完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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これが上巻分再録ラストになります 下巻は1.5倍ある


幕間 side of another girl.
キングヘイローによる「ロード・トゥ・ライトニング」


 逡巡する光景があった。タイムラインはダービーの直後、控室に戻った時。消え入りそうに小さいがらんどうの空間で、そこにいるのは私とトレーナーの独りと独りだけ。あの時の、私と。あの時の、トレーナー。二人とは、もう呼べなかった。

 

「……キング、あれはどういうこと」

 

 彼女の言葉から、その光景は始まる。赤縁の眼鏡をダークブラウンの瞳孔と共に揺らしながら、冷ややかな口調で私に問いかける女性の姿。新月のように艶やかな黒髪はすっぱりと首元で切り揃えられ、少し鋭く尖った切れ長の目つきと合わせて彼女の意志の強さを覗かせる。私より身長の少し低いような新人トレーナーであっても、その雰囲気は強さを湛えている。それが当時、私のトレーナー「だった」人。新進気鋭のチーム<サドル>のトレーナー、だった。私を、そこまで支えてくれていた人だった。すべてが、過去形だった。

 そしてその過去で、彼女は私に問いかける。冷静に、冷ややかに、だけど私と彼女の間ではいつものように、だった。

 

「もう一度聞く。さっきのダービー、あの『逃げ』はいったい何」

 

 トレーナーは一つ、当たり前のことを私に問うていた。決して低くない四番人気で挑んだダービーは、ライバルに気を取られての暴走でペースを乱し大敗。それがキングヘイローにとっての日本ダービーで、間近で見ていたのだろうから当然トレーナーもわかっていた。

 ……きっと私の涙痕さえ、わかっていた。わかっていた上で、彼女は私に当然の疑問を示している。なぜ、あんな走りをしたのか。私の意図は、なんなのか。いつもの彼女らしく、ちゃんと確認しようとしていた。私の「元」トレーナーは、敗因分析の細やかさは特筆すべきものだったと思う。負けを次に活かすのだ、常にそうあらんとしていたのは覚えている。その時だって、覚えていた。だから、わかっていて私にそう問うた。それも、当たり前。

 だけど何もわかっていなかったのは、その時の私だった。そんな彼女の対応もいつものことなのに、その日だけは何もわからなかった。地下バ場であれだけ泣き腫らしても、気持ちは混沌としたままだった。何も、わからなかった。

 

「……あれは、私の判断よ。勝つためなら、手段は選ばない」

 

 一つ。私には、誰の気持ちもわかっていなかった。

 

「それで負けていたら、世話はない。理由はそれだけ?」

 

 一つ。私を慮る彼女の気持ちだって、わかっていなかった。

 

「次は勝つ。それで、いいじゃない」

 

 一つ。自分自身が焦る理由すら、わかっていなかった。

 

「……今回の敗因だって、次に活かさないと勝てない。キング、そのまま次に行っちゃダメ」

「なんで、なのよ」

 

 そうして、何もかもがわからないまま。何も言葉のかたちにできないまま。混ぜてはいけない気持ちの原液を混ぜ合わせてしまった私の感情は、その瞬間爆発した。本心と虚勢と激情の差も、一つとしてわからなかった。その時はもう、どうでもよかった。

 

「なんであなたは、いつもそんなに冷静なのよ。私は負けを見つめたいなんて思えない。でもあなたが言うことが正しいのはわかる。だから、ここまで耐えてきた。負けても折れないって決めてきた。……でも、いつまでそうすればいいの」

「……キング」

「負けて、負けて、また負けて! あなたはそれを分析して私に伝えて、私はそれを踏まえてまた走って! ……それでも、届かないじゃない。それならもう、いいじゃない」

 

 私の叫びだけの空間だった。虚ろの中にはやはり独りと独りで、決して二人にはならない。だけどそれでも私の方を見つづけてくれていたその顔が、私のみっともない感情の発露に対して戸惑いを浮かべていたのは、覚えている。ようやくその手を振り払えたと、解放感にも似た虚無が私を包んでいたのを覚えている。

そして初めて狼狽える姿を見せた彼女に、きっと本来なら今こそ私の方から掬い上げねばならない彼女に。そんな「元」トレーナーに私が、最後の一言を叩きつけたのも。

 

「私と一緒に、悔しがってよ」

 

