空は曇天、バ場は若干荒れ模様。今日のメインレース、いや今年のメインレースと言っても過言ではない、年末の大一番である有マ記念のステージはそんな状態だった。決していいコンディションとは言えないのだろうけど、むしろそれくらいが当たり前なのだ。最善最良がここ一番のタイミングで毎回訪れるなんて、その方ができすぎていて嘘くさい。それでも私たちが掴み取るのは、どんな時でも「最高」の一つに決まっている。
私は、芝を踏み締めていた。強く強く、すっかり使い慣れた蹄鉄で踏み締めていた。勝負服にもすっかり慣れたと言いたいところだけど、これだけ目立つとなるとやっぱり落ち着かない気持ちはある。本バ場入場を済ませた瞬間に私を迎えた大歓声は、今までで一番大きなものだったと思う。このレースが有マ記念だというのは多分理由の一つだろうけど、もう一つの理由もわかりやすい。
それは単純明快。今日の私が、一番人気であるということ。「きっと勝つだろう」と、多くの人が思っているということ。それが、今日の私。最高に期待されている、私。その期待に応えられた時、また一つ最高は増えるのだろう。
今日のレースにも、これまでのすべてを込めるんだ。
けれど上を見上げれば今日そこに広がっていたのは、いつも私を後押ししてくれているキレイな青空ではなくて、太陽すら閉ざす一面の曇り空だった。今までで一番の私にさえ、綻びをもたらすかもしれない空だった。たとえ全力を尽くしたとして、それでも勝てるとは限らないのだと、そう告げているような気がした。
その感覚は今の私にとっては予感というほどくっきりとしたものにはならないぼんやりとしたものだとしても、確かに頭の片隅に存在する思考があった。
今までで一番の期待を寄せられたからの、今までで一番の緊張。
そしてそれに付随する、一抹の不安だった。
脚が震える。そんな足元からびりびりと、全身の肌の上を奔る感覚がある。これが、今の私が抱えるもの。期待と実力を兼ね備え、だからこそその裏側に位置する恐れ。以前の私なら、怖気づいて逃げ出そうとしてしまいそうなもの。あの皐月賞の時、私が抱えたものと同じもの。今年の私にとっても総決算となるだろう最後のGⅠの舞台に立って、このタイミングに今の私が思い出すのは、最初のGⅠ、はじまりの時のことだった。
完璧に仕上げて、それでも勝てなかったなら。最高の期待と最高の自分がいて、それでも負けてしまったのなら。その瞬間のその場所で、私の限界が定まってしまう。皐月賞の時、最高の舞台だったからこそそう考えてしまった自分がいた。
だからあの時、私は立ち止まりそうになったのだ。諦めそうになったのだ。だけどそれでも、未来に進めた。きっと、私一人じゃ無理だったけど。あそこで前に踏み出せたのは、紛れもなくトレーナーさんのおかげだった。
有マ記念への出走が決まってから、一番人気だと知らされてから、私はなんとか心に折り合いをつけようとしていた。期待と不安の折り合い。曖昧を保つための、ちょうどいいバランス。こうやって悩むのはいつものことで、いつも難儀すること。そういう意味では、永遠に解決しない問題なのかもしれない。今だって、悩んでいる。私が変化し成長したとしても、新たな問題は目の前に現れる。
だけど、変わっている。私だけじゃなくて、みんなが変わっている。
もちろん、トレーナーさんも。そんな変化はトレセン学園に入ってから二年弱、今年の終わりまでずっと見てきたものだ。
たとえばあの皐月賞で、トレーナーさんは初めて褒めてくれた。たとえばあのダービーで、トレーナーさんは私と同じ気持ちだと示してくれた。たとえばあの菊花賞で、トレーナーさんはあの人なりの弱さを吐き出してくれた。そしてこの有マ記念でも、またあなたは変わってくれるのだろう。頑固な大人であるあなたまでもが変化していけるのは、もしかしたらほんの少しくらいは私のおかげなのかな、なんて。
何かを通して、経験して。誰もがそうやって変わっていくのだと、そのことだってあなたが私に教えてくれたこと。私もきっとこの有マ記念で、また変わる。……いや、そうじゃない。そんなもんじゃ、ない。変わってきたのは、今までずっとなんだ。今日までずっと毎日変わりつづけてきて、だから私はここにいるんだ。そんな私だから、今日は一番人気なんだ。
そして私はここに来て、今だからこその想いを一つ。今日の勝利を得るという意味合いを込めて、一つだけこっそり誓いを立ててみる。誰にも言わない、秘密の誓い。
(……さあ、頑張りましょっか!)
