天高く、ウマ娘肥ゆる秋。なんて言っても私たちは食欲に任せて太るわけにはいかなくて、やっぱりレースのためのトレーニングに身を捧げる毎日なんだけど。いつも通り変わらず、とはいえ季節や時間のめぐりを感じないというほどではない、そんな日常だ。
あれからスズカさんは日々リハビリに勤しんでいるらしく、その様子はスペちゃん越しに毎日のように伝え聴いている。誰が聞くまでもなく、昼休みになれば毎日スペちゃんは昨日の放課後スズカさんが〜という話を始めるのだ。
そしてそこでは私はどちらかと言えばやっぱり部外者で、エルやグラスちゃんほどにはスズカさんの話題に気持ちを寄せれるわけではない。だけどそれでもスペちゃんの話を聞いて、私はよかったと思うのだ。大切な友達の、大切な人。だから本当に、よかった。それにもちろんいつかは私だって、スズカさんと仲良くなりたいし。……まるっきり縁がないのにお見舞いにまで行くのは、どうしても憚られてしまったのだけど。いつかはつながりを持ちたいけれど、まだ無理かなあ、引っ込み思案のセイちゃんとしては。
まあ、それはそれ。ともかく今は、秋。もっと厳密に言えば、秋の日の放課後。さらに極めてこの瞬間を正確に形容するなら、放課後のトレーニング中。
つまりここまでの回想にどういう意味があったかといえば、おおむね練習から気を逸らすためのサボりか暇つぶしに類するものである。
いや、私だって有マ記念に向けて諸々頑張らなきゃいけないのは、その通りなんだけど。だからまあ、もうちょっとしたらトレーニングに戻るのだけど。
こと今のチーム<アルビレオ>においては、有マよりちょっとだけ手前のタイミングにもう一つ大事な一戦があるのだ。チーム<デネブ>にも相変わらず協力してもらいながらの、それくらいには大事な一戦。そりゃあ年末の中山ほどじゃないんだろうけど、そんなのは単なる規模の話。すぐそこで待っている別の舞台が、ある一人のウマ娘にとって今一番大事なことで、彼女のためなら私だってなんだってしたい。今まで私があなたに支えてきてもらったように、ついにあなたは人の期待を受ける側に回るんだ。走り、出すんだ。
ほら、未来の主役は目の前に。今日だって、誰よりもひたむきに真摯にトレーニングに勤しんでいる、その人がいた。新たなはじまりへの扉を開く、それまでの僅かな瞬きに残された時間を精一杯に使う、明るい栗毛を揺らして走るあの人がいた。
「……はい! もう一本、走りますっ!」
そう元気よく答えたのが、チーム<アルビレオ>のリーダー、ナリタトップロードさん。間もなく開く夢の舞台の、彼女なりの中心にいる人だ。いつものようにみんなを見守るのではなく、今はただひたすらに自分のために。
そうやって、トップロードさんは己を厳しく鍛え上げていた。
遂に、満を辞して。そんな形容こそが相応しいとさえ思える、トップロードさんのデビュー戦。いつだって頼れる先輩で、チームみんなを引っ張ってきてくれた人の、初めて見るかもしれない彼女自身のための行動。それが今の、「私たち」の最優先事項だ。
「……スカイさん、大丈夫ですか?」
「ああごめん、ちょっとぼーっとしてたかも」
なんて、そんなふうに人の心配ばかりしていられないのもまた事実。見るからに様子がおかしかったのか、私の方こそフラワーに心配というか、注意されてしまった。腑抜けてないかーって感じで。その声音に込められていたのは優しさではあるけれど、内容的には叱られてるのとあんまり変わらない。さて、なんと言い訳しようか。そもそもさっきうっかり口を滑らせて、ぼーっとしていたと白状してしまったような。あれ、じゃあなんて言おうか、この状況。
などとまあ色々雑多に考えていると、フラワーの方から話を広げてきてくれた。ちゃんとビシッと、君には私のことなんかお見通し。
「トップロードさんのこと、見てたんですよね」
「……まあね。やっぱり気になるよ」
「去年のスカイさんはどうだったんですか?」
「どう、とは」
なんだろうか。私をここで話題に出す理由とは。フラワーが自分で言った通り、これはトップロードさんを中心に置く話なのに。
そんな疑問に対して、フラワーは納得のいく答えを返してくれた。本当に、納得の。
「デビューする時のことですよ。それって、他の人へのアドバイスになるかもしれないじゃないですか」
