不安と緊張の登校初日は、特に問題もなく進行した。入学式にいなかったことなんかを誰かに「また」とっちめられてとやかく言われたりもしなかったし、そもそも誰もかれもが自分のことで精一杯で、そんなふうに他人を構う余裕はないようだった。
まあ、私自身もそうだっただろうし、ここはいきなり他人のことに踏み込んで来ないことこそ普通の新入生なのだろう。自分を大切にしている、みたいな感じ。とはいえそれは他人事で、私自身がそういった殊勝な考えを持ててるとは思えないところはあるけれど。
とりあえずそんな感じでこの放課後まで過ごした感じでは、特に問題はなかったのだ。意外と、何とかなったのだ。強いて何か問題を挙げるとするならせいぜい初日から授業中にうとうとしてしまったくらいで、これは私みたいな人間にとっては当たり前のことだし。
初日からしっかり授業が始まるトレセン学園の方に問題があるんじゃないか、とかはサボり魔のセイちゃん的には非常に大いに思うことだ。適度に休息をとりながらでも予想以上に疲れたので、そこは明日からはもっと上手くやらねばならないところではある。
とはいえ、これぐらいなら許容範囲。そして許容範囲をいきなり超えられたら私なんかは縮こまってしまうだろうから、これぐらいでいいのだ。
ドキドキワクワクのスクールライフなんてやられたら、私なんかのノミよりも小さい心臓ではいくらあっても足りない……まったく、本当に。
そう思わされるくらい、危機感を感じるくらいのイベントなら実はあったのだが。そう、昨日に続いてといえば、続いての。
そんな未知数なものがないわけじゃないのだ。主に私じゃなくて、私以外に。私が平穏と緩さを望んでいても、大抵の人はそれを察するか気づかないにしても、みょうちきりんな”私以外”はいる。私に声をかけてくる、変人といって差し支えないようなのはいてしまう、みたい。
そう、あれは二時間目の休み時間のことだった。私は薄目しか開けてない半分寝入りモードだったのに、それに構わず、ほんとに遠慮なく話しかけてきたウマ娘がいたのだ。
同級生、クラスメイトとの初めての会話、そんなもの別に初日から欲しいほどじゃなかったのに。それなのにその少女は凛とした佇まいで、凛とした声で話しかけてきた。
「こんにちは、セイウンスカイさん。私の名前はキングヘイロー、以後お見知り置きを」
机に寝そべったままの私を見下ろす、赤みがかった鋭く印象的な瞳。そこだけ見ると強気な印象なんだけど、先端だけ少し丸まった癖っ毛をしっかりセミロングのストレートでまとめてるあたりからは、なんというかどちらかといえば自分自身に強気というか、厳しくしっかりしようとしているというか。
一見投げかけた挨拶まで含めて礼儀正しいんだけど、なんとなくそれだけじゃない並々ならぬものを感じるというか。
ワンサイドアップで多分一番の癖のあるあたりを整えて、他は顔の前にも後ろにも流しながらその巻き上がりさえ従えて、そんなふうにちゃんとしている人はそういうところもちゃんとしているんだなあ、と思った。
そんな女の子らしい見栄えより手入れの楽さだよねえ、くらいの浅い考えで雑なウルフカットにしてる私とはその時点で天と地ほどの差があるかもしれない。ちなみにこの考えは浅すぎて、あとで寝癖のつきやすさに悩まされることになるのだが、そうなっても今更伸ばしなおしたりしない微妙な髪型へのこだわりも含めて、浅い考え。
それに比べりゃ目の前の少女の見た目は完璧で、いやあ、他人を見習うこともたまにはしないといかんですなあ、などとは思うかもしれない。いや、嘘ですね。ここまで違う人を見ても、そんな真面目なふうには全然思わないですね、私は。
と、こんな感じで初対面の人のいきなりの挨拶にどう返答するか考えあぐねながら、薄目の寝たふりのままで観察をしていた。じっくりねっとり観察してしまったけど、まあでも仕方ないじゃないですか、これに即座に対応しろなんて無茶をいわれても。
まだ与えられた会話に返答すらしていないけど、多分この感じだときっちり返事しないと良くないでしょう。それくらいはわかるから、ちゃんと考えてから答えようとしているのだ。私なりに、ちゃんと真摯。
思いつかなきゃ寝たふりで通そうとしてるあたりまで含めて、あくまで私なりに、だが。
そのつもり、だったんだけど。この時点で私に落ち度があるとしたら確かに、寝てるんだか寝てないんだかはっきりしてないあたりくらいだろうとは思うけど。
「あれ……まさか本当に寝てるのかしら? うーん、顔が見えないわね」
私のまわりをうろちょろうろちょろしながら、その整えられた髪をアトランダムに揺らしながら、キングヘイローと名乗った私のクラスメイトは言葉を浴びせてきた。
私の返答を待ちかねてます、それを隠しもしないような態度と台詞だった。