今日そこにある「一番人気」のプレッシャーれは、自分一人で立ち向かおう。これまで私が変わってきたことを示すため。誰かのおかげでここまで来れたから、その人たちにありがとうって言うため。トレーナーさんなんかにはクリスマスの時にまで心配させてしまったのだから、今日この日くらいは純粋に応援させてあげようじゃないか。
今私を押し潰そうとする重圧を跳ね除けられれば、私は更に先へいける。もっともっと、誰かの期待に応えられる。みんなの期待の、その上を行って驚かせられる。そう、私は。一番人気って予想さえ、必ず勝つって信頼さえ、全部全部のてっぺんにある勝利の栄光さえ超えて、私は。
──私はあなたに、褒められたい。これからもずっと、今日もきっと寄せてくれている期待のその向こうで、あなたに。だってトレセン学園に来て、最初に私とつながりを持ってくれたのがあなただった。
だって私が走り出す時、最初に支えてくれたのはあなただった。
だっていつでも、あなたがそばにいた。
ウマ娘というのはいろんな事情で走るもので、私もその類に漏れずたくさん抱えて走っているけれど。抱えてしまったどれだって、決して離したくはないけれど。だからこそ、なんだよ。あなたはとっくに、私の走る理由の一つになっているのだ。あなた抜きでは、あなたのためにじゃなきゃ走れないんだ。
それはひょっとしたら、弱さが増えたということかもしれない。欠かせないものを持ちすぎて、弱点を人に見せるようになって。それでも私が思うのは、誰にも見せられなかったものを見せられる今の私の方が、かつての私よりも幸せだということだ。
期待されて、褒められたい。私が抱えるこんな子供じみた欲求は、あなたにしか見せられない。けれどあなたが見てくれるから、私はこの感情を否定しない。ここまで、そうやって走ってきた。ここまで、そうやって成長してきた。皆に頼ってしまう私から、皆に応える私へと。これから、そうやって変わっていきたいんだ。そんなありふれた変化を願い、また私は上を見上げる。この曇天も、永遠には続かない。空も私も変化するのが、当たり前のことだった。
ふん、と腹筋に力を入れてみる。日頃のトレーニングで鍛えたそれは、私にとってもっともわかりやすい成長の証だ。トレセン学園に来てすぐの頃は、トレーニングなんてほどほどで済ませてやるつもりだった気がするのにね。あのトレーナーさんに捕まって日々スパルタの根性論で鍛えられて、いつのまにかこんなところまで連れてこられてしまった。
年末の中山、今年を代表するウマ娘が集う中での一番人気。憧れに、最も近い場所。そこまで来れたのもきっと、あなたのおかげだろう。お腹の中でざわめく感覚は、早くこの舞台で走りたいって衝動の表れ。
胸に秘めた心臓の鼓動は、わかりやすく大きく、速くなっていた。緊張だけじゃない、私を動かすいのちの拍動。早鐘を打つのは、気持ちが前へ前へと跳ね回るから。今、私は未来に向けて動いているんだ。どこまでも広がる空の果てまで、そんなところまで走っていけるように。そのために、ここまで来られているんだ。もちろん、独りでは走れない。チームメイトやライバルと、みんなと支え競うからこそ走れているのだ。心の奥に燃える熱情は、みんなに応えたいって祈りの現出。
そして瞳で、この世界を見据える。この小さな眼で見えているだけでも空は広くて、ターフは長い。遠いゴールの先に広がる空とゴールの景色までは、まだ私には見えないほどに。けれどきっとそれは、まだ先があるってことなんだ。まだ見えないから、まだその先へ行けるってことなんだ。まだ私たちは、ずっとずっと走っていくことができるんだ。今日だって、もっと先だって。そんな煌めき輝く道が、私たちの目の前に広がっている。永遠に続いてほしいとさえ願ってしまえるほど、それは眩しくて暖かい。眼光の果てに入り混じる幻影は、これからも楽しいって確信めいた実像。
