レースである春の天皇賞を勝った、折り紙付きのスタミナ自慢。体力勝負になるだろう今日のレースではもっとも有力なのも納得で、その一番人気も当然のものだ。
GⅠという大舞台で勝った経験は恐れ多くも私も持っているものだけれど、長距離と呼べるものは次の菊花賞まで経験の予定はない。その点ではやっぱり、GⅠでもそのステイヤーぶりを見せたメジロブライトさんが、私の一番の壁になる。そう、越えるべき壁。越えて、勝利を掴むための、ライバルだ。
「今日のメインレース、京都大賞典。いよいよ各ウマ娘がゲートに入ります」
さて、それでもレースはみんなで走るもの。一番人気がいくら強くても、ゲートに入った全員に勝利のチャンスがあるもの。連れられるように並び立つように、私もゲートに入る。久しぶりのゲートは、やっぱりいつも通りに緊張する。
ゲートは平等に開いているのに、ゴールはただ一人のためにしか存在しない。走り始めた瞬間に、その未来が確定する。センターのスポットライトは、ただ一人のためにしか存在しない。明暗は、運命は、分かれる。そのことを私の脳裏に刻み込む奈落の穴が、今日も開いている。けれど、それは。
「スタートしました!」
それこそが、私たちの走る理由の一つ。だからこそ、私たちはただ一つの勝利を目指す。そう、今日も絶対に、絶対に私が勝つんだ!
がこん、とゲートが開く特徴的な音とともに、勝利を目指して駆け出した。きっと、ここにいるみんながそうだった。だけど、掴み取れるのは一人だけ。期待されようとされなくとも、勝てるの一人だけ。
さあ、全部をひっくり返そうじゃないか!
「さあ、まずは激しい先頭争い! おっとセイウンスカイ、一気に抜け出した!」
だん、と踏み込みハナを取る。ここまでは大体いつも通り。三十六計逃げるに如かず、いやそれはちょっと意味が違うかな? でも、ここから。「私たち」の作戦は、ここから、だよ!
「おっとセイウンスカイ、早くも五バ身六バ身と差を広げていきます!」
逃げ、逃げ、大逃げ! 観客席が沸いてるのが聞こえる。いやあ、走るのも驚かせるのも、最高に楽しいなあ! 前にも後ろにも誰もいない。このままどんどん突き放す。風を切って、気ままに進む。芦毛の短髪も風に靡く尻尾も、全部誰にも触れさせない。こんなペースじゃ気ままじゃなくて暴走、なんて言われそうだけどね。
「向正面に入って、セイウンスカイ依然独走! ただ一人コース中頃まで来ています! 二番手との差はおよそ二十バ身ほども開いています!」
まさに爆走。いやあ我ながら、だいぶ頑張っちゃってますねえ。「作戦通り」と言えばそうなんだけど、こんなやたらしんどい作戦はトレーナーさんじゃなきゃ思いつかなかったかも。いつもより走るのがしんどい重バ場でこれだけ引き離して、こうなれば追いつこうとする方も確かに一苦労ではある。それだけのペースで走ってる私が一番大変なんだけどね。
……とはいえ。
「セイウンスカイ、坂を上る! 後続がだんだんと差を詰めてきています!」
とはいえ、それだけで勝てるほど甘くはない。中盤になって私の脚の回転が遅くなってきたのを見逃さず、後ろからばちばちと迫ってくる足音たち。言うまでもなく坂道は平地より体力を使うし、ここまでバカみたいなペースで走ってきたセイちゃんとしては、ここまで来るとよたよた歩かないように取り繕うので精一杯。やれやれ、なんてざまだろう。こんなみっともない姿を大勢の前で晒してしまったのだから、それを指示したトレーナーさんには責任を取ってもらわないと。
もちろん、勝ったあと。ちゃんと褒めるのも、忘れないでよね!
「残り400m! 二番手との差はもう少しだけ! セイウンスカイ、ここまでか!」
さあ、ここからが真骨頂。目立つ動きで餌を装い、ぎりぎりまで引きつけて。哀れに食われる小さな獲物、そしてそれを捕らえる捕食者だと、お互いの立ち位置を誤認させて。
「……おっとセイウンスカイ! ここで更に逃げ足を伸ばす!」
……ここ! 餌に食いついた、その一瞬を逃さない。餌の後ろについた釣り針は、先にバレては意味がない。だから待つ時間もこの瞬間も、すべてが勝利のための布石。勝負は長々と仕込んで、けれど決めるのは一瞬だ。うん、「私たち」の好きな釣りと同じだね!