まったく、机に突っ伏してる今まで話したこともない人を捕まえて一方的に会話を始めるようなわけのわからない行動をとる人間にしては、焦りだすのが早すぎじゃないだろうか。なんと彼女は傲慢にも、私にシンキングタイムすらくれないらしい。
よくよく考えれば大した変人じゃないか、お互い暇そうにしてるくらいで初日からこんなふうに私なんかにアクションを仕掛けてくるやつなんて。私のちょっと後ろの近くの席に座ってたくらいのことで、それくらいの接点しか今のところ見つからないのに、このキングヘイローなる少女は行儀が良すぎるくらいの挨拶を私にぶつけてきたのだ。
……礼儀正しいと表現したのは、ちょっと訂正しようか。そんな振る舞いに見せかけて、実はとんでもなくアクティブかつチャレンジャーなんじゃないか、この子。
まあ、とりあえず。だんだん起き上がるのが面倒というか一筋縄ではいかない気がしてきたけど、それでもとりあえず。流石にここまで詰め寄られては無視を決行できないのが、セイウンスカイというウマ娘の弱さなのだ。
「……起きてますよ〜」
「どひゃっ!?」
薄目で半分顔を伏せたまま、そんなままだけど返事をしてやる。
その瞬間素っ頓狂な声を上げて、キングヘイローは思いっきり飛び退いた。40㎝くらいの距離感から、すさまじい瞬発力で80㎝くらいのところまで。
大層びっくりしてくれたらしいが、そんな声を聞いたこっちもびっくりだよ、まったく。呆れたやつだと一人思いながら、何とか私もその顔を起こした。
クリムゾンレッドのそれをしっかり見据えるまではできないけれど、ピントをずらしながらなら目を合わせられた。落ち着いた彼女が次の句を紡ぐのを待つくらいは、できた。
「もう! 起きてるなら返事ぐらいしてくれてもいいんじゃないかしら?」
「初対面の子にいきなり挨拶されて、普通はそんなノータイムで返事できないですね」
「……順序が良くなかったかしら。それはその、謝るわ」
当たり前みたいに怒られたので、当たり前の返事をしてやる。するとまた当たり前みたいに、小さくぺこりと頭を下げられた。
そんなにすぐに素直に謝られてもそれはそれで困るのだけど、そんなことを言ったら更に謝られそうなので控えておく。そうされて困るのは君自身だけではないので、ね。誘導が簡単すぎる魚も困りものなのである。
ともかく、挨拶されたのだからやることは一つだろう。なんというかむりやり引っ張ってくる感じなのに、時折進路誘導は必要な子らしい。既にそんな気はした。
そんな気がしながら、そう感じたとおりにした。ちゃんと、挨拶を返した。
「えーと、キングヘイローさんだっけ? 私はセイウンスカイといいます……って、もう知ってるか」
さっき言ってたし、話しかけてくる前から知ってはいたんだろう。それくらいはわかるとはいえ、先に私のことを知られていたというのはなんだか照れ臭い事実かも。
そのことを突きつけられた側は、顎をくいっと持ち上げてずいぶん上機嫌そうだったのだが。
「当然! 一流のウマ娘とは、ライバル候補の知識も完璧なのよ!」
「そりゃ光栄ですねえ、一流の方に覚えていただけているなんて。それで私に探りを入れにきたって感じですかな」
私みたいなところにまで隙あらばそんな探りを入れようとするのは、そりゃあ熱心なやつなんだなって感じではあるな、うん。と、まあそれなりに自然な流れで会話の理由を導き出してみたわけだ。いや、これがまだ常識的な流れだと思う。
なのにそう聞くと、キングヘイローは一瞬動きを止めた。
あれ、どうしよう、みたいな。なんて答えようかな、みたいな。
「……そう、そうよ探り! 覚悟しておくことねスカイさん、私に討ち倒されるその日を!」
まあそれは一瞬の間に過ぎなくて、ちゃんとそんな毅然とした返答が返っては来たけど、私からすればバレバレなんだよね、多分私じゃなくてもさ。
ははあ、さては何も考えてなかったな、この人、なんて。ただただ暇だったから心底気軽に話しかけてきたんだな、なんて。
いずれ雌雄を決するべき相手との会話なんて、私からすれば情報戦に等しいと思ってたけど、それだけじゃないものなのかもしれない。単に仲良くしたいとか、もしくはもっと何も考えずに話しかけてもいいものなのかもしれない。
目の前のこの子みたいに、とまではいかないかもだけど。尊大そうな雰囲気を醸し出してる割には案外お人好しなのかな、このキングヘイローって人は。
まあ、私としてはどっちでもいいことだ。のんびりゆるーく、からかうように対応してやろう。それが一番いい気がする。もしもこの関係がこれから先も続くのなら、の話だけどね。
「それじゃあえーと、キング」
「……な、なにかしら!?」
「なにも? 呼び捨てにしても良いのか試しただけ」
「え、ええ! それは大歓迎、じゃなくて、受けて立つわよ!
