その日にトレーニングがないことは、前日のうちから通達があった。私とキングの有マ記念と、トップロードさんの初勝利をかけたリベンジマッチという、二つの大事な本番を二日後に控える超直前のタイミングでお休みというのは、ともすれば呑気、みたいに捉えられるかもしれない。私としては一度気持ちを落ち着けるみたいな意味合いでもいいことだと思うし、そういうのはもちろん大歓迎なんだけど。お休み大好きセイちゃんとしては、もちろん。
だがうちのトレーナーさんがいうには、今回のお休みは<デネブ>のトレーナーさんの提案らしい。つまり今回のこれはチーム合同で行われる「お休み」であり、そうなるとそれはもはや「お休み」ではなく。私たちのレースがある十二月二十七日の二日前、そんな十二月二十五日にトレーニングを返上してでも行うような、それほどまでのイベントといえば。
今日しかないような豪勢なディナーを、みんなで囲んでつつき合う。つまりそれは、二チーム合同の盛大なクリスマスパーティであった。
……<デネブ>のトレーナーさん、そういうの結構好きだったんですね……。
「ほら、早く行くわよ!」
「ちょっと待ってよキング、焦らないでよ。それとももしかして、結構楽しみだったり」
「……なによ。楽しみにしてちゃ悪いわけ」
「べっつに〜?」
授業が終わって放課後になった瞬間、そんな感じで私は暖房の効いた心地よい教室から引き摺り出された。元気いっぱいやる気いっぱい、私とは正反対のお嬢様の手によって。いや、ちゃんと行きますよ? わざわざ二チーム合同で貸し切ったらしい家庭科室に行けばいいんですよね? キングの"かかり"っぷりにはちょっと引き気味だけど、ちゃんと行きますったら、はい。
「家庭科室ってどっちだっけ」
「一階の南棟ね。そんなことより、もっと早く! 『学園内は静かに走るべし』よ!」
「はあ。今更だけど、お嬢様はなんでそんなに急いでるんです? パーティって夕ご飯なわけだし、その時まではどっかで寝っ転がっててもいいんじゃないの?」
そう言いながら改めて、昨日の練習終わりに伝えられた今日のクリスマスパーティの概要を思い返す。<デネブ>のトレーナーさん主導で行われる、チーム<アルビレオ>とチーム<デネブ>の合同でのクリスマスパーティ。家庭科室でご馳走をみんなで食べましょう、の会。団欒とか親交を深めるとか、そういうのを食事と共にやりましょう、の会。つまるところ、ご飯をわいわい食べて解散する以外のイベントはない。だからこんな早くに会場たる家庭科室に行っても、なんの意味もない。……と思うんだけど。
そんな疑問を、私より早足ながらある程度私に速度を合わせてくれているキングにぶつけてみると、返ってきた答えは私のまったく知らない情報だった。あちゃー、みたいな表情のおまけ付きだった。……いや、えぇ……。
「まさかあなた、いやあなたなら見てるわけなかったわね。チームの連絡用LANEに、昨日帰ってからトレーナーが載せてた話なんだけど」
「……ひょっとして、練習終わりに言い忘れたことがあったりとか」
「そういうこと」
「まあ見てなかった私は他人のこと言えないんだけどさ、トレーナーさんって定期的にどっか抜けてると思いません?」
「……あなたのいう通り、お互い様、でしょうけどね」
そう呆れた風のキングが「抜けてる」率は一番高い気がするのだけど、私は努めてそんなことは口にしない。我ながら友達想いの優しいウマ娘だなあ、などと思いました。
閑話休題、そういうわけでキングは(ついでといってはなんだが私も連れられて)今家庭科室に急いで向かっているということらしい。さて、それで何をさせられるのやら。
二人でゆらゆら、耳と尻尾を同じリズムで揺らしながら。揃える必要のないはずの足並みも、同じリズムで踏み締めながら。そのまま私の横にいる女の子は、やっぱり私の知らなかったことを教えてくれる。こんな小さなことだって。うん、君も優しいねえ。私と同じ、なんて言ってしまうには優しすぎるくらいにさ。
「確かに今日の本番は、夜のお食事会だけど」
「うん。なら今向かってるのは、その前の時間のため?」
「そう。その準備も、私たちがするのよ。<デネブ>のトレーナーさん主導でね」
「え。その準備って、つまり」
言われてみれば確かに納得で、だけど若干口にするのを躊躇ってしまうような本題。けれどキングはほどなくして、私たちが今家庭科室に向かう目的を述べる。いや、まさか。まさか、それともやっぱり、あれなのか? でも、まさかまさかだよ。そうだとしたら、そうだとしたらさあ。
「料理よ。食事の準備なんだから、料理をするのよ!」
「……クッキングヘイロー?」
「おばか! 私だけじゃなくて、あなたもよ!」
……あーあ。まさか、だけどやっぱり。想像通り、予想外だった。名前をいじって茶化してやる場合でもなく、私も巻き込まれているらしい。他のなんでもなく料理をするために、私たちは家庭科室に向かっているらしい。
いや、料理? それも<デネブ>のトレーナーさんが主導? 思ったよりこのクリスマス会に入れ込んでますね、あの人。でもクリスマス料理なんて派手で手間のかかりそうなものを、私たちみたいな素人軍団で? 言っちゃなんだけど、女の子の集まりなら料理ができるなんてのは古いステレオタイプではないでしょうか? でも当の主導者が女の人だった。まあそれはともかく、そんなことより。
え、料理しなきゃいけないんですか?
「スカイさん、あなた今『料理しなくちゃいけないんですか?』とか思ってるでしょう」
ぎくっ。ああ神様、どうしてこのすっとこお嬢様はこう時折鋭いのでしょうか。彼女の日頃の行いがいいのでしょうか、それとも私の日頃の行いが悪いのでしょうか。
でもだって料理なんて、料理なんてさあ。そんな根気と時間の必要なもの面倒くさいし、それならあとで行って「いやー知りませんでした」みたいな顔でご馳走にありつくだけありついた方が、セイちゃん的にはベターだったなあ。
「どうせ『面倒くさい』とか。『あとで料理だけ食べたい』とか。思ってるんでしょう」
ぎくぎくっ。こういう時だけ妙に私を手玉に取ってくるキングヘイローというウマ娘を、なんらかの罪でしょっ引けないだろうか。そういった私の悪巧みは、内心の自由に留まりけり、という感じで。ここまでずばずば言われてしまえば、私としてはどうしようもない。むしろ私の方が悪事を働いている気にさせられる。万事休すとはこのことだ。
……知らないことはそんなに悪いことじゃないんだし、知らないままがよかったよ。そうならなかったのはこの子がむりやり引っ張ったからなんだけど、そんな考えが頭をよぎった瞬間にそこまでしっかり言及してくる。ほんと、キングはさあ。
「ほら、行くわよ。あなた一人じゃ行かないんじゃないかと思ったから、わざわざ私が引っ張ってるの」
「なにそれ、本当は一人で行くのが寂しいだけなんじゃないの」
「……おばか」
「あ、図星だ。にゃはは、じゃあ今回はこれでおあいこということで」
「はぁ……もうそれでいいわ。じゃあ、今更逃げないでよ」
「まあ、仕方ないねえ。他ならぬキングの頼みなら」
そうやって、なんとか一矢報いてみて。だけどやっぱり、痛み分け以上にはならなくて。互いを互いに追い越し合うなら、どちらかが一方的に抜きん出ることはない。相変わらず早足に、同じリズムで駆けながら、私と君はそうやって語らっている。こんな小さな会話でも、確かなつながりがそこにあった。こんなイベントとイベントの合間にある道のりも、私にとっては必要な時間の一つなのだろう。やっぱり今日も、積み重ねていく一ページなのだろう。
そう、思った。そう、少しだけ前向きになった。
それはそれとして、目的地に着いてからまた思ったのは。
大きな家庭科室の前に来て、どうしても浮かんでしまう考えは。
「ほら、入るわよ」
「ねえキング、やっぱり」
その先は言わせてもらえなかったので、慎ましやかに思うだけなんだけど。
心の中でこっそりと、それしか許されてなかったんだけど。
やっぱり、料理しなきゃダメですか……?