「メジロブライトここで追い込んでくる! しかしセイウンスカイ、逃げ切るか!」
……ここまでやってこれだけぎりぎりなのだから、やっぱり私の勝負は作戦ありきなのだろうけど。作戦がなきゃ、私くらいの実力ならありふれているのだろうけど。けれど作戦勝ちだと言い換えたら、とってもいい気分だ。誘って引きつけて、食い付いたところを狙い澄ます。私の好きな、そんな作戦。私たちで作った、私とあなただからこその作戦。
うん、これぞまさしく。
「セイウンスカイ! セイウンスカイ、ゴールイン! セイウンスカイ、僅かに押し切ったか!」
──これぞまさしく、
気持ちよく一着で走り終えて、こつんこつんと地下を歩く。軽くステップを踏んでいるように錯覚するのは、一つ前のレースとはずいぶんと違うところ。だけど今日も同じだったのは、一人のウマ娘が待っていたこと。あの日の再現のように、彼女が待ち構えていたこと。
ただいま、キング。しっかり、見ててくれたんだね。
「おめでとう、スカイさん。最初は当てつけかと思ったけど」
「大逃げのこと? それならキングがわざわざ地下バ場に迎えに来たのも、あの時の当てつけかな」
せっかく勝ったところなんだから、ほんとに当てつけだったらかなり酷い話だと思うけど。……まあ、そんなことはないに決まっている。それにたとえそうだとしても、私はもうあのダービーを悔しいだけの思い出にはしていない。そしてそれは、君もだから。だからもう、私たちは互いを見据えられる。赤と青の視線を、一点で一つにできるのだ。
「まさか。これで菊花賞に向けての準備が整ったライバルを、讃えに来たのよ」
「それはそれは、誠にありがとうございます。……うん、今日はばっちり策がハマったしね」
「ずいぶん大胆な走り方だったけど、あなたあんなの練習してたかしら? 肝が冷えたわよ」
「そりゃさっきレースの直前に、トレーナーさんに伝えられたばかりのやつですから。まあそれで驚かせられたなら、策士冥利につきますなあ」
「呆れた。そんな急拵えとはね」
それはもう、まったくもってその通り。まあそんな土壇場仕上げが通じたのは、ひとえに私に合った作戦だったということなのだろう。伊達にトレーナーさんも私のトレーナーさんをやってるわけじゃないな、みたいな話。だから即席じゃなくて、今までの積み重ねの上にあるものに違いない。
そしてそう思ったのは、作戦だけの話じゃない。私に合ったもの、それが積み重ねの上にあるということ。それを、もう一つ。
「キング、さっき走って気づいたことなんだけどさ」
「権利を……なんて言わなくても喋りそうね。何かしら」
もう一つ、気づきがある。私の気持ちの話。踏み出したことで新たに見えた、更なる変化の話。
「私、かなり負けず嫌いみたい。それもだいぶん、欲張りな」
「あら。今日はライバルなんて気にしないんじゃなかったの?」
それはその通りで、夏合宿の時にキングに言ったことだ。あえて誰のことも考えず走ろうと、自分を俯瞰してみようと。そうすれば、私らしさが見つかるんじゃないかって。ダービーの時の反省を活かして、ちゃんと走れるんじゃないかって。……けど、逆だった。
「そのつもりだったんだけどね。でもライバルが出ないレースとなるとさ、やっぱり他の人と走るんだよ。というより、それもまたライバルみたいなものなんだって。たとえば今日一番人気だったメジロブライトさん。たとえば今日あっちで走ってたスズカさん。私はそんな初めて走るような先輩相手でも、どんな遠くの人にも、絶対に負けたくないんだって」
「本当、ずいぶんと欲張りね」
誰とでも、気ままに。そんなふうに思っていた。けれど本当は、その逆。誰であっても、だった。気を抜けない、勝ちたい。そう、誰に対しても貪欲に願うのだ。やっぱりこれも、コインの裏表に近い。誰に対しても印象は変わらないかもしれないけれど、だからこそ誰に対しても闘志を剥き出しにできる。本質は、ずっと変わらない。
ダービーの日は、ライバルに拘りすぎていた。それは本当。だとしても、私の本質はもっと奥にある。ライバルに、もっと拘りたい。すべてを盤上で支配するトリックスターとして、私と共に走る人なら、その全員と向き合いたい。それは、つまり。
「うん。私はやっぱり、ライバルに勝ちたい。キングにも、スペちゃんにも。でも菊花賞だって、それだけで走るんじゃない。私は、全員に勝ちたいんだ。全員が、ライバルなんだ」
「なるほど、ね。呆れるを通り越して、大変そうだと思ってしまうけど」
「確かにね。でもそれが、一番になるってことじゃないかな。レースの一番、その日の一番。もっともっと、大きな意味合いの一番だってさ」
「言うようになったじゃない。あのいつもやる気のないスカイさんと同一人物とは、とても思えないわね」
本当に、自分でも変わったと思う。もちろんだらだら休むことは、相変わらず好きなんだけどね。そして今の気持ちは、それと別のところにあるわけでもない。だけど獰猛に、強欲に、勝利の栄光を求めていく。それはきっとどちらも私。ゆるくのんびりな私も、荒々しくひたむきな私も。コインの裏表を両方合わせて、セイウンスカイというウマ娘なんだ。
「来週は頑張りなよ、キング。スペちゃんは強敵だけど」
「あら、応援してくれるのかしら」
「一応チームとしての義理がありますからねえ。そこまでは応援してあげる。……だけどさ」
「菊花賞は敵同士。当然ね」
「ちょっとキング、台詞取らないでよ。まあでもその通り。菊花賞は、私が勝つ。待ってるよ」
そう言って、彼女に手を伸ばす。すぐにあちらからも伸びてきて、固く手のひらと手のひらを握る。