」
そう売り言葉に買い言葉の少女を中身のない会話で翻弄しながら、私は少し笑みをこらえていたのだと思う。そのあとの会話の内容はあんまり覚えてないけど、楽しかったことくらいは覚えているもの。
あっという間にチャイムが鳴るまで、少しばかり楽しかった。
暇つぶしとしては有意義だった、そんなファースト・コンタクト。
回想終了。そんなこんなで、まず一人。
まず、一人だった。
私が平穏無事に生活を終えられるかどうか、それについての懸念材料が増えたのだ。
そしてそこにはきっと、不安だけじゃなく期待も入り混じる。私に影響を与えてくれる人が増えたことには、色々なものが入り混じる。
……昨日のあれは忘れるとして、クラスメイトなんてこれからも意識するものだし。私の視界を横切って、世界の見え方を少しずつ変えるかもしれない、そんな感じの人はいる。身近にあって、だけど貴重な存在。その、まず一人だった。
そして、それは一人だけじゃない。今のところ、あるいは今の時点で既に、もう一人いた。あちらから話しかけて私の狭い世界に入ってくる人もいれば、あまりにも大きすぎて影響を与えかねない人もいる。
その後者。それに該当するもう一人は今、私の、私たちの目の前に居る。
私だけじゃない、クラスメイトだけじゃない、クラスどころか学年までバラバラな大勢の目に、その蒼い炎は焼き付いていた。もちろん同じ教室にいた時からそのオーラは感じていたけれど、それよりなお鮮明に。
その時よりも遠い距離にいるはずなのに、平静たる座学の時間よりも大きく大きく燃え上がるそれは、あるいは後ろにある夕日よりも美しく。
そんなふうに、だった。
彼女はそんなふうに頭ひとつ抜けた実力で、力強くターフを駆け抜けていた。
その真っ直ぐなロングヘアとしなやかな尻尾が風を切るのを、群衆の中でちっぽけに見惚れずにはいられなかった。
その光景が、今日の放課後だった。
「はあっ、はあ……すごいね、噂通りだ」
「ありがとうございます。先輩が併走してくださったおかげで、ここまで引き出していただけたので」
ざわざわ、ざわざわ。ウッドチップの一粒一粒までオレンジの陽射しに染まり始めている練習コースで、二人のウマ娘が併走を終えた。放課後のトレセン学園では、併走トレーニングは日常茶飯事で目に留めるほどじゃない、そんなことは私だってわかっている。
とはいえそこにある数々の異常性が、私含めた多くの観客を呼び込んでいた。
どの異常性も、それこそが揺るぎない事実としてそこにあったから、誰もが認識したのだ。
"怪物"というものを。
一つ、あまりにも歴然とした決着。併走とはいえど勝敗が明確と見えてしまうその二人のウマ娘の走りがそこにあって、しかも勝者は息を切らせてすらいない。たとえ疲労を覆い隠しているのだとしても、それを実行できるほどの余裕がある。強者の余裕、というものが。
二つ、勝ったのは入学したばかりのウマ娘。新学期どころかトレセン学園にやってきて最初の授業のあとからこれだけ本格的なトレーニングをし、それに耐えてみせた天性の肉体。
いや、きっとそれだけではないのだろう。それだけではなく、既に彼女はそれなりの研鑽を積んでいるのだと思った。あれだけ整えられたフォームなんて、私がここに来るまでにテレビで見ていたものと比べても遜色ない程だったのだから。
それは天性のものを持ちながら、その上で更に努力をしていたから。私とは、違って。
そして、三つ。これが、このなんてことない自主練習がこれほどまでに衆目を集める理由。いたってシンプルで、なにより確実な理由。
それはそこでお淑やかに微笑んでさえいる勝者、奇麗に伸びた背中を栗毛の長髪で覆うその少女の名が──グラスワンダーであること。
私たちのクラスで、もっとも注目されているウマ娘であること。
ともすれば生まれた時から期待されてきた、"怪物"であること。
私とは、いいやそれだけじゃなくきっと、他の誰とも違って。
それでもひるまず在れる孤高の兵が、その大地に立っていた。
「むうぅ、流石ねグラスさん……」
「うん……って、キングじゃん」
「何よ、私が居たらいけないの」
「それもそうか。キングは相変わらずの敵情視察?」
ナチュラルに私の横にいてしかもなんか同意を求めてきて、それに思わず素で返しちゃったんだけど。びっくりしたというか、このキングヘイローって女の子は案外油断ならないな。とはいえそれを言っても不毛な気がした。なんとなく。
というわけでそれもなんとなく、そのまま会話が始まった。依然私の視線はグラスワンダーさんの方にあったけど、もう一つの波紋がそこにしるしを作りはじめていた。
「当然! 私は一流として、どんな壁も乗り越えなければならないの」
「へえ、立派だねえ」
「スカイさんも、少しはしゃきっとした方がいいと思うわよ!」
「そうは言っても、あれ見てよ」
そう言って、私はいまだターフから去らぬ一人のウマ娘を指す。集まった観客にようやく気づいた様子で、にこやかに周囲に手を振りつづけるグラスワンダー。
その周囲に敏感じゃないなんとなくゆる〜っとした雰囲気自体は私と波長が合う気がするけど、あの走りには並べるものだろうか。そんなふうに考えてしまって、私はついつい他人事。キングみたいなやる気は出せないや、そう思ってしまった。
だけど、彼女の態度も一辺倒ではなかった。
常に気丈に見えたキングヘイローが、少しばかり今までとは違った声で。
誰にでもなく、あるいは私にだけに呟いた。
「……グラスさんは、特別よ。本物の一流なのよ」
「なにそれ。一流なのは、キングじゃなかったの?」
「……私は、そうありたいけど」
もう、一段。
二言目で、声のトーンが一気に下がる。
ひょっとして、私は何かまずいことを言ってしまったのかもしれない。そう思った。人には誰だって触れられたくないことがあるというのに、誰かにとって軽いものが誰かにとって重いなんてことは、きっとどこにでもありふれているのに。
それに何気なく言葉の指で触れて、心の臓まで揺さぶってしまったのかもしれない。
昨日の私が、あの男にやられたみたいに。
「ごめん、いいよ今の。忘れて、キング」
「……ごめんなさい」
「謝るのはこちらの方。私たちそんなに仲良くないのに、下手に踏み込んじゃったね」
「いいえ、それは私が──」
「いいっていいって、そうやって説明もしなくていい。全体的に謝っておくから、そのぶん浅く受け止めといてよ」
「……ありがとう」