だから、私は。ぐっと、蹄鉄で地面を慣らしてみる。軽く屈伸して、来るべき時のために身体をほぐす。どくん、どくん。聞こえるはずはないけれど、胸が高鳴るのが、わかる。私は、全身でこの瞬間を待ち望んでいた。脚で、胸で、瞳で。私の身体は全部全部、今を走るそのためだけに使うんだ。それが、今までのすべてを懸けるって意味。それこそが、今日私が走る意味。とはいえこれも当たり前のこと。レースのその時くらい走ることだけ考えられるウマ娘でなきゃ、勝つことなんてできっこない。つまり色々考えはしたけれど、それは全部走る理由なんだ。だから、私は。私は今日、走るんだ。
……そして。そして、遂にその時はやってきた。出走するウマ娘たちが、続々とゲートに入る時間。闘いの寸前、最後の最後にある時間。もう一度、私はもう一度芝を踏み締める。足踏みじゃなくて、一歩踏み出すことで。私は踏み出して、どこまでも駆けていって。
「一番人気セイウンスカイ、いよいよゲートに入ります」
駆け抜けた先で、私はここまで来た。有マ記念一番人気、また一つの最高まで。相変わらず狭苦しい、けどすっかり慣れてしまったゲート越しに、私の瞳に映るものはたった二つ。2,500mの芝と、その上に広がる空だけだった。相変わらずの、曇り空。けれどあの裏に広がるのがとこしえに続く青空ならば、いつも通り裏側にひっくり返すのが私の仕事だ。
「……スカイさん、今日こそ勝たせてもらうわよ。人気薄、上等じゃない」
「今日も、なんて言えないけど。なら私も、負けないよ」
なんて、ゲートに入ってきた私に声をかけてくるライバルが一人。今日クラシックの同期でこの有マ記念を走るのは、私だけじゃない。私を含めて三人が、シニア級の強豪にこの大一番で立ち向かう。それはそこに並び立つだけの能力がある、そう認められた証。私たちは、実力をみんなに認められている。期待、されている。
そしてそのうちの一人がキングヘイロー。クラシック三冠を巡る戦いで、私と彼女は何度もぶつかった。だけど、そんなのはたった数回。ほんの数回程度で、私たちの勝負は決まらない。決まるはずがない。だからいつか決まるまで、いやきっとずっと、ずっと私たちは競いつづけるのだ。今日も、その一つ。これだけのレースであっても、私たちにとっては通過点に過ぎない。
でもそれは、今日のレースの意味合いが薄いって意味じゃない。むしろ全部かけがえがないからこそ、今日で満足してしまうわけにはいかないんだ。今日という日を、立ち止まる理由にしてはいけないんだ。今日を大切にするために、今日から先の未来があるんだから。
とはいえそれはそれとして肝に銘じなければいけないのは、彼女に現れる気迫だった。今日のキングは十番人気。今までの彼女とは打って変わって、人気薄。私が一番人気を獲ってしまったのとは対照的、なんて見方もあるのだろう。先程まだ決着はつかないといったばかりだけど、私たちの格付けは済んだって考える人もいるのだろう。
だけど、私にはわかるんだ。
私のライバルは、まだ諦めていないってこと。
かつてのキングは、自分に向けられる期待にどこか拘泥していた。私とは違う形で、期待に向き合うことに拘ってしまっていた。期待されているのに、そう思ってしまっていた。でも、もう今の君はそうじゃない。
だから君は、今が一番強い。
私と同じ、でね。
それに期待への不安を抱えるのは、かつての君だけじゃない。今は、私かもしれない。期待されて勝てなかった、そんな結果は星の数ほど存在した。一番人気が勝てなかった、そんな落胆は無数に誰かを苦しめてきた。ならば敗北を恐れることそのものが、その誰かの苦しみを無為にしてしまうことに等しいんじゃないか。数多の先の敗北を、教訓にできないのなら。
それなら期待に拘ることは、自分も他人も縛ってしまう。闘いには、縛りは要らないんだ。