「よく来たわね、セイウンスカイ、キングヘイロー」
「スカイさんもキングさんも、授業お疲れ様です!」
家庭科室に入っていの一番に私を出迎えたのは、そんな二つのトーンが重なる女性の声だった。声の主はもちろん<デネブ>のトレーナーさんと、<デネブ>のリーダーたるニシノフラワーである。二人とも白いエプロンと頭には布製の三角巾を既に着けていて、よく見れば彼女らの後ろにはおそらく人数分のそれがあった。エプロンは全部真っ白、三角巾は色とりどり。文字通り山のように積まれていて、ここに入るならまず身につけなさい、と言わんばかり。はあ、私ももれなく着なければならないのか。
「にしても、お二人を除けば私たちが一番乗りですかね。たとえば我が<アルビレオ>のトレーナーさんとか、こういう時に率先して来てくれたりとかは」
「それについてはあらかじめ連絡があったわ。『有マに向けての作業が残っているから、一人の時間がほしい』とね」
「なるほど。それでトレーニングにできてしまう穴を埋めるために、あなたはクリスマスパーティを企画した。そういうことかしら」
なるほど、私もなるほどだ。キングの言うとおりの成り行きなら、なんとなく辻褄は合う。トレーニングができないのなら、いっそパーっと息抜きも必要だというのはいわゆる正論かもしれない。というわけでそれで納得しようと思ったのだけど、即座にそれだけではないのだろう、と考え直させられる。主に、目の前の<デネブ>勢が醸し出す何がしかのおかげで。たとえば今<デネブ>のトレーナーさんの横にいるフラワーは、やたらとその小さな手を身体の前やら後ろやらでもじもじさせているし。そしてたとえば、他には。
「それもあるわね。……でも」
「でも?」
「……私、もしトレーナーになれなかったら、トレセン学園の食堂で働きたいと思ってたの」
たとえば、この人も。<デネブ>のトレーナーさんの特徴である少し茶色がかったロングヘアは、今日は三角巾の中に隠れていた。割といつも冷静めな瞳も、なんだかギラギラしている。そんな戦闘態勢からも、やる気が満ち溢れているのがわかる。それにしても、あなたともそれなりに長い付き合いな気がしますけど。
壮絶極まりないここの食堂で働きたかったなんて話、初めて聞きましたね……。
まあそうやって、やっぱりまだまだ知らないことはたくさんある。誰かについて、たとえば一年ですべてを知ることなどできっこない。そしてそれは、もっと知るための期間を伸ばしても変わらないことだ。どれだけの時間をかけても、人を知り尽くすことは叶わないことだ。
なぜかと問われれば、理屈は簡単。人は常に変化しているから、常に知らないことが生まれるもの。常に成長しているのは、きっと大人になってもずっと。
誰かと関わり繋がる限り、私たちはどこまでも広がっていけるのだ。
だから、知らないでいられる。知らないことを知る、その楽しさを持ちつづけられる。
まあ、それはそれとして、ですね……。
「さて、では早速着替えてもらうわよ。メインディッシュにオードブル、締めのデザートまで。材料は午前中のうちに私が運び込んで置いたから、あなたたちは指示の通りに材料を片付ければいい。簡単ね」
「頑張りましょうね、スカイさん、キングさん! 私、クリスマスのご馳走なんて作ったことないから、すっごく不安ですけど……頑張ります!」
すみません、お二人とも。簡単ね、と言われてもそんな気はしませんし、不安です、な口振りにはとても聞こえません。そんな共感を呼ぼうとキングと顔を見合わせようとしたが、残念なことにもはや彼女は躊躇っていなかった。この人も、スイッチが入るとノリノリになるタイプである。非常に残念なことに、もう彼女もそっち側だった。
「……やあってやろうじゃない! 一流のウマ娘は、料理のテクも一流! それがこの私、キングヘイローなんだから!」
そのままおーほっほっほ、と付け加える必要性を感じない高笑いを付け加えて。これで料理に乗り気な人は三人で、いや多分最初からずっと3:1だったのを見ないふりしてただけなんだけど。とどのつまり、私にできるのは降伏の姿勢のみである。まあ、そもそもの話、だけど。
和気藹々、気合十分。よく知る人たちがそうやって盛り上がっているのを見て、心が高鳴らないほど薄情ではない。もしかしたら昔は冷ややかに一人気ままにいることを目指していたかもしれないけれど、今はそうじゃない。
私には、みんなが必要だ。気ままだとしても、大切な人を蔑ろになんてできないや。
だから、私も。
「じゃ、私もやりましょっかねえ」
そう言って、私もようやく腰を上げた。それは重いつもりだったけど、動かしてみれば羽が生えたみたいだった。かつては醜いアヒルの子だったその羽は、いつのまにか星のつながりでできた白鳥の翼になっていた。みんなのおかげで、立ち上がれた。
……とはいえやっぱりというか、なんだけど。
「さて、ならそろそろ担当料理を決めていこうかしら。早めに来てくれたから、必然的に手間と時間のかかる料理を皆には任せることになるけれど」
「私は構いません。トレーナーさんの期待に応えられるように頑張ります!」
「当然、私も。一流に相応しい割り当てを頼むわよ!」
「じゃあ、まあ。文句は言いませんけど」
なんとなくこの時点で、今更引き返せないだけで、嫌な予感はしてたんだけど。
「ありがとう。なら、まずはセイウンスカイ」
「はい」
なぜか真っ先に指名された時には、もう手遅れだったんだけど。
「あなたには、これをお願いするわ」
そう言って<デネブ>のトレーナーさんは、背後のテーブルに山ほど積まれた料理本の一つを開く。開かれたページに写っていたものは、私でも見覚えのあるものであり。
つまりそれくらい、メインどころの料理というか。
「8号ホールのショートケーキ。クリスマスケーキの担当。それがあなたの仕事よ、セイウンスカイ」
およそ私に想像できる中で、一番の大役だった。
……やっぱり、料理しなきゃダメですか……?
古の時代から新しいものごとというものは、人をことごとく悩ませるものである。特に私のような、勉強熱心とは呼べない不真面目な人間にとっては。
「うえ……これほんとに私がやるんですか」
「そうよ。あなたならできると思ったから」
ぐちぐち言いながら私が指差したものは、先程<デネブ>のトレーナーさんが目の前に持ってきたケーキの材料一式。あなたならできるって言われても、この大量の粉とか道具とか、一つも今まで見たことないんですけど。根拠がないじゃないですか。
「無理そうだったらヘルプを頼むつもりだけど、できればやり遂げてほしいわね」
そう言ってコック長もとい<デネブ>のトレーナーさんは、遠くや近くの方々をちらりちらり。その視線の先にいるフラワーは食パンを何やら型でくり抜いているし、キングは一心不乱におにぎりを握っている。ちなみにさっきまで「なんで私がおにぎりなのよー!」と嘆いていたのだが、それでも既に己の仕事に取り組んでいる。
ううん、二人はちゃんとやり始めている。そうなればやはり、私だけ逃げ出すわけにはいかない。仕方ないが、それは道理。少なくともそう思い、若干消極的な決意を固める。
……いやでも、私の仕事だけ大変じゃないですか?
他の二人が小物なのに比べて、私だけ大仕事じゃないですか?
「じゃあ私も、自分の料理に取りかかるから」
「ちなみにトレーナーさんは、何を作るんですか」
「鶏の丸焼きよ。昨日下拵えはしたから、あとは詰めたり焼いたりだけど。メインディッシュは、他人には任せられないわ」
言って、きびきびと<デネブ>のトレーナーさんはどこか──すなわちチキンの調理──に向かっていく。なるほどそれに比べたら、私に与えた仕事は任せてもいい程度の難易度のもの……なのだろうか? 料理など詳しくないから、やっぱりさっぱりわからない。
いやどう考えても、ケーキ丸ごとは難しいと思うけど。
でも、あるいは、だった。あるいはそれくらいこの人が私を信頼してるとか、期待してるとか。そういうことでもあるかもしれないと、そんなことも少し考えて。残念ながらその考えを打ち消せるほどの材料は、私の中には見つからなくて。
ならばここにある期待にも応えたいと、願いを一つ閃いた。
ちょっと、前を向く。空元気からほんの少しだけ進んで、私は小さく己を鼓舞した。
「よし、頑張りましょっか!」
……そして、頑張る理由はもう一つ。私がやるには大変な、そんな意外な仕事を私が成し遂げられたなら、予想だにしていないことができてしまったのなら。そうしたら、あなたも驚いてくれるかもしれない。おそらくまだ一人トレーナー室で書類と格闘している、私のトレーナーさん。あなただって、作業の疲れが吹き飛ぶくらいにびっくりしてくれるかもしれない。ちゃんとデザートには間に合うかな? 間に合って、ほしいな。
トレーナーさんのお仕事は私にはどうしようもないことだけど、だからこそ私は私のことができる。私なりのやり方で、あなたにできないことができる。なんて、そんな大げさなことじゃないかもしれないけどね。でも、そういうことではあると思う。あなたにはできないから、あなたのためにもなれるはず。
というわけで結局という感じで、今日の私にできることは、やるべきことはもう言い訳できないくらいに決まってしまった。いやそうはいってもどうしても、でっかいケーキを作りながらぐちぐちと泣き言を言うかもしれないけど。だけど、頑張るよ。だってこれはしっかりとした意味のある、私に変化をもたらすものだからね。
うん、そんなのもいつものトレーニングと同じ。……どちらかといえば苦手なことだけど。手に何やら持ってひたすらそれを動かすのも、だいたい似たような経験がないわけじゃないし。
……いやそれは勉強だから、やっぱり苦手なのかな。うーん、わかんないや。
そんな感じで、色々考えたり。
それでも最初から結論は決まっていて、私の思考は一瞬で過ぎ去る程度のものだったり。
そして私はぱんぱんと、半身を覆うように身につけた真っ白なエプロンを叩いたりして。
そっと、気持ちを切り替えた。
まずは土台を作らなきゃいけない、とレシピには書いてあった。ケーキの土台、つまり生地。ふわふわのスポンジケーキ作り、というやつだ。私が小さい頃にも、たまーにケーキを食べさせてもらえることはあった。たとえば誕生日とか、でもクリスマスケーキは食べたことないかも。
そういえば幼い私が切り分けられる前のケーキを目の当たりにした時、その丸い形が当たり前のように崩れないのを見て、「どうしてケーキは丸くでき上がってるんだろう」と考えたことがあったんだけど。そんなのは実際作ってみる段になると簡単な話で、型にはめて焼けばいい、というだけらしい。何事も便利な道具があるということである。これは楽ちん? いいや、騙されてはいけない。どうせこのあとの作業が大変に決まっている。
そして楽とはいったものの、今回用意されたスポンジケーキの型は、私の今までの記憶にあるケーキでは見たことのない大きさだ。それは当然、それだけ大人数で食べるから、ということだろう。ほら、やっぱり大仕事じゃないか。などと適当な思考と共に、ちまちまとだけど私は私の作業を進めていく。こうして実際にやってみると調理の工程とはなかなかどうして面白いもので、すべての手順に意味があるのがわかる。
たとえば型にクッキングシートを敷いておくことは、生地と型の間に隙間を作り抜き取りやすくする意味がある。
たとえば今のうちからオーブンを予熱しておくことは、あとで実際にオーブンを使う時にしっかり最初から熱が通るようになる意味がある。
そういうことは素人ながらわかって、納得がいく。納得がいくというのは、理論がしっかりとしているということ。……うん、<デネブ>のトレーナーさんが料理が好きな理由がわかるな、これは。というより料理が好きだから、<デネブ>のトレーニングは理論を重視しているのかも? 料理ありきの人みたいにあの人のことを言ってしまったが、あながち間違いじゃない気がする。今みたいに視界の端の端にいても気になってしまう、ものすごい料理の手際がいい女の人のことを考えると。テキパキテキパキ、忙しなく何かしらで両手を動かしていて、まったく慌てる様子のないその人を見てしまうと。
……いや、本当に本職はトレーナーなんですか……?