まったく、本当に素直なんだから。とはいえ私が言ったのも、恥ずかしい本心が漏れ出たものかもしれない。
「そんなに仲良くないのに」、なんてまるでこの先仲良くなる前提みたいな発言だな、とも思ったから。そこまでは、口に出さないけれど。やっぱり、そんなに明確に踏み込む勇気はないけれど。あの男が私にやってきたようには、同じようには私にはやれないのだ。
橙一色だった空が少し暗くなり、端の方から藍色に染まり出していた。ざわざわ、ざわざわ。人の流れも、夜に向けて動き出したみたい。だけどまだ、ここにある熱は冷めていなかった。
「そ、それより! グラスワンダーさんよ。私たちは、あれに勝たなきゃいけないのよ」
そしてそんな熱を持つのは当然他人事じゃない、かもしれない。キングが話題をむりやり切り替えたのに合わせて、こっそりそんなふうに思った。
いつのまにかキングの発言の括りが「私たち」になっているのはこの際おいておくとして、真正面からは勝てないとは思うのだけど。それでもそうやってやっぱり前を向くのは、二人で一緒にいるからかもしれない。
私たち、なのかもしれない。
さてそれならば、私の方からも手を差し伸べてやるか。真正面からは勝てない、それはつまり、策を練ればやりようはあるということでもある。
私が彼女に指針を示して、君がそれを引っ張る。
うん、やっぱりその構図だね。
「よしキング、今日は帰ろうか。その代わりLANEのアカウント教えて」
「え!? い、いきなり何を。れ、LANEのアカウントだなんて」
そんなに重大かなあ、メッセージアプリのアカウント交換って。まあそう考えるのはあまり私自身がそれを活用しないからかもだけど、これ自体はおかしくないと思う。だって、さ。
「そんないきなりでもないでしょ、だって初日からこんだけ話してるんだし」
「そういう、ものかしら」
「そういうものだよ、お嬢様」
「……わかったわよ」
だって、まあそんな理由。仲良くなるなんて、案外そんな明確な区切りのない曖昧なものだ。
それにしてもお嬢様呼びが否定されないあたり、やっぱりこの子育ちがいいんだね。まあ、そこら辺についてもおいおい聞いていけばいいだろう。おいおい、そのうち。
なんというか、それなりの付き合いになりそうだもんな、なんて。
「オッケー、それじゃよろしく。それより、今晩までに作戦立てるから」
作戦。今の私がそれなりに尊んでいるものの一つだ。頭を使って出し抜くとか、搦手を使って追い込むとか、まあ私なりに好きなこと、得意なこと。
才のない私なりの、勝つためにできること。トレセン学園に来て初めての「作戦」の相手として、あのグラスワンダーさんは申し分ないだろう。そんなことを考えながら、スマホを取り出す。
互いに、の話だった。キングと向き合って同じ操作をして、つながりを作って。その瞬間は、他の何でもなく互いのことを見ていた。
「はい。これで、いいかしら。作戦、乗ったわ」
「うん、ありがと。じゃあこれで連絡取れるね。作戦らしきものができ上がったら送るから、あとはキングがやり遂げられるか次第。それでもいい?」
「……当然よ。勝つためなら、手段は選ばない」
手段は選ばない。彼女がそう言い切ったのは少し意外だった。流儀とか礼儀とか、そういうのを気にするタチかと思ってたのに、そういう第一印象とは少し違う。
まあ、嫌いじゃない。むしろ気が合う。最初に思っていたよりはよりは似たところもあるのかも?
……それならそれで、悪くない。同じところばっかりじゃつまらないだろうけど、違うところばっかりでもつまらないだろう。長く長ーく付き合っていくなら、ね。
「それじゃ、私はそろそろ帰ろうかな。キングはどうする? このままここに居るより、明日の方がまだグラスワンダーさんに近づきやすいと思うけど」
気づけばグラスワンダーさんは、観客に構わず再び自主トレーニングを始めている。ゆるくて柔らかそうな雰囲気は私と似ていたけど、そういうところは私とは違いそう。
これから暗くなる時に走り始めるなんて、私じゃありえない気がするなあ。
「私はもう少し、もう少しだけ見ていくわ」
「そ。じゃあごゆっくり、私はおいとまさせていただきます」
「……スカイさん」
さよならを告げた直後だった。私の背中に、もうすっかり聞き慣れた声が投げかけられる。私の名前を、呼ぶ声が。
そしてそれだけ親しみを感じておいて、振り向かないのも失礼だろう。ぐるり。尻尾を揺らしながら少し早めに向き直ると、彼女と初めてしっかり目が合った。
赤い深い水晶体に、ピントがちゃーんと合っていた。
「また、明日。会いましょう」
「そうだね、また明日」
日和見主義の私から、ついつい何かを引き出してまうキングヘイローという少女。それは私に波乱をもたらす存在なのは、確かなんだけど。今まで私の見ていた世界にはなかった人なのは、確かなんだけど。
初めての友達。そう言い切ってしまうのは、まだくすぐったかった。
次の日の朝は、少々早めに寮を出た。これは初日よりはスムーズにその日の用意ができたということでもあり、それだけ立てておいた計画をちゃんと気にしていたということでもある。
昨日の夜のうちにばっちりキングには作戦を伝えたし、残りの私の仕事はそれを眺めているだけでいいはずなんだけど、あれがちゃんと上手くいくか少し心配だし、上手くいかなかったら私の責任でもある気はするし。
そんなこんなで、今日もしっかり教室へ向かうのだ。なんだかんだと登校まではサボらず、昨日と同じように朝日を浴びながら校門をくぐる。
新しい習慣というものはこうやって作られていくのかもしれないな、そう思った。
「あ、キングおはよ〜」
がらがらとスライドさせて扉を開けると、自然と見知った顔が目に入ったので挨拶する。これも習慣づけようか、なんて。
だからそんな気の抜けた挨拶なのも、これから習慣づけることに気を張ってなんかいられないよね、ってつもりだった。
だけどそんな私ののんきな挨拶に込められたちょっとした意図なんて気に留める余裕もないって感じで、私の声に気づいた彼女は……こちらを睨みつけてから席を立ち、にじり寄ってくる。なんだなんだ、どうしたんだ。昨日はそちらから挨拶してそれにちゃんと返したんだから、今日だってそうしてくれていいのになあ。なんかそんなふうじゃなかったし、やっぱりそうじゃなかった。
次のキングの第一声は、思いっきり詰問だった。
「ちょっと、スカイさん」