「それこそ、こちらの台詞よ。このキングヘイローこそ、菊花賞は獲らせてもらう」
「もちろん。そうでなくちゃ、始まらない。だって私たちは、ライバルなんだから」
掴んだ手が、すぐに離れる。ハイタッチのような、軽い乾いた音と共に。スラリと伸びたキングの指に、私の細い指がぶつかる。触れて、ぶつかる。寄り添って、競い合う。その数瞬に込めた意図は、きっと互いに変わらない。
いい勝負をしよう、と。それが宣戦布告だった。ライバルに対する、次を見据えた宣言だった。
踏み出した。なら、未来は既に始まっている。
そしてすぐ。
こつ、こつ、こつ、こつ。僅かに私の足音が響くだけの、静かな通路だった。この空気は、レース場の控室前に漂うこの独特の空気を味わうのは、ちょうど一週間ぶり。レース前の緊張や不安と、一人きりで戦う時にあるこれを肌で受けるのは、前の京都大賞典ぶり。何度感じたとしても、慣れ切るものじゃないけどね。
まあ、今日の私は当事者じゃない。緊張している誰かさんのところへ、野次馬みたいにふらふら寄りに行っていく。それは一つ。それにこれからの私は、彼女の独りを破ってしまう。極めてお節介な行為だと思う。それも一つ。それでも、だった。
それでも私は、そのドアをノックする。それはきっと今だから、確かめられることがあるから。今この瞬間だからこそ、私には知ることのできることがあるから。
「入っても、いいかな」
それは、私だけにとってじゃない。
それは、私から手を伸ばすけれど。
「いいわよ。キングの部屋に入る権利をあげる」
それは、私と君の、両方にとって。
がちゃり。扉は既に、開かれているのだから。
「そこ、座っていいわよ。もっともすぐに、時間が来てしまうけど」
「それではお嬢様、お言葉に甘えさせていただきます。……なんて、ちょっと聞きたいことがあるだけなんだけど」
控室に入ってみると、キングは既に体操服に着替えていた。それにしてもそのお嬢様って感じの流したセミロングの髪の毛、体操服は似合わないね。なんて、そんなことは言ってる暇もない。結構貴重な時間だからね。
彼女に促され、あらかじめ出されていた椅子に座らせてもらう。そんなふうにちゃんと気配りしてくれているのはキングらしさなんだけど、レースが始まるまでにある時間は本当にごく僅か。座ったってあっという間に立たなきゃいけないし、腰を落ち着けるというほどゆっくりはできない。そこにあるのは極小の刹那。この短い時間でできることなんて限られているし、話せることだって少ない。だけど、それでも何もできないわけじゃない。積み重ねられるものは小さくない。変化はすべてをひっくり返すものですらあるかもしれない。なぜか。なぜ、この限られたタイミングだからこそできることがあると言えるのか。
その答えは、簡単だ。とっても、わかりやすい。何度も繰り返してきた、その復習に等しい。
「聞きたいことって、何かしら」
なぜなら。たとえそこにあるのがゼロに限りなく近い、一瞬と呼ぶにも満たない時間でも。
それでも、なぜなら。
「今しかできない、夏合宿のリマインド。あれ、覚えてる?」
なぜなら、あっという間に過ぎるもの、そのすべてが、今まで重ねた幾万幾億の上にあるから。重ねられた時間のすべてが、常に新たな時間の中に編み込まれているものだから。
そうやって過去を一瞬に込めて走るからこそ、私たちは夢を駆けることができる。夢とは微睡の狭間のわずかな時間にあって、それでいてそれまでの積み重ねから写しとるものだから。それゆえに今過去を改めて振り返ることが、本物の夢に近づく一歩になる。
振り返れど、後ろを見るためじゃない。やっぱり前を見るために、過去は存在するのだから。
だから、この時間は無駄じゃない。瞬く間に過ぎゆくモーメント、けれどそれを現像する数多のタイムラプス。たとえば夏合宿。たとえばダービー。たとえば、それよりもっと前。
そのすべてを結晶して、この瞬間に語り尽くそう。
「……覚えてるわよ。『周りを気にせず走ってみたら』」
「うん。覚えててくれて嬉しい。あのさ、やっぱり思うんだ。キングにとっての、『周り』について」
「今日で言うならスペシャルウィークさんね。もちろん手加減はしない。そういうことなら、私は周りを気にしていない」
うん、うん。キングのそれは、きっと間違いない。強がりや意地じゃなくて、キングは今度こそライバルとの折り合いをつけている。「友達」が、その刃を曇らせることはない。それ自体は、間違いない。
……でも。ここに至って、私はもう一つの「周り」を見つけていた。キングにとっての、『周り』。ずっとあった、ともすれば友達への優しさ以上にもなり得る、彼女の強みでも弱みでもあるもの。
「キング。多分それだけじゃないんだ」
まだ。まだ彼女が本当に振り切れるには、まだ。コインの裏表を、表側に捲り切るには、まだ。
「……そろそろ時間ね。"それだけじゃない"、気には留めておくわ。……ありがとう」
「うん、頑張って」
まだ。まだ、時間が足りない。やっぱりこの僅かな時間では、できることには限りがあった。言葉は尽くしたけれど、考える時間が必要だ。どうしても、時間をかけねば解決しないことはある。どうしても、成長というものは時間を要求する。けれど、そこで終わりじゃない。これも積み重ねて、更に進もう。時間がかかるなら、時間を途切れさせないようにしよう。だって、そうやってここまで来たのだから。私たちは、これから先も進んでいくのだから。
これから始まるレースだって、大いなる旅路の一部なんだ。一つだって、欠けてはならないんだ。
道は続いていく。
がこん!