そんな横道にそれた疑問も交えつつ、とりあえずまずは私は私なりの下準備をしなくちゃね。気ままにマイペースに、そりゃそれなりに急ぐけど、ちょっとはゆるゆるやらせてよ。
というわけで、一つ一つ。型にクッキングシートを敷いて、小麦粉を振るっておく。あとですぐスポンジケーキを焼けるように、今のうちからオーブンを予熱する。あとはスポンジケーキを作ったあとのために、あらかじめホイップクリームを作る時用のボウルを冷やしておく。などなど。やることは多い。本当に、多い。
なんとも序盤から忙しいが、これもあとのための仕掛けのようなものだ。釣りやレースで慣れ親しんだ感覚に似たもの、ほんのちょっととはいえそんな手に馴染むものであるのは間違いないかも。そう思えば、我ながらめげずに大量の作業をこなせた。ひょっとして、向いてるかも。まさかとは思うけど、意外と順調かも。
などなどと、時間は緩やかに進み。そうなればまた一つ、ちょっとした変化があった。
「遅くなってすみません! ちょっと頼まれごとをしてしまってて……」
「遅いですよ、トップロード先輩!」
「わっ、キングちゃんごめんなさい! ……そのおにぎり、すっごく綺麗ですね!」
「……と、当然! 一流のおにぎりとはこのことなんですから!」
そんな会話が聞こえるように、トップロードさん含めて他の子が家庭科室に集まってきた。それにしてもなんだよ、「一流のおにぎり」って。
わちゃわちゃと雑多に家庭科室の人口密度が増していくその様子はまさにチーム<アルビレオ>とチーム<デネブ>の連合であり、そしてみんな来た順番に<デネブ>のトレーナーさんの指示で各々の作業を始めていく。
そこもしっかりやりながら自分の手は止めないの、相当すごいですね……。
というわけであとからやってきた二つのチームからの人材も、それぞれの持ち場につく。既に料理を進めているキングやフラワーのところを手伝ったり、あるいはサラダとかの新しい料理に取り掛かり始めたり……そのこと自体はいいんだけど、いいんですけど。
なんでか私のところには、一人も応援を寄越してもらえなかった。正確には<デネブ>のトレーナーさんも相変わらず一人でチキンやその他のメインディッシュに近いものを作っているようだけど、あの人は好きでやってるんじゃないか。いや私も案外料理は嫌いじゃないみたいだけど、流石に一人でやるのは大変な気がしてきた。
とはいえたとえば今やってる生地作りなんかは、手伝えばなんとかなるものでもないし。だってこれ、協力してできるものじゃないみたいだし。
まずは卵と砂糖を混ぜて、そこにさらにバターを混ぜて。それが終わったら電動のハンドミキサーに持ち替えて、更に混ぜる。正確には高速設定で混ぜたあとに速度を落としてもう一度らしいが、とにかく混ぜる。もう本当にひたすら、一人で混ぜつづける。レシピのどこにも二人で混ぜて二倍の速度になるとは書いていなかった。量が多いなら単純にそのぶん頑張れ、そう言われている気がした。先程までは理論を感じたのに、ここにあるのは純粋な根気の問題な気がする。まるで<アルビレオ>の練習みたいな。
そうだとしたらとびっきり、私の苦手なやつじゃないか。
はあ、やっぱり料理なんて私には向いてないんじゃない?
それでもというかやけくそというか、やれやれとボウルの中身を混ぜつづけていたところで、とんとんと背中の方から肩を叩かれた。若干下の方からの角度で、それだけで大体誰かわかる。後ろを振り返ってみれば、もちろん見慣れた小さな姿があった。まあ、エプロン姿は見慣れていないかもしれない。というわけで、一応大げさなリアクションでもしてやろうか、なんてさ。
「どうですか、スカイさん?」
「わっ、誰かと思えばフラワーじゃないですか。自分の持ち場を離れたら、サボりで言いつけちゃうよ〜」
「からかわないでください。……ちょっと他所を見てくるからって他の子に任せたのは、ほんとですけど」
「おやおや、まあ今回は見逃してあげましょう」
こちらにやってきたフラワーとからかい混じりの会話をこなすと、それだけで少し息抜きになった気がする。根を詰めていた自分自身を、今更みたいに認識する。私としたことが気づかないうちに、かなりケーキ作りに集中していたようだ。こんなひたすら根性で続けるようなことにも集中できちゃう人間になっちゃったか、私。なんというか、これも成長なのかなあ。ため息が出そうになるよ、フラワーの手前顔には出さないけどさ。
だけどそんな私の心の内を見透かすように、ふふっと笑ってフラワーは言葉を紡ぐ。口元に両の手のひらを重ねて、心底おかしくて嬉しそうに。そうやって人の気持ちをくすぐることばかり上手くなって、私みたいな悪い大人にならなきゃいいけど。……まあ君相手なら、少なくとも私は悪い気はしないけどさ。
「スカイさん、楽しそうですね。ちょっと心配してたので、安心しました」
「楽しそうに見える? 悪戦苦闘の極み、だけどね」
「はい。スカイさんが本気で嫌々やってたら、トレーナーさんに手伝ってあげてくださいって抗議するつもりでしたから、私」
「そりゃ過激だ。そうならないなら、良かったのかな」
「もちろんです。スカイさん、普段から弁当とか作ってみるのはどうですか? 楽しいですよ、お弁当作り!」
「うーん、前向きに検討しておきます……」
予想通りフラワーも料理愛好家の類であったか、というのはさておき。他の人からもそう見えるのなら、なんだかんだで私は結構この料理というものに向いてるのかもしれない。料理そのものというより、何かを作り上げることだと考えると筋は通る。
策を練り上げ、理屈を捏ねる。そういうことはやっぱり楽しい。
それなら、いつも通り。いつもの私が、好きなことかもしれない。
でもきっと、それだけでもなくて。
これくらいのことでも、確かに象徴するものはあって。
「まあでも、昔の私なら多分すぐにやめてたよ」
「そう、ですか?」
「うん。だって私が目指してたのは、一人気ままに楽して生きることだからねー」
何度も繰り返した認識だけれど、改めて。
私は変化し積み重ね、大人へと成長しているのだ。
物事に含まれる要素は、どんなものでも単純な一側面だけではない。どうしてもコインの裏表のように、楽ありゃ苦ありのバランスがある。以前の私なら、その片方しか受け入れられなかった。たとえば料理の工程を見るのは楽しくても、実際自分でやる根気はなかった。裏側については受け流すことばかり考えて、投げたコインの裏が出たならもう一度ひっくり返せばいいと思っていた。
でも、そうではなくなった。今の私なら、コインの裏側を裏側のまま見据えることだってできる。そんな見え方が必要な時もあると、新しい世界の見え方を持てている。そしてそれができるようになったのは、トレセン学園での生活があったから。あの入学式の日から、そこから始まった数多のつながりから、私は「セイウンスカイ」を変化させていた。
そこに生まれた変化は誰かのおかげであり、同時に私自身が成し遂げたものでもある。どちらでもある、これこそコインの裏表。そのことだって受け入れられるのが、少し大人になった今の「セイウンスカイ」なのだ。繰り返した成長が、今の私にこうさせている。積み重ねられた今の私は、こうしたいと思えている。
だから、今日も楽しい。だって、今日は日常にある特別な日。まあ言ってしまえば、単なる十二月二十五日ではあるんだけどさ。サンタクロースを信じる歳でもないし、クリスマスなんて大したことないかもしれないけどさ。
でも、楽しい。そう思えるのはみんなと一緒にいられるからだと、フラワーとの語らいがそれを再確認させてくれた。
「さて、そろそろ生地をオーブンに突っ込めるかなあ」
「お疲れさまです!」
「ありがと。それにしても、結構体力使うもんだね」
ボウルで生地を混ぜて、小麦粉を加えて更に混ぜて、バターも加えて更に更に混ぜて。セイちゃん、混ぜて、混ぜまくりました。いやあ本当に、根気の要る仕事だった。まあでも、<アルビレオ>のトレーニングに比べたら楽勝だな、とも。
ならばもしやひょっとしたら、これに耐えられたのもトレーナーさんのおかげと言えるかもしれない。感謝する気が湧くかどうかは、また別として。
何はともあれ、ようやく。でき上がったどろどろの生地を、最初に用意した型に流し込んで。
これまた最初に温めておいた、オーブンの中に突っ込んで。
ようやく。
……お疲れ様、私。これくらいは、この時点で思っていいよね。
「ようやくひと段落、だね」
「焼き上がるまで、ちょっと休憩した方がいいですよ」
「フラワーみたいに、ね」
「あはは、そうですね……。でも、根を詰めすぎないのは大事ですよ?」
「そうだね。じゃあ今度は私がフラワーのところにちょっかいかけに行こっかな」
「それは、あの。緊張して、集中できる気がしないので……」
「冗談だよ。これ以上フラワーをサボらせるわけにはいかないしね」
「……もう」
というわけで、オーブンで焼くこと三十分。つまり、それだけの休憩時間が私には存在する。その三十分の潰し方は、別のところに求めるところにした。今ひらひらと手を振って見送ったフラワーとは、別のところ。
「キングちゃん、追加で炊き上げました! これでお米は全部、ですっ!」
「ありがとうございますトップロードさん! ……たったの十合、一流が全部『握って』見せるわーーっ!」
……うん、別のところ。なんだか私とは、別の意味で根を詰めている気がするし。ちょっと流石に面白そうで、ちょっかいのかけがいがありそうだし。そう思ってそちらに歩き始める前に、少しだけ窓の外を見て。
まだ日は空にあった。まだまだ時間はあった。
本当に楽しい時間は、まだ。
聖夜はまだ、始まってすらいなかった。
「すごい……すごいですっ、キングちゃん! こんなにたくさん、こんなにばーっと……。しかも、すごく形もきれいです、このおにぎり!」
「おーっほっほっ! そうです、そうなんですトップロード先輩! 私はおにぎり一つ一つにも手を抜かない、真の一流ウマ娘! そう、その名は!」
「キング、ヘイローーっ! ……よーし、私も負けてられないですね!」
……うわ、あのキングコールに乗っかってる。こりゃトップロードさん、重症だな。ちなみに乗っけてるお嬢様の方は、おにぎりの作り過ぎでもう手遅れだ。というわけでちょろっと見たところでも、二人ともすっかりできあがってしまっている様子。なんというか、独特の空気を醸成している。そしてそんな危険なハイテンションたちにちょっかいをかけようとしているセイちゃんの未来や、いかに。なんて、面白そうだから首を突っ込むだけですけど。綱渡りくらいしないと、たまには楽しくないもんね。
十分に盛り上がっているようには、盛り上がり過ぎているようにも見える二人だけど。女三人寄れば姦しい、とも言いますし。それならまだ姦し足りないだろう、などと思いながら声をかけに行く。……と思って二人の調理用テーブルから3mくらいの距離まで近づいたあたりで、逆にあっちから声をかけられた。相変わらずお米をんしょんしょと丁寧かつ迅速に握りながら、である。一流を名乗るだけはあるね、その頑張り。
「あらスカイさん、自分の仕事は大丈夫なのかしら? 私は当然、一切問題ないわよ! なぜなら! 私は!」