「なに? 顔が怖いよ〜」
「とぼけないで。本当にあれが『勝つための作戦』なの」
「キングにはぴったりだと思うけどな」
うん、そこに嘘はない。つもり。誠心誠意、キングに合いそうな作戦らしきものを立てた。つもり。
ちゃんとそう言ってやった。うん、そのつもり。……怪しくなってきた気もするけど、本心ってことにしておくか。
「それなら、信じるけど」
「ありがと。応援はするから、頑張ってね〜」
「……他人事だと思って」
そうは言いながら受け入れるあたり、心底お人好しだなあ。
まあそんな会話をしているうちにも時間は進み、教室だって人数が増えてきた。残りはお昼休み以降ということにして、私もキングも自分の席へと移動する。お互いに、あとの時間に本番があるとわかっているのだ。とはいえ私しか知らないこともあって、つまりキングには言ってない作戦内容があるということだけど。
それがどういうものかというと、上手くいかなかった時のサブプラン、いわば保険のようなものもある。まあそこまでいかないことを祈ってるけど。奥の手が出てこないならそれはそれで上手くいっている証だし、なにより私まで骨を折りたくはないし……おっと。
こつ、こつ。規則正しい靴音とともに、一人のウマ娘が教室へ入ってくる。こういう作戦会議中の私の思考を遮るほどのものなんて、その標的自身以外にありえない。
ゆっくりとその栗毛の長髪ごと教室へ足を踏み入れたのは、それで私の思考と世界をストップさせられるのは、言うまでもなくグラスワンダーさんだった。
それにしてもこうして意識してグラスワンダーさんの全体像を近くで見ると、なんというかやっぱりオーラが違う。言外に伝わるほどおっとり優しく振る舞っているのに、そんな女の子だとわかりながらなおクラス中が彼女の纏うものに縮こまっている気さえする。
もしも私が親近感を覚えてしまうほどのんびりした雰囲気の彼女に、それでも近寄り難い何かが感じられるとすれば、それはきっと彼女が身に背負う期待の裏返し。言い換えるなら責任と覚悟、そういうもの。
いつかの私にはなくて諦めたものだ。
期待も、それに応える責任も、応えようとする覚悟も、私には。
そのことは私と彼女の差異をこれ以上なく表すもののはずなのに、なぜだかそれ故にグラスワンダーさんに思うことはできてしまっていて。
そしてそう感じてしまうのは、その方角を一度見遣った事実だけは同じだからかもしれない、そうも思ってしまった。
そこまでの距離自体はきっと、私と君では互いを見遣れないほどにかけ離れているのに。
ふと、ちらりとキングの方に目を向ける。ずっとはあの姿は見ていられないやとも思ったし、まあ単純に獲物を前にしたキングの態度くらいは心配であったし。そういうわけで後ろの席へぐるりと視線を回してみると、耳が若干忙しなく。
なんだか緊張しているみたい。案の定、というべきか。昨日はあんなに殊勝だったのに、意識しだすとソワソワするタイプだな、この人。
それを見てなんだか不安になってきたな、とは思ってしまったが、仮に彼女の作戦実行が失敗してこちらにお鉢が回ってきても、そこまで悪い話ではないのかも。
グラスワンダーさんを目の当たりにしてからの僅かな時間で、私の気持ちは少し能動的なものに切り替わり始めていた。それ自体はキングと同じ。釣りとは魚影を確認した瞬間、最初に昂ってしまうものなのだし。あるいはトップクラスのウマ娘に対する、ミーハーな憧れかもしれないけど、もしかしたらただ純粋に、つながりを持ちたいのかもしれない。
どちらにせよ、その表裏がどちらに転ぶにせよ、このことはきっと事実だった。
私が少しグラスワンダーさんに興味を惹かれていたのは、誤魔化せない事実だと。
(一人で気ままにゆるゆると、みたいなのが理想だった気がするんだけど)
口に出すほどではないけれど、自分に向けて小さなため息を心の中で。
そう思っていたのは間違いじゃないし、なんなら今一人で考え事をしてる感じも落ち着いて好きな時間ではあるんだけどさ。
それでも私は確かに、今の私は確かに他の誰かを原動力にして少しずつ自分を変えていた。自分にとっての、世界の見え方を。夢への活力に満ち溢れたこのトレセン学園に、早くもアテられてしまったのかもしれない、そんな考えが浮かぶのも無理はない。私のような小心者が変化を望む理由はまだしっかり見つからないのに、その中でも変わり始めているのはわかってしまっていたから。
小さな変化が私の中に積み重なっていく、その感覚を誰かにもらえることが、ほんのちょっとだけ嬉しいとさえ感じてしまっていたから。
あの正論男から始まって、次はキングヘイロー。そしてその次は……わかんないけど。わからないけど、予感はあった。確実に、連なる予感が。
何かを、形作るかのように。私という空っぽの空に点は浮かび、それは繋いでやればいつか線になる。ならその点を繋いで形を作るのは、私が私自身でやることなのだろう。
空に結ぼう。小さな水の粒でも星明りでも、線で繋げば大きなものを描き出せるのだから。
ふう、午前中終了。一日目より慣れてサボりも上手くなったとはいえ、やっぱり人の話をずっと聞くのは疲れるなあ。そんなこといってたら授業なんて受けられないんだけど、それはそれ。とりあえず今は授業を乗り切って昼休みになったということが大事である。
昼休みということは、いよいよ作戦決行の時間だから。
キングヘイローとあとちょっとセイウンスカイによる、グラスワンダー捕獲作戦、みたいな感じのあれが、実行に移されるタイミングだから。
さて、どれどれ……。がっつり見ちゃうと不自然なので耳だけ澄ませると、がたん! と若干大げさに席を立つ音は聞こえた。そのあとの木目の上でかつかつ鳴る足音が、これもやっぱり大きめなのも。まあでも、ちゃんと彼女は実行に移しているみたい。歩み寄り、というやつを。
しばらくすれば本質的な会話が始まったので、そこまでは大丈夫だったようだ。
こんな感じで。
「グ、グラスワンダーさん! 私とその、一緒にお昼を食べないかしら!?」
「ええ、喜んで〜。キングヘイローさん、でしたよね」
……甘く見て70点。問いかけがぎこちなさすぎるけど、頑張ったで賞。そんな不自然にお昼ご飯に誘われて乗っかるやつがどこにいるんだと思いかけたが、続くグラスワンダーさんの返事が色良かったので赤点回避。
いやキング、これはグラスワンダーさんがおっとりした性格なのに甘えてるんじゃないの?