「秋の日差しをいっぱいに受けまして、十六人のウマ娘が一斉にスタートしました!」
芝2,200m、京都新聞杯。今日の私はそれを、観客席の最前列から見守っている。このレースも、ほんの一瞬。それまで重ねてきたトレーニング時間に比べたら、数分で終わるレースは本当にちっぽけだ。それなのに、これほどまでに大きなものはない。観客にとってもそうだし、何よりそこでひた走るウマ娘たちにとっては。レースというものが持つ輝きや栄光は、レースに出ている本人にとってこそ強く強く刻み込まれるもの。だから、私たちは全力で走るんだ。
頑張りなよ、キング。今日はスペちゃんも走ってるけど、ほんのちょっと君を優先して応援するからさ。本当にほんのちょっとだけ、チームメイトのよしみでね。
「二番人気キングヘイロー、今日は好位から少し後ろにつけています!」
今回は少し抑えて、冷静に全体を見据えながらレースを進めるキング。けれど後方よりは前目に着けているのは、やはりそこから迫り来る脅威があるから。周りを気にするなとは言ったけれど、それはレース展開において手を抜くって意味じゃない。どんな意識を持ったって、たとえ初対面だろうがあの走りを無視して勝ちは狙えない。今日も一番人気、夏を越えて更に手強くなった私たちのライバル──。
「第三コーナーを登って後方から早くも動き出したのはスペシャルウィーク! スペシャルウィーク、中団まで一気に押し上げてきた!」
スペシャルウィーク、やっぱり君は強い。多大な期待を背負い、そしてそれよりも重い自らの夢まで抱えて。けれどもどれ一つ取りこぼさず、全速力で走り抜けようとするのだから。やっぱり、眩しくてたまらない。……でも。でも、だよ。
「スペシャルウィーク、キングヘイローの直後だ! 四コーナーに入るところで、キングヘイローとスペシャルウィークが並んだ!」
でも、キングも負けてない。そう、二人とも強くなっている。春のクラシック、夏の合宿、そして秋の菊花賞を控えて、きっとその先の冬だって超えて。私のライバルたちは、並び競い合うたびに強くなれる。あのダービーから、チームを移籍して。私たちのいる新たな環境で共に練習に励んで、時には星の下で語らって。だから、キングも強い。スペちゃんもキングも、私のライバルはとっても強い。これまでとこれからのすべての時空の先へ、願い焦がれて走るんだ。
「キングヘイローか!? スペシャルウィークか!? スペシャルウィーク、キングヘイローを躱せるか!」
一瞬、キングとスペちゃんは、互いをちらりと見て。その一瞬は、きっと瞬きしていたら見逃してしまいそうな一瞬。だけど、その一瞬だけ。そこからはひたすらに、前だけを見ていた。
全身全霊、精も根も尽き果てるまで。荒々しく髪の毛は風を受けていて、たなびく尾が揺れるのにも意志すら感じて。きらきらの汗とどろどろの靴が、どうしようもなく輝かしくて。横顔しか見えないけれど、二人の表情は晴れやかで。だけど叫ぶように大きく開けた口から息を吐く表情には、からからに乾いた唇まで懸命さが籠っていて。だから、だから最後まで。
「キングヘイロー先頭に立っている! キングヘイロー頑張っている! しかしスペシャルウィークか! 最後の最後で差し返した! スペシャルウィーク、ゴールイン!」
──最後まで、二人は走り切った。ゴールラインを超えた瞬間、大歓声が巻き起こる。本当にギリギリの差、クビ差での決着だった。おめでとう、スペちゃん。キングは、残念だったね。もちろんそれぞれにこの闘いに抱える思いは違って、この勝利と敗北にも、すぐには結論が出ないだろう。勝利の意味も、敗北の意味も、きっと噛み締めるにはそれなりの時間を要する難しいことだろう。
でも、これだけは言える。今日のこのレースは間違いなく、いい勝負だったってこと。その事実だけでも、この瞬間に価値はあった。得難くかけがえのない、綺羅星のような価値が。ここまでの積み重ねの上に、新たなものを積み重ねた意義が。
……うん、居ても立っても居られない。キングが"ちゃんと"周りを気にしなかったか、それをまず聞きに行かなきゃいけないのもあるし。なにより、なによりも。なによりいずれ相見えるのなら、私には必要な行為がある。君たちと相見えるために、ライバルとして必要な行為がある。いち早く観客席を抜けて、まだ誰もいないだろう地下バ場へ。目的は当然、決まっている。絶対に逃せない、私の獲物と決まっている。間近に来たる菊花賞の好敵手、スペシャルウィークとキングヘイローだ。
「お疲れ様、二人とも」
「あっ、セイちゃん!」
「慰めに来たのなら結構よ、スカイさん」