レースに絶対はない。出走者全員が心の底から勝ちたいと思っている。そこに「一番人気だから」などという理由づけをしてしまうことこそが、何よりもよくないことだ。ただ、走りたい。期待に応えたいって気持ちも、負けるのが不安だって気持ちも、どちらだって間違いじゃないけれど。それなら一つも否定せず、どれもこれもをまとめてしまえ。ここから数分間の私の脚に、走ることに全部詰め込まなきゃ。
だから、負けないよ。キングには、負けない。
……そして、同期はもう一人。くるりと身体ごと翻って、既にゲートの中に収まっているそちらを見る。一見いつもと変わらない柔らかい雰囲気だけど、それだけではないのが、わかる。栗毛の長髪も横顔にちらりと見えるアイスブルーの瞳も、いつも通りだけどいつもと違う。そう、わかってしまう。そう思うのはきっと、普段の彼女を知っているから。だからこそ私には、今の彼女が普段の君ではないということがわかる。
今日初めて相見える、臨戦態勢の彼女の姿だった。
そんなふうに見つめてしまっていると、あちらの方もこちらの視線に気づいたようだった。ゆっくりと振り向き、私に声をかけてくる。大和撫子然として、されど蒼く闘志を燃やす。今までずっと追いかけてきた、そして遂に並び立つ君。
彼女の名はグラスワンダー。
"怪物"と呼ばれた、私のライバルだ。
「今日はよろしくお願いします、セイちゃん」
「うん、よろしく。グラスちゃんとは初めて戦うね」
「そうですね。怪我もあり、機会に恵まれませんでした。けれどずっと、追いつきたいと思っていました」
グラスちゃんと私は、未だ対戦経験がない。だからキングとは違ってこれが初勝負。もちろん普段の会話でグラスちゃんのことは色々と知っているけれど、レースでなければ見えないこともある。たとえば今のグラスちゃんの言葉は、きっと今だから聞けるものだ。
「追いつきたい、か。悪いけど、追い抜かせるつもりはないからね」
「ええ。全力の相手を討ち倒してこそ、私たちは前へ進めますから」
「そりゃあ大層な表現と言いますか。でもグラスちゃんがいうと、誇張って感じはしないね」
「もちろん。……セイちゃんも、そうでしょう?」
そう言われると、そうなのかもしれない。けれどグラスちゃんの覚悟は、私とはまた別種のもの。長期の怪我から復帰して、人気に対して勝ちきれない日が続いて。一番人気の背負うプレッシャーを今初めて知るのが私なら、どんどんとその重圧から離されていってしまっているのが今のグラスちゃん。ジュニア級であれほどグラスちゃんに注目していた視線の先は、今は他の子に向いてきている。たとえば、私とか。
ならばグラスちゃんがこの勝負に賭けているものは、私とは別のもの。別でなきゃ、ありえないもの。それでもグラスちゃんのいう通り、私と君が同じだというのなら。
そうなる理由を答えることなんて、簡単だ。
「まあ、そうかもね。色んな理屈は違うかもだけど、勝ちたいって思ってる」
初めて、追われる立場になったとしても。
もがいて、追い抜く立場になったとしても。
勝利を望むのは同じで、勝利を得られるのは一人だけ。
だから、負けないよ。グラスちゃんにも、負けない。
「ええ。私たちに必要なのは、その気持ちだけです」
「上等だね。負けないよ」
「はい、こちらこそ」
それで終わり。それで十分。会話を終えて改めて前を向いてみると、やはり視界に映るのは間近のゲートとその先にある芝と空だけの世界。
だけど先程までより、多くのものが見えている気がした。
目には映らないけれど、感覚的なものが見えている気がした。
準備が整った、ということかもしれない。
世界の見え方は、また一つ。
なら、他にやることといえば。
「各ウマ娘、いよいよゲートに収まりました。今年最後のGⅠ、有馬記念! さあ」
もう、走ることだけだ。
その「さあ」を待ってか待たずか。がこん、と独特の音がする。
視界が、無限に開けていく。
「ゲートが開いた! スタートを切りました!」
次の一歩。次に繋がるその一歩に、今までの私のすべてを込めた。
今からのための、一歩だった。
さあ、走り出そう!