まあいいか、一応上手くいきそうだし。続きを見守ろう、正確には見てはいないけど。
「そ、そうよ! 言っておくけどグラスさん、私あなたには」
「お話もいいですが……とりあえず、食堂へ行きませんか?」
「……そ、そうね! そうと決まれば、早速ということね!」
「はい、参りましょうか〜」
……大丈夫かな。やっぱり不安になってきたので、サブプランを後ろで動かすことに決めた。この手の決断は早い方がいいと決まっている。
会話の続きがないのをしばらく耳で確認する。二人揃って前の扉を抜けて食堂へ向かうのを、狸寝入りの薄目で確認する。そこまでやって二人の足音がある程度遠くまで行ったのまで確認できれば、ようやく私もするりするり。
そろーりそろーり、こっそり二人の後ろから食堂へ行く。泣きながらキングが帰ってきたりしたら洒落にならないし、いやそれは流石にないとは思うが、これが私の保険である。
監視して、いざという時には直接介入する。うやむやにするのは得意だから、そこは一肌脱ぐというわけ。
……いや、そうならないのを祈るよ、本当。
「トレセン学園、聞いていた以上のところですよね〜」
前を行く二人を後ろから追跡すると、グラスワンダーさんがキングにそう話しかけるのが聞こえた。まあいたって普通の、返しやすい世間話の切り出し。でもどうやら、これくらい相手が友好的なら上手くいく確率は高そうだ。そしてそれを聞いたキングは……あれ。
沈黙してる気がする。もちろん歩きながらで前を向いているからその二人の会話がどんな顔で行われているのかは見えないのだが、キングが沈黙する意図はもっとわからない。
おいおい、大丈夫か~?
「それでも私たちももうその一員。早く慣れねばなりませんね」
更にグラスワンダーさんからもう一言、そしてキングヘイローは更に沈黙。これは早くも私の出番なのか、ひょっとして。いやいやキング、もうちょっと頑張りなよ。
多分あれでしょ、話しかけられてるのに気づいてない。いっぱいいっぱいか知らないけど、一流のお嬢様がそれでどーするのさ、まったく。
まあ、何とかなったのだが。キングのダメっぷりに気づいたのは、私だけじゃなかったみたいだ
。
「キングちゃんは、どうですか? 学園には慣れましたか?」
「へっ!? わ、私!?」
グラスワンダーさんがそうやってちょっと覗き込んで話しかけると、キングが昨日の再現みたいに飛び退くのまで見えた。食堂に行くまでの道のりで、既に危うさ最高潮。
こりゃ私の出番も近そうだ、いくらグラスワンダーさんが気遣いできる人だとしてもさ。
一応二人は並んで歩いているけれど、歩調や耳の動きやその他諸々がまるで違う。佇まいが堂に入っているグラスワンダーさんと、一生懸命規則正しく歩いているのが見え見えのキング。これじゃあ育ちがいいのはどっちなんだかわからないじゃないか。
それにしてももうキング「ちゃん」とは、侮りがたしグラスワンダー。いや私も呼び捨てくらいはしてやったけど、ここまでは早くはなかったんじゃないか?
こうやってキングが翻弄されやすいのもあるかもしれないけどね。そう考えるとちょっと、親しみやすさと親近感。
わかりやすいキングと、それをついついつついてしまったグラスワンダーさんの両方に。
「私はと、当然慣れたわよ! 一流として!」
とはいえやっと、キングは「らしい」台詞を吐き始めた。
……そしてそこまでは、私がもうよく知ってる彼女だった。
だけど、そこからだった。そこからの二人の会話は、今まで私とキングで繰り広げてきたそれとはまるで違うものだった。
「……流石、と言うべきでしょうか」
それはグラスワンダーさんの返答が、私には出せないものだったから。
この二人だけが知る、そんなつながりをその言葉たちに感じた気がした。
「……そう、ね。グラスワンダーさん、あなたなら当然知ってるでしょうね」
「私には、窺い知ることしかできませんが」
目の前の会話の雰囲気が少し変わる。
あるいは180度、一変する。
そのどちらなのか読み取れないほどに、さっきまでより、遠く感じた。
いつのまにか食堂はすぐそこで、必然的に私は二人により近づいて真後ろに陣取っていたのに、それでも遠く、遠く感じた。
私の知らない世界なのだと、きっとそう思ったから。
「……着いたわね」
「そうですね、続きは食事をしながら」
こつ、こつ。それだけ言って、二人は食堂へ入っていく。丸い光を反射させる白い床から、昼の暇を楽しむ生徒だらけのベージュの床へ。こつこつと、いつの間にか歩調は揃っていて。
人混みに紛れても、はぐれず並び立っていられて。私は二人が食堂に入ったのを確認してから、数歩遅れてあとを行く。
追い抜くわけにはいかない。
ここで追うのを止めるわけにもいかない。
ただ、どちらにせよ追うだけで。
まだ、立ち並べない。
「お待たせしたわね、グラスさん」
「いえいえ、ではいただきましょうか」
二人が据わった席から少し離れた椅子に一人陣取り、またそっと聞き耳を立てる。ストーカーと言われても否定はできないのだが、作戦のうちなので許してほしい。
それはともかく先程の少しの掛け合いが、二人の間の空気を解きほぐしたらしかった。
少し静けさと重々しさを持ったそのやりとりこそ、二人にしかわからない世界を作るものらしかった。
昨日の私がキングの心に踏み込まなかったのとは正反対だと思った。もう少し踏み込める関係にならなければ、そんなやり取りはできないと感じていた私とは。