そう言われてみれば、という感じだった。私には微妙に思いつかなかったけど、至極当然ともいえる答え。他人へのアドバイス、かあ。そんな提案ができるのは、いつも誰かのことを考えてるフラワーならでは。多分これも、アドバイス。人を支えるために、知らないことを導いてあげる献身の形。今までの私にはあんまり、人に教えられることはなかったんだけどね。でも確かにそう言われれば、それは私にならできることかもしれない。トップロードさんのために、私だからこそのやり方で何かできるかもしれない。
……とは言っても、私の場合はどうだったかと言われると。
「……うーん」
「どうしたんですか?」
「いや、あんまり参考にならないかもなと思って」
なんて、早速後ろ向きな結論。とはいえこれは一つの真理みたいなものだ。似たような経験であっても、そこに至るまでの成り立ちや想いは大体みんなの中で違うものだろうし。
たとえば私はトレーナーさんに一回デビューを空振りさせられたけど、トップロードさんはそんなことない。あの頑固で意固地なトレーナーさんが人を見て少しばかり柔軟に判断を変えているというのは、今更ながら意外ではあるんだけど。
私の時にトレーナーさんが引き留めたのは、当時私の中にあった気持ちの問題だった。誰だって抱える、デビューというものへのさまざまの考えや感情。けどやっぱり私のそれは、トップロードさんにそのままは当てはめられない気がする。私とトップロードさんは、違う人間だから。私とトップロードさんは、違う人生を歩んできたから。
それでも、私の言葉はアドバイスの体を成せるのだろうか。
そんなやはり悩み悩みの私に対して、フラワーはあくまでも提案を続ける。
これも彼女なりのアドバイス、だった。
「私は、もし私なら、ですけど。スカイさんのデビューの話、聞けたら嬉しいって思います。……私もまだ、デビューはしていないですけど。やっぱり、不安はいっぱいですから」
……瞬間。その言葉を引き金に、胸に去来する回顧録があった。
もう一年以上前なのに、鮮明に残るあの時の感覚があった。
そういえば、デビューの時は色々悩んだ。強くて眩しいみんなが、自分を置いていくんじゃないかという恐れ。自分が期待を背負う立場になることへの、裏返しの不安。結局今となっては、その時の見え方はコインの一側面でしかなかった。
みんな私が思うほど強いばかりじゃないし、私自身にも思ったより、強いところと弱いところがあった。それは今になってわかること。でも、あの時はわからなかったことだ。わからないなりに、進もうとしていたことだ。
となるとつまり、フラワーの言いたいことは一つ。方法論として、役に立てるかはわからない。それでも、私が教えてあげられることがある。
「同じ悩みかは、わからないけど。私も不安だったよって、言ってあげることはできる」
「はい。スカイさんなら、それができると思います」
「そっか。フラワーが言うなら間違いないね」
君なら、私のことをよく見ているもんね。それだけ評価されてしまうというのは、少しくすぐったいけれど。だけど今の私は、昔よりは素直に期待を受け止められている。そして、それに応えたいという気持ちも、受け入れることができている。そんな気持ちはどちらかというと、新しく湧き上がったものじゃなくて。もっと昔の幼い私の、褒められたいって想いに近いもの。変化は時に温故知新。過去と現在と未来さえ混ざり合って、ここに私はできている。
そして、これから先だって。そのことだって、トップロードさんに教えよう。
いつも導いてくれたぶん、今度は私があなたを照らそう。
誰しも未来は怖いけど、一歩進めばそこは光に満ちているんだ。
「……フラワー! 少しこちらへ来てくれる?」
「あっ、トレーナーさんに呼ばれちゃいました」
練習の合間の会話なんて、唐突に打ち切られるためにあるようなもの。というわけで最低限って感じで、それでもしっかりと変化を生んだフラワーとの時間は終わりを告げることとなる。
まあそれならフラワーに言われた通りトップロードさんと話すのも、ちゃんとトレーニングが終わったあとの方が良さそうだね。これはじっくり、しっかりと話さなきゃいけないことだろうし。何よりトップロードさんにはとりあえず練習に集中してもらって、そのあとの独りの時間を減らしてあげるのが一番だ。
なんて本題のついでに、ふと思うのは。立ち上がってお尻についた土を払ったばかり、そんな彼女にも感じ入ることがあった。なんでもないことだけど、本当になんでもないことだけど。
「にゃはは、フラワーもサボりが板についてきたね」
「……もう! でも確かに、スカイさんの影響かもしれませんね」