 そう(こいねが)ったのも、覚えている。

 今も鮮明に、吐き捨てた感覚の端まで覚えている。

 そう吐いた弱音が、心からのものかさえわからなかったけど。突き刺さってしまったのは、記憶している。彼女の心臓を串刺しにし、私の喉を抉って潰したような、突き刺され傷ついたのは互いにだったと、そのこともはっきりと覚えている。どうにもならないくらいの亀裂を生んだのだと、何もわからず突き刺したあとに思ったことまで。

 でも、もう手遅れ。ぶつり、オノマトペをつけるならそんなものが相応しいと思うくらい、唐突に会話は途切れた。私が、終わらせた。拒絶の意思をただ伝え、けれどいまだに何もわからないままに。あなたが悔しがってくれないという最後に残った認識が、真実かなんて確かめないままに。事務的な会話だけを繋いで帰路につき、別れの挨拶にもなんの感情もこもらず。いつもあった彼女の敗因分析も、その日はひとつも聞かないで。

 そこで、道は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 回顧する光景があった。タイムラインはあの敗北のあと、何度も何度も重ねた夜すべて。すぐ横で寝ているルームメイトには話せない悩みだった。きっと誰にだって、私以外の誰にも言えない悩みだった。それを独り、蟒蛇のように食んでいた。口に含んだものを一息で飲み込むことに固執して、いつになっても誰かに見せれる顔にはならなかった。必死に目を瞑るふりをして、うずくまった私を隠す布団の中にだけ、飲み込めないものを吐き出せていた。

 そうして、あるいは今の私と同じように。過去を見遣り、そしてそれ越しに現在を見ていた。そうすることだけが、その時できる唯一の前への進み方だった。独りきりの誰もいない夜で、過去くらいしか未来につながるものを見出せなかった。その時思い返していたのは、トレーナーとの出会いだった。そうしている間はまだ、彼女が私のトレーナーだった。

 

「キングヘイロー、私のチームはどうかな」

 

 そうチーム<サドル>のトレーナーに声をかけられたのは、トレセン学園に入ってすぐのことだった。もうずいぶん昔にもほんの少し前にも思えるけれど、それが私たちの出会いだった。その頃の私は、一刻も早くチームを決めようと息巻いていた。幸い、引く手あまただった。チームを選ぶより、選ばれると言った方が正しいかもしれない。そしてそれは母親の血からくる期待が、私に求められていたからだった。誰もが私越しに母親を見て、当然のように母親のような私を期待していたからだった。

 だから多分、誰でもよかったはずだった。誰だって、私の能力には期待してくれていたのだから。それならそれで、いいはずだった。誰もが私ではなく母親の影を見ていることに対して折り合いをつけられていたとは思わないけれど、勝つためには手段を選びたくはなかったから。

 ……だけどもし、その中からあえて彼女を選んだ理由があるとしたら。彼女を、私のトレーナーにした理由があるとしたら。

 

「私は新人トレーナーだけど、それを負ける理由にしたくない。だから君のような有力なウマ娘の力がほしい。勝つためには、遠慮なんてしていられないから」

 

 それはそんな誘い文句が、私にとっては殺し文句に等しかったからかもしれない。純粋に私自身が有力だと言われて嬉しかったのか、あるいは勝つためにはどんな手でも選ぶというその発言に親近感を覚えたのか。そのどちらかか、あるいは。

 あるいはそのどちらでもないとしたら、あと一つとっかかりとして思い浮かぶ点はあった。

 それは理由を外部に求めたくないという、彼女の姿勢そのものだった。負ける理由も、勝つ理由も。私が勝って、私が負ける。お母さまは、関係ない。そこまで言われていたはずはないのに、そう言われた気がしたのだ。だから私は、その手を取った。

 とはいえそんなのは、ありきたりな実力主義。そんなものに魅力を感じたのだと私の行動の意味合いを言語化してみれば、結局は他の誰でもいいような気がする。こうやって断絶の起こった今なら、殊更そう思うかもしれない。

 それでも彼女の言葉は、他の誰のものより私に突き刺さっていた。だから自分は、彼女でなければダメだった。理由はそれでよかった。それまでは、それだけでよかった。

 それなのに、だった。そんな出会いの時と共にその時の私が思い出し考えているものは、ダービーの日の会話だった。それきり途切れつながりの消えた、彼女と自分の最後の会話だった。

 あなたは一緒に悔しがってはくれないのだとか細く叫んだ私は、本当は別のものを否定していた。あなたのことを否定できるほど、私は強くも賢しくもない。否定したのは、別の独り。彼女が常日頃からやってくれている敗因分析をこれっぽっちも活かせない、一人のバカで哀れなウマ娘。彼女が私に相応しくないのではなく、私が彼女に相応しくない。有望な新人トレーナーという存在に、咎より深い重りを着けているのは、私。私の方が、彼女を縛りつけている。私などでは、あなたの力にはなれない。