「キングヘイローだから、だねー。ちなみに私はセイウンスカイですが、それでも今のところは問題ないよ」
「スカイちゃんも、お疲れ様ですっ! 実はこっそり、たまーにそっちを見てたんですけど……あれって、ケーキですよね!」
「そうなんですトップロード先輩、スカイさんは<デネブ>のトレーナーさん直々にホールケーキを作るよう頼まれていて。……一応今のところ問題がないのなら、私の心配は必要なかったみたいだけれど」
「おやおや、心配してくれてたんだ。でもキングが素直にそんな、私のことが心配だーなんて言うなんて珍しいね。雪でも降るんじゃない? ……って、今の季節じゃありえない話じゃないか」
「おばか、人の気持ちをからかいで受け流さない。……まあ、たまにはいいじゃない。ほら、今日はクリスマスでしょう。いつも同じ時間を過ごせることの得難さを、再確認する日。家族や友人や恋人、いつも一緒にいてくれる大切な人と共に過ごす日……だから、たまには、よ」
そんな含蓄がすらすらと出てくるのは、流石良家のお嬢様、といったところか。でもそこに語られた考え方自体は、素朴でなんだかくすぐったい。たとえば宗教的な意味合いとかは私にはさっぱりわからないだろうけど、キングのいうようなクリスマスは私にもわかる。
だって多分今日は、今までも自然とそうあろうとしていたものだから。みんなのために、ケーキを作る。いつものみんなで、いつもと違うことをする。
そうしていたのは、そうしていられるのは、なんとなく素敵なことだと思った。この時間とこのつながりが、きらきらして見えた。
そんなクリスマスは、まだ終わらない。
やっぱりキングは、私とは違うことを知っている。もちろん私はキングのことを多少知っているし、キングも私のことを結構知っている。でもお互いに、相手の全部は知らない。どちらかがどちらかを掌握することはできない。でも、だからこそ、だった。だから、私たちは互いを補い合えるのだろう。
だから、互いに競い合えるのだろう。
だから私たちはどこまでいっても、ライバルで友達だ。
そして、私たちの会話の僅かな切れ間に、ふと口を挟むもう一人がいた。彼女もまた、素直な気持ちを口にする。いつもは頼れる先輩で、ときどき私たちを追いかける後輩。だからトップロードさんの言葉は、青く、青く響く。ライトイエローの瞳から伸びる視線に含まれる感情は、これもこの人にしか持てないもの。
「……やっぱり、キングちゃんとスカイちゃんの関係って、いいですね。憧れちゃいます」
「トップロード先輩には、そういう方はおられないのですか」
「いるはずですよ? 一緒に走ってくれる、ライバル。でも、本当にそうなれるかはわからないじゃないですか」
……確かに、その通り。トップロードさんが抱えた疑問は、あるいは私たちも抱えていたもの。もしかしたら、今も抱えているもの。本当に私は、これから先勝てるのかどうかって。常に勝ちたいと望むからこそ、常に敗北への恐れを忘れることはできない。勝負というものの本質は、勝ちと負けが重なり合ってくっついていること。ここにあるのも、コインの裏表。
期待されてデビューして、それでも期待通りにいくとは限らないのが、苛烈で無慈悲なトゥインクル・シリーズ。現にトップロードさんは、一番人気に支持されたデビュー戦を落としてしまった。ぎりぎりの敗北ではあったけど、そのぎりぎりの差は三女神様にすら揺らがせない絶対のもの。蓋然性のみが絶対だからこそ、レースに絶対はない。それは勝てるチャンスがだれにでも平等だ、という意味ではあるけれど。
そうではないもう一つの可能性。それはやはり、見過ごせない。勝利を見据えているからこそ、私たちの視界に焼きつくものがある。
トップロードさんは言葉を続ける。きっと永遠に消えない不安のために、それを解消することはできないとしても。
「これから先、ライバルと勝負して。もしその結果、歴然とした差が開いてしまったら。……それでもライバルだと、私は言いつづけられるでしょうか」
敗北への、不安。誰しも持ちうるその感情を、トップロードさんも持っていた。気づかないうちに、全員の手が止まっていた。それくらい真剣な、誰にでも当てはまる話だった。あるいは今日この日にはそぐわないのかもしれないけれど、今日だから話せる悩みだったのかもしれないと思った。なんて、私はちょっと前にそれなりにトップロードさんの悩みを聞いたことがあるのだけど。今吐き出した気持ちだって、それと重なる話もある。
つまりここにあるのは何度もぶつかって、迷いつづける悩み事なのだろう。
トップロードさんも、私も。
……そして、この場にいるもう一人のウマ娘も。悩みを抱えるのは前と同じだとしても、やっぱり今日は前とは違う。それならきっと、今日だから。今日だから、「彼女」も話を聞いている。だから、彼女が口を開く。
いつもと違う口調で。
彼女だからこその言葉で。
いつもと同じ、「彼女らしさ」で。
「トップロード先輩。……少し、いいでしょうか」
「はい。なんでしょう、キングちゃん」
凛と、キングはトップロードさんに向きなおって。少し米粒が散らばったエプロン姿でも、その佇まいは際立って見えた。綺麗だな、なんて。どんな悩みさえ輝きに変えてしまうところが、君の素敵なところだ。
「私はそこのスカイさんに、一度も勝ったことがありません。クラシック三強などと呼ばれたのも昔のことで、次の有マは十番人気です。デビュー前の期待にはもう応えられないのかと、怖くなる時はあります。今でも、です」
「……それは」
「ええ、それは今トップロードさんが持つ不安と同じものです。もちろん私は常に、全力を尽くそうとしたつもりです。そして、それなりには結果もついてきています。けれど、今の私はスターダムにはいないのでしょう」
「きっと、辛いですよね」
キングの口から弱音のようなものを聞くのは、あのダービーのあと以来だった。あの時私に話したように、今はトップロードさんに話している。だけど、今は彼女が掬い上げられるための言の葉ではなかった。今日の彼女の言葉は、他者を導くためにある。だからきっと、彼女は勇気を出して。声の震えさえ抑えて、紅い瞳も1㎜だって揺るがさず。自分じゃない誰かのために、自分の言葉を振り絞っているのだ。
「……でも、それは今だけです。辛酸を舐めるのは、今の私です。その先にいる、未来の私ではない」
「それが、キングちゃんの走る理由」
「今は泥に塗れた敗者だとしても、明日はどうかわからない。……そういうことよ、スカイさん。あなたに負けっぱなしでいるつもりはないわ」
最後はくるりとこちらに翻り、好敵手を見据えることを忘れない。そのこともキングらしさ。ならば仲間として、私もそれに応えよう。次の有マ記念は、そういう場所でもあるのだから。
「それはどうも。まあでもそういうことらしいですよ、トップロードさん。私も初めて聞いたかもしれません」
「……なんだか最近、後輩にアドバイスをもらってばっかりですね、私」
「そりゃ、今は私たちが『先輩』ですからね。それでもいつか一緒に走る時は、手加減なしですよ」
「はい! 楽しみにしてます!」
すっかり元気になったというか、私が来る前に戻ったというか。でもそれは私が来たから気落ちしたのではなく、私がいたから吐き出せたことだ。あと忘れてはいけない、キングもこの場にいたからこそ。きっとそうやって悩みをこぼせるだけの相手がいるというのは、当たり前のように見えて素晴らしいことなのだろう。
このつながりが、これからも続きますように。
そういったところで、私なりにここまでの会話に結論を付ける。
そう、あっという間に三十分、すなわちあのおっきなスポンジケーキが焼きあがる頃合いだ。
見ればいつの間にかおにぎり作りは再開しているし、そのうちまた高笑いが始まりそう。というわけで、そそくさと退散。翻って自分の持ち場に戻るとき、窓の外の夕焼けが目に沁みた。
聖夜は、まもなく幕を開ける。
さて、ケーキ作りは後半戦である。私の目の前にあるのは8号サイズのホールのスポンジケーキ。ちなみに8号とは直径24㎝であり、人数でいえばだいたい十二人ぶんらしい。<アルビレオ>と<デネブ>を合わせれば大体それくらいである。正確には少しだけ一人当たりが小さくなりそうだけど。
まずオーブンから取り出してテーブルの中心に鎮座する、せっかく焼き上げたスポンジケーキを横から真っ二つにする。見たことない長さのナイフらしきものが用意されていたが、このケーキナイフというものはここで使うものらしい。これってもしかして、<デネブ>のトレーナーさんの私物ですか? いや、家庭科室の備品だと信じたい。……うお、この大きいの一度に切るの大変だな。それでもざくざくと丁寧に、変な切れ目が入らないように。終わってみれば綺麗に真横に一本筋を作れたので、我ながら筋がいい……のかなあ。こんなことを思うたびに<デネブ>の二人に乗せられてる気がするよ。
さて、土台たるスポンジケーキの支度が終われば、次はいよいよホイップクリーム作りである。今回作るのはショートケーキなんだから、それを真っ白にコーティングするホイップクリームの存在は欠かせない。女子力ゼロの私でもそれくらいはわかる。わかりますったら。……そこまではわかってはいたんだけど、用意されている材料がこれまた多いのはわかりたくなかった。まったく、一人で食べる量じゃないのに、なんで一人で作らなきゃいけないんでしょうか。ともあれ、もはやどうしようもない。気合いだ。これも覚悟を決めるしかない。
ちなみにホイップクリームを作る手順はどんなもんかというと、結局混ぜることらしい。
スポンジケーキと同じで、また、混ぜるらしい。材料が全部混ざるまで、冷やしながらとにかく混ぜるらしい。
つくづく今日思うのは、料理というものが肉体労働だということ。トレーニングが休みの代わりに運動させられていると言われたら、今の私なら信じてしまいそうだ。電動のハンドミキサーがあるとか私がウマ娘のスタミナやパワーを持っているからとか諸々で楽をしている気がするが、楽してこうなのか、と思わざるを得ない。本当、苦労させられる。
(まあでも、たまにはいいかもね)
なんて、声に出したら<デネブ>のトレーナーさんやフラワーに耳をそばだてて聞かれてしまいそうなつぶやきを心の中で。時間もかかるし、根気も必要だし。まったく楽じゃないんだけど、だからこそ楽しいのかも。人生を楽することだけに捧げるつもりだった私としては、楽じゃないことを楽しむなんてのは、悔しながらという感じではあるが。
それでも、だった。
「……よし」
口にまで漏れてしまう、確かな手ごたえ。それでも、楽しんでしまっている。完成に近づくクリスマスケーキを見て、達成感が全身に充足するような。……ああ、なんだかんだで終わりかあ、って。ちょっと惜しみさえしてしまうのは、本当に自分で自分に呆れてしまう。
とはいえ、終盤戦には違いない。こうしてホイップクリームができ上がれば、残るはいよいよ盛り付けといったところだ。まさにラストスパート、末脚には自信はないのだが。なんて、そんな冗談じみたことはもう言いっこなしだ。ここまで来たら、やってやりますか!