彼女たちのつながりは、むしろそこから始まっていたから。
「お母さまは、向いてないって言ってたの」
そうキングの吐露するような呟きから、二人の会話は再開される。
キングのお母さんの話から。なんとなく、私があの時避けた話だと直感した。あの時とまったく同じ声音だと、それくらいはわかったから。
そして私はそれを回避したのに、そうしてしまったのに、グラスワンダーさんには隠そうとせず話している。
いや、隠すつもりなんてなかったのかもしれない。配慮のつもりの私の言動が、閉じ込めさせてしまったのかもしれない。
あるいはやはり傷口は痛むけれど、それでも抱えることに耐えられなくなったのかもしれない。どちらにせよ、私には話さなかったことを、今グラスワンダーさんには話しているキングヘイローがいた。そのことに、少し胸がちくちくした。
多分傲慢にも、友達だと思っていたからだった。
手の届く距離じゃないと、一度自分で自分に定義したのに。
「そう、ですか。あれだけ素晴らしいウマ娘だったんですから、その発言も重いですね」
「ショックだったわ。一番私を見てた人が、私に期待してないってことだもの」
その会話から断片的に、キングの抱えるものが伺い知れた気がした。グラスワンダーさんが既に知っている事柄のようだから、私のアンテナが低いだけで有名な話なのかもしれないけれど。そうだとしても、今この瞬間に初めて知って。
お母さま、素晴らしいウマ娘、向いてない、期待してない。
そのワードから類推されたキングの苦悩は、私が今更知った彼女の痛みは、きっと誰もが彼女に寄せる気持ちの裏側にあるもので。
名家の令嬢であるのに、実の母親からの期待を受けられない。それがおそらく、キングヘイローを縛るもの。「一流」へのこだわりの、根源だ。
そして、ひょっとして、と思った。そんな秘密を知って、少し思い当たるものがあった。彼女と昨日のうちにあれだけ仲良くなれたのは、私がそれを知らなかったからじゃないかって。無知故に、彼女自身を見ていたからじゃないかって。
もう二日前になった入学式の日、似たような立ち位置から私が心臓を射抜かれかけたように。
そういう意味では、知る前に友達になれてよかった。
私では先に彼女の立場を知っていれば気後れしてしまいそうだし、それでは彼女の求めるつながりにはなれなかったとしたら。蚊帳の外にいる今だからこそ、彼女にとって自分がどういう立ち位置なのかわかることができた気がした。
彼女の世界に、私がいる意味。
きっとまだそれは小さいけれど、確かに存在するのだと。
「でも、キングちゃんはトレセン学園に来たんですよね」
「……そうね。諦めたくなかったから。絶対に」
諦めたくない。そのワードが、弾丸のように私の頭の中へ届く。
キングは自分が期待されてないと知って、それでも諦めなかったんだ。
私はそんなふうにはなれなかったのに、彼女はそれを折れる理由にしなかったんだ。
期待されないことへの不安という、私と同じ軸の悩みを持ちながら、私より先んじた結論を出しているように見えた。
今までどこか子供っぽく見えていた彼女が、自分よりも大きく感じられた。
「ありがとうございます。そんな大切な話を聞かせてくれて」
「いいのよ。このくらいは当然の権利として与えてあげる。その代わり、今度はあなたの話を聞かせてくださるかしら? グラスさん」
「ええ、喜んで……と言いたいところですが、その前に」
そう言ってグラスワンダーさんはあらぬ方向を見て……いや、これは。あらぬ方向、というか。気づかれてたんだ、というか。
「こっちに来てもいいんですよ、セイウンスカイさん?
」
策士策に溺れる。こうして自分で二人の会話に着いてくることを選んだセイちゃんは、そのせいで己の作戦を丸裸にされることとなる。
あえなく私はその青い瞳に捉えられ、おずおずとただその促しに従ってグラスワンダーさんの前に引き摺り出された、というわけ。
グラスワンダーさんの方はそんな感じで一体いつから気づいてたのやら、って感じの態度だったけど、キングの方は私が着いてきていたことに結構驚いていた。そういう顔をしてた。むしろ君が気づいてないのはどうなの? とは思った。まあやっぱり、そんなことを言っても仕方ないので黙ってたんだけど。
そうしてキングの横に座らされ、尋問されるまでもなく今回の作戦をぺらぺらと喋り出す私。だってその方が聞き分けのいい捕虜として優しくしてもらえそうだし、なんて。
とはいえ中身は単純で、「昼食に誘って本人しか知らない情報を聞き出してきたら」くらいのものだけど。
「──それではキングちゃんが昼食に誘ってくれたのは、セイちゃんの差し金と」
「グラスワンダーさん攻略のため、私にやったみたいに色々情報を聞き出したら、と提案させていただきまして……いよいよ喋り始める、というところであえなく私自身がお縄についた次第です……」
「そんな堅苦しくならなくても、グラス、でいいですよ? 大丈夫、今回は怒ってませんから」
優しい。ついでにもっと気軽に距離を詰めないかというお誘い。
それら自体は本当な気がするけど、次嵌めようとしたらタダじゃおかないって警告な気もする。いや、絶対そうだ。グラスワンダーさん……グラスちゃんに罠を仕掛けるのはこれっきりにしよう。これからこの関係も続くのなら、尚更。
「スカイさん、私が上手くやれるか心配だったんじゃないの? それで着いてきたのかしら」