 そこまでわかっていて、その時点で結論は導き出せて。それなのに導かれた答えを口に出す段になって、私はやっぱり弱かった。

 結局、そのままだった。独りでは、どこにも行けなかった。

 そこから、道は先へと進まなかった。

 

 

 

 

 

 

 変遷する光景があった。タイムラインは夏合宿について同期と話したあと、正確には彼女の言葉を受けた直後。踏み出すことが変化だと、挑発と激励を受けた直後。放課後、久方ぶりにチームの部屋へ向かった。トレーニングも無断でサボって、そんな私が今更のように己の居場所としていた空間へ向かっていた。どの面を下げて、などということは自分自身が一番わかっていた。ぬかるんだ汚泥に自ずから沈み込むような行為だとしても、私はそうしなければいけなかった。

 見慣れた扉を開ければトレーナーはその部屋の中心に立っていて、あるいは私を待っていたのかもしれない。私が散々悩んで口にする言葉の内容さえ、最初からずっと待ち構えていたかもしれない。そういう意味で彼女は、どこまでも私のトレーナーで。

 

「トレーナー。……別のチームへの移籍を、希望しに来たわ」

 

 その時までそこに確かに存在した関係を断ち切ったのは、私の側なのだろう。私と彼女が担当ウマ娘とトレーナーではなくなったのは、私のせいなのだろう。けれどそれも含めて決意だと、その時からの私は思っている。私が本当の意味で甘さを捨てれたのは、この時が初めてだったはずだから。前を見るだけではなくて、初めて前に進めていたから。

 私たちは一見綺麗に噛みあっていたけど、その歯車の中に互いを削る摩擦を見つけてしまった。互いにとってかけがえがないからこそ、歯車はぶつかり過ぎてしまうのだとしたら。あなたに寄り添えるとは望んでも、あなたを傷つけることは何よりも望まないのなら。

 大事だから、離れるべき。そんな一見矛盾した結論が、やはり導き出されるものだった。そうしてきっとそんな結論は、トレーナーも一致していて。だから、彼女の問いは端的で。

 

「……どこに行くか、当てはあるの」

「チーム<アルビレオ>よ。負けたくない相手がそこにいるから、その一番近くに行きたいの」

「そう。これ、チーム変更届。名前だけ書いてくれたら、変更手続きまではトレーナーの仕事。君は新しいチームのトレーナーに挨拶することだけ考えればいい」

 

 だから、受け入れてくれる。拒んでは、くれない。けれどそこで拒むことを相手に求めるのでは、どこまで行っても私は甘えたままになってしまう。離れるべき時になっても離れられない、成長できない子供のままになってしまう。それは、その時点で既にわかっていた。なれば、私に取れる手は一つだった。たとえ泥の中を進むようなものだとしても、私たちにはそれが正解だった。汚れ切った手を伸ばす奥に宝石を掴めるかなんて、わからないとしても。

 

「……いままで、ありがとう」

 

 そうやって、私も結末を受け入れる。自分からの提案なのに相対する彼女よりも受容に時間がかかったのは滑稽かもしれないけど、それは気にならなかった。無様さや愚かさは、いくら被っても気にならなかった。

 ようやく事象を飲み込めたこと、ようやく前へ踏み出せたこと。私に内在する世界が変化したことこそが、なによりも重要だった。小さな世界を一つ一つ変えていくことで、いつかは大きなそれさえも変えられる。まずは、私。そして、私のトレーナー「だった」人。まずは、その二人から。最後の瞬間、独りと独りではなかった気がした。だから、そのままだった。別れを告げてそのまま踵を返し、「かつての」チーム部屋を後にした。どれだけゆっくり扉まで歩いても、あちらからの別れの言葉はなかった。それでよかった。最後まで、あなたは私の望みを汲んでくれていたということだから。

 

 

 

「話は聞いている。キングヘイロー、歓迎するぞ! チーム<アルビレオ>に!」

 

 そして地図のとおりに「新しい」チーム部屋まで歩くと、大声で小さな部屋を占拠する男性がいた。狭くて埃っぽいのなんかお構いなしにどっしりと錆びついた音を立てる椅子に座っていて、なんとなく圧の強さを感じた気がした。太い眉が斜めに吊り上がっていて、いかにも威勢が良さそうだった。そこから始まる暑苦しさ全開の自己紹介を一通り聞いて、果たして本当にあのセイウンスカイがこのチームでやっていけているのか、などと心配になったのを覚えている。