まずは作りたてのふわふわのホイップクリームを、半分に切ったスポンジケーキの片方、その上全体に塗り付ける。べちゃーっと。ここは若干おおざっぱな作業なんだけど、その次が急に繊細になる。盛り付けとなれば、気を配らなきゃいけないのは細部の見栄えに違いないから。というわけで、冷蔵庫に用意されていたそれを取り出し、ホイップクリームの載ったスポンジケーキの前に置く。どん、と。まあそんな大きな音は鳴らなかったけど、それくらいの気持ちってことで。
というわけで、今回一番重要な仕事。
ショートケーキの主役、いちごの登場である。
半分に切られたいちごを、ぐるりとホイップクリームの上、すなわちケーキ全体の真ん中となる箇所の一面に並べていく。ちなみにいちごについては、あらかじめ切ってあるものが用意されていた。用意してくれた<デネブ>のトレーナーさんには頭が上がらないような、そもそもその人に押しつけられた仕事のような。
……でもどちらかといえば、今ならちょっとは感謝寄り、かな。
ふう、それにしてもいちごの並べ方にはセンスが出そうな気がするな。残念ながらセイちゃんはそんなおしゃれなセンスがないので、円形に並べるとか隙間なく中心を埋めるとかの教科書通りを律儀にやるだけですが。
とはいえそれでも丁寧に、丹精込めて並べてやった。あとはクリームでいちごのでこぼこを平べったくしてやれば、めでたく中心部分の完成。この上にさっき切ったもう片方の生地を乗せて……っと、そこで。
「あら、よくできてるじゃない」
「そりゃどーも、ですね。コック長からお褒めの言葉をいただければ、私のケーキも浮かばれるというものです」
だいたいそこまでできたあたりで、<デネブ>のトレーナーさんが様子を見に来た。ちなみに自分の担当していた料理は、当然終わらせてきたみたい。というより、他のみんなは大体終わっていた。どこに視線をやっても誰だって、最後の盛り付けをしながら、こちらにあるケーキをちらり、ちらり。どこかを見るたびに誰かと目が合いそうになって、これじゃ結局私はケーキの方を見るしか集中する方法が……あれ、もしかして今の私、結構注目されてます?
……そんな私の挙動から、大体何を考えてるかバレてたみたいで、<デネブ>のトレーナーさんは一つの話をする。今回私に無茶振りした、本当の意図を。
「どうかしら。これだけ注目を浴びながら繊細な作業をすれば、いい練習になるんじゃないかしら。……あの有マ記念で一番人気に推されている緊張の、予行演習くらいには」
「……まさか、それで私にショートケーキを一人で作れ、なんて」
「単純に器用そうだったから、というのはあるけどね」
……そういう、そういうことだったのか。すとんと、おおむね腑に落ちた気がした。そう、<デネブ>のトレーナーさんの言う通り。晴天の霹靂。あるいは驚天動地。はたまたそれとも空前絶後。……なんて、私の名前に引っ掛けた洒落にしている場合じゃないくらい、驚くべきことがあったのだ。十二月の半ばにわかってから、ずっと今まで気にしつづけていたこと。
『有マ記念一番人気は、セイウンスカイ』
その知らせが、私の元に届けられたこと。何度目かの大一番で、それも年末の中山というGⅠでも一、二を争う盛り上がりを見せるレースで、いよいよもって、だったこと。
私にとっては初めての、一番人気だったこと。
すべての出走者のなかで、最高の期待だったこと。
一番人気。京都大賞典以来の、シニア級の先輩方との一戦だ。もっともクラシックを既に走り切った私たちにとっては、これからはこれがスタンダードになるのだけど。とはいえそのシニア級の初戦で、初めての一番人気。ここまで初めて尽くしとなれば、流石のセイちゃんもてんてこまい。ひょっとしてそんなのも顔に出ていて、だから今日のショートケーキ作りに繋がったのだろうか?
……理屈は通っちゃう、気がするなあ。
まさになんとここで判明したことは、今日のクリスマスパーティさえ有マ記念に向けてのトレーニングの一環だったということ。その理屈は確かに筋は通らなくもないし、ちゃんと先述の通りおおむね腑に落ちる。だけどちょっと若干強引だし、そういった精神面のトレーニングみたいなのを<デネブ>のトレーナーさんが提案してくるのは珍しいというか。そこは少し、腑に落ちないかもしれない。
でもそんな唯一の疑問点は、<デネブ>のトレーナーさんの言葉ですぐに解消されることとなる。新たなもやもやの発生とともに、だったけどさ。
「……まあ、一応弁明しておきたいのだけど」
「はい」
「あなたのトレーナーからわざわざお願いされなければ、私一人でこんな無茶ぶりをすることはないから」
「……ああ、今ので全部腑に落ちた気がします。のんきにのこのこ現れたら、一言言ってやりたいかもですけど」
「それはお任せするわ」
というわけで、今日の私の苦労はひとえにトレーナーさんの指図によるものだったらしい。「セイウンスカイは有マ記念の一番人気で緊張して不安そうにしているから、それを少しでも和らげられるような、注目を浴びる練習になるようなことをさせてくれないか」って、多分そんなかんじだろうな、うん。
うん、腹が立つ。
自分は一人で<アルビレオ>の部屋にこもって、料理なんかしてないくせに。というかあの人絶対料理とかできないはずだ、絶対そうだ。それなのにいっちょ前に担当ウマ娘のことはしっかり見ていて遠くからでもできるだけ指図して、抗議しようにもここにはいないし。
……ああ、もう。一人でやらなきゃいけないことがあるなら、今日くらい別にほっときゃいいのに、相も変わらず他人のことなんか考えて。今日のあなたは何も考えずにご馳走を食べてればいい。チキンとかおにぎりとか、ケーキとか。
「さて、その様子なら大丈夫そうね。……あなた、料理に興味とか」
「フラワーにも言われましたよそれ。前向きに検討はします。まあなにはともあれ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、これからもよろしく」
それだけ言って、最後の仕上げに取り掛かる。いちごの上にもう半分のスポンジケーキを重ねて、全体にクリームを塗って、ケーキを真っ白に塗り固める。丁寧に、想いを込めた。おいしくできますようにって。これからも、みんなが上手くいきますようにって。
たとえばこのケーキのように、綺麗なものはなんだってあらゆる小さな積み重ねでできている。最後にいちごを上にのせる瞬間が、確かに一番目立つけど。その下にある土台がなくちゃ、いちごはただのいちごにしかならない。
それは今日学べたこと。それはあるいはずっと知っていたこと。それはまた、知れたこと。これも今日の、特別だ。誰かのために何かを成し遂げることは、いつだって特別だから。
クリームを等間隔に絞って、表面のデコレーションを形作っていく。いよいよ最終盤となるとより周りの目を引いていて、なるほどしっかり緊張してしまう。それでも大丈夫、ここまで来たら失敗はしない。今までの準備があるからこそ、最後の最後で失敗なんてしない。もしかしたら、そのことをあなたは教えたかったのかもね。
……だから、急にがらがらと扉が引かれても。そこに現れた人影にいの一番に挨拶してやるくらいの余裕は、私のなかにちゃんとあった。
確かに緊張と不安を持ち合わせた中でも、いつも通りの私で。
「こんばんは、トレーナーさん。ぎりぎりクリスマスパーティには間に合った、って感じですね」
私はあなたに、見てもらえる。
「こんばんは、スカイ。なにか、手伝うことはあるか」
「仕事を終えてまた仕事とは、呆れるほど勤勉ですねえ。……でも、そう言うと思ったので」
そういって私は、少し大げさに一つ、人差し指を真下にさす。
ちょっと距離のある家庭科室の扉から入ってきたばかりのあなたにも見えるように。
それに気づいたあなたがこちらに来て、それを間近で見られるように。
私の近くに来るように。最後に来たあなたが、最初にこのケーキを見れるように。
ねえ、ほら。
あと一つ、一つだけ残しておいたからさ。
だからこっちに来てよ、そうしたら、そうしたらさ。
「このケーキにいちご、乗せてくれませんか?」
これで、完成だ。
聖夜は、この瞬間から始まるんだ。
「それでは、<デネブ><アルビレオ>合同のクリスマスパーティを始めます。みんな、グラスを持って」
そう音頭を取るのは、当然<デネブ>のトレーナーさん。エプロンを外して見慣れたスーツ姿になったのに、今日一日でこの人の印象はすっかり変わってしまった。いやはや、人は見かけによらないというか。本質的には変わってないんだけど、意外な一面すぎたなあ。
「乾杯!」「かんぱーい!」「乾杯」
そしてそのまま、なんとなくまとまったような散らばったような乾杯の合図と共に。緩やかに、穏やかに、クリスマスパーティが始まった。聖夜の晩餐。みんなで行う一大イベント。
あるいは、私たちのつなかりのための。
いつもの日常の、ほんのちょっとの延長線上だ。
「いつもお疲れ様です」「いえこちらこそ、あなたとは一度じっくり喋りたかったんだ!」
わいわい、がやがや。立食パーティというものは、皆で立ちながら料理を囲んで談笑するものである、のだろう。今の状況はまさにそれで、<デネブ>と<アルビレオ>のみんなが混ざり合っておしゃべりしながら、ご飯を食べながら。キングの言っていた通り、これがクリスマスの団欒、いつものつながりに感謝を伝える時間。私もその作法に則るならば、ただ黙々と食べるわけにはいかない。