なんて、ちょっとした彼女との会話で思ったこと。フラワー、昔よりおしゃべりになったね、ってさ。それもやっぱり変化の一つだとして、果たしていい変化と言えるものなのやら。しかも私の影響って、私が彼女をサボり魔にしてしまっているのか。それはちょっと責任を取るのが大変だなあ、とは思ってしまう。
だけどそんな私の心配に反して、君は朗らかに笑いながら。
「私がこんなにお節介になったのは、スカイさんの影響、ですから!」
そう、めいっぱいの笑顔を残して。
ふわりと尾を揺らしながら、フラワーは向こうへ走っていく。
本当に、変わったなあ。
いったい君はいつの間に、そんなずるくて人の心を柔らかく混ぜ返すような言い回しができるようになったのやら。でもそれならずる賢いウマ娘に影響を受けたというのも、なるほど説得力があるというべきか。
やれやれ、困っちゃうね。君にも、私にも。
まあ何はともあれ、私のやることは決まりだ。シンプルで、だけど少し難しい。とはいえ目の前で実践されたからには、私だってやらなきゃいけないに決まっている。
フラワーから受け継いだお節介のバトンを、トップロードさんに渡すこと。
わからないことをわかるようにはできないかもしれないけれど、わからなかったのは同じだよって言ってあげること。
そうやって受け継ぐことで、人はかけがえのない誰かになれる。
未来に向けて、変わっていける。
みんなが、変われるんだ。
練習を終えた皆を見下ろす、カラスも鳴き始めた秋茜の空。とはいえ秋も終盤戦、その夕暮れが明るいオレンジから色合いを変えていくのもだんだんと早くなってきた。そしてグラウンドの真ん中で、そんな濃く深い橙を見上げているトップロードさんがいた。そのまま見ていたら彼女の方が吸い込まれそうなくらいに、ずっと空の奥を見ていた。ただ一人、物思いにに耽っていた。邪魔しちゃ悪いかな、なんて思いつつ。とはいえ私のやることは、決まっていて。
「お疲れ様です、トップロードさん」
「あっ、お疲れ様です! スカイちゃん、有マ頑張ってくださいねっ」
邪魔にはならないようにと恐る恐る声をかけてみると、全然予想だにしていなかったって感じの、びっくりしているような変な調子の返事が返ってきた。
やっぱり声をかけてはいけなかったかも、そんなのはちょっと思ってしまった。
だって、そんな人に「頑張ってくださいね」なんて言いはしているけど、その言動の通りに誰かの心配をできるような状態の人の挙動じゃない。ぴんと手足が張ってるし、耳は忙しなく動いている。明らかに、余裕がない。逆に有マを控えた私がなんで余裕がある感じなんだろう、そう思わされてしまうほど。まあそりゃあ、目の前の人がそれどころじゃないからだけどさ。
「それをいうなら、じゃないですか。トップロードさんも、頑張ってください」
「……はい」
表面的には元気だけど、全身から滲み出る緊張はやはりというべきか。少しつつけばそのままバランスを崩して倒れてしまいそう、そんな危うい姿に見えた。いつも活力に溢れている印象の強い人だからこそ、今はそこに落ちる影がくっきりと表れている気がした。
……いやむしろ、今まで見ていたその姿は、コインの一側面に過ぎなくて。この人にもやはり、表裏一体の裏がある。きっと、そういうことなのだろう。そしてそれなら、私がやるべきことはやっぱり決まっている。
「トップロードさん、このあと時間ありますか?」
「はい……? あります、けど」
「それは良かった。なら、ご迷惑でなければという感じなんですけど」
ぱん、と両の手を合わせながら、私は一つの提案をする。思えばトップロードさんは、色々なことで親身になって助けてくれた。チームから抜ける子が出たあの時も、キングとの距離に悩んでいたあの時も。自分だって思い悩むタチなのに、いつでも受け止める側に立ってくれる。
私にとって一番の、素敵な先輩だ。そんな人に、私がやるべきこと。私がしたいこと。ここにあるさまざまの想いを、たった一言で表すなら。
「トゥインクル・シリーズの『先輩』として。今から私を、頼ってください」
恩返しが、したい。
いつもの反対。
いつもの裏返し。
人の関係性だって、表裏は全く決まっていない。
だから助けられてばかりの私だって、誰かの力になれるはず。
あなたのために、なれるはず。
そう、私はトップロードさんの裏側を見せてほしい。
時折見せてくれるそれを、しっかりと受け止めて抱きしめたい。
