完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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クラシック三冠、完結です 更にギアを上げていく覚え


最高は、一つじゃない

 窓から差し込む柔らかな朝の日差し。それを薄い目蓋で受け止めて、その先の光を感じてゆっくりと目を見開く。もぞりもぞりと布団から少しずつ尻尾と身体を外界へと出して、少し持ち上げた上体を使って窓の外の陽光の方を見てみれば、今日もやっぱり。うん、今日も。これまでの人生で何千と経験した目覚めの刻で、そんな瞬間に目に入るものはいい天気も悪い天気も見慣れているけど、こういうハレの日はやっぱり。

 やっぱり、青空はキレイな方がいい。なんと言っても、最高の一日の始まりなんだから。そう、「最高」だ。心構えの問題に過ぎないとしても、<アルビレオ>の私にはむしろその方が似合っているに違いない。だから、今日はそれを掲げるのだ。

 それに、最高は私一人のためのものじゃない。期待してくれる観客、見守っていてくれるチームのみんな、そして競い合うライバル。みんなの想いが合わさるからこそ、誰も知らない場所へ行ける。まさに驚天動地、最高にびっくりするレースにできる。私だけじゃなくて、私たちみんなだから。だから、全部をひっくり返せる。それこそが私の目指す、「最高」だ。

 ……と、朝から気持ちはバッチリだ。というわけで、またスマホで例のあの人を呼び出し。今日は夜じゃないけど、朝ならちゃんと起きれるのかな、トレーナーさんって。

 いや、それは大丈夫かな。というか大丈夫じゃないと困るな、普通に仕事の一環だろうし。

 まあ、ちゃんと繋がったけど。「通話中」の表示を覚醒したての目で見つめながら、とりあえずは朝の挨拶。できるだけ、いつもの調子で。できるだけ、昂る気持ちは隠して。

 だって私はトリックスター。今日はたっぷり、他人を誑かさなきゃいけないのさ。

 

「おはようございますトレーナーさん、寝坊してないですか?」

「もちろんだ! 先にキングを拾ってから、そっちに行く」

「今日はバチバチにやりあうってのに、仲良く一緒の車に乗るのかあ。私はいいけどキングは怒るかも」

 

 というわけでGⅠたる菊花賞らしく、今日はトレーナーさんが車で送り迎えをしてくれる。あの車にまた乗るのかあ、というのは置いといて、そのこと自体はちゃんとありがたく受け取らせてもらわないとね、たとえ仕事だとしてもさ。

 ここトレセン学園から、今日の舞台京都レース場まではそれなりに遠い。つまり私とキングとそれを送り迎えするトレーナーさんは、それなりに早起きしてそこへ向かう。もちろんメインレースが始まるのは午後なんだけど、それでも今から向かうのだ。諸々の準備があるというのも理由だろうけど、もっと単純な気持ちの問題もある。シンプルに、純粋に、待ち侘びていたその瞬間までをのんびり待っているなんて考えられなかったから。一刻も早く、熱く焼けるような戦場に向き合いたかったから。そしてそれは多分、私たち三人に共通する気持ち。キングも、トレーナーさんも、私も。三人ともきっと、同じものを見ているのだ。クラシック三冠最後のレース、菊花賞の栄冠。そしてそこに描き出すと宣言した、「最高」。私たちは、すべては、そこで一つになる。

 

「菊花賞はもっとも『強い』ウマ娘が勝つと言われている。知ってるな」

「そりゃもちろん。まあどこの記事やテレビ番組を見ても、大体そのフレーズ使ってますからね」

「研究はバッチリというわけだな。期待している」

「はい。じゃ、迎え待ってます」

 

 ぴっ、と。そうして電話越しの短い会話は終わる。最後に一つ、あなたが私に託して。もっとも「強い」、か。もっとも、と言われるとずいぶん御大層な文句だと思うけど、そんなのももう三度目だ。慣れたといえば嘘になるが、初めてだからと二の足を踏んだりもしない。

 もっとも「速い」、もっとも「運のある」、そしてもっとも「強い」。かつての二戦、皐月賞と日本ダービー。今日の菊花賞と同じような重みがあるレースで、既に勝利も敗北も経験している。そこに謳われる言葉に一分たりとも誇張がないと、既に私は知っている。

 

 

 

 

 皐月賞では、勝負の前に色々なことで悩んだ。勝利のために必要なものを探し、それでも子供だった自分を実感した。そうして一度は他者を頼り、そうしてしまった自分にも悩んだ。だけど、最後に大事なものを見つけられた。悩んだものが無駄じゃなかったと、ちゃんと知ることができた。一つ、大人になった。それが私にとっての、もっとも「速い」ウマ娘を決めるレースだった。

 ダービーは、きっと一生忘れられない。楽しいことばかりじゃなくて、苦い思い出だって忘れられない。そのことにはっきり気づいたタイミングだった。泥の味がする決着だった。誰かの気持ちを損ねてしまう愚かな子供がいた。そして苦悩と痛みの中で、訣別という選択をした。ここで区切りをつけることも、変化なのだと思っていた。だけど、つながりはその程度のことでは途切れなくて。それほどまでのことでも、途切れなくて。むしろそこにあった出来事さえ、私たちは強さに変えられるのだと学んだ。勝負のあとにも強くなれる、そんな事実を新しく知った。ここでもまた一つ、大人になれた。それが私にとっての、もっとも「運のある」ウマ娘を決めるレースだった。

 そして、その上で、だった。それらを踏まえた上で、今の私は怖気づいていない。踏まえたからこそ、最後の一つに向き合えている。いつも通り曖昧な態度ではあるけれど、きっとそれも正解だ。今までを踏まえた、新しい私だ。もう一つ大人になった私は、もっとも「強い」ウマ娘に相応しい。そう、ありたい。そう思わなきゃ、勝てるわけがない。だから私の気持ちは、軸にあるものはたった一つだけだ。期待も不安もひっくり返すトリックスターは、強さも弱さも見せるわけにはいかない。あらゆる感情をごちゃ混ぜにして、曖昧な一個にまとめてしまおう。そう願い、信じるだけ。「もっとも」を掲げるレースの締めくくりにぴったりな、今の気持ちは、そう。

 最高が、楽しみだ。

 それでいい。それがいい。

 

 

 

 

 

 

「おはようキング。隣、座ってもいいかな」

「ええ、それくらいはね。ちなみに、ダメと言ったらどうするつもりなのかしら」

「キングを車から引き摺り下ろすのはかわいそうだから、その膝の上に座るしかないですね」

「……丁重にお断りさせていただくわ」

 