有マ記念、今年の集大成。きっとすべてのウマ娘とそのファンが、私たちを見守っている。十六人のウマ娘が、一斉にスタートを切る。誰一人として出遅れない、流石の優駿たち。けれど私もその一人。そしてその中でも一際期待された、一番人気!
「まずは先頭争い、セイウンスカイがハナを取っていきます!」
中団からするっと前に出て、いつもの定位置たる先頭へ。ライバルたち全員を突き放し、最初から最後まで抜かせない。それが私のレース。今日だって、そのつもり。私らしく、翻弄して、あっと言わせて。そうしてやるのは今日この日だっていつも通り。いつも通りが、最高に私らしいんだ。
だん、だだん。重なり合う蹄鉄の音が気持ちいい。
吹き抜けていく風が心地いい。
走るのって、こんなにも楽しい。
何度走ったって、ここに感じられる気持ちだけは変わらない。
変わることがあるとしたら、前よりどんどん楽しくなるってことだ。
走るたびに。
もっと先に、手が届くたびに。
どんどん楽しく、走りたくなっていくんだ!
「スタンドの大歓声を受けながら、セイウンスカイ依然先頭! 後続をぐんぐん突き放し、五バ身、六バ身と差を広げていきます!」
正面スタンドに入って、耳に受けるは湧き上がる歓声。私たちのレースに魅せられて、私たちは夢を与えていて。その証明。
ファンの声援で気持ちは更に昂って、世界はよりキレイに見えてくる。
今日も紛れもなく、「最高」だ。
……と、そんなふうにゴールする前から満足していてはいけない。それなりに「逃げ」を嗜んできた私から言わせてもらえば、逃げと一口に言っても様々の戦法がある。
たとえば大逃げで突き放し、後続を最後まで引き離しつづける。たとえば常に正確なペースを刻み、トップスピードを維持することで捩じ伏せる。強い「逃げ」とはこういうもので、私とは違うものだ。私には才能が足りない。私には力が足りない。だから私にはできない。けれど。
けれど私にならできるのは、策を弄したペースメイクの逃げ。
引き寄せ釣って翻弄し、ラストでもう一段スパートをかける。波乱を起こす、トリックスターの「逃げ」。きっとこれも私らしさ。
私なりの、強さ。
だから今日も、いつも通りのやり方に則ろうじゃないか。
コースの分析、レースの掌握。最終直線にすべてを賭ける誰かがいるなら、私の仕事はその直前までに勝負を終わらせることだ。
そう身体に今一度命令し、それに呼応して踏み込む脚に反射する芝と筋肉の感覚。
……うん、やっぱりここらへんのバ場が一番走りやすい。走ってみてやはり予想通りだったのは、今日のターフは少し荒れているということ。
具体的には内枠のあたりが少し状態が悪い。それは走りながらでも横目に見えているから、私はそれを避けてコースの真ん中あたりを走っている。
本来なら、逃げはどれだけスタミナをロスせずに最終直線を迎えられるかに勝敗がかかっている。すなわち道中もハイペースを維持しながら、最後も決して露骨に失速してはいけない。そのためには走るコース選びが他の作戦より重要になってくる。
控えず常に体力を消耗するのだから、できる限り脚に負担をかけられない。それに影響するのが、バ場や距離の問題だ。かつての菊花賞で、私の逃げ切りがあり得ないと言われた理由もそのスタミナ管理の問題にある。
(……っ、と!)