あなただって表裏一体。明るいだけの人間じゃないって、とってもよく知っているんだから。
人は、人を助けられる。当たり前かもしれないけれど、私にとっては多分、このチームに入ってからわかったこと。当たり前だけど、チームに入って、トゥインクル・シリーズで走って、その中でたくさんの人とつながりを持ってわかったこと。そして<アルビレオ>に入った理由の一つには、あの日のトップロードさんの精一杯の勧誘があるのは事実だろう。
なら今の私があることも、少しばかりはあなたのおかげでもあるのだ。
だから私にはこの人に返さなくちゃいけないものが、まだまだたくさんある。
これまで尽くしてもらったものを、今日が今までをお返しできるきっかけになるのなら。
それは嬉しい。それは逃したくない。それは、私とあなたにとって大切なこと。二人のために、これからの時間は存在するんだ。だって、これもつながりだから。
トップロードさんは、言葉なくこちらを見つめていた。「先輩」として頼ってほしい、そんな私の言葉に揺らされていた。瞳は揺れて、尾も揺れて。不安と私の言葉によって生まれた心の揺らぎが、身体の表にまで出ているようだった。そんな彼女に私ができることがあるとすれば、できる限りの言葉を連ねる他なかった。
そうすることこそが、一番だった。
「いつかトップロードさん言ってたじゃないですか。『辛いことを一人で抱え込ませたくない』って。こうも言ってましたね。『適度な距離感だから言えることもある』とか」
「そんなこと、言いましたっけ」
こらこら、そういうのは下手なんだからしらばっくれない。日も落ちてだんだん暗くなってきたけど、その表情くらいは見えますよー。「痛いところ突かれたな」って顔。自分では人の本質を突くことを言えるのに、他人からそういうことを言われるのには慣れてないって顔。
とはいえ人を頼るのが苦手なのは、私も全く他人のことは言えないのだが。まあそういう相手には、むりやり手を伸ばすべきだと相場は決まっている。
そういえば、思い返せばこれだってトップロードさんから教わったことか。一人の子がチームを抜けていったあの日、自分自身ですら気づかない震えに襲われていた私の手を掴んで離さなかったトップロードさんがいたって、私だってしっかり覚えているんだ。
……そうやって言われたことのおうむ返しでちくちくやろうかなんて思っていたところで、一ついいアイデアが浮かんだ。結局、おうむ返しなんだけどね。フラワーのそれにずるい言い回しなんて思ってやったけど、やっぱり私の方がずるいかも。ずるいを通り越して、ロクでもない。いやあ、反省しなくては。
反省するとしてもトップロードさんを助けたあと、だけどね。
「はい、言いました。……そして、こうも言いました」
まだ、空は黒色にはなっていない。まだ、門限には遠い時間がある。それにたとえそこまで暗くなったとしても、星空の下というのもオツなものだろう。門限を超えるのだって、優等生のあなただからこそ、たまには、ね。
「『一緒に走ったあとなら、なんだって言える』。『スカイちゃんとも、走りたい』。……なら、今からやるべきは一つです」
そこまでもったいぶって、私は誰にでもわかる結論を宣言する。トップロードさんも同じ答えに至るだろうというくらい、わかりやすい結論。
だからきっと、今は二人で。一人と一人の私たちは、このタイミングで一致する。
一緒の、二人になる。
二人で、同じことを考えていた。
二人で、決意した。
「走りましょう。今から、です」
だから、二人で踏み出すのだ。
しんと声が震えて響く、誰もいないグラウンド。練習メニューはとっくに終わったあとの、ほんの少しのオーバーワーク。そんな貴重なプライベート、それぞれの持つ時間と空間を二人で共有できるのなら、その事実は間違いなく。
未来のライバルを互いに見据えて、また一つ走ることを重ねるのであれば、疑いようもなく。
「……はい! 初めての勝負、ですね!」
紛れもなく、これも「最高」の一つ。
そんな出来事はこの先も光のように溢れていくのだと、そのために互いに言葉と未来を紡いでいこう。走ることはいつだって、ウマ娘にとって最高を描き出してくれるものだから。
誰かと。
みんなで。
私たちで。