 

 けれどこちらにこう問われたことも、はっきりと覚えている。その瞳は、初対面の私に対しても最初から真摯なものだったことを。

 

「キングヘイロー。君はなぜ、このチームに来た」

 

 そして自分がどう答えたのかも、覚えている。私がこのチーム<アルビレオ>を選んだ理由。チーム<サドル>を捨てたのではなく、このチームを新たな道として決断した理由。

 

「当然。私はスカイさんに勝つために、手段は選んでいられないの」

 

 勝利のために、よりそれを手にするのに近いチームを選ぶ。すなわち勝利のために、自分と相性のいいチームを選ぶ。すなわち勝利のために、ライバルとより近い関係を選ぶ。すなわち勝利のために、今までと同じ道を、選ばない。私の発した言葉は、そういう意味だった。それだけの覚悟が、祈られていた。否、覚悟の祈りと呼ぶには、その想いはもっと強いはず。私は、更に強く在らねばならない。なら、ならばこの感情は。

 ここから始まるのは、私による逆襲だ。これは私の誇りをすべて、全身全霊を賭した選択なのだから。

 

「……そうか。あいつは強いぞ」

「そう。トレーナーのお墨付き、というわけね」

「だが、だからこそ歓迎しよう」

「あら、私がチームの柱を負かしてしまっても?」

「それも大歓迎だ。できるものなら、な」

 

 そんないくばくかの会話から、セイウンスカイとそのトレーナーの信頼関係が読み取れた。彼女自身がいなくても伝わる、担当ウマ娘とトレーナーの絆というものが。私がその時何も思うところがなかったと言えば、きっとそれは嘘になるだろう。今さっき別れを告げたものに後ろ髪を引かれなかったと言えば、それは嘘になるだろう。

 だから私は、嘘は吐かない。かつて進んでいた道を横目で見ながら、それでも新たなゼロ地点を選ぶ。そうやって再確認を重ねて、私はチーム<アルビレオ>に移籍した。

 そこには、別の道があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 想起する光景があった。タイムラインは夏合宿後、誰もが一歩踏み出したあと。<アルビレオ>にそれなりに馴染んで、菊花賞が近づいていて。そんな菊花賞に向けてのトレーニングの始まりにも終わりにも、新しい環境自体にも慣れてきて。そのタイミングで私には、一つ気になるものがあった。もの、というよりは、正確には一人のウマ娘、なのだが。その相手とはほとんど関わりはなく、むしろ避けられている可能性すらあったのだが。

 

「みなさん、今日もお疲れ様でした!」

 

 そう彼女、ニシノフラワーが締めるのが、<アルビレオ>と<デネブ>の合同トレーニングのお約束。チーム<デネブ>とのトレーニングも、共に夏合宿を越えた私にはすっかりお馴染みと呼ぶことのできるものだった。そしてその時の自分にとって気になるものは、まさにそこで元気よく皆を労う少女、ニシノフラワーのことだった。けれど夏合宿初日の一件から、なんとなく彼女とはぎこちない関係のままだった。くだらない理由だったとは思うが、やはり新しい人間関係を作るのは難しいものだ。とはいえそうやってぎこちない関係を継続したくないというのも、意識する理由の一つだった。

 撤収が告げられて、それでもニシノフラワーは練習用のコースに残ってトレーナーたちと会話していた。各チームのトレーナーとの連絡事項の確認にそうやって時間を割くように、彼女は深くチームに貢献していた。ニシノフラワー自身が所属するチーム<デネブ>だけでなく、外部の存在であるチーム<アルビレオ>に対しても。かけがえのない、中枢を担う歯車のように。それなのに、誰とも摩擦を起こしていなかった。それも多分、意識する理由の一つだった。

 そして、他にも理由があるとすれば。すっかり暗くなった空の下、ニシノフラワーはようやくトレーニングの後処理を終えたようだった。とは言っても彼女はおそらく今後のトレーニングなどを頭の中で考え込んでいるばかりで、手助けできるようなことは何もなかったのだが。けれどそうして思考をやめて顔を上げた少女に近づいて、私はようやく話しかける。

 そうやって、彼女に近づく理由があるとすれば。少し気まずさもあるだろう関係さえ超えて、会話を試みる理由があるとすれば。

 