ぎくっ。案外鋭いな、キング。まあその通りで、その心配のせいで作戦失敗の結果に終わったのもその通り。たとえば怒られても文句は言えないな、とは思ってしまう。
「まあご覧の通り、私はちゃんと話を聞き出すところまで成し遂げたわよ! これが一流の証! おーっほっほっ!」
なんて、そんな心配も杞憂だった。そこまで上機嫌なら、キングの方も怒ってはいないらしい。それならそれでよし。当人的にはここまでやれば作戦成功ではあったみたいだし、そもそもキングの気持ちに乗っかった提案なのだから、満足ならこちらから言うことはないだろう。
いや、今のところ君の悩みを吐き出したところで会話が止まってるけどね? あとは私自身でやれというなら、やっぱり文句を言う資格はないんだけどさ。
そういうわけで私は改めて、四角い四人掛けサイズのテーブル越しに座る、栗毛の少女の方に向き直る。柔らかい雰囲気と、頑健な内面を併せ持つグラスちゃんの方に。
その強い意志を湛えた瞳は見据えるのにすら少し勇気が必要だけど、それくらいの勇気はもう持ち合わせているのだから。
「グラスちゃん。聞かせてよ、君の話」
「もちろんですよ、セイちゃん」
少し強引に、私としては滅多にないやり方で距離を詰めて。またこれも私の変化、かもしれない。二人の会話を聞いたから、また少し。
世界は変わらないけれど、私だけなら。また、少しだけ。
「グラスちゃんはさ、どうしてトレセン学園に来たの? どうして、走ることを決めたの」
「私は、そうしたかっただけですよ〜」
「そうしたかった。それだけを理由に、頑張れるのかな」
そう問いかける私の裏には、きっとあの日の諦めが念頭にあるのだろう。
自分は一度、進むためにそれを捻じ曲げた側の人間だから。
そうしたかったことを、そうしたいわけじゃないと思うことにした方だから。
「少なくとも、私はそうしてきました。……これでもここまで、それなりに努力を重ねてきたつもりですよ? 昔は日本語だって上手く喋れなかったんです」
「それって……」
「これでもアメリカ生まれなんですよ? 日本文化に憧れて、武道や茶道も身につけました。そして日本にまでやってきました。『大和撫子』が、私の憧れなんです。だから、ここに来たのもその一環です。ずっと繋がっている、そう思っていますよ」
「なるほど。自分を貫けるのが、グラスちゃんの強さなんだね」
期待を背負えど、覚悟は常に己と闘っている。
どれほど遠いと知ってもなお、何も諦めないと決意を束ねている。
憧れと夢に殉じる覚悟。願いと希望に身を賭す決意。
その二つは焔の如く、彼女のアイスブルーの双眸の中に宿っている。それは、私とは違うもの? なんとなく曖昧な気持ちさえ捨てきれずにいる私とは、抱え方も捉え方も違うもの?
そのはずだけど、私の中でも何かが揺れていた。
共鳴するように、自らの気持ちが陽炎みたいに揺らめいた。
「セイちゃんは、どうしてここに来たんですか?」
「私、かあ。そうだよね、キングもグラスちゃんも喋ったし」
「そういえば私も、スカイさんのこと聞いてないわね」
じっと周りが見つめる。四つの視線。その視線の奥の意志の強さはもう全部じゃないけどよく知ってるし、聞きたいのも本心だろう。二人だけじゃない、私も同じようにしてほしいって、そう思ってもらえるのは本心だろう……けど。
「話したいのは山々なんだけど、もう昼休み終わっちゃうよ? ほら」
そう言いながら、これ見よがしに時計を指差してやる。私が時間を気にするなんて、大嘘吐きもいいとこなんだけどね。まあでもタイムアップなのは本当だから、この二人は無視できないだろう。二人とも学業に対して大いに真面目で、見習わなくちゃいけませんなあ。
「本当じゃない! とりあえず教室に帰りましょう、グラスさん!」
「そうですね〜、参りましょうか。ほらセイちゃん、逃げたらダメですよ?」
うぐっ、やっぱりグラスちゃんには敵わない。この場をごまかすことには成功したけど、サボりは失敗だ。
今のところは五分五分というか、痛み分けというか。でもそうやって渋々ながら二人を追って立ち上がる私の足取りは、足元を掬われたばかりなのにずいぶんと楽しそうだった。
……こりゃ近いうちに、結局私の理由も話すことになっちゃうかもな。二人の動機と比べると、みっともなくて情けないけど。それでも、話したいって思っちゃう気がした。
この二人になら、いつか。まだ、だけどね。つながりがこれからも続くものなら、それを前に進める一歩を慎重にするのは、間違いなんかじゃないに決まっているのだ。
三人で、今度は並んで駆けてゆく。今目指すのは教室だけど、いつかはその先へ。どこかにそんな未来が見えた。
この学園に来てから私は初めて、未来を夢見た。最初の友達と二人目の友達に出会えて、私は多分そうなった。これもまた一つの変化だったと、あとから見れば言えるだろう。私のすべての始まりにある、一歩のあとの二歩目だったと。
結んだ糸を揺らしてみれば、端から端まで共振が広がっていくように。
絵の具を何度も塗り重ねれば、見たことのない色に変わるように。
それとまったく同じように、小さなつながりの集まりが私を変えてゆく。
ゆっくりと、少しずつ。だけどやっぱり、確実に。
そしてそんなつながりは、これからもっと見つけられる。もっと多く、もっと強く。
きっと、これで終わりじゃない。いまだ曖昧な心で、そうして少し未来を想った。
昨日よりは、青い心で。
まだ見果てぬ世界の上半分、その青空さえ埋め尽くすほどに、光は満ち溢れている。
次回も七時です