併走というものは、そもそも何のために二人並んで走るのか。すっかり夜の色になってしまった練習用のターフに向かいながら、いつかの授業で聞いたそんな話を思い返していた。たとえば私が今からトップロードさんと走る意味、みたいな。ちなみに教わった理屈としては、競り合うことで競争心が刺激されていいタイムが出る、みたいなことらしい。けれどそんな真っ当な理由は、今からの私たちには当てはまらない。もう他はみんな帰ってしまってタイムなんか測ってくれる人はいないし、根本的なことをいえば私は併走だろうと競り合うのキライだし。ちなみにいつも逃げを打つのはそういう理由でもある。誰かと一緒に走るのは、本来私の性には合わないということかもしれない。
でもそれなら、私はなぜ。
「……じゃ、やりましょうか。ここに石ころが一つあります。上に投げるんで、地面の上に落ちたらスタートです」
「はい。ありがとうございます、スカイちゃん」
なぜ、今からトップロードさんと併走をするのか。どうして私は、その選択をしたのか。トップロードさんが昔言っていたことを体現するのだという表層的な理由はあるけど、根本的な理屈が自分でもわからない。不安を抱えたトップロードさんのために私から提案したのに、自分の方がそんなことでどうするのか。
でもその理屈がわかるより前に、もう走ってしまうことになりそうだ。わからないことをはっきりさせたい気持ちは確かにあるけれど、時間はそれを許さない。
それに、なんとなくそのままでいい気もしていた。これもやっぱり、理屈がない。先輩として何か教える立場なのに、わからないことばっかりだ。やれやれ、仕方のない私。
でも、とりあえず。「じゃ」とだけ告げて、握っていた石を大ぶりに投げる。真上に広がる星たちに向かって、真横に待ち構えるトップロードさんに向かって。緩い放物線を描いたそれは、程なくして地面に落ちる。ふわり、そんなオノマトペと共にウッドチップに受け止められる。すとんと落ちる、響くことのない微かな音だった。いつものゲートの開閉音に比べたら、静かで何もないような音。その音から作られる世界への波紋も、限りなくゼロに近いだろう。
だけど。
だん、と二人同時に地面を蹴る音は。そこに重なりひろがるうねりは、ゼロじゃない。
世界は変えられなくても、世界を見る互いの目は変えられるんだ。
併走というものは、何のために。走り始めたあと、私はやっぱりそんなことを考えていた。「走ったあとならなんだって言える」というのはトップロードさんの弁だ。今私の横で、ただひたすらに駆けるその顔が告げていた言葉。ちらりとそちらを見てみたけれど、こちらと目が合うことはなかった。そんな余裕は、彼女にはなかった。いや、自ずから捨てていた。いつもは丸く見開かれている瞳は、獲物を捕らえるための鋭さを身につけていた。いつもは快活に開かれ大きく声を出す口元は、ただ酸素を的確に吸収するために小さく固定されていた。
走っていた。本気で、走っていた。
そのひたむきな姿を一瞥した私もまた、脚と視線を未来に据えて。やはり今は、何も考えなくていい。走る前に散々悩んだ併走の理屈は、走り始めてみれば当たり前のように見えてきていたから。やっぱり、走るのは楽しい。ウマ娘は走るために生まれてきたなんて言説も、過言でもなんでもないように思える。
そしてそれが本能にある限り、私たちが走ることは常に道を切り拓けるものなのだと。
「はーっ……はーっ……」
「トップロードさん、なかなかやりますねっ……!」
「はあっ、ありがとう……ございますっ」
もちろんこれは、お世辞じゃない。中距離2,000mのトレーニングコースの半分くらいまで並んで走ってきたわけだけど、気を抜いたらすぐに追い抜かれて置いていかれてしまいそうなくらい。恐れ多くもクラシック二冠ウマ娘の私についてこれるのなら、客観的に見て相当な能力を持っているはず。トップロードさんは、しっかりと強さを持っている。彼女は確実に、デビューに向けて積み重ねていられている。
だけど己がいくら秀でていようとも、油断ならないライバルがいるのがトゥインクル・シリーズ。だからきっとこの人は、不安を抱えずにはいられない。どこまでも努力しつづけて、その努力に見合った期待を背負って。そしてそれ故に、期待の裏返しの不安を抱いてしまっている。トップロードさんの背中に乗っているものが、なんとなくわかり始めた。一つずつ、一つずつ。走ることで、わかっていく。
ターフを踏み締める蹄鉄の音は、互いの足元からそれぞれのリズムを鳴らす。そのリズムはあるいは心に宿る拍動に近く、だから私たちはその走りから何かを読み取ることができる。