「お疲れ様。ねえ、フラワーさん。ひとつ質問いいかしら」

「あっ、はい。えっと、キングヘイローさん、もしかして私を待ってて」

「別にいいのよ、私の勝手だから。それより、あなた」

 

 常にチーム<デネブ>のリーダーとして、皆の期待をすべて受け止めようとする彼女。そして合同トレーニングやあらゆる人間関係を密接に作り上げて、それでも誰とも摩擦を生もうとしない彼女。そんな彼女について、気にかける理由があるとすれば。

 

「あなた、今の立場に不満はないの」

 

 彼女自身が道を選べているのかと、そういうことだった。誰かのためではなく、彼女が彼女のために、己の道を往けているのかと。

 

「どういう、ことでしょうか……?」

「たとえば、チームを移籍したいと思ったことは?」

「私は<デネブ>のリーダーですから」

「スカイさんから聞いたわ。一時期あなたのチームにいて、その時から仲がいいって。それならそのあと、一緒にチームを移ればよかったんじゃないかしら?」

「それは、えっと」

 

 つい、語気が強くなる。幼い少女に対して、詰問のようになってしまっていた。けれどその時の自分は、それだけ焦ってしまっていた。目の前の少女がかつての自分と同じように道を違えていたら、それをどうにかしないといけない気がしていた。あるいは、単に自分と重ねていた。自分のように、選びたい道を選べていないのではないかと思ってしまっていた。

 自分は彼女ほど優秀でないと、わかっていたはずなのに。だから選べなかった道があるのだと、本当は知っていたはずなのに。それを彼女に押しつけるのは、優しさに見せかけたエゴなのに。

 それでもニシノフラワーは、数刻の思考を挟んだのち。答えを、ゆっくりと返してくれた。 小さく、幼く。だけど彼女は、強かった。

 

「私は確かに、スカイさんが<デネブ>から居なくなって。その時寂しかったんだと、今は思います。もしその時ちゃんと寂しいと思っていたら、キングさんの言うようにチームを移っていたかもしれません」

「でも、あなたはそれを選ばなかった。選べなかっただけかも、しれないけど」

「はい。そしてそれは多分、<デネブ>のことが大事だったからです。チームのみんなも、トレーナーさんも。私にとっては、それも大事だったんです」

 

 大事なものが、同じくらいに大事なものが二つ並んでいた。だから、選べなかった。だから、二つを両立しようとするしかない。そうだとしたらそれは残酷な板挟みで、やはり解消すべき問題なのに。彼女の道のりは、違えているかもしれないのに。だけど彼女の口調は、選択することを望んでいなかった。その言葉を聞いて、私にとってもそれが正解に思えた。ただ一つを選ぶこと以上の、正しいやり方があった。……そしてそこに告げられたのは、私を揺るがす答え。

 ゆっくりと、固めたはずの足場が泥に戻る。再びぬかるんで、私の両脚を沈めてゆく。

 

「あなた、見た目より欲張りなのかもしれないわね。……私には、無理だったもの」

「無理、とは」

「私には、優劣をつけるしかなかった。<アルビレオ>に来る前のトレーナーは、私のことを心の底から考えてくれていた。彼女に落ち度はなくて、私が噛み合わなかっただけ。そして私が彼女より、勝利を優先してしまっただけ。……どちらも大事なんて、言えなかった」

 

 大事だった。大切だった。あの関係にしか、存在しない価値があった。それでも、私はチーム<サドル>を捨てた。それは事実としてあって、どれだけ決意と覚悟を塗り固めてもその結果を消すことはできない。どうにか美化して昇華して、思い出として閉じ込めるだけ。私が選べなかった道の先に、未来は存在しないのだから。

 きっと、それが本当に最後の一つ。最後に残った、ニシノフラワーを見遣った理由。それは気遣いなんかじゃない。優しさに見せかけることすらできない、自分のことしか考えられない醜いエゴ。

 すべてを選べた彼女が羨ましかったから。一つしか選べなかった自分が憎かったから。それが、自分がニシノフラワーを気にしてしまった理由だ。本当に情けないことに、結局は自分が不安だったのだ。みっともなく歳下に弱音を吐いて、一度は定めたはずの道が揺らいでいた。

 ここまで決意と誇りを重ねても、そんなのは単なる美辞麗句。私に似合っているのはやっぱり悔しさで、きっとそれこそが本当に手に入れたかったもの。あの日あなたが悔しがってくれなかったこと。あの日あなたが何も言わずに私を見送ってしまったこと。そのことが、結局心残りなんじゃないか。未来に進めなくていいから、過去を悔しがるしかなかったんじゃないか。私がちゃんと道を歩んでいくには、同じ道で悔しさを重ねることこそ正しかったんじゃないか。