地下バ場で対面したのは、土で汚れた二人のライバル。顔まで土が跳ねて汗が滲んでいて、せっかくの二人の可愛い顔が台無しだな、なんて。だけどそれがなぜか、とても眩しい。今走り切った二人にしかわからない感覚が、芯まで伝わるようだった。
でもそれを見た私の感情は、決して羨望じゃない。届かないなんて、遠いなんて思わない。奮い立ち、昂る。だから、私はここに来た。
私だって、負けないから。
「いいや、ここに来たのはキングを慰めるためじゃないよ? もちろんスペちゃんにおめでとう、みたいなのを言いに来たわけでもない」
「ならスカイさん、あなたは何をしにここに来たのかしら」
私がここに来たのは、もちろん君たちに言いたいことがあるから。打ち勝つべきライバルというだけなら、告げるべきは宣戦布告。敵意と闘志の重ねがけが、きっとふさわしいのだろうけど。だけどもう一つ、私には伝えなきゃいけないことがあった。ちょっとだけ、息を吸って、吐いて。二人の眼を見て。ヴァイオレット、クリムゾンレッド、そしてスカイブルー。三者三様の世界の色を、一つに重ねる言葉にしよう。
「菊花賞。最高のレースにしようよ」
その気持ちは、私たちみんなの誓いにできる。
ライバルとして、友達として。私たちは競い合い、協力するのだ。たった一つの最高を、ある一瞬に創り出すために。
「……うん、もちろん!」
ある者は勝利を積み重ね、その先の夢に手を伸ばす。
「当然よ。次こそ、私が勝たせてもらうわ」
ある者は敗北を乗り越えて、それでも夢を握りしめる。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
そしてある者は、そんな二つの煌めきを見据えて。また強く、強く夢を想う。私たちの夢は一つ。道は違えど、友達だから。同じ道を競り合う、ライバルだから。
これ以上ないくらいの最高。私たちで、そこまで駆け抜けよう。
「……ところで、スカイさん」
なんて、それはともかくって感じで、キングが私に話を振る。大体わかるけど、とりあえず。
「どうしたのキング。スペちゃんが見てるから、変なことはしないでよ、へんたいさん」
「おばか! ……そうじゃなくて、その。今日の私は、どうだったかしら」
なるほど。キングはやっぱり、レース前のアレを気にしてる。『周り』の話。とはいえそれについて話すなら、私より適任がいるだろう。私が提起した問題だけど、少なくとも今日のキングに関しては、他に適任が。
「ふむふむ。ところでスペちゃん、今日のキングはどうだった?」
というわけで、そっちに投げる。いや、逃げてるわけじゃないですよ? ちゃんとしっかり、理由はあるのだ。
「えっ、私!? セイちゃん、何のことかわからないよー!」
「そんな特別な話じゃないよ。走ってる時、何か変だったかなって」
そう、大事なのは走っている間。その間彼女が、『周り』を気にせずにいられていたか。走ることに余計なものを、忘れられていたか。それはきっと、キングとあの激戦を繰り広げたスペちゃんなら、わかること。今一緒に走ったばかりのライバルにしか、わからないこと。
だから、君こそここで答えを出せるはず。少し考えたあとにスペちゃんが言った答えは、やっぱり鋭かった。
「それなら、二つ。二つ、言えることはあるかな」
「……何かしら、スペシャルウィークさん」
「今日のキングちゃんは、いつもとなんとなく違った。わからないけど、なんとなく。だから、変だったかも」
うん、キングは変わっていた。さまざまを越えて、前走った時とは見違えた。そういう意味では、変で当たり前。やっぱり、スペちゃんの眼は誤魔化せない。
「でも、これもなんとなくだけど。それはそれとして、いつもよりキングちゃんはキングちゃんらしかったと思うよ。だから、変じゃない。……おかしなことを言ってるとは思うけど、なんとなく思ったのはそんなことかな」
そしてそれも、その通り。変化はどれだけ重なれど、本人らしさをより鮮明にするもの。変わって、変わって、だからこそ変わらないものが見えてくる。つまり変じゃないのも、やっぱり当たり前。なにより今日彼女をもっとも近くで見て感じていた彼女がそう言うのなら、きっとこれが正解だ。
「……なんだかピンとこないわね」
「こういう変化は、なかなか自分では気づかないものだからね。だから私たちには、向き合ってくれる友達が必要なんだよ。そして、競い合ってくれるライバルもね」
たとえライバルを気にしないとしても、友達だからと容赦しないとしても。それでもつながりは切れなくて、どうしたってそのつながりに救われてしまう。
だから、無理に意識しなくていいんだ。つながりに対して、意味合いを断定する必要はない。つながりをどう位置づけるか、曖昧なままでも構わない。きっとそうやって思考の外に置いてしまえるのが、本当に強いつながりなんだから。遠慮もできなければ無視もできない、それが気の置けない仲、ってやつなんだから。
