クリスマスが終わって、すぐに有マ記念だった。そしてそれもあっという間に終わって、四日後には大晦日。さらに大晦日から一日も経たずにお正月なのだから、年末年始というのはなんとも忙しいものである。いや、やろうと思えばずっと寝て過ごすことのできるラインナップなんだけど。だって冬休みだし。有マはともかく、他は全部のんびり過ごしていいイベントだし。
「ふぃ〜、寒いなあ」
なのに私は、いや私たちは年始早々から外に駆り出されている。もちろん自分の意志ではなく、<アルビレオ>のチーム全員に下されたトレーナーさんからの命令だ。ああ、やだやだ。なぜ人はこんなに寒い一月の初日に、わざわざみんなで出掛けるのか。でもたとえばトップロードさんとか乗り気な人が結構居たので、このイベントは遂行されることになったのだけど。あのトレーナーさんにして<アルビレオ>ありなので、そんな人ばっかり集まっているのか。
……いや、あんな暑苦しい面倒な人の同類を増やしてやるのも失礼か。新年最初のそれなりの大イベント、元旦の初詣。それにチーム全員で、なんて普通にみんな行きたいって思うくらいのものなのかもしれない。おかしいのは私の方。うん、そういうことにして諦めよう。だってトップロードさんなんか、かなり楽しみにしてたもんね。
ちなみに有マ記念と同日、トップロードさんのデビュー後二戦目は無事勝利に終わった。けれどそれで上機嫌のところを有マの負けで気遣う側に回させてしまった、みたいな笑えないオチはついてしまったのだが。その点について私としては多少以上に罪悪感を感じずにはいられないのだが、そのことを謝るタイミングなんて与えてくれるわけもなく。
まあ、それはおいおい反省するとして。キングと一緒に。あれでキングも結構、他人のことをほっとけないタイプだからなあ。ちゃんと有マ記念の結果は自分自身で受け止めた上で、どちらかといえばトップロードさんに気を遣わせたことの方に気を揉んでしまいそう。他人をほっとけない同士が関わると、善意の連鎖がどこまでも続く。いいことではあるんだろうけど、キリがないかも、なんて。
とはいえ、私もそんなに誰かをとやかく言えないタイプなのは残念ながらもう判明している。私だってちゃんと年末のレース結果を乗り越えたから、トップロードさんの方に気を回し始めている。そのはずだ。そう、そのはず