そういうわけで、空っぽのお皿を持ちながら移動する。てくてくと、一方へ歩く。
「お疲れ様です。<アルビレオ>代表として、<デネブ>のトレーナーさんに感謝を申し上げに来ました」
感謝を述べたいって言葉通りの理由か、あるいは私らしい気まぐれか。立ち並ぶ料理にも流石に興味をそそられる腹の空き具合ではあったが、パーティが始まってそんなご馳走にも目もくれずまず私が向かったのは<デネブ>のトレーナーさんのところだった。気分屋の私には感謝というまで誠意を持てるのかはわからないけれど、なんと言ってもこの人は今日のMVPであるわけだし。
たとえばあのチキンも、フライドポテトも、あの……名前のわからない料理も、あとおにぎりも、そして私の作ったショートケーキも、とにかく<デネブ>のトレーナーさんなしでは作れなかったのは間違いない。そんなこんなでお礼参りに行ったのに、返答はため息混じりに聞こえた。いやこれは別に誰に呆れるでもなく、一息つくって感じかな。
なんだかんだで、お疲れだ。彼女の返答自体は、それを感じさせないものだったけど。
「好きでやってることに、感謝される筋合いはないわね。……というと冷たく聞こえるけど、好きでやってることだから気にしなくていいのよ、本当に」
「そう言われるとそうなんですが、まあやっぱり気になっちゃいまして」
「まあ私としては確かに疲れたけど、久しぶりに盛大なものが作れて楽しかったわね。……というより気になるから話しかけるというのなら、あなたが代表してるらしい、チーム<アルビレオ>の本当の代表に気を配ってあげたら? ほら、あそこでちびちびサラダを食べてる」
そう促されるままに彼女の視線の先を見ると、そこにいたのは我らがトレーナーさん。部屋の隅の隅、確かにサラダだけが皿に乗っている。ええ、食欲ないんですか、みんなが腕によりをかけて作ったご馳走なのに。
「せっかくのご馳走なのに、あんなふうに食べられたら私としてはショックだから。セイウンスカイ、よろしく頼むわね」
「はいはーい、セイちゃん喜んで承ります」
<デネブ>のトレーナーさんのいうことには全く同感で、果たしてあの正論男はなにをしょぼくれているのだろう。それじゃあキングとトップロードさんの作ったおにぎり一つすらたべられないんじゃないか? ケーキなんてもってのほかだ。それは困る。今日料理人の端くれになった者として、作った料理は食べてほしい。
あなたが作らせたところもちょっとはあるなら、なおさらだ。
ずん、ずん。そんな思いやらなんやらを胸に、真正面に目的地へ向かう。テーブルから離れて、誰も周りにいないようにしているあなたの方へ。あちらは相変わらずしょぼくれていて、こちらに気づく様子もない。本当に、やれやれだ。黙々と輪に加わらず食べるんだか食べないんだかの食事に留めるなんて、クリスマスパーティに対する冒涜ではなかろうか、なんて。
「どうしたんですか、トレーナーさん」
そうやって、私は。
「おお、スカイ」
私はまた、歩み寄る。
油断するとすぐに正論で心を隠す、頑固で真摯なトレーナーさんに。
こうやって私が話しかけると、すぐに返事をしてくれるあなたに。
空の変遷に従って、部屋の灯りは対照的に強くなる。
なら、眠るべき夜にはまだ遠い。それは今日という日であるのだから、より一層。
今日の夜は、特別なんだから。
クリスマスの本番は、まだまだ始まったばかりだ。
想い集う聖夜は、これからなんだから。
「トレーナーさん、元気ないですねえ。お疲れですか?」
「そんなことはない。これくらいで疲れていては、トレーナー業は務まらないからな」
「はあ、またそんなこと言って。本当に元気な人は、サラダばっかりちまちま食べないんですよ」
「野菜は大事だ。俺も君たちを見習って、健康管理には気を遣っている」
「なんか今日のトレーナーさん、ああ言えばこういうって感じですね」
元気がないと見せかけて、妙に今日のトレーナーさんは口が回る。具体的にはくだらない言い訳が多い。まったく、誰に似たんだか、なんて。私相手に口八丁で勝負とは、かなりいい度胸しているなという感じだが。それで勝てると思っているのなら、まだまだあなたも甘いね。
「そんなことはない。俺はいつも通りだ」
「はい、『そんなことはない』二度目。トレーナーさん、知ってますか。何か後ろめたいことがある人は、語彙が少なくなってすぐ否定するんですよ」
「……そうなのか」
「なんちゃって、今私が考えました。でもそこでうっかり素直に納得しちゃうあたり、やっぱり今日のトレーナーさんは変じゃないですか」
「参ったな」
というわけであっさり陥落。化かし合いとしては張り合いがないと言えば張り合いがないのだが、この融通の効かなさがトレーナーさんらしいというのもその通り。なので、私的には満足だ。あとやるべきことは、このおしゃべり下手くそトレーナーさんの悩みを、私のよく回る舌で根こそぎ暴き出して──。
「よし、スカイ。食べるぞ。俺は今から大量に食べる。スカイと競争だ」
──え。この人は急に何を言い出したのでしょうか。その発言と共に、人が変わったように、だった。壁にもたれかかっていた背中を持ち上げ、今にもパーティの中心へ踊り出さんとするトレーナーさん。いや、そんな流れはどこにあったというのか。さっきまではどう見ても、私があなたを引っ張る側だったじゃないか。私は完全に面食らって、なんとか口を挟んで流れを引き戻そうとするばかり。
ええい、この男に口で負けてたまるか!
「なんですかいきなり、競争って」
「食べた量での競争だ。今日の俺は腹が減ってるから、いくらでも食べれるぞ」
「いやいや、いくら私が食の細そうなか弱い女の子に見えたとしても、れっきとした育ち盛りのウマ娘なんですけど。人間が大食いで勝てるわけないでしょ。そもそも意味がわかりません、何の意味がある競争なんですか」
「なんだ、諦めるのか?」
ぐう〜〜、こいつ! 元気がないからちょっかい、もとい励ましに来たのに! クリスマスパーティは大食い競争の場でもなんでもないとか、そんな常識的な判断もあらかた吹っ飛ぶ。完全にトレーナーさんのペースだ。こうなったこの人は、私ととことん相性が悪い。
私の心底苦手な、バカみたいに頑固で強情な人!
やられた。そしてやられたとわかっていても、私の返せる返事は一つしかない。曲がりなりにも勝負を仕掛けられた以上、「諦める」なんて選択肢は。いつか選んだそれは、もう少なくとも、この人の前では。
「……やってやろうじゃないですか。ただし、他の人の食べる分がなくなって怒られない程度に。あと、もう一つ」
「あと、なんだ?」
「ちゃんと、クリスマスケーキのぶんのお腹は残しておくこと。私とトレーナーさんで作ったケーキ、ですからね」
「諦める」ことはありえない。そんな思考が当たり前のように紡げたことは、きっと私にとって初めてのもの。諦めたくないって気持ちを、決心するでもなく自然に湧かせられたこと。
それもきっとトレーナーさんが私にくれた変化の一つで、はじまりだった。
すっかり遠くなった気がする、あなたと出会ったあの日のこと。
「諦めるな」って最初に言われたあの日のことを、つい昨日のことのように思い出せるのも、クリスマスの魔法かもしれない。
「スカイさん、トレーナー! 一流のおにぎりの味はいかがかしら! 私が丹念に塩を振り、具を込め……」
「うん、おいしいよ。流石クッキングヘイロー」
「おばか! そろそろ忘れてきてた駄洒落を繰り返さない!」
「しかし本当に美味いな、このおにぎりは。俺もおにぎりぐらいなら作ったことはあるが、もっと雑なものしかできなかったぞ」
「おーほっほっほっ! そうよ、ただのおにぎりと侮っちゃいけないの! 形のバランス、そして立体に満遍なく塩を振るテクニック……これぞ一流なのよ!」
というわけで、大食い勝負の始まりである。とりあえず私たちが最初に食べ始めたのは、キングとトップロードさんの作っていたおにぎり。いや、クリスマスパーティとしては結構外れた食品なんですけど。
あれから色々レギュレーションのようなものを取り決めて、普通に全種類の料理を食べよう、それを食べ切れるかどうかにしよう、ということになった。普通とは言ったが、十人以上のためのご馳走の山。全種類ちゃんと食べる、となると結構大変である。
「……何個食べます?」
「あと、五個だ」
「上等。ま、私はへっちゃらですけど」
ちなみにキングは全部のお米を完璧に一粒残らず使い切っておにぎりの山を築いたらしいが、<デネブ>のトレーナーさんはまさかそこまでやるとは思っていなかったらしい。<デネブ>のトレーナーさんの想像を超える結果までやり遂げたキングの根性、恐るべし。というわけでおにぎりは若干余り気味なので、私たちが少し多めに食べるぶんには大歓迎だ。
つまり、ここが大食い競争の分水嶺である。他の料理はそんなにがつがつ食べるわけにはいかないし、最初のおにぎりで大体決まる。……というかやっぱり、そうしとかないと、ね。
「……なんとか食ったな」
「ふう、ごちそうさまでした」
おにぎり十個。これくらいの数なら私としては食すのはあっという間ではあったのだが、この時点でほぼ勝敗は決しているみたい。それは隣の人の脂汗を見ればわかる。炭水化物の塊をこの速度で十個も食べて、ここからチキンやらポテトやらカロリーの高そうなものを果たしてトレーナーさんは食べられるのか?