「それにしても、うん。確かに私から見ても、今日のキングは『周り』を気にしてなさそうだね」
「なんだか奥歯に物が挟まったような言い方ね」
「そりゃ、言って気づかせるのも良くないし。自分では気づきにくいと言った手前だけど、あとは自分で考えなよ」
「なによ、それ」
ちょっと不満そうなキングヘイロー。それでもそれ以上追求してこないのは、きっと彼女なりの信頼の示し方。私なりの信頼の示し方は、そのまま彼女を放っておくこと。
きっと来たるべき時には自らで気づけると、そう私たちはそれぞれの好敵手を信じている。
そしてそうやって、互いに互いを信頼しているのなら。心を預けて気持ちを分ち、共鳴するようにそれを組み合わせて、独りでは届かないところへと手を伸ばすのなら。
そこにあるのはありきたりで、ともすれば陳腐ですらありそうな答えだけど。だけどこれが、一つの結論なんだ。
私たちは、
その日の夜は、久方ぶりに眠れなかった。いつかのそれとは違って、言いようのない高揚感によるものだった。それはきっと嬉しいとすら思ってしまうことだけれど、眠れないのはねぼすけセイちゃんには悩ましい問題だ。まだ菊花賞前日でもないのにここまで興奮するような調子では、これから日を追うごとにどうなるやらという感じ。心は盛り上がる一方でも、身体の方が保たないじゃないか。一刻も早く意識を切り替えねばならないという点では、なるほどあの日の夜に似ているかもしれない。誰もいなかった、本当は独りが寂しかったあの夜と。
だから。だから多分、こうするのは必然なのだ。とん、とん、とん。指先でスマホの画面を叩き、十一桁の番号を入力する。連絡先として登録してやるのはなんとなく癪だけど、その数列を覚えておいてはしてしまうくらいの乙女心、なんてね。深夜というほど遅くはないけれど、やっぱり独りの夜だから。独りで浮き足立つ、そんな夜だから。
「おう、どうしたスカイ」
そうやってあなたが応えるのも、必然なのかもしれない。プラスもマイナスも、独りで抱えなくていい。私にそう言ってくれるのは、いつだってあなただから。
私と、あなた。音だけで繋がる二人の会話は、その先にある瞳や口の動きも教えてはくれない。私がちょっとからかうとむすっとするその顔も、同じタイミングで忙しなく握られるごつごつした握りこぶしも、何一つ今は見えていない。
だけど、それでもよかった。やっぱり、あなたの声は暖かい。私を独りにしない、きっと頼んでもさせてくれない、そんな心底鬱陶しい声だ。
「夜分遅くにすみませんね、どうにも眠れなくって」
「そうか。俺は勉強していた。徹夜で勉強なんて久しぶりだ」
「学生の私ですらしてないですけど。トレーナーというのは大変な職業ですねえ」
勉強なんて、普通は子供がやるものだろうけど(私がサボりがちなのは別として)。仕事のために勉強するのも、大人故の苦労の一つということだろうか。トレーナーという職業柄なのか、私が知らないだけで大人だって勉強するものなのか、子供の私にはさっぱりわからない。
そしてこういう時だけ子供を名乗るのが、きっと私の悪いところなのだろう。大人のふりをしているだけの私は、色々な点で大人と子供のいいとこ取りをしてしまっている。
たとえば今夜こうやって、子供のようにあなたを頼る。たとえば今夜こうやって、大人のようにあなたに頼られたい。そうしてやっぱり、どちらにせよ。あなたのその頑固な口から、褒められたい。
なんて、結局わがままだ。結局、私は子供なのだ。ダービーを終えて菊花賞に向けて、色々なことを経験し挑戦しても、まだ。
まだ、私は子供でいられている。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、そうなっている理由はわかる。そしてその理由自体には、悪い気分はしないから。あなたという大人が信頼してくれていることは、嬉しいと思ってしまうから。
でも、やっぱりトレーナーさんは大人だった。私は私一人のことだって抱えられるかわからないのに、大人のあなたはたくさんの人のことを考えている。……まあ、最近の私もちょっとはそうかもしれないけどさ。
「今日のキングの負けは俺の責任だ。新入りでも、いやだからこそ、俺は結果を出させてやらないといけない」
「なるほど、それで勉強していると。でもチームの誰かが負けたら責任取らなきゃいけないなら、次の菊花賞は困りますねえ」
「……あっ」