互いのこと、自分のこと。やっぱり、走ることは大切なこと。想いを乗せて、純粋に楽しめること。そんなふうに思うのは、私たちにとってはきっと当たり前のこと。だけど、何度も噛み締めるように再確認できること。深く、深く味わえること。
今日もまた、走ることから見つけられるものがあった。
また。また、積み重ねられたのだ。
気づけばそろそろ2,000mのコースも終わりが近かった。ばら撒かれたウッドチップに蹄鉄の跡を二人ぶん付けながら、私たちはラストスパートに入る。互いに息を荒げて、ジョギングしながらの語らいみたいなものはなくて。真剣に獰猛に、前だけを見てひた走る。
それが互いの闘争心を駆り立てる、併走というものだから。
それが私たちにとっての、走るということだから。
かつてトップロードさんのが言った通り、さっき私が言った通り。
「もうっ、少し……!」
「はっ、はーっ……」
やっぱり、やっぱり走るのは楽しい。
すっごく、楽しい。
私にとっては何度目かのこの気持ちは、トップロードさんにとってはまだ新鮮な感情かもしれないけれど。そんなウマ娘にとってはありふれた想いを、ありふれたものだからこそ、今この瞬間に共有できていたらいいなと、同時にゴールを駆け抜けながら思った。
強く強く、ターフにぎしりと二人の足跡を刻みながら。
今日走ったこの寸刻の記憶を、それぞれの脳裏にも刻みながら。
そして忘れてはいけないのが、この場所でこれまで走ったのは私たちだけじゃないってこと。今までたくさんのウマ娘が、この道で走りに夢を乗せてきた。思い思いに願いを込めた、自分だけの夢を。みんな同じコースを走るのに、みんな同じように悩みを抱えるのに、それでもみんな、違う夢がある。だからやっぱり、走り終わったあとでもやっぱり、私の話はトップロードさんの参考になるかはわからないのだけど。それでも、強く願うのは。私のすぐ横で少しがっしりとした肩を大きく上下させながら、汗と土だらけのジャージをどろどろに身に纏いながら、それでも青い笑顔を光らせるその人に想うのは。
「ありがとうございました、スカイちゃん!」
他の誰のものでもないその夢が、どうか煌めきますように。
「……はい。お話しする前に、いつもの調子が見れてよかったです」
この先いくら悩み迷えど、あなたがあなたでありますように。
そんな、やっぱり当たり前だった。
当たり前だけど、特別だった。
「さて、お疲れ様でした」
「はい、スカイちゃんもですよ」
夜のターフに二人きり。なんとかまだ門限には至っていないけれど、大体誰もいない時間。少し肌寒い風がふわりと体の隙間を撫でるように通り過ぎて、そのまま星が散らばる夜空へ消えてゆく。きらきらの光の粒がよく見える、よく晴れた空だった。そんな空と同じくらいに、晴れやかな気分だった。どこまでも、澄んでいた。今ならなんだって話せるくらいに、だった。やっぱりそれも、いつかトップロードさんが言った通りだった。今横で佇む人からの、かつてのアドバイス通り。
それなら、次は。
「じゃあ、満を辞して。なんて、そんな大したことは言えないですけど」
「はい」
「トゥインクル・シリーズの先輩として。お話し、しましょうか」
次は、私の番。アドバイスというものになるかはわからないけれど、私からあなたに教え伝える番。まだ夜はこれから。まだ今日は終わらない。
宵闇はいくら広がれども、私たちを閉じ込めない。
未来は常に、光射す。
コース横のレーンに二人で寄りかかり、それを合図に私はゆっくりと口を開く。デビューの頃の、ちょっと前の私の話だ。懐かしいというほど昔じゃないはずなのに、遠い記憶をたどる感覚。それはきっと、私がそこから変わっていったから。積み重ねて、大人になっていっているから。あるいは自分の過去を誰かに受け継ぐことこそが、私自身の成長を表しているのかもしれない。あの頃から変化していると、私は私に示しているのだ。
「私、結構デビュー遅かったんです。トップロードさんも知ってると思いますけど」
「はい。トレーナーさん、結構心配してましたね」
「ああ、そうなんですね……あの人には一回止められましたけどね。デビューが遅かった理由の一つはトレーナーさんですよ」
そう言ってみると、トップロードさんはやや意外そうな表情。やや、というのがミソで、やっぱりトレーナーさんがそういう人なのはバレてるみたいだった。こちらを試すように本心を隠すくせに、その実いつでもびくびくしてる人。
そういう困ったやつなのは、そりゃあチームのリーダーとしてあれだけ付き合わされたらわかりますよねえ。初めて同志に会えた気分。