 なら今選んでいる道も間違いで、またやり直さないといけないはず。道を選び直すことは、結構私に新しい形の後悔を教えるだけ。全部が途切れ途切れで、新しくできた過去を振り返って悔やむだけ。そうだとしたら途方もなくて、私はいつまでも一歩目のまま。いつまでも積み重ねられず、どこまで行っても成長はない。何度も卵を割るところからやり直す雛鳥など、物珍しさ以外に価値はないのに。

 なら、どうしようもないじゃないか。ここまで来て戻れないのに、元のままで収まるのが正しかったのなら。それならきっと、私はもうどうしようもない。進んでしまった、進んだ先が間違いだった、そしてこれから先も間違いだけしか重ねられない。私には、成長というものがない。血筋からの才能はあれど、進むべき道を一つとして積み重ねられていない。私らしさを育てる前に、何度も何度もそこにある過ちにだけ気づく。彼女に告げた通り、私には無理なのだろう。私には、道を定められない私には、私らしさを見つけるなんて無理なことだったのだろう。

 だから、どうしようもない。私はもう、どうしようも──。

 

「無理なんかじゃ、ないです」

 

 ──強い否定の言葉を彼女の口から聞くのは、その瞬間が初めてだった。

 それは今後あるとも限らないが、この時に彼女の強さを見れたこと。そのことはきっと私と彼女の関係において前進の意味を持っていたと、少なくとも私はそう思っている。そして、彼女は揺るがない口調のまま続けた。否定のあとに、私を肯定する言葉を。

 

「まず、一つ。キングさんが本当に一番大事なもの以外を捨ててしまうとしたら、私に話しかけることなんかないです」

「きっとあなたが羨ましかっただけよ。捨ててしまったから、捨ててない人が」

「それならなおのこと、捨てられてないです。きっとそれがまだ大事だから、覚えていてしまうんです」

「未練なんてみっともないものよ。きっとそれが私にあるのなら、足枷になっているだけ」

「それが、もう一つ。前のチームのことを考えてしまうのは、きっとまだ大事だからです。もちろん未練とか、割り切れないとか、いくらでも悪く見てしまうことはできますけど」

 

 まだ、大事。私にとって、<サドル>は大事。それは考えてみれば、当たり前のことだった。思い出にして鍵をかけて、風化させまいとしまっていた。見えないように、触れないように、封をするのは消し去るためなんかじゃなかった。それほどまでに丁重に扱っている限り、私はそれを捨てられてなどいなかった。捨てずに、ここまで来れていた。まだ、その道を忘れてなんかいなかった。

 忘れていないのなら、そこに道は存在する。もう、歩んではいないけれど。だけど消えない。だけど無駄にはならない。だから、その道には意味がある。まだ、私にとっての意味がある。

 ……つまり、私はまだ。まだ、大事で。まだ、意味を持っていて。だから、まだ。

 

「私はまだ、かつて抱えていたものを諦めていない。そういうことかしら」

「……はい。多分、そうだと思います」

 

 なるほど、それなら道理は通る。彼女のようにすべての道を選ぶことは、私には到底できないとしても。進むのを止めた道を忘れられないほど諦めが悪いこともまた、翻せない私らしさだから。そう、これが私らしさ。私らしさは、ちゃんとあった。私は、それを貫けていた。そしてこの時に気づいたそのことはきっと、未来にずっと繋げられるのだろう。どんな道を、選ぼうとも。それでもかつての記憶は、消えることはないのだから。

 

「ありがとう、フラワーさん。……本来なら、歳上の私が相談に乗るべきなのでしょうけど」

「いえ、こちらこそ。キングさんと仲良くできたならって、ちょっと思ってたので」

「こちらこそ。これからも、よろしくね」

 

 すっかり帳の下りた夜空を背に、会話はそこで閉じられた。並んで歩けば身長の差がより感じられて、私たちの差を感じさせる。容姿の差。年齢の差。感覚の差。さまざまに、私たちを分つものがある。ここで会話が一旦区切られるのも、そんな差がある故かもしれない。けれどそれは区切りであって、当然完全な断絶は意味しない。また、繋げる。まだ、繋がっている。

 