まったく、今更気づいたのかな。つくづく融通の効かない性格で、そこは不器用すぎるくらい。菊花賞において、チーム<アルビレオ>から出走するのは一人じゃない。確かにちょっと前までは私だけだったけど、トレーナーさんの言う通り新入りだからこそ結果を出してやらないといけないのなら、キングのことだって忘れちゃいけない。そしてそんなキングと私の両方を応援するんだから、トレーナーさんの責任はとても重い。どちらかが勝っても、どっちも負けても、どちらにせよ大人として苦労しなきゃいけない。私たちが付けたライバルと友達の折り合いより、ある意味ではもっとシビアなもの。そういう意味ではトレーナーさんは不器用すぎて、大人びた選択をするための"らしさ"が足りないのかも、なんて。もっとも私の方も、他人に子供じみている、なんて言えるような人間でもないのだが。
「それでトレーナーさんは、キングと私のどっちに肩入れするんですか?」
ここでちくちく意地の悪い質問をするのも、子供の駄々みたいなものだろうな、とは。まあそこにちゃんと丁寧に答えてくださるトレーナーさんは、なんだかんだでちゃんと大人である。
「どちらも、だな。優劣をつけるわけにはいかない」
「それが大人の対応、ってやつですかね。私としては、本音が聞きたいですけど」
「今のが本音だ」
「またまた、それならもっと上手く誤魔化してくださいよ。いつもの正論じゃないですか」
優劣はつけられない、なんて正論。そしてこいつの場合こういう言葉はいつも通り、この正論男の感情を覆い隠すもの。もう慣れっこだ。もう飽き飽きした。だからたまにはその先の、聞いたことのない言葉を聞きたい。あなたに、私を頼ってほしい。それとほんのちょっとだけ、気に入った人にいたずらをしてみたい悪童の如く。
どちらにせよ、今日くらい。前のお返し、じゃないけれど。そう言えるようなことをしてもらうには、私の方が貰いすぎているけれど。それでも、そんな損得みたいなのは抜きにして。
あなたの本音を、私に。
私にだけ、聞かせてよ。
「本音、か」
「はい。今なら、私しか聞いてませんよ?」
「そうだな。今なら、君だけだ」
「はい。だから、今だけです」
今だけ、気を抜いてほしい。これは純粋に、あなたを慮って。ちょっとは私の好奇心もあるけれど、やっぱりあなたのために。私がいつまでもなれない大人というものは、とても大変みたいだから。そんな大人では、きっと吐き出せるものは少ないだろうから。言葉を閉じ込めて、自分に言い訳をして。そこだけは、私もわかる難しさだから。
電話が切れたかと思うほどの沈黙のあと、もう一度聞き馴染んだ声が聞こえてきた。少しだけ、知らない声音が混じっていた。ほんの、ちょっと。だけど、初めての。
「俺は、キングに勝ってほしい。もちろんまだ浅い付き合いだ。あの子が俺をどう思ってるかもわからない。でもそんなことはどうでもいい。チーム移籍願いを出してきた日のキングヘイローに、俺は覚悟と根性があると思った。それを信じたい」
「その日のこと、詳しく聞きたいですねえ」
「それはダメだ。俺と彼女の問題だからな」
なるほど、それは正論。その正論に突っ込むほど、私も気配りのできない人間じゃない。なので、その言葉はちゃんと受け取った。それ以上は聞かないのだって、あなたのためを想うから。
でもその話ぶりから、それだけでわかることはあった。微かだけど、確かなもの。当たり前かもしれないけれど、今更かもしれないけれど。それでも、わかってよかったこと。私にとって、安心できること。
キングのチーム移籍は彼女にとってとても大事な決断で、このトレーナーさんはそれを尊重したんだ。そして、だから当然のこととして、トレーナーさんは、キングヘイローの勝利を願っている。かけがえのない、チームの一員のために。
キングはちゃんと、チーム<アルビレオ>の一員なんだ。それが認められた気がした。ちょっと偉そうだけど、それは嬉しかった。彼女の決断が意義あるものであってほしいというのも、仲間として思うこと。
「なるほど。なんだトレーナーさん、ちゃんとした本音があるじゃないですか。安心しました」
「そうだな、だがもう一つあるぞ。今しか言えない、本音だ」
「付き合いますよ、ここまで来たら」
そう告げてやると、やっぱりちょっとだけ黙りこくったあと。また同じくらいの沈黙が挟まれて、それでも電話の先に誰かいるのは伝わって。だけど、ちゃんと。時間は必要でも、時間が経てば誰もが前に進めるから。多分それなりに勇気を出して、トレーナーさんは喋り始めた。もう一度、声の色合いが変わる。また一つ深く、心臓の奥からその言葉を取り出して。
「さっきのは本当だ。本音だ。その上で、これも本音だ」
「勿体ぶりますね」
「ああ、だが言うぞ。……スカイ、俺は君に勝ってほしい」
多分、予測できた答えだった。このトレーナーさんが片方だけ、どちらか一人だけ応援なんてできるわけないって。正論なのか曖昧なのか、どっちとも取れる大人らしくない本音。