いや、流石に心配になってきた。
というか、こうなるとは思っていたからね、はい。
「トレーナーさん、大丈夫ですか? やっぱり変ですよ、さっきから」
部屋の端っこで縮こまってたかと思いきや、急に私に大食い勝負を仕掛けて、案の定の結果。そこに至るまでの言動も、何から何までいつもらしくないような。そんな私の疑問に対して、ようやくトレーナーさんは観念した様子で。やっとここまで追い詰めて、本音を吐き出した。
「居ても立っても居られなかったんだ」
「なんですかそれ。それでここまでの奇行の説明をつけるつもりですか?」
「今日、色々な書類を見た。過去の有マ記念の記録も、有マに向けてのたくさんの手続きも。特別なレースは多々あれど、年末の中山は別格だ。それは知っていたが、改めて実感したんだ。……俺のチームから、二人もそのレースに出走する」
その言葉を聞いて、ぴくぴくと反応する耳が二組。私と、側で聞いていたキング。トレーナーさんがずっと忙しなくて落ち着きがなかったのは、そんなことがずっと頭にあったからがだったんだ。私とキングが出走する、有マ記念。トゥインクル・シリーズの一年を締めくくる、年末の中山で行われる集大成。私たちだけじゃなくって、トレーナーさんも緊張する。それは言われてみれば当たり前のことだった。私のレースは、私一人で走るものではないのだから。
「……そういうことなら。私のおにぎりでよければ、いくらでもやけ食いしていきなさいな」
「そうか、ありがとう。応援しているぞ、キング」
「トレーナーさん、私も応援してくださいよ。……あ、私は他の料理食べてくるから」
「えっ、スカイさんあなた」
いや、なんで二人してそんなじとっとした目で見るんですか。だってもう、大食い勝負は私の勝ちでしょ。トレーナーさんはこれから敗北を噛み締めながらのやけ食いで、私はちゃんとレギュレーション通り他の料理も食べにいくんでしょ。私には<デネブ>のトレーナーさんが作ったチキンとか、フラワーが作った名前もよくわからないお洒落な料理とかが待ってるんですよ。おにぎりだけでクリスマスパーティを終えるなんて、ちょっと残念すぎませんか? 今回くらい、許してほしいなあ。
というわけで、なんとか退散。言うに及ばず、逃げました。何か言われても気にしません。いや、これからは逃げてもいいでしょう、なんたってセイちゃん逃げウマですし。そもそも大食い勝負なんてものでクリスマスパーティを過ごすなんて、やっぱり嫌だし。おにぎりだって十個も食べたんだから、キングから文句は言えないだろう。
そうして若干苦労はあれど、ゆったり美味しい料理を食べることができた。とりあえずひとりでぶらぶらと、気分次第にうろうろと。たまに誰かと話すこともあって、そういうのもクリスマスパーティ。たとえばフラワーの作ったお洒落な料理のところに行けば、フラワーがにこにこしながらそれを食べるみんなの姿を眺めていた。私もするっとそこに加わる。ふむふむ……これはまあ、すごいね。うん、フラワーらしいや。
フラワーが作っていたのは、カナッペ、というものらしい。くり抜いた食パンをトーストして、その上にチーズやらベーコンやら色とりどりの具材が載せてある。うーん、流石フラワー。チーム最年少ながら、一番女子力を感じる。もちろんこの料理は<デネブ>のトレーナーさんが彼女に任せたわけだが、この小さな彩りを散りばめた感じはフラワーの趣味の花畑にも似ていて、適材適所の仕事配置といった感じ。これ、どんな味がするんだろうか。
フラワーのお手製、気になりますねえ。
……と、そんな感じでぱくぱくと、食べすぎないように食べていると、フラワーが話しかけてきた。若干緊張したふうで、料理の感想を。
「あの、どうですかっ、スカイさん」
「ああフラワー、これ、すごいね。具材とパンがちょうどよく組み合わさっててついつい食べ過ぎちゃいそうなくらい美味しいのもそうだけど、それよりすっごく可愛い盛り付けでさ。いや、料理といえば焼き魚しか能のない私からしてみれば雲の上のような存在だね」
「何言ってるんですかスカイさん。スカイさんは今日、一番すごい料理を作ったんですから」
「……そうかな」
「そうですよ」
褒めたつもりなのに、褒め返されてしまった。そう言われると、そうなのだろうか。私の作ったクリスマスケーキは、そんなにすごいものだろうか。ちなみにトレーナーさんが最後にいちごを載せたあと、完成の感慨に耽る間もなく家庭科室最大の冷蔵庫に我がクリスマスケーキは仕舞われた。なので、両チームメイト全体へのケーキのお披露目は先送りになっているのだ。それはつまり、また柄にもなく緊張しているということである。
その時に向けて、レース本番前みたいに。私だってそりゃ、そういう時は緊張するのだ。
けれど、このクリスマスケーキのお披露目こそトレーナーさんの与えた試練、というのも確かで。一番人気のプレッシャーというものが、本当にこんなことでなんとかなるものなのかはわからないけれど。だけど、少しはほぐれるものかもしれない。
二日後に控えた有マ記念に向けて、一番人気で迎える初めてのレースに向けて、複雑に絡んでいた気持ちの糸はほぐれていっている最中なのかもしれない。
それに、だった。それにそもくらいあなたが私のために考えてくれたというのなら、私はその期待に応えたい。期待に応えて、あっと言わせて。一番の期待に応える走りをした私は、大切な人に向き合うことでのみ自分の欲求を満たせる。走ることは楽しいって、そう思える。
そしてその瞬間になってようやく、私の子供じみた欲求はきっと暖かく満たされる。褒められたいって、胸を張って言える。
だから、見ててよね。
今回だって、最高のレースをしてみせるから。
「……さて、みんな。そろそろデザートを出すから、机の上に残ったものを食べてしまってちょうだい」
……と、そんな声が聞こえて、私の思考はさっぱりと途切れる。<デネブ>のトレーナーさんの声だ。見ればキング印のおにぎりさえ、ほとんど完売といった感じ。結構な量を用意していたはずだけど、ウマ娘の食欲恐るべし、といったところか。私も最後に一つ残ったカナッペを、ぱくり、と口に入れた。
「ごちそうさまでした、フラワー」
「はい、お粗末さまでした。次は私が、スカイさんのケーキ、頂いちゃいますね」
「うーん、お手柔らかにお願いしますね」
私のケーキ、かあ。果たしてフラワーの口に合うだろうか。いや、そんな間違った手順はしていないのだけれど。クリームを塗っていちごを載せただけ。そりゃそうやって他人に一言で切って捨てられたらむっとするだろうけど、自分で言うぶんにはそんなもんかという気もする。
……でも、だ。
「さ、これが今日、クリスマスを祝うショートケーキ。作ってくれたのはみんなもよく知るチーム<アルビレオ>のエース、セイウンスカイよ」
製作者の名前も交えた少しむず痒い紹介と共に、ケーキがいよいよ皆の前に出てきた。
真っ白で大きな、自分で言うのもなんだけど、いちごも丁寧に載せられた、お店で見てもあんまり見劣りしそうにない立派なクリスマスケーキ。私のケーキが冷蔵庫から<デネブ>のトレーナーさんの手によってうやうやしく取り出されると、ぱちぱちと、軽いけど全員の拍手で出迎えられた。
それはきっと祝福されていた。それはきっと皆に期待されていた。
とっても素敵な、純白のドレスで着飾った花嫁のように。
その結実を見て。
そこにあるものを作り上げたのは私なのだと、改めて実感して。
そうなれたら、私も同じように花開くものになれたらと。
そんなふうに、思った。
ケーキは無事、美味しかった。ちゃんとスポンジケーキは柔らかかったし、ホイップクリームも滑らかだった。手順通りだから当たり前と言われればそうかもしれないけど、それでも無事、美味しかった。
食べる前に<デネブ>のトレーナーさんが言った通り、この人数では大きめの8号サイズでも一人当たりのカットは若干小さかったけど。いちごは多めにあったので、みんながしっかり味わえるぶんのいちごはちゃんと確保されていた。
みんなが美味しい美味しいと言ってくれると、自分のことのように嬉しかった。努力が報われる、それは嬉しいこと。当たり前だけど、実感して初めて意味のあることだ。だから実感した今は、とても嬉しかった。
そういえば、「努力は裏切らない」って、トレーナーさんの口癖だったっけ。最初の頃はそんな言葉も、鬱陶しいくらいに思っていたけど、今ではこうやって私を支えている。あなたに、私は支えられている。クリスマスという日は、そういった日頃の感謝を込める日なのだと、またそのことを実感した。
……って、あれ。
「あれ、トレーナーさんは」
「あの人ならさっき、『まだやることがあるから先に寮に帰る』って言ってたわ。片付けなら準備と同じく私が指揮を取るけど」
「……すみません、私も先帰っていいですか」
「もちろん。行ってらっしゃい」
なら、決まりだ。<デネブ>のトレーナーさんと、他のみんなにあとを任せて。私は一人、こっそりと聖夜の下を行く。正確には、二人。前を行く人影は、すぐに見つかった。トレセン学園を出てすぐ、だった。
「トレーナーさん、こんな遅くに一人で帰っちゃ危ないですよ」
「どうした、スカイ。俺はもう寮に帰るところだぞ。実はまだ、やり残したことがあってな。……ああ、ケーキは食べた。美味しかったぞ」
「それはどうも。でも、ですね」
そうけろりとした、けれどくたびれた表情でいうトレーナーさん。ちゃんと私へのフォローも忘れていないけど、一つ忘れていることがあるんだよ。
「やり残したことがある」なんてのはこちらの台詞だ。ともあれ立ち止まらせることには成功したのだから、そのあとにやるべきは単純だ。
「寮まで、送ってあげますよ」
そう言って、私はトレーナーさんの後ろから、隣へ。まずは一つ目の仕掛け。先程までの賑やかなパーティとは打って変わって、聖なる夜は静かな空を見せていた。冷たい空気も、今なら神秘的に思えた。そんな今なら、これくらいはしてもいい。