 そしてそのことは、今までのすべてにも言えることだった。これまで私が歩んできた旅路は、すべてどこにも消えてゆかない。過去は、目を向ければいつでもそこに存在する。私が私である限り絶対に、大切な思い出を忘却の彼方には失わせないのだから。

 そこから、来た道を振り返った。

 

 

 

 

 

 

 そうして、顕在する光景があった。タイムラインは菊花賞のあと、言い換えるなら今この瞬間。興奮冷めやらぬレース場の外で、私はある人を待っている。呼び出したのは先程、敗北が確定したあとだった。応じなければそれでもいい、そのことは承知でのコールだったけれど、きちんと返答はあった。その事実が意味するのは彼女もこのレースを観に来ていたということで、つまりそれは。

 

「久しぶり、キングヘイロー」

「ごきげんよう、トレーナー」

 

 ……それは、彼女も私の思い出を捨てていないということ。赤い縁の眼鏡も、首を隠さないようさっぱりと切られた黒髪も。きらりと光る鋭い眼光も、かつて見慣れたものと変わらなかった。彼女は変わらず、チーム<サドル>のトレーナーだった。

 

「『元』トレーナー、でいい。でもまずは、お疲れ様。とは言っても、今のチームメイトやトレーナーから散々労いの類は言われたあとだろうけど」

「そうね。今日も負けてしまったから」

 

 そう、それが今日の結果だった。結局私は、負けている。チームを変えてその上で苦悩して、それでも負けている。そしてそこから脱却するにはやはり、敗北を糧にするしかない。かつて目の前の女性と共にやってきたことだ。その大切さは、彼女から教えてもらったことだ。もっとも以前の彼女と今の自分のやり方とは、多少なりと趣は違っているのだろうが。それでも、彼女を忘れていない証拠の一つ。ここにも、過去に歩んだ道の意味はあった。

 そして私がため息混じりに敗北の結果を述べたのとは裏腹に、あなたは少し嬉しそうに言葉をこぼす。いつか共に勝利を喜んだ時と同じ、薄い笑みを浮かべながら。

 

「でも、いい顔してる。負けは負けだけど、キングは成長してる。私には、わかる」

「なによ、それ」

「元トレーナーとして、キングのことはそれなりにわかる」

「……おばか」

 

 その肩書きを振り回されたら、私には成す術がないというのに。どんな理由や言い訳を喚き嘆いたって、それでも彼女は私をきちんと見ていてくれていた。それを実証する言葉。そして同時に、今の私の道を肯定する言葉。そんな意味合いの言葉を投げかけられることこそが、彼女が私を大事にしていた証なのだろう。なら、私がそれに応えられるとしたら。

 

「……あの時は、ごめんなさい」

 

 途切れていた会話を、諦めずにまた浮かび上がらせることだけ。きっとあの時作ったと思い込んでいた断絶は区切りに過ぎなくて、いつからでも未来に開いていけるから。道は、今でも意味を成すのだ。

 

「今となっては、あれでよかった。だから、謝ることじゃない」

「でもあの時、謝れなかった。それは事実なの」

「そうだね。そして私がそれを止めなかったのも、事実」

「……そうね」

「なら、どちらにも落ち度はない。その時点を回顧しても、今となって逡巡しても」

 

 加速度的に、今だから繋げる言葉があった。少し話せば、わかり合える距離だった。だけどその少しの距離を繋ぐには、あの時の私たちには時間が足りなかった。今なら、足りていた。そして満ち足りたから、彼女は次の言葉を述べる。あの日の道の先を、描いていける。

 それは、何度も道を切り替えてきた私を見ていた、そんなあなただからこその言葉だった。

 

「だから、このまま進むといい」

「……戻ってきてほしいとか、言わないわけ」

「その道は、もう試した道だから。キングにとっての『このまま進む』は、色んな道を試すこと」

「おかしくないかしら、それ」

 

 選んだ道を切り替えることは、とても普通に道を進んでいるとは言えない。一つの道を捨てて新しい道を行けば、そこまでの積み重ねはゼロになるに決まっている。とはいえ、私が今までそうしてきたのは、事実なのだけれど。それでも、それが正しいだろうか? そうは思ってしまってもおかしい。

 けれどそんな私の疑問は、当然のように切って捨てられた。そしてそれは、私にもわかっていることだった。なぜならそれは、ついさっきの菊花賞で確信した「私らしさ」を示すものだったから。

 