やっぱり、本当に。本当に、この人は不器用だなあ。正論を剥がしたあとの言葉は、道理なんて一つも通っていないかもしれない。めちゃくちゃで子供じみた、もしかしたらこの人も私には言いたくなかった気持ち。
それでも、その言葉は暖かい。ほんのりと、胸に灯りが瞬いて。そしてそこから、ぽつり、ぽつり。夜が始まるみたいに、小さな光が増えてゆく。
「皐月賞の時、正直不安だった。きっと君なら勝てると信じていたのに、それでも不安だった。でも、君は勝った」
「だいぶ昔の話ですね。あれからお互い歳をとりましたとも」
「ダービーの時、どうしようもなく悔しかった。君が一緒に悔しがってくれたから、立ち直れた」
「それはお互い様ですから。私だって独りじゃきっと、あそこにずっとそのままいました」
「そして、菊花賞だ。クラシック三冠の最後、その近くまで君は来ている。それならば、最高の結果を見せてほしい。これまでを踏まえた、最高を」
矢継ぎ早に述べたあと、最後にトレーナーさんは私への願いを告げる。最高、か。つい数時間前に、私も使ったフレーズだ。それをあなたも見ているとしたら、悪い気はしない。最高を目指すことを、私たちの願いにできるのなら。皐月賞より、ダービーより。今までのどんなレースよりも、最高の。私がすべてに勝ちたいと言うのなら、それくらいの目標を立てても構わない。むしろ、上等だ。
それは友達と共に紡ぎあげるもの。それはライバルと共に奪い合うもの。だから、仲間とじゃなきゃありえないもの。
任せてよ、トレーナーさん。
あなたの言う通りの「最高」を、私たちで見せてあげる。
「それはそれは。それにしても、だいぶ赤裸々な話でしたけど」
「これは俺と君との問題だからな。今だけ、言わせてくれ」
なるほど、それなりに筋は通っている。それなら今日くらいは許してやろう。……いつかはもっと、許せるようになれたらな。
「そういえば、トレーナーさん。前の京都大賞典の作戦、ありがとうございました」
「即席だったが、スカイのおかげだ。ばっちりハマった」
「あれは私だけの手柄じゃないですよ。『私たち』の、作戦です」
「……そうだな」
なんだかさっきまでのお喋りを引きずってか、今日のトレーナーさんはずいぶんと素直だ。このままずっとからかっても飽きなさそうだけど、今日はしっかり眠くなってきてしまった。色々なことを考えて、気持ちが昂って。それで眠れなかったのだから電話をかけたということは、眠れるようになったならそこで終わり。ずいぶんと自分勝手だけど、まあそこは甘えてしまった。それにそうやって甘えたから、眠れるようになったのだから。そこはせめて大人しく寝るのが、私なりの誠意の示し方、かな。
「積もる話もありそうですが、ちょっとセイちゃん、眠くなってきましたので。トレーナーさんのおかげですね。ありがとうございます」
「そうか。俺はもう少し、勉強しておく。明日からも頑張るぞ!」
「はーい。では、おやすみなさい、トレーナーさん」
「おやすみ、スカイ」
そうやって、穏やかに通話は途切れて。私はすぐにスマホをベットの隅に放り投げて、自分の身体も布団に飛び込ませる。耳の端から尻尾の先まで柔らかい熱に包まれながら、ゆらりゆらりと夢へ運ばれる。微睡み、思考を空白へ落としていく。何もない、何も考えられない私の脳みその中へ、私の全部を溶かしていく。そうして、夢を見遣るのだ。
夢は変化の結実の一つ。積み重ねを脳が整理する時に発生する、万華鏡のような記憶の濁流。それはあるいは一瞬で、あるいは無限にすら広がる。体感時間を含めたすべてのものがあやふやで、それ故に一度目覚めればほとんどの内容を覚えていない。無茶苦茶で理屈の通らない、考えるだけ無駄とも言えてしまう時間。
だけど、そんな夢だって必要な時間。積み重ねと変化において、一瞬すら無意味な時間はないのだ。なら私ももちろん、それを無駄にはできないのだと。すべてを無駄にしないから、人は積み重ねを続けていける。より高いところへ、見たことのない最高へ行ける。これから先の未来には、また失敗もあるだろう。だけどそのこともすべてを踏まえて進むのが、成長するということなんだ。
だから、光を求めよう。呼吸をして、いのちを育てよう。より深く、より高く。今日までも、今日からも、もっと先も、更に向こうも。果てのない青空のように、世界には未知が待っている。ならば私にできるのは、変化と成長を積み重ねることだけだ。何をしたって結局は、私を作り上げることにしか繋がらないんだから。だから私よ、ただひたすらに駆け抜けろ。
ライバルと友達、仲間と作る最高のために。
そして、いつか大人になるために。
ルビ芸は珍しい