まあ、そんなのはさておき。そこで私の話は止まらない。だってあの時も、一度立ち止まることはあっても、いずれそこから先に進んだのだから。
「でも、そうやって一度止められたこと。多分いい意味はあったんですよね。私にとってのタイミングは、多分遅くてちょうどよかった。……トップロードさんは、どうですか?」
私にとってのデビューもまた、恐れや不安を孕んだものだった。同期のデビュー、前を向くその姿。どこまでも輝くそれに対して、自分は勇気が出せなかった。諦めそうになっていた。だから期待に応えなければいけないのだと、むりやり前を向こうとしていたのをトレーナーさんに見抜かれた。そして、止められた。今となってはその理由がわかるけれど、あの時はより追い詰められた気分だっただろう。
そんな状況に追い込まれ、逃げ道を失くしそうになって。今度こそ本当に、諦めることを視野に入れて。でもだからこそ、そこまで道を閉ざされそうになったからこそ、ようやく私はデビューしたのだ。負けたくないと、初めてその時思えたから。自分自身の気持ちで、道を切り拓きたいと願えたから。だからデビューしたいと、私は私の気持ちで宣言できた。
そう、走るだけならトゥインクル・シリーズに挑む必要なんてない。もう一つ、ウマ娘の本能と呼ばれるものがある。本能といってしまえばずいぶんと動物的にも聞こえるけれど、根源的な衝動であるそれは生きる理由に等しくたっておかしくない。本能に想いを重ねることで、何よりも強い気持ちにすることができるのだから。
そう、だから。だから、私たちは望むのだ。勝ちたいと、勝利を得たいと望むのだ。勝ちたいから、私たちはデビューする。
トゥインクル・シリーズは、走って、勝つ場所。
そのための、舞台。そのための、戦場。
そして勝利こそが至上の場であるならば、そこに挑むことを決めたあなたはきっと。
「トップロードさんも、今デビューしたい理由があると思うんです。きっとそれはどんな恐れや不安よりも、優先したい理由で」
「……はい」
「なら、先輩として言えるのは。その気持ちが嘘じゃないなら、絶対大丈夫だよってことくらいです」
悩むことはある。後悔することもある。夢が叶わないことも、やっぱりある。それでも私たちが歩んだ道は、どこにだって間違いがない。それはきっと、これから歩む誰かだって。すべてのウマ娘にとって、走り勝ちたいと思うことは間違いじゃない。
そこまで告げて、一息吐く。そうするとたまたま、ふう、とトップロードさんの息の音も聞こえた。二人ぶん、一緒に聞こえた。
重なったのがなんだかおかしくて、ちょっとだけ私の口からふふっと笑い声が漏れてしまう。釣られてトップロードさんも、ぷすっと。そうなると連鎖して、二人でけらけら笑ってしまう。すっかり帷の降りた空間に、笑い声だけがこだましていた。
走り始める前に二人の間にあった緊張は、すっかり夜に溶けていた。
そうしてひとしきり笑い合ったあとに、トップロードさんがまた言葉を並べる。
空に、再び音が響く。
「確かにスカイちゃんのいう通り、怖くて不安です。でも、私がデビューしたいのは嘘じゃないです。胸を張って、そう言えます」
「なるほど。ちなみに、その理由は」
トップロードさんが、デビューしたい理由。ある種私たちの本質そのものともいえるその問いには、答えるのにやはり少しの思考時間を要した。けれどしっかりと返答があったことこそ、彼女の迷いのなさを示している。そう思った。そう思えるほどに、強い言葉だった。
「一緒に走りたい、相手がいます。期待に応えたい、気持ちもあります。……こう言ってしまうと、ありきたりに聞こえちゃいますけど」
「そんなことないです。そう思ってる自分と相手が唯一無二なんですから」
「はい。……とは言っても、相手はとっても自信たっぷりだったり、ものすごく真剣だったり。本当に私がその相手に相応しいのかとかは、やっぱり考えてしまうんですけど」
なるほど、それは私も似たようなことを考えていた気がする。どうしても他人はきらきらして見えて、自分は逆に頼りなく見えてしまう。だけどそんなことはないと、私は知っている。どんな不安より明瞭に、私たちを証明してくれるものがあるから。まだトップロードさんは知らないことだ。それは、つまり。
「走ってみれば、わかりますよ。だってライバルなんですから。その人たちと一緒に、トゥインクル・シリーズを走るんですから。悩んでも悩まなくても、すぐにわかります」