くくん、とコース内側にヨレそうになる脚を軌道修正する。前を塞がれる心配もなくできるだけ走る距離を削っておきたい逃げウマにとって、内ラチ側を走りそうになることはそこまで悪い判断ではない。本来なら、の話だが。
「セイウンスカイ、先頭をキープしたままコースの正面を進みます。バ場状態の良いところを選んで走っていますね」
そう、その通り。今日の内ラチ側は荒れている。荒れた地面を走ることは、無視できない体力の消耗を引き起こす。もちろんそれを避けて大回りにコースを回ることも、最良とはいえないのだが、それでもどちらかを選ばなければならないから。
もっとも欲しい、勝利のために。
勝つための選択を常にしていくのが、私たちにとって必要なこと!
「向こう正面に入ってセイウンスカイ、リードをぐんぐんと広げていきます! 後ろに潜むウマ娘たちは、追いつくことができるのか!」
更にペースを上げる、上げる!
脚を早回しして、ぐんぐんと追い風を受けて。序盤のペースメイクは完璧だ。
とはいっても私はこのままのペースを維持できるほど強いウマ娘じゃない。だからこうやって小細工を仕掛けて、か弱くペースメイクを試みるしかない。
……でも、それがうまくいけば。
「残り1,000mを通過! ここでセイウンスカイ、一気にペースを落とします! 後続との差がぐんぐん詰まっていきます!」
掌握。
支配。
掌の上。
うまくいけばすべてのウマ娘を、手玉に取れる。
私にとってのレースは、そんな大それた策略を実行に移すためのもの。
だから引き離す。
だから引き寄せる。
ほら、もう後ろとの差は一バ身もない。それも含めて、計画通り。
「最終コーナーに入って、先頭はセイウンスカイ! しかしリードは一バ身もありません! 背後からエアグルーヴ、メジロブライトが迫っている! セイウンスカイ、二の足三の足を使うことができるか!」
実況さんの煽りに応えるかのように、私はもう一度大地を強く蹴る。
引き離してペースを掴み、のちに引き寄せて敵を翻弄する。そして最後に残した余力で、ギリギリのリードを守り切る。
私にしては随分泥臭い作戦だけど、もうすっかり慣れたもの。今まで走ってきて確かに確立した、私とトレーナーさんで考えた作戦。
これが決まれば勝てるとさえ言える、私たちが遂にたどり着いた必勝の策謀。
京都大賞典で初めてやってのけた時からしっくりくる、この作戦。
作戦名も決まっている。それこそ初めての時から、だ。
「いよいよ最終直線です! セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭!」
作戦名は、
さあ、勝ちに行かせてもらうよ!
脚が軋んでいる気さえする。
心臓が破裂しそうな気がする。
身体全体が、止まればその瞬間ばらばらになりそうな気さえする。
それでも、まだ前に進んでいる。
私はここまで来た。私たちはここまで来た。
期待されなくても、才能がなくても。そんな私でも、私だからこそ、自分のことを信じていいのだと、みんなが教えてくれた。そして物わかりのいい子を気取った捻くれ者だった私は、みんなと一緒にいれるくらいには素直になれた。時にはぶつかり、時には深く噛みあう。
そう、なれた。
だから、私はここまで来た。そしてこれからも、私たちは進んでいける。クラシックを終えてシニアも超えて、それから先で、誰かの夢になることだってできる。
だから、だから──!