「キングにとっては、おかしくない。一つをじっくり分析するよりも、手段を選ばず道を広げていく方がいい。多分、君にとっては」

「それ、結構大変じゃない?」

「多分大変。でも、キングならできる。途切れ途切れの道でも、君なら繋いでいける。君の進む道は、どんなにかけ離れた道だって全部まとめて一つにしてみせるもの。……そう、信じてるよ」

 

 私らしさがあるから、私だからこそ。そう私を見ていてくれている人が言うのだから、私には他に道はない。すべての道を繋ぐという、大それた道しか選べない。それが結論。それが私の結論。私らしい、道の歩み方。私のことを心から考えて、やっぱりそういうアドバイス。

 雲が晴れるような気がした。日輪が心臓に宿る感覚があった。……ならばこれが、私の正解だ。

 

「……ありがとう、トレーナー」

「元、だから。そうだ、最後にお願い」

「何かしら」

 

 しばらく話し込んでしまったけれど、これがあなたと私の最後の会話になるということか。けれどそれも今途切れるだけで、時間が経てばまた繋がる。またきっと、あなたとのつながりは意味を持つ。そしてそうであるなら、最後の言葉も納得して受け止められるだろう。これも、断絶ではないのだから。

 珍しく言葉を選んでいる様子の「元」トレーナーが、やがて意を決したように。ぽつりぽつりとそこに語られ始めたのは、更なる未来の話だった。私が行く道の先。これからどんな道を進むとしても、その先に目指すものの話だった。

 

「今、チーム<サドル>はそれなりに順調。一人抜けた穴も埋まって、前より強いかもしれない。いつかはGⅠだって、夢じゃない」

「なにそれ、嫌味かしら」

「だから、キングにはひとつお願いがある」

 

 そう言って、彼女はそれまで若干ふらつかせていた両手を身体の側面にぴったりと付けて。鋭い眼光がこちらを捉え顎を引いて、少し小さな全身で私に向き合う。その態度を言葉で表現するならば、それは「敵視」と呼べるものだった。やっぱり彼女は、もう私のトレーナーではなくて。

 

「いつか、私たちがGⅠに手が届きそうになった時。そんな最高の、ギリギリのタイミングで」

 

 そうしてそんな敵意の塊から、宿敵たる私に対して告げられる言葉は。

 

「私に思わせて。『一番いてほしくない奴が、前にいた』って。私を、悔しがらせて」

 

 ──それは複雑になった私たちの関係を、一言でまとめ上げるものだった。すべてを、私とあなたの過去と今を、すべてを込めた一言だった。

 

「……なによ、そんなのって」

 

「簡単じゃないよ。でもキングならできる。あなたはGⅠを取れる器だと、私は信じている。……うん、最初から。スカウトした最初から、君の力を疑ったことなんてないから」

 

 もちろん全力で阻止してみせるけどね、とそのあと付け加えたけれど、彼女が私にかけた言葉は、これ以上ない本物だった。敵対する関係からしか言い表せない、本物の激励。いつか共に歩んだ関係からしか言い表せない、本物の宣戦布告。私が彼女を悔しがらせる、いつかの意趣返し。「悔しい」って気持ちを、今度こそ私からあなたに与えてみせる。

 そう、そうしてほしいという願いの形。

 当たり前のように、彼女から私にも道が繋がっていた。途切れてなど、いなかった。やっぱり、彼女の言う通り。途切れ途切れの道を繋ぐことこそ、私らしさなのだと。それを告げた彼女自身が、私の姿にその道筋を見ていた。

 

「当然、じゃない」

 

 ならば私にできるのは、その道も繋いでやること。何度も諦めず、幾度も道を迷おうとも、それでもすべてを絶対に諦めない。途切れたように見える道をすべて繋ぐことが、私だけに歩める長い長い王道だ。

 

「だって私は一流のウマ娘、キングヘイローなんだから!」

 

 そう、高らかに宣言しよう。いつものように、されど悩みつつ。どんな道を選択しても私らしいのだと、その基準さえあればいい。選んだ道たちが途切れかけ離れているのなら、変わらない私らしさで全ての道を繋いでいこう。そうして繋げば一つの道になり、きっと積み重ねることができる。私らしさだけは永遠に変わらないから、どんなに変化していく道のりだって一つにまとめることができる。それこそがきっと、誰かにはできない、私らしさだから。

 たとえ大地と天空のように、それぞれがどうしようもなく乖離していても。それさえ結ぶ雷光の如く、すべてをひと繋ぎにして駆けていこう。

 そこにあるのが、私の征く道だ。




ここまでお付き合いいただきありがとうございます 今となっては青い文章ですがぜひよろしくお願いします
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