つまりそれが、私からあなたに教えられること。もうすっかり夜は始まってしまっていて、話し相手の顔だってはっきりは見えないくらいだったけど。その言葉を聞いた時の彼女が一番いい顔をしていたと、私はそう記憶している。
大いに悩んでいい。
大いに迷っていい。
だけどその上で走ったのなら、その先の答えや結論はシンプルな方がいい。
もっと、走りたい。
誰かと。
みんなで。
私たちで。
「いよいよだな! トップロード、行ってこい!」
「はい、トレーナーさん! 私、頑張ります!」
「一生懸命、ほどほどに、ですよ。……というよりトレーナーさん、私のデビューの時はこんなに応援してなかった気がするんですけど」
「スカイの時はその方がいいと思ったからだ。だが今日のトップロードは、一番人気だからな。期待に押しつぶされないよう鍛えた方がいい」
「なんかうまく丸め込まれた気がしますけど、そういうことにしときましょうか」
私たちがそんな会話をガチャガチャやっていたのは、トップロードさんの控え室。というわけで、今日はトップロードさんのデビュー戦当日、この時間はその直前の待機時間。ここまであっという間といえば、あっという間だった。
そしてデビュー戦ながらトレーナーさんの言う通りトップロードさんは一番人気で、いきなり大きな期待を背負ってしまったという感じである。私としてはまだ一番人気など取ったこともないので、想像のつかない世界と言えるかもしれない。そういや秋の天皇賞の時も、スズカさんと違って私は、なんて考えたっけ。
まあ、それはともかく。それどころじゃない人が、目の前におられますので。
「大丈夫ですか? トップロードさん。結構目がぐるぐるしてますけど」
「あうっ、そうですか……。正直、緊張しているかもしれません」
「そりゃ、無理もないですよ。レース前って、これからずっと緊張するもんですからね」
「そう、ですね。ありがとうございます。やっぱりスカイちゃんは、頼りになる先輩です」
「トップロードさんにそういうこと言われると、なんだかくすぐったいですねえ」
散々先輩風を吹かせてしまったけれど、そう直接口にされると、今になってちょっと恥ずかしく。トップロードさんに教わったことの方がよっぽど多いし、この数日で返せたのはほんの少しだけ。それは事実。まだまだあなたには貰ってばかり。だけど、まだ終わりじゃないから。それでも私たちは、これからも続いていくから。
「ほら、時間ですよ」
「……はい! いよいよ、ですっ」
「行ってこい!」
「行ってきます!」
そうして、私とトレーナーさんの二人がかりで背中を押して。
いよいよトップロードさんのトゥインクル・シリーズが始まる。
緊張を少しでもほぐせたのなら、私が今日までやってきた恩返しはちゃんと意味があったということ。今日この日まで、トップロードさんを連れて来れたということ。
今日から、この瞬間から、彼女には今まで見えなかったものが見えるようになる。
新しい世界が、幕を開けるのだ。
……ちなみに、レースの結果はというと。
「惜しかったな。クビ差二着。次は勝てるぞ!」
「はい。……でもやっぱり、勝ちたかったですね」
トップロードさんは惜しくも二着に破れ、初戦から白星とはいかなかった。そういう結果。
もちろん誰だって自分が無敗神話を築けるなんて思ってはいないけれど、負けは悔しい。
強欲にも傲慢にも、一人しか獲れないはずの勝利へ手を伸ばす。私こそがそれに相応しいって、本気で信じて闘う。
とはいえそれも当たり前のこと。本気でやっているから、負けたら悔しいんだ。だから、トップロードさんは今こんなに悔しいんだ。
初めてのレース、初めての敗北。勝利の喜びを知る前に、敗北の痛みを刻み込まれた。それはどれほど、どれほど悔しいことだろう。終わったことだとしても、記憶に残るものだろう。
だけど、だった。確かに悔しさでくしゃくしゃに歪んだままのトップロードさんの口から、また言葉が繋げられる。凛とした口調で。
まだ、迷えども。
「次は、勝ちます。もちろん、勝てるとは限りません。それは、これから先ずっとです」
迷えども、挑みつづける。それは祈り。
「でも、勝ちたいって思います。負けを無駄にしたくないって、ずっとずっと走りたいって」
迷えども、走りつづける。それが夢。
「……だって今日、とっても楽しかったですから!」
迷えども、そう笑えるのは。
それこそきっとこの人の一番の強さだと、私はそう思うのだ。
そうしてまた一つ、始まった。