懸命に走っていた。確かに全力だった。
私のすべてを、込めていた。
それはきっと、間違いないはずだった。
最後の坂を登っている、その時だった。
そこにあったのは、ほんの僅かな一瞬だった。
「──やっと追いつきましたよ、セイちゃん」
そう、耳で聞こえた。眼では一瞬しか捉えられなかった。
視界に入ったその影は、あっという間に後ろから、遥か先へ。
声の主はそれでもわかった。誰の声かなんて瞬時にわかるほどに聞き慣れた、でもこうして戦場で間近で聞くのは初めての。
入学当初からクラス一の有望株と称され、けれど怪我での長期療養と復帰後の不振があった。だけどその苦悩の先頭で彼女は常に勝利を渇望し、一寸たりとも揺るがない闘志を宿していた。それは知っていた、だからこそ勝負の段になっても油断などなかった。
ライバルには、私が勝つつもりだった。
……けれど。
「外からグラスワンダー! 外からグラスワンダー来ている! グラスワンダー、セイウンスカイをあっという間にかわした!」
けれどその時に存在したのは、今までにない新しい伝説。蒼く燃え盛る炎の中から、灰と化していた不死鳥が蘇る。
"怪物"グラスワンダーの復活。一番人気、最有力ウマ娘であるセイウンスカイの勝利の方程式を、真正面から討ち倒す強さの証明。そんな「最高」の形で、凱旋は高らかに告げられた。
どんどんと、離れていく。それでも、走るのを止めるわけにはいかない。2,500mを全力で駆け抜けた脚からは、疲れ果てて痺れるような感覚が全身に伝わる。
それでもまだ、限界まで走らなければわからない。
作戦の通り、脚はまだ残っている。
まだ、追いかけている。
私は、完璧に走ったはずだ。
……そのはず、なのに。
「グラスワンダー、グラスワンダーです! ジュニア級の頂点に立ったウマ娘は、やはりシニア級でも強かった! グラスワンダー、復活です!」
追いかけても、追いつけない。一着と四着の間にある、人気などでは測れない差。
走ってみなくては、やっぱり結果はわからない。
走ってみて、またわかることはあった。この勝負にも、意味はあったんだ。
ああ、負けてしまったんだ。
ゴール板を越えて数分後、ようやくその事実を飲み込む。観客席からは、名勝負を讃えるたくさんの声が聞こえた。そしてきっとそこに湧き上がる声は、私にも向けられていた。一番人気に推してくれた人たちが、私へと声援をくれていた。けれどもちろんグラスちゃんに対してのそれが、一番大きかっただろう。
勝者とは、そういうものだ。
おめでとう、グラスちゃん。君の復活は、また一つの最高だ。
レースの余韻がある程度収まったあと、自然と同期三人で集まった。まだターフの上だから、その熱気は完全に消えたわけではないのだけど。まだ、勝敗の結果は私たちの明暗を色濃く分けたままだったのだけど。それでも私たちはつながりを作る。ここで終わりではないと知っているからこそ、だ。
「お疲れ様、グラスさん、スカイさん。そしておめでとう、グラスさん」
「ありがとうございます、キングちゃん。セイちゃんも、お疲れ様ですね」
「……もちろん、これで終わりなんて思わないことね。次、あるいはその次。最後に勝つのは、このキングなんだから」
「はい。もちろん何度でも、全力でお相手いたします。……セイちゃん?」
「……ああ、ごめんごめん。いや、いい勝負だったね。お互いやりきった、っていうか」
おっと、私としたことがぼんやり感慨らしきものに浸っていたみたい。慌てて、素直な気持ちを口にする。うん、いい勝負だった。互いに全力を出し切った、そんなレースだった。今まで不調に苦しめられていたグラスワンダーの、閉ざされていた本領を発揮するようなレースだった。今日の主役として、あの不死鳥のような復活劇はこれ以上ないくらいの驚きを見せてくれた。完璧な、やりきった走りだった。
私だって、そうだ。グラスちゃんの本気とは少し違うけど、策を弄してペースを掴む。それをほぼ完璧にやりきって、その上で負けてしまっただけ。そんな走りで、事実キングはやり込められたみたいだし。グラスちゃんには負けてしまったけど、これで終わりじゃないんだから。まだ、先はあるんだから。だから、やりきった。
あえて今の気持ちを一言で表現するのなら、「やりきった」。年末の集大成を形容するのなら、これ以上ない表現だと思う。これ以上はないくらい、爽やかな気分。そう思えるだけの勝負のあとなら安心して、その先に行けるはず。
……だけどグラスちゃんが返した言葉は、私の予想に反するものだった。私の抱えた気持ちそのものに、反するものだった。