「トレーナー寮は君らの寮ほど遠くない。そもそも子供が大人を見送るなんて、あべこべだ」
「なら、今日のトレーナーさんは子供です。ご馳走を食べて、いっぱい笑って。迷子にならないようお見送りまでされて、サンタさんからのプレゼントも貰っちゃう」
そう言ってやると、呆れたような、呆気に取られたような。そういう表情で、まともに言葉を返せないみたい。さっきのパーティじゃ、自分が同じように無茶な理屈を並べていたくせに、さくっと逆転できてしまった。
ともかくそんな表情が、私の見たいトレーナーさんの顔だ。仕掛けに引っかかった顔。そうしたら、二つ目の仕掛けの出番だ。
「……プレゼントって」
「なんだトレーナーさん、期待してるんですか。子供ですねえ」
今度は少しむすっとする。でも、それも私の思い通り。手を差し伸べて、それでも最後はそちらから手を伸ばさせる。そうさせるのが、二つ目の仕掛け。もちろんそんなのもやっぱり、見たい顔。今まで見てきた大人のあなただけじゃなく、私はその先も見ていたいから。
だから私は、こつんと軽く、地面を蹴って。
そして私は、ひらりと白く、あなたの前に立ち止まり。
きっと私は、にかりとはにかみ、制服のポケットから包みを取り出す。
これが私の、最後の仕掛け。
「メリークリスマス、トレーナーさん」
うん、その顔。
その顔が一番、見たかった。
「……これは」
「中身ですか? ルアーですよ、セイちゃん一押しのメーカーのやつです」
「そういうことじゃなくて」
「あ、根がかりとかですぐに失くさないでくださいよ。いくらトレーナーさんが初心者だからって、それは流石にショックです」
トレーナーさんの真似をしてみたけど、有無を言わさず、みたいな喋り方、結構楽しいかもしれない。ぐいぐいとお腹に包装の下のパッケージの角を押しつけてやると、流石のトレーナーさんも受け取らざるを得ないらしい。はい、女子のプレゼントくらいきっちり受け取れる男になりなさい。なんちゃって。
「その、なんで」
「なんでって、クリスマスだからですよ。まあ多分誰からも貰ってないだろうと思って、びっくりさせたかったって感じかな」
トップロードさんはそんな発想しない感じの天然だし、キングはなんかそういうの案外躊躇いそうだし。というわけで今回は、私セイウンスカイがその穴埋めをしてやったというわけである。まあ私も、昔ならこんな気安く人にプレゼントなんてあげなかったんだろうけど。心境の変化、というやつかもしれない。
「さっきも言いましたけど、今日のトレーナーさんは子供でいいんですよ。クリスマスプレゼントに飛び上がって喜んだら、このまま寮に着くまでくだらない話をしてあげますし、帰ったらすぐに寝ていいんです。たまには休んでください」
「俺は大人だ。君らが頑張ってる時に頑張らないなんて」
「今日は、子供です。たまには、子供もいいじゃないですか」
そう、特別な日とはそういうこと。いつも頑張っているのなら、それを今日だけは忘れていい日。だからいつものみんなで集まっても、いつもと違うことができるのだ。特別な日だから、できるんだ。
たとえばがんじがらめの大人でも、その日だけは何もかもを忘れられるような。きっとそうやって重荷を下ろせるから、人は更にその先へ進んでいける。大人になったって、成長が止まるわけじゃないんだから。
だから、今日は私があなたを想う日だ。いつも一緒にいてくれる人のありがたさを感じるのが、クリスマスという日なのだから。
だから、もしも許されるのなら。
あなたも、私を想ってほしい。
ほんの少しだけで、いいから。
「……そうだな。今日は少し、頑張りすぎたかもしれないな」
「トレーナーさん、いつも元気いっぱいですからね。そうじゃなかったらすぐ気づきます。きっとみんな気づいてて、心配してますよ」
「心配をかけてしまったか」
「それも今日なら、いいんです。いつもみたいに頑張りを隠そうとできなかったのも、子供らしさってことですよ」
それが、今日のトレーナーさんの異常の根本。ずっと抱えていたレースへの不安が、ハレの日とばかりに破裂しそうになっていた。普段は隠して暑苦しく振る舞うけれど、今日の空気がそれをむき出しにした。そしてそうやって今までにないレース前に不安を抱えるのは多分、私たちの方も同じことだ。
だけど特別な日を通して、クリスマスを通して、そこにある気持ちを少なからず消化できた。
ならばきっと、今日じゃなきゃ話せなかったことだ。
いつも抱えていても、今日しか言えなかったことだ。
だからやっぱり、これも正解だ。どんな道も、積み重ねていこう。
ふうっと、二人で息を吐く。
白い跡を引いたそれは、聖なる夜に溶けてゆく。
やがて、トレーナーさんは語り出す。今日まで抱えた、彼だけのものだった不安を。
私とあなたの、二人のものにするために。
「有マ記念、相手はあのグラスワンダーだ。復帰戦の不調もあって四番人気だが、今日色々調べてな。俺は間違いなく、彼女には人気以上の実力があると見ている」
「なるほど。たとえ私が一番人気でも、油断はできない」
まあ、一番人気だからって油断できないなんて、今更だけど。今更だけど、肝に銘じなきゃいけないことだ。それにしても、一番警戒すべきはグラスちゃんか。
やっぱり、ライバルは近くにいる。私が立ち向かうライバルというものは何度も目の前に立ち塞がり、時には打ち倒せないこともある壁だ。
けれど私たちは勝ちたいから、その壁にぶつかってゆくのだろう。
一度では壊せないのなら、次で壊してみせるのだと。
「勝てるか、スカイ」
「おやおや、トレーナーさんらしくないですね。いつもは『スカイなら勝てる』って言ってくれるのに」
「……すまない」
まったく、本当に今日のトレーナーさんは素直だ。ならあまりいじめないで、こっちも本音を喋ろうか。少しばかりの弱音も、特別な今日なら前向きに吐き出せるから。
「勝てるかは、わからないです。もちろんいつもそうです。私は才能がそんなにあるわけじゃないし、期待だってされていなかった」
でも、ここまで来た。一番人気さえ掲げられるくらいに、今の私は成長した。届かないと諦めたはずの空を、その手で掴めそうになっているのだ。
「だからこそ、勝ちますよ。だってそうすることが、今背負った期待に応える方法ですから」
才能がないと思っていたからこそ。期待されていなかったからこそ。
それらを超えて寄せられた期待は、私の実力そのものだ。
なら、もっと超えたい。もっと驚かせたい。
もっと、未来は広がっている。
そしてそうやって応えたいのはもちろん、あなたにだって想うこと。なんといってもトレセン学園に来て最初に私に期待してくれたのは、紛れもなくあなたなんだから。
「そうか。応援しているぞ!」
「おっ、元気が戻りましたね」
「ああ。スカイには負けてられないな!」
負けてられないなって、まだこの人はあの大食い競争を引きずっているのだろうか。勝負にもならなかったのに、頑張りますねえ。けれどこの感じなら、トレーナーさんは回復したみたい。私のおかげで、いつも通りに戻ってくれた。もう少しだけいつもより子供でいてくれてもいいんだけど、やっぱりこの正論男に融通は効かないか。
……まあ、これでいいか。
私があなたのためになれたのなら、それが一番嬉しいからさ。
「じゃ、ここまでですね」
「わざわざすまないな。ありがとう、スカイ」
トレーナー寮まではあっという間。別にここから先はウマ娘立ち入り禁止とかはなかった気がするけど、私にも寮の門限がある。クリスマスはここまで。
また明日からはいつものトレーニングだし、明後日には有マ記念だ。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
だから、暫しのお別れ。最後に少しだけ言葉を交わして、私たちはそれぞれの場所へ帰る。「おやすみ」と、今日の終わりを告げる。
だけど、終わるのは今日だけ。確かに特別ではあったけれど、今日終わるのはすべてじゃない。きっとまた明日も、これからだって何度も私たちは会う。
それが日常。クリスマスのようなイベントのない、普段あるものの繰り返し。だけどその繰り返しはいつもまったく同じじゃなくて、変化と成長をそこに連ねている。
私たちの未来には、何が待っているんだろう。
そんな青臭くてくすぐったい問いかけが、心の芯から吹き抜けた。
聖夜は、ここで幕が降りる。
けれど、夜空の先は広がっている。
どこまでも、空は続いている。
どこまでも、蒼く。
未来のように、永遠に。
──そらがおちてくる。
だれかが、そらがおちてくるといった。
みんながあわてて、だけどこわがることしかできなかった。
けっきょく、そらはおちてこなかった。
ありえないことをこわがるなんて、ばからしいことだ。
きっと、そういうはなし。
でも、もし。もし、そらがおちてきたら。
ありえないとおもっていたことこそが、まちがいだったら。
ずっとずーっとそらがひろがっているなんて、うそっぱちだとしたら。
──空が堕ちてくる。
変化には終わりがある。成長には限りがある。世界を閉ざす絶望がある。
それを、私に知らせるために。
──そらがおちてくる。
だれかが、そらがおちてくるといった。
みんながあわてて、だけどこわがることしかできなかった。
けっきょく、そらはおちてこなかった。
ありえないことをこわがるなんて、ばからしいことだ。
きっと、そういうはなし。
でも、もし。もし、そらがおちてきたら。
ありえないとおもっていたことこそが、まちがいだったら。
ずっとずーっとそらがひろがっているなんて、うそっぱちだとしたら。
──空が堕ちてくる。
変化には終わりがある。成長には限りがある。世界を閉ざす絶望がある。
それを、私に知らせるために。