 しばらくして、寮を出た。秋の風を受けて、爽やかな気持ちが指の隙間にまで沁み渡る感覚がある。無論ちゃんと、トレーナーさんは迎えに来てくれていた。ダービーの時と同じ車だけど、今度は同じ結果にはしないつもり。まあ、そうでなくっちゃ始まらない。最高を目指すのなら、前の再現なんて低すぎる目標を狙うわけにはいかないから。

 トレーナーさんが出してくれた迎えの車の後部座席には、既にもう一人の菊花賞出走者が待機していた。毛先に緩い癖のついた髪の毛だって寝癖はちゃんと見えないように整えられていて、本人の身体も姿勢良く座ってぴったり動かず、一見何事にも動じない、みたいな雰囲気を醸し出しているお嬢様。だけど忙しなく右往左往する両の耳が、隠せない緊張を表してしまっている。どこでもないところをじっと見つめている紅色の瞳も、緊張の表れにしか見えないね。

 やれやれ、このままの彼女と京都まで仲良く並んで座っていたら、こちらまであたふたしてしまいそうだ。だからこれから彼女に伝えるのは、あくまで自分を守るため。こちらまであたふたしない、そのため。……あと、それだけってわけでも、ない。

 

「ねえ、キング」

 

 決してかつてのように、ただ友達として心配するだけではなく。

 

「なにかしら」

 

 あるいはまたかつての誰かのように、見据えたいライバルを恐れることもなく。

 

「今日の菊花賞は、最高のものにしよう」

 

 ライバルで、友達だから。私たちは対等な、仲間だから。互いに最高を追い求め、その上で君に勝ちたい。そう言えるのが私の結論。私から君への、ここまでの想いを一つにしたもの。

 それが、最高を目指すということだ。

 

「……ええ、そうね」

 

 そして、君もそうであったなら。願わくば、皆がそうであったなら。誰もかれもが最高を求め、すべての人でそんな一つのものを作り上げられるのなら。案外お人好しで、存外負けず嫌いな私は、きっと、そうなることを求めている。強く、求めている。

 独りじゃない。この気持ちがそういったものであってほしいと、心の底から欲するのだ。

 

「よーし、乗ったかスカイ」

「おっとすみません、ドアまで開けたところでキングと話し込んでいました」

 

 ……そして、トレーナーさん。もちろん、あなたにも。私があなたに求めることは、結構たくさんある。たとえばもうちょっとだけ暑苦しいのを抑えてほしいとか、もっとセイちゃんに負けないくらい釣りが上手くなってほしいとか。あるいはたまの本音をまた見せてほしいとか、もっとたまにでいいから褒められたいとか。色々、色々ある。いつもじゃないけど、時たまわがままが湧いてくるばかり。やっぱり私はそこは子供。

 だけど、まあ。でも、今は。とりあえず、今日は。

 見ててよね。

 たった一つに全部を懸ける、私のことを。

 また少し大人に近づいた、私のことを。

 晴れ舞台で舞う私の姿に、あなたの持つ憧れを重ねて。

 見ていて、ほしい。

 

「セイちゃん無事乗りました〜、安全運転で出してくださーい」

「トレーナー、やるからには一流のドライビングを期待しているわよ」

「よし、任せろ! 最近は運転も練習しているからな!」

 

 トレーナーさんがそう言ってエンジンをかけると、閉じた空間が駆動音と共に揺れ出す。エンジン音がぶるるとなって、拍動にも似た車体の揺れと合わせてまるで生き物のよう。熱を持ち動き出すそれに対して、この車も走るのは私たちと同じか、なんてことを思う。無機物たる鉄の塊に、取るに足りない想いを少し馳せる。

 速く走るという行為に理由があるとしたら、本来は何かを届けたり運んだりするためだ。たとえばこの車は、私たちを京都まで送り届けるために今走り出した。その点我々ウマ娘を見てみれば、何も持たず運ばずぐるぐるコースを回っている。レースに興味がない人からすれば、果たしてなぜこやつらは走ってるのだろう、なんて思うのかもしれない。ひょっとしたら私だって、そう思う側についていたっておかしくない。何かを諦めたあの日、その先のすべてを諦めていたら、きっと。

 だけど私がそうならなかったのは、じいちゃんが後押ししてくれたから。そしてトレセン学園に入って、トレーナーさんに出会ったから。さらにそれだけでもなくて、高めあう存在と巡り逢えたから。そのすべてが、私の走る理由だから。

 仲間がいるから。あなたがいるから。だから終わらない。終われない。変化はどこまでも果てしないんだって、今日もそれを示してやろう。

 今日掲げる、最高の二文字。それはきっと、過去のすべてを超えるため。あのダービーで遠くに見た、「最高の決着」。そんな遥か高くの天頂すらも今度は置き去りにして、雲の上から観客全員の記憶を塗り替えてみせよう。私が仕掛ける大謀は、それくらいの大望なのだ。

 

「それにしても、人気投票の結果……。こうなるのは当然、ではあるのでしょうけど」

「スペちゃん、私、キングで三番人気まで独占だね。いつかの皐月賞を思い出しますなあ」

「そう言えば聞こえはいいけど、実際にはスペシャルウィークさんが断然一番人気よ」

 

 相変わらずおっかなびっくり運転するトレーナーさんの後頭部を見ながら車に揺られていると、キングがまた話しかけてきた。人気、か。キングの言わんとすることはわかる。ダービーでスペちゃんと同着のエルは今回不在。そうなれば夏を超えて抜きん出た実力を持っているのは、当然スペシャルウィークである。それが世間一般の評価、というやつだ。

 

 

 何よりキングは既にスペちゃんと一回走っていて、よりそこにある焦りは強いはず。もう勝てないんじゃないか、そんな焦りを持っていて当たり前。実力の差がついていて、格付けはもう済んでしまったのじゃないか、そういう恐れ。そんな感情は、きっと持っている。

 でも。

 

「でも、負けるつもりはないんだよね」

「当然ね。最高を目指すというのなら、負けるつもりで走るわけにはいかない」

 

 でも、そういうことだ。既に緊張が解れていることは、キングの耳を見ればわかる。ううん、もう見なくてもわかる。キングは、もう何も怖がっていない。もうなにも、躊躇ったりしない。ライバルと友達という重なる関係に、痛みを覚えることもない。彼女も私と一緒。走る上での答えを見つけた。色々心配はしたけれど、きっともう大丈夫。彼女らしさ、それがちゃんと彼女の中にあるのだ。

 

「そうだね。まあ私もせいぜい頑張るとしますか」

「相変わらず、やる気のない『フリ』は得意ね」

「そりゃ曰く、私はトリックスターですから。やる気がなくてもうっかり勝っちゃうんだよね」

「……本気で言ってるのかしら」

「確かめる方法は一つだよ」

「上等ね」

 

 こつん。いつかの再現の如く、拳を突き合わせる。ライバル相手に対抗心を燃やし、友達と言葉や心を交わす。それが私たち。私たちはどこまでも、誰かに寄り添い誰かとぶつかり合う。柔らかく、荒々しく。けれど、常に仲間と共にいる。だから、やっぱり。

 私たちは、独りじゃない。

 

 

 

 

 

 

 そのまま数時間車に揺られて、たどり着きまするは京都レース場。少し冷たいけど優しい秋風と、それによって彩られる旧き都の艶やかさ。いやあ、この季節の京都っていいところですねえ。なんて、そんな旅情を楽しむ感じの日ではないんだけど。休みの日にわざわざ出向くかというと、面倒くさがりの私には悩ましい距離だ。

 トレーナーさんの運転は結構丁寧になっていて、それなりに快適だった、ということにしておこう。つまり窓を開けてなきゃ若干狭くてイヤだった、という事実は秘密にしておくという意味である。そもそもそれはあんまりトレーナーさんのドライビングテクニックに関係ないし。

 とはいえキングと同じレースに出るたび後部座席を独り占めできなくなるとしたら、そのことも結構辛い現実だ。……なんちゃって。また一緒のレースに出れるなら、それはちゃんと楽しみだとも。

 まあ、今は今のことを考えよう。たとえばとりあえずここまで運転してくれたぶん、トレーナーさんを労うとかね。

 

「運転ご苦労様でした、トレーナーさん」

「これくらいどうということはない! 今日の主役は君達だからな」

「ええ、もちろん。トレーナーには、私の一着を特等席で見届ける権利をあげる」

「それは楽しみだ! もちろん、キングには期待している」

「……そう! 期待してもらわなきゃ困るわ! なんてったってこの私は、キングヘイローなんだから!」

 

 そのままいつもの高笑いをするキング。それをいつもの真っ白い歯を見せながらニコニコして上機嫌のトレーナーさん。とんとん拍子でテンションを高め合うこの二人、結構波長が合うのかも? 空元気と大仰なセリフを振り回しがちなところは、確かに似ているといえば似ているか。

 いやそれはともかく、勝つのはキングじゃなくて私なんだから。密かにそんなことを考えていたら、藪から棒にトレーナーさんがぐるりとこちらを向いて。いつも通りの大きめの声で、真っ直ぐ私に言葉を投げかける。

 

「……もちろん、スカイにも期待しているぞ」

「なんですか、急にこっち向いて」

「言っておくべきだと思ったからだ。そうでないと不公平だからな」

 

 不公平、ねえ。またまた正論か、とは思ったけど、これはそうじゃなくて多分本心。だってだいぶん、わがままだし。

 私とキングのどちらも応援したいけど、勝てるとしたら一人だけ。もしかしたら、二人とも勝てない。その板挟みと不安を抱えながら、トレーナーさんは私たちにエールを送らなければならない。いつかあなたと二人で話した、難儀な大人の悩みごとだ。そしてそれに対して、子供の私ができることは残念ながら少ないのだ。たとえばせいぜいその話を聞いてあげることか、それ以外は。

 

「でも、うん。ありがとうございます。なら私も、期待に応えたいところですね」

 

 そうでなければ、これしかない。あなたの期待に、応えること。当たり前のようで、私には結構難しいこと。期待されるのにはいつまでも慣れないし、諦めてしまう方が楽に思える。それはやっぱり、今もそこまで変わらない。

 だけど、少しは変わっている。これまでのそれなりの付き合いもあって、少しずつ、少しずつ。それは、期待を嬉しいと思えているから。期待に応えたいと、その願いを持てているから。そして何より期待をひっくり返したいと、その先さえ見据えているから。だからきっと、私は今ここにいる。私は、この瞬間に生きている。

 

「二人とも、頑張ってこい!」

「はい」

「ええ」

 

 そうして、送り出される。いつもの大声、いつもの青空。そんないつも通りのものに送り出されるのなら、今日はいつものようにやろう。いつもの私で、勝ってみせよう。もっとも私らしくすることが、最高への近道だから。

 決着の時は近い。最後の一瞬まで、できる限りをやりつづけよう。

 最後の一瞬は、最高の一瞬なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 そうしてしばらく、だいぶしばらく時間が経った。車の中で凝り固まった身体をほぐして、控室でうとうとして。また時間が経てばやがて、勝負服に袖を通す。それくらい、結構な時間が経った。他にもチームメイトが部屋に来て、トップロードさんが京都みやげの差し入れをくれたりして……いやいや、今からは食べませんよ、流石に。まあでも多分キングもスペちゃんも、そうしていたことだろう。同じようにこのレース前の時間で、心の整理をつけていたことだろう。まあ、私みたいにうとうとはしてないかもしれないけど。でも、同じ。きっと、私たちは同じ時間を過ごしている。一人の時間、一人の空間、誰にも邪魔されたくないそんな時だって。やっぱり、誰かと共にいる。だってレースは、独りじゃ成り立たないんだから。

 さあ、時間だ。共に行こう、共に目指そう。最高を作る、菊花賞の舞台へ。

 だけど勝者は、ただ一人。全員が目指して、けれど一人だけ。だけど全員が目指すからこそ、勝利には栄光が重ねられる。

 だからこそ、すべてのウマ娘が。

 私にとっての、ライバルだ。

 

 

 

「さあ京都レース場、本日のメインレース! 今年のクラシック戦線のフィナーレ、菊花賞です!」

 

 いつまでも見ていられそうなキレイな青空の下、すべての出走者が芝の上に勢揃いしていた。うん、もれなく私もその中にいる。心臓の中で煌々と、消えないように燃え盛る光炎。足元から頭のてっぺんまで、ぎゅるぎゅると血のめぐる音がする。身体の全部が、騒ぎ出す。平静でいるはずの私が、徐々に興奮を抑えきれなくなってくる。そうなれば、私にできることは限られてくる。ここまである種追い詰められて、考えられることはもう少ない。

 走ること、勝つこと。そして、最高のレースにすること。今までのすべてを、今日この時に込めるんだ。

 研ぎ澄ませ。脚も思考も、これからのたった数分のために。

 

「いよいよね、スカイさん」

「朝ぶりだね、キング。私としては、今更キングと話すこともあんまりない気がするけど」

「あら、スペシャルウィークさんと話したかったかしら? 私はさっき話してきたけど」

「ああ、そうなんだ。どうだった?」

「頑張ろうね、ですって。いつもみたいに」

「そっか。それなら今日のスペちゃんも手強そうだね」

 

 いつも通り、か。それはつまり、スペちゃんにとって調子はいいって意味。緊張も気負いもしていないいつものスペちゃんが、一番手強い。そしていつも通りなら、スペちゃんが勝つ。私たちのパワーバランスはそんな感じだと、下バ評は告げている。それなら私の仕事は、それをひっくり返すこと。これもいつも通り。だって私は、いつだってそうやって勝ってきたんだから。そんな「いつも通り」こそ、もっとも「強い」ウマ娘を決めるレースには相応しい。

 私も、君も。自分らしさをありのまま、それこそが私たちにとっての「最高」だ。

 

「じゃ、一言言ってこようかな。一番人気へ二番人気から、愛を込めて」

「それなら先に、三番人気から二番人気へ、一つ伝えておくわ」

「なんでしょうか、お嬢様」

「『周り』を見ない。今ならちゃんと、意味がわかるわ」

「……そっか」

 

 なら、よかった。うん、それだけでいい。これ以上は、私と君で言葉を交わす必要はない。またあとで。走り切った、すべてが満ちたその向こうで。誰が勝つとしても、私たちはその先に変化を見るのだから。未来はきっといつだって、世界の見え方を変えてくれる。次話すのは、決着を噛み締めながらにしようじゃないか。

 そして、だった。ざりざりと、ざくざくと、私は別の方角へ歩を進める。綺麗に広がる芝の上に跡を付け、闘いの前にあるプロローグを結ぶため。今にも弾け飛びそうなこの戦場に確かに在る、微かで僅かな、星の粒のように小さく光る束の間の時間。

 その最後を締め括るなら、やはり君とがいい。このクラシック三冠の最後、最高の瞬間の直前を過ごすなら、君じゃなきゃ。何度も競い合ってきたその姿に、時には競り勝ち時には追い抜かれたその勝負服に、私はにこやかに話しかける。やっぱり、私らしい軽い感じで。けれどもちろんその中に、蒼く揺らめく闘志を宿して。

 

「やっほー、スペちゃん」

 

 ごきげんよう、私のライバル。

 君が、今日一番の標的だ。

 

「あっ、セイちゃん! 今日は頑張ろうね!」

「えー、どうかなあ。3,000mって長すぎるし、逃げウマの私にはそもそも不利なんだよね」

 

 そう、それは事実。常に先頭を進む速度を維持するためのスタミナと、その中で全体を把握しペースメイクをするための思考回路。その二つの要素が逃げには必要であり、そしてそれを走りながら保つための難易度は距離に比例して増していく。極論スパートまでは出方を伺いながら控えることもありえる他の脚質と比べて、最初から最後までそれなり以上に走らなければならないからだ。

 だからなんでも菊花賞の逃げ切り勝ちは、長らく出ていないらしい。無理もない話だ。先に述べた通りただでさえ困難な長距離での逃げを、3,000mを初めて走るクラシック級のウマ娘が試みるのは作戦段階から間違っていると言われたって無理はない。だけどその上で私は逃げを選ぶのだから、まさに無謀。いくら策謀があると言い張っても、だ。

 ……まあ、でも。

 

「……それでも、セイちゃんは諦めてない」

「流石スペちゃん。鋭いね」

 

 諦めてない。私は、勝利を諦めていない。今までも何度も諦めたふりをして、どこかで譲れないものを抱き締めつづけてきた。……それは私自身すらなかなか認められなかった、結構複雑な心境だったんだけど。けれど君は真っ直ぐに、射抜くように私の芯を見抜いてしまう。私はなかなか諦めの悪い性分だって、隠れているはずのそれを自然に見つけてしまう。磨き抜かれた水晶のような、透明な煌めきで満たされた澄んだ瞳と、小さくて眩い星のような、鮮やかな光を放つその心が、君がそうあることを成し得させている。そしてそれは、君の強さの秘訣でもある。だから、私にはないもの。だから、他の誰にもないもの。紛れもない、一番の一つ。だから、君は最高だ。今日の一番人気を得るには、文句なしに決まっている。

 だけど。だけど、それだけじゃないんだ。私は、もう。あるいは、ようやく。どちらにせよ、私はそのことを知っている。君だけが強いんじゃ、ないってことを。

 

「うん。セイちゃんは強いから。諦めてないから。なら私も、負けるわけにはいかないよ」

 

 そう、君が言う通り。私にも、私の強さがあるのだろう。それは自分では認識しきれなくても、誰かが代わりに見つけてくれる。

 独りでは走れないとしても、独りじゃないから私だって強いんだ。だから皆が期待している。だから皆が私と走りたいと言ってくれる。だから、だから。だから私は、今。

 ──今、勝利を狙う一人になれる。

 

「ありがと。なら、最高のレースにしようか」

 

 私と君と、全員で。最高の決着を、作り上げようか。そう告げたのが最後通牒。幕が上がるまで、もうまもなく。

 

「もちろん!」

 

 ぱん。互いの手を軽く深く重ねて。

 ざり。硬く重い蹄鉄を切り返して。

 どくん。それを区切りに、ゲートへ向かって。

 ぱぁん。やがて、華々しいファンファーレが鳴り響いて。

 かちり。僅かに残った出走前のタイミング、その合間に少しずつある瞬間瞬間で、一つずつ心のスイッチを切り替えて。

 しん。けれどその時間の最後には、ここにいる全員が、足並みを揃えて。

 がこん。そうして今日も、踏み出した。

 だん。ここからの最初の、はじまりの一歩だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──疾く、疾く駆けよ。芝を踏み、土を蹴って。颯の如く、駆け抜けよ。誰にも、一度も、追いつかせないように。

 今日は影すら、踏ませない。誰にも、すべてのライバルにも。

 

「さあまずはセイウンスカイ! セイウンスカイが行った!」

 

 どかどかと後ろで何重にも鳴る蹄鉄すべてを置き去りにして、私は思いっきり、一人だけのマイペースで力強く踏み込む。誰も着いてくることはなく、早くも先頭、というやつだ。もちろん先頭になるのはゴールラインを走り切る時だけでいいので、このタイミングでハナを切る理由なんて大体誰でもわかっている。

 つまりこの時点で、私の作戦はバレバレ。いつもの逃げを打ち、レース全体を支配する。そのペースメイクで、他の全員を迎え撃つ。盤上を掌握する、私がトリックスターと呼ばれる所以の闘い方。もちろん、それは長距離になるほど難易度の高い戦法。

 レースを引っ張るスタミナと、レースを把握する脳みその維持。どちらかが欠ければその時点でおじゃんの無謀な作戦なことまで含めて、他の子どころか観客にまでバレバレだ。だから誰もが思う、「こいつのペースに惑わされるな」。誰もが考える、「どうせ逃げ切るなんてできない」。なら私にできるのは、その先入観を利用してやること。

 ひっくり返してみせようじゃないか。「菊花賞での逃げなんて現実的じゃない」その先入観こそ、私にしか持てない武器だ。

 

「さあ第四コーナー一周目、セイウンスカイが先頭に立った! ここまでは大方の予想通り!」

 

 実況さんにまでそう言われたけど、予想通り、そんなの上等だ。たとえすべてを予想されたって、私はそれを裏切ってやるんだから。それなら大いに予想して、大いに驚いてくれたらいい。とはいえ私がやるのは結局、ただただ懸命に走るだけ。マイペースに、私らしく、そうやって走るだけ。だけどそうすることこそ、気持ちのいい「裏切り」に繋がるんだ。無理に気にしなくて構わない。自然と注目と期待は変わる。風向きってものを良くするには、私の気分が上向くのが一番だからさ!

 ぐんぐんと風を切って、目の前には青空以外何もなくて。先頭を走る私だけの、最高に贅沢な景色と感覚で。今この瞬間にあるのは由緒正しいクラシック三冠最後の一つ、もっとも過酷な条件で限界を競う菊花賞、なんだけど。

 ああ、楽しいなあ! 

 

「ようやく落ち着いてきたスペシャルウィーク、中団の少し後ろに位置しています。セイウンスカイは逃げる逃げる! 京都大賞典の再現なるか!」

 

 おっと、やっぱり実況さんにもバレちゃってるか、さっきも予想通りって言ってたしね。そしてスペちゃんもそこに居るってことは、やっぱり私にはそんなに釣られてくれてない。キングも……スペちゃんよりはちょっと前かな? とりあえずそうやって、走りながら常に全体を把握する。それが逃げウマ、それが私のやり方。

 そしてそれでも隊列は縦長で、私が抜きん出る形になる。まあ、わかっているならこそ私に付き合う必要はないからね。最初っからハイペースを作って、追手を誘う作戦。きっとそのあとマイペースを混ぜ込んで釣り上げて、ってところまで、私の手の内はバレている。京都大賞典で見せた、私とトレーナーさんの作戦。今日私がやろうとしているのはそれだと、既にみんながわかっている。タネも仕掛けもバレた手品は、なんの価値も持たない。つまり今の私は、皆の目を引くだけの愚かなピエロに過ぎない。……一見、そう見えるよね。

 ピエロと呼ぶなら大歓迎、だって私はトリックスター。皆を湧かせて、最後には驚かせる。おどけたメイクに釣られて嘲笑っているうちに、誰にも読めない策士がすべてを奪い去る。  

 愚策や知略なんてのは互いに簡単に入れ替えられる言い換えで、いつものコインの裏表。それは私がどう見せるかによって変わるもの。みんなからの世界の見え方は、今この瞬間私の気まぐれによって調律されている。最後にどうなるかなんて、本当に全部を見なきゃわからない。

 最後まで決められないからこその、最高だから。

 そう、そんな事例は他にもたくさんある。今までだってあったように、この瞬間にもいくらかある。常に変化と積み重ねがあり、ただの一度だって過去と同じにはなりえないことはいくらでもある。たとえば一見タネも仕掛けもバレきった、使い古しの手品(マジック)だって。

 本当に、捉え切れるかな? さあ、魔法(マジック)をかけてあげよう。

 

「京都レース場の第二コーナー、ここで各ウマ娘一息つきたいところです!」

 

 うん、ここまで来れば、だね! がくん、私は一気にペースを落とす。踏み締める足を柔らかく落ち着けた瞬間、身体の下からてっぺんまでに、びりびりと疾り抜ける大地の感覚の変化が伝わる。そして逆に頭から感じて全身をすうっと癒してくれる、秋風の気配もこのマイペースなら感じ取れる。最初のハイペース、誰だって私がこのまま行かないことはわかっていた。だから離されすぎないようにしつつ、各々が自分のペースを守っていた。そしてここで私がペースを落としても、そのあとのラストスパートで足並みが回復し切るわけがない。京都大賞典の時と同じ走りをするには、菊花賞の方が600mも距離が長い。だから私の見切られている作戦には、必ずどこかで綻びが出る。そこに付け入るのが、皆の勝機だ。

 ……でも、それは先入観。付け入るのは、私の方だよ。

 

「セイウンスカイはマイペースに走っている! ここまで理想的な展開です!」

 

 わかる。観客席が、テレビ画面の先の誰かたちが、すべての私を見る人が、徐々にどよめき出すのが、わかる。逃げウマには厳しい距離で、既に明かした奇抜な作戦で。それで勝てるわけなんて、そう思っていた人たちがいて。わかる。そんな人たちの持っていた不安が、徐々に期待に反転するのが、わかる。少しずつ、ざわめきが起きるのが、わかる。

 付け入る隙なんてあるのだろうか。このまま本当に、最後まで行ってしまうんじゃないか。菊花賞での逃げ切り勝ち、そんな歴史的瞬間を目撃できるんじゃないか、と。そこに恐れすら交えた期待を私に向けているのが、わかる。

 うん、私自身も半信半疑だ。私が自分について半信まで持っていけるなんて、結構すごいことなんだけど。期待されてここまで来て、仲間と競い合ってもなお、私はなかなかわたしを信じきれない。だけど、なんとなく予感めいたものはある。これは感覚的なものだから、他の誰かにわかるものじゃない。だけど、私にはわかるものがある。そんな手品を魔法に変えたギミックがあるとすれば、たった一つの気持ちの問題。

 今日の私は、最高だ。負ける気が、しない。

 

(ふーっ……)

 

 息を吸って吐いて、若干の荒くなっていた呼吸を十分に整えて。そしてまだ先に広がる芝から視線を外して、少しだけ、少しだけ上を見て。そこにはとってもキレイな青空が、私を待っていて。今日の青空は、一段とキレイな最高の景色で。だん、と、そんな蒼穹の果てへ向かって、私はまた駆けてゆく。

 スタンド前が近い第三コーナーの下り、そろそろ後ろから追いかけてくる子の足音も、前から聞こえる観客席からの歓声も、大きくなってくるはずなんだけど。なのに、不思議とだった。理屈は通らない。感覚はそれしか認識しない。でも確かに私の中まで届くのは、三つの音だけ。私を動かす、どくんどくんと躍る心臓の音。私が踏み締める、だだんだだんと跳ねる蹄鉄の音。私が生きているって思える、すうはあと歌う呼吸の音。

 この青い世界にいるのは、私だけだ。誰にだって、追い付かせやしない。私にあった五つの感覚。そのすべてが、ほどけるように溶けてゆく。これも誰にだって、わかりやしない。

 私だけ。私だけが到達した、一人の領域だ。

 ほら、「最高」に手が届く。

 

「セイウンスカイ逃げ切りなるのか!? セイウンスカイ先頭だ! セイウンスカイ、逃げた逃げた逃げた!」

 

 疾れ、疾れ、もっと、先まで! 長距離を逃げ続けたあとのロングスパートは全身を痛めつけるし、これでも最高速ではキングにもスペちゃんにも敵わない。私には、君たちと同じ走りはできない。……でも。

 

「外を通ってスペシャルウィーク! キングヘイローも内から上がってきました! しかしセイウンスカイ、逃げ切りか!」

 

 君たちにも、私と同じ走りはできない。影さえ踏ませない、私の「最高」。だから私たちは競い合える。私たちは、独りじゃない。だけどかけがえのない、一人だ。一人一人が、誰にも代えられないものを持っている。

 だから、だからこそ、だった。自分もあなたも、みんなが一人の存在だ。みんなが、「最高」なんだ。それが、私の見つけた答え。私たちの、存在証明。

 ……皐月賞は、我ながら最高のレースだったね。私が初めて勝った重賞。スペちゃんへのリベンジ戦。キングと私とスペちゃんで、仲良く三着までを分けあった。トレーナーさんの泣きそうな顔も褒め言葉も、やっぱり忘れられないや。あそこから、すべてが始まった。最高の、はじまりだった。

 ……ダービーは、紛れもなく最高の決着だった。スペちゃんとエルの同着。二人だけの世界が、あの時そこに存在した。歴史的なことだと思うし、それを成し遂げたレースが最高じゃないはずない。あのあとキングと二人でだいぶ引きずって、くよくよなよなよしたけれど。ようやく乗り越えたあとなら言えるのは、あの時があるから今があるってこと。心の底から悔しいって、今なら言えるよ。はじまりからの初めての挫折、だけどその先にまた未来があった。最高に、思い出深いレースだ。

 ……でも、でもね。最高って、今まで何度も言ってきたけどさ。もっとも高いと書いて最高だから、普通は一つだけしかないものだとは思うんだけどさ。それに比べると非論理的で感情的で、「正論」とは程遠いかも知れないんだけどさ。

 それでも、それでもさ……っと、今できる考えごとは、ここら辺までかな。

 うん、とりあえず。色々あったなあとか、月並みによかったなあとか、ちゃんと噛み締めなきゃなあとか、現実に戻ったあとにたくさんのものが待っているだろうけど。それでも、この瞬間は待ち望んでいたものなのだから。キレイな青空、寸前のゴール、そしてその前には、誰一人──。

 

(……うん。しんどかったけど、大変だったけど。でも、でもさ!)

 

 ──だから、まあ。とりあえず、今はとりあえず。

 

「逃げ切った逃げ切ったセイウンスカイ! 菊花賞で長らく出ていなかった逃げ切り勝ち! セイウンスカイ、まさに今日の京都レース場の上空とおんなじ青空!」

 

 とりあえず言えるのは、今日は最高だってこと!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 スタンドからの割れんばかりの大歓声。私の枠番を一番上に光らせる電光掲示板。そして見上げれば目一杯に入ってくる、とってもキレイな青空。どれもが私に、「最高」を告げていた。うん、本当に最高だったなあ!

 想像してみなかったわけじゃない。勝利も敗北も、どちらも念頭にあったに決まっている。実感だってするだろうって、ぼんやりはわかっていた。勝っても負けても、心に残るのはわかっていた。でも、それでも、さ。

 ……本当に、気持ちがいい。ゴールの瞬間、「やったー!」って手を広げて叫んじゃった気もするし。柄にもなく、取り繕うこともなく、とっても嬉しく思っちゃう。そうか、菊花賞は私が勝ったんだって。それが、若干のタイムラグのあとに私の心に沁み入っている気がした。立ち尽くす感じなのも、無理はない。

 そんなふうに勝利に浸る私のもとに、スペちゃんが話しかけてくる。ちゃんと現実に戻ってきなよ、そう言われている気もした。

 

「おめでとう、セイちゃん」

「ありがと、スペちゃん。今日は勝たせてもらっちゃったね」

「……うん、すっごく悔しい」

 

 悔しい、か。それをあけすけに言えるのは、やっぱりスペちゃんって感じ。きっと本当に悔しくて、それでもそれを隠さない。

 きっとこれが、スペちゃんなりのライバルへの礼儀というもの。勝負の結果を讃える、悔しさを滲ませる。そうすることで、ライバルの強さを認めている。

 そしてそれは、あるいは友達への信頼かもしれない。自分の弱さを、この人になら吐き出してもいい。自分の気持ちは、この人にはしっかり伝えたい。絶対に、無駄にならないから。絶対に、その先へ進む糧にできるから。

 まあ、それもやっぱりコインの裏表。どちらにせよはっきりしているのは、君が私を大切にしてくれてるってこと。それが一つの、本質だ。

 なら私の方からも、ちゃんとそれなりの気持ちを伝えようか。

 

「……まあ、今日の私は最高だったからね。今日は、負ける気がしなかった」

「最高、か。そういえばセイちゃんってちょっと前からそれを言ってたけど、結局どういう意味だったの?」

「えー、それ聞いちゃう? 無粋な気がするんだけどな」

「ごめん、私にはわからなくて……」

 

 本当はもしかしたら私よりもってくらい、わかってると思うけどな。スペちゃんは謙遜しがちだけど、私たちの中で一番そういう感性は敏感だと思うし。とはいえそれを言語化できないのなら、私なりに手助けしてやるのが友達というものだろう。そもそも、私が提起した問題だしね。

 少し思考を並べ立て、整理してから。君と私自身のために、言葉を開く。私の考え。今までを通してずっと考えて、そしてこのレースの一瞬で更に変わった、私なりの私らしい言葉、だ。

 

「最高ってさ、一番ってことだよね。だから私はこの菊花賞を、一番いいものにしたかったんだ。他のどのレースよりも」

「それは……すごい走りをするってこと?」

「それもあるかも。とにかく、どのレースよりもすごいものにしたい。……でもさ、さっき気づいたんだけど」

「ひょっとして、他のレースもすごい気がしてきた、とか。最高はこれって、言い切れない」

「あー、やっぱりわかってるじゃん。そう、決められないんだよね、最高。どれもいい気がしてきて、ここまで気持ちよく勝っても他のがダメって思えない」

 

 私の結論は、そういうことだった。散々最高は一つだと言ってきたけど、最高ほど一つに絞れないものはない。一つ一つのレースに、優劣なんてつけられない。今日見つけたもう一つの、コインの裏表。やっぱり曖昧なのも含めて、私らしさたっぷりの結論。そこまで言ってみせると、スペちゃんは少し顔を持ち上げて考えてみせて。そのあとにゆっくりと、口を開く。このコインの本質、正解に、たどりつく。

「なら、最高は一つじゃない。全部最高……なんてのは、欲張りすぎかな……」

 

「あははっ、流石スペちゃん」

「あー、食い意地張ってるってことー!?」

「そうじゃないそうじゃない、そうやって核心を言い当てられるのが、流石なんだよ」

 

 最高は、一つじゃない。非論理的に見えるのに、当たり前の結論。あの皐月賞も、あのダービーも、今日の菊花賞も。他を超えなきゃ最高になれないと思ってたけど、そんな選択肢は選ばなければいいのだ。他も最高、これも最高。素晴らしいものが多いことについて、誰も文句を言ったりしない。すべてに全力を尽くしたのだから、当然全部が最高だ。

 それこそ「最高」の結論、なんてね。……まあ、こんなところかな。

 

「セイちゃん」

 

 そして、会話の終わり際。不意に、汗ばんだ手が差し伸べられる。少し丸っこくて、でもところどころ皮が剥けていて、今日のために努力を重ねてきた手。悔しさを込めた、それでも確かに伸ばされる手。

 

「今度は、負けないよ」

 

 そして、私はそれを掴む。私の手も、汗だらけ。今日走ったぶんだけで、手のひらには爪の食い込んだ痕ができていた。私のもの勝者の手のひらかもしれないけれど、そこに努力と勝利への欲求があったことは変わらない。だから、私たちは手を繋げる。またいつか、闘うために。

 

「もちろん」

 

 そしてこれからも、最高を増やすために。私たちはライバルで友達、最高の仲間だ。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、スカイさん!」

 

 地下バ場に戻ってさあライブの準備をしよう、というところだった。後ろから聞き覚えのある声にばちりと呼び止められる。そういえば、忘れていたかも。いやごめんね、キング。ちゃんとキングとも話したいとは思っていたから、そこは信じて許してよ、なんて。

 

「おつかれキング、今日は『周り』を気にせず走れた?」

「……ああ、そのことね。気にせずに走れたわよ、"お母さま"のことは」

 

 うん、まず一つ。ちゃんと、わかってくれたみたいだね。キングがキングらしさを持つために確かにお母さんのことは大事だけれど、それに縛られていては意味がない。彼女らしさ、はお母さんの中にはない。だから、走る時は自分のことだけを考えなければいけない。そのことに、彼女は気づけたのだろう。

 もちろん私だって、自分でちゃんと他人に言えるような走り方ができているかはわからないけれど。でも、やっぱり友達だから。そしてライバルだから、全力を出して走ってほしいのだ。

 

「そっか。それならよかった」

「それでこの結果だから、世話はないのだけど」

 

 まあ、それはその通り。少なくとも、彼女のような自分に厳しい人間にとっては。確かに今日のキングは五着で、彼女としては悔いの残る結果だったのだろう。いや、私だってそりゃ悔しいだろうな、負けたら。今日は勝ったからいいけれど、負けたらどうしようもなく悔しいもの。それでも走らなきゃ満足できないんだから、私たちウマ娘というのは本当に難儀で……というか、ふとそういう目で、悔しいんだろうなって目で彼女の顔を見ると、だった。

 

「あれ、キングもしかして泣きそう?」

「……うるさいわね。走ってる間は忘れられても、走り終わったら後悔する。やっぱり私はそうなのよ」

 

 少し、目元を歪ませて。少し、下唇を噛み締めて。そんなふうに泣き出しそうにふるふると震えながら、それでも彼女の言葉に迷いはなかった。それがキングヘイローの、「彼女らしい」強さなのだと、何度も思った感覚にまた一つ新しい想いを重ねた。

 

「うん。でもキングはそれでいいんだよね。それがキングの、『最高』」

「なにかしら、それ。お世辞かしら」

 

 いつもの私なら、ここはお世辞というかからかいというか、そんな感じかも。でも今日は、本気でキングを褒めたい気分。たまには私も、他人を褒めたい、なんてね。

 それに、これは君にこそ伝えたいこと。私から君への、今日だからこそのメッセージ。

 

「ううん、さっきスペちゃんと話して思ったこと。最高って、一つじゃないんだよ。それはレースだけじゃなくて、私たちも。スペちゃんもグラスちゃんもエルも、もちろん私もキングも。みんなそれぞれの良さがあるから、それぞれの最高がある」

「そんなの綺麗事じゃない。それぞれの良さ、最高だなんて。現に私は、今日だって」

「『私らしさ』って言ったのは誰だっけ?」

 

 そう言って、私は歩みを戻して入り口の方へ。君のいる方へ歩いていって、二人で外の光に照らされる。私と君は、独りじゃない。

 

「『私らしさ』があるならさ。その人なりの『最高』がある。だから、私たちは誰かを否定しない。競い合っても、それで相手を認められる」

「否定、しないって」

 

 そう、そうなんだよ。それが、私が言いたいこと。誰も君を否定しない。友達だから、ライバルだから。仲間、だから。

 だから、君は走っていいんだ。だから、君のそれは君なりの「最高」なんだ。だから、私たちにとって君はかけがえのない存在なんだ。だから、だから。

 

「だからさ、キング。『向いてない』、なんてことないよ。……それが私からの、君へのエール」

「……なによっ、それ……! 私がそんな、そんなこと言われてっ……!」

 

 ぽろり、ぽろり。いつか見た泣き顔より、ほんの少し綺麗な顔。悔しさにまみれたあの時よりも、ほんの少しだけ嬉しさを隠せていないお人好しの泣き顔。あーあ、由緒正しい良家のお嬢様を、なんとまたまた泣かせてしまった。けれど私は残酷にも、そんな泣き虫に追い討ちをかける。泣きっ面に蜂、とはこのことだ。

 

「ねえ、キング。私は、キングに走ってほしい。一緒に走りたい。これからも、さらなる最高のために。ライバルとして、友達として。……君も、最高の仲間だから」

 

 私たちは重ならない。私たちは誰かの代わりにはなれない。だけど私たちは補い合えて、だから私たちは一緒にいる。そうして競い高めあうことで、最高を創り出しつづけられる。何度だって全霊を込めて闘えて、けれど時にはそばにいてやれる。

 

 最高が一つじゃないのは、私たちが独りじゃないから。時には喧嘩するとしても、時には自分には手の届かないものを相手の中に見てしまうとしても。でもそのことすら、私たちが一人一人であることを証明する何よりの事実なんだ。互いに別々の存在だから、私たちは私たちなんだ。

 

「いいっ、いいじゃない……! そこまでっ、言うならっ……!」

「『私と走る権利をあげるわ』、でございますか?」

「……おばか」

 

 そうして、しばらくの間。いくばくかの、二人きりの空白の時間。いつかと同じように、泣きじゃくる彼女を目の当たりにして。いつかと違って、ずっとそばにいた。

 ずっと、ずっと。独りには、しなかった。

 

「……ありがとう」

「どういたしまして。キング、これでひとつ貸しね」

「はあっ!? 何よそれ!」

「冗談、冗談」

 

 ……と。なんとか時間をかけて、ツッコミを入れるくらいの元気は戻ったみたい。まだ涙の跡は見えていたけれど、ライブの準備もあるわけだし。なら一緒に帰ろうか、と思って地下バ場の先へと振り向いた時、それは唐突にだった。私のあとに続くはずのキングが、立ち止まって私に声をかける。とびっきりの、大声で。

 

「そういえば、スカイさん!」

「うわっ、急に何?」

「あなた、さっきの優勝タイム見たかしら?」

 優勝タイム、か。そういえばスペちゃんと喋るのに夢中でアナウンスも何も聞いてなかったかも。ええ、そういや電光掲示板もちゃんと見ていたようでタイムまでしっかり覚えてないかも。私、こういうところで気が抜けてるよね。というわけでそういうわけで、キングには平身低頭で。

「……見てない、いや見たはず……かなあ」

「はぁ。……あなた、それくらいはちゃんと興味持っておきなさいな」

 

 さっきまであんなに泣いていたのに、あっという間に心底呆れた顔に切り替わるキングヘイローという少女。いや、これはキングというより私の問題なのか? そこら辺悩んでも仕方ない気がするけど。

 

「えー、でもさあ」

「言い訳は無用よ。そもそも、どうせそうだろうと思ったから聞いたのよ。……私が代わりに覚えておいたから、あなたにはそれを聞く権利をあげる」

「……要るかな」

「聞きなさいよ! いい、ちゃんと聞くのよ」

 

 こほん。そう言って、キングは一つ咳払いののち。

 

「3:03:2。それがあなたの、今日の記録。……菊花賞の、これまでの誰よりも速いレコードタイム。そして、それだけじゃない。この記録は、3,000mにおける世界レコードでもあるわ。……おめでとう、スカイさん。あなたは、歴史と世界にその名を刻んだ」

「……うそ」

 

 ……耳を疑った。私が、それだけのことを? すごいなんてもんじゃない、レコードタイムなんて、確かに調子は良かったけど、それでも。

 私が、トゥインクル・シリーズにその名を刻めたんだ。幼い頃に諦めたはずの、夢を叶えるウマ娘になれたんだ。……世界にまで、私の存在を伝えられたんだ。ちっぽけだったはずの私が、世界を変えたんだ。……そっか。そうか、そうなんだあ……。

 

「今日のあなたは、紛れもなく『最高』だった。過去のすべてのウマ娘より、あなたが一番速かった。最高は一つじゃないというのにも一理あるけれど、それだけが正解だと思うかしら? あなたならわかるんじゃない、この手の正解は一つじゃないってこと」

「……うん。何かな、聞かせてよ」

「いいわ、たまには権利がなくとも教えてあげる。最高とは、手が届かないものじゃない。必ず、誰にでもそれを塗り替えるチャンスがある。最高とは、常に更新されゆくものなのよ。……さて、お気に召す答えだったかしら」

「なるほど、ね。教えてくれてありがとう、キング」

「どういたしまして」

「私今、すっごく嬉しいよ。本当に、ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 すべてに勝って、一番になりたい。そんな私の大望は、確かに達成されていた。私は今日走ったみんなだけでなく、過去のすべてのウマ娘にさえ、「最高」を掲げることができていたんだ。……本当に、夢のようだ。勝利の余韻は、更に深く、強く。私の存在も、文句なしの最高だった。他者に告げた言葉が、しっかり自分にも返ってきた。私も、勝利を望んでいいんだ。期待に応えて、走っていいんだ。……ああ、嬉しいなあ。

 とはいえ「最高とは、常に更新されゆくものである」というキングの言説が正しいのだとしたら、これから先私の打ち立てた記録も超えられていくのだろうけど。それも含めて、楽しみだ。私はいつだって、追われる方が性に合っている。それになにより、それは未来を待ち望む理由になるのだから。私が成長して、いつか大人になれる日を、だ。

 

「でもね、スカイさん」

 

 そしてそこで、キングがまた仕切り直す。私への素直な称賛から、また語気が僅かに色を変える。

 その顔を見れば涙の跡は乾いて過去の残滓と残るのみで、見つめられたのはいつもの紅く強い瞳だった。レース中に振られた髪の毛もいつの間にやらまとまって、いつも通りのお嬢様な髪型に整えられていた。いつもの、キングヘイローだった。

 

「今日、あなたは最高のレースをした。対して私は五着、惨めなものね」

 

 まず、そう述べる。あなたは最高で、私は惨め。それは先ほどのリフレインに似て、かつての敗北に抱えた苦しみに似て、どちらともまるで違う言の葉だった。その言葉に込められた決意は、羨望とも苦悩ともかけ離れている。もう、彼女は迷わない。

 

「でも、私は私らしく在る。あなたでも誰かでもない、私でいる」

 

 そして、そう告げる。挑みつづけることが、彼女の強さ。泥に塗れても、また立ち上がれる。そこにある彼女らしさは、誰にも譲れないもの。前に進むことだけが真実だと、そんな自分自身が信じるプライドによって主張されるもの。彼女が誇りとして抱くその意志は、光を目指し己を証明する、そんな覚悟の宣言だ。

 

「そう、今日は負けね。でも──」

 

 だから、そう伝えるのだろう。彼女のこの言葉は、ある種袂を分つもの。互いの「私らしさ」を認めることは、自分は他の誰でもないということで。どうしたって自分こそが最高だと、互いに最高だと思い合うが故にぶつかり合うもので。私たちは独りじゃないからこそ、己の最高を見ていられる。

 

「──明日は、どうかしら?」

 

 それが、彼女の言葉だった。最高に気持ちよく、互いに交わらない自分らしさを見つけよう。明日からも、これから先も永遠に、私たちは完全に等しくはならないのだ。

 訣別とは、そういうこと。最高は、一人じゃない。




これはエールです
次回幕間、キングヘイローによる「ロード・トゥ・ライトニング」
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