「そう、でしょうか。セイちゃん、本当にやりきったと思いますか?」
「……どういうこと?」
意図がわからない。彼女が私に疑問を呈する、その意図がまずわからない。これまでのすべてをかけた最高の勝負に疑問を呈する、その意図が。勝利した彼女の方が物言いをつけるような、そんな意図が。
「最後の直線。私は、もう一回セイちゃんが伸びてくると思っていました。今まで見てきたセイちゃんなら、そう来ると思ったからです」
「最後は私も、脚を残してたよ。その上で、負けちゃった。全力だし、悔いはないよ」
「……そういう意味では」
「もうグラスちゃん、せっかく勝ったんだから」
彼女の言葉の、意図がわからない。彼女は私に何を見ているのだろう。何を望むのだろう。何を期待しているのだろう。私は今回の決着に、文句なんてつけてないのに。なぜ勝者の側が、勝負の是非さえ問うてしまうのか。グラスちゃんの言いたいことが、わからない。
「はっきり言えば、私は納得していません。……セイちゃん、また走りましょう。けれど、あなたにはそれまでにやらなければいけないことがあります」
「なにさ、勝ったからって説教?」
「ちょっとグラスさん、スカイさん」
キングが私たちの間に割って入る。確かに私とグラスちゃんの会話の雰囲気は急激に険悪になっていて、それはこの場には相応しくない。すべてを懸けて走ったあとの場は、清々しく爽やかでなければならない。そう思って、私は素直に謝る。取り繕うような言葉を添えて。
「と、ごめんキング。それにグラスちゃん。うん、グラスちゃんの言うことがわかったよ」
「いえ、こちらこそごめんなさい。けれど、セイちゃんには──」
多分グラスちゃんは、私が自分で言うようには彼女の言葉を理解しきれていないことも、見抜いているのだろう。けれどそれがわかった上で伝えるべきことのために、彼女は私の眼を見据える。レースの直後だというのに、私と視線を合わせる蒼い瞳には、爛々と焔が燃えていた。まだ闘志は潰えない、わたしたちにはこれから先があるって顔だった。
そしてそのたおやかな立ち振る舞いから端正な顔立ちまですっかり勝負の最中のそれとは変わっていたのに、心の内と瞳の奥だけは未だ熱く燃え盛る。そんな蒼炎を宿す己を包み隠さず、グラスちゃんは穏やかながら烈火の如き激情を孕んだ言の葉を紡ぐ。
「──セイちゃんには、私のライバルでいてほしい。……私からお願いできるのは、それだけです」
「ライバル、もちろんそのつもりだけど。それくらいならお安い御用」
「はい、お願いします。……では、そろそろインタビューがありますので〜」
最後の一瞬だけ、いつものグラスちゃんに戻って。そしてそうやっていつもに戻ったまま、グラスちゃんはターフを後にする。「納得していない」勝負についての感想を語るために。きっとそんなこと、インタビューでは言わないのだろうけど。だからあれは私たちの前だけの本音だ。私に対してだけ、思うことだ。信頼されているから、心配されていた。私に対して、何かを見つけていたのだろう。その本質がどういったものかまでは、きっとグラスちゃんにもわからなかったのだろうけど。
ふと、また空を見上げる。どんよりとまではいかないけれど、そこに広がるのはまだ曇り空。結局、今日は晴れなかった。晴らせなかった。けれど、明日は晴れるだろう。自然と、晴れてくれるだろう。同じように明日になれば、あらゆることが変わるだろう。そのはずだ。明日が無理ならその次の明日、また変化を積み重ねていけばいい。
今まで、ずっとそうしてきたのだから。グラスちゃんのいう何かも、きっといつかの私にはわかって、解決できる。そうで、あるはずだ。そうでなくては、いけない。
……けれど、そうではないとしたら。
仄かに忍び寄る、不安とも言い切れない感情。得体の知れない、言葉にならない。だけど、心のどこかに巣食うもの。それを掘り出すことも解き明かすことも、今の私にはできなかった。今日のレースは最高のものだったと、それはまだ思っていたから。幸せな気持ちを壊す勇気は、持っていなかったから。
そうやって、何もできない私がいた。無力だからなのだろうか。やりきったからじゃないのだろうか。グラスちゃんが私に見たものは、間違いである可能性はないだろうか。そうやってただ、ただ私は希望的観測を並べていくだけ。
何も見えない、何もわからない。だから、何もできない。そんな私に今この瞬間取れる行動があるとするならば、願い、祈るだけ。たった一つを、密やかに。
杞憂であってほしい。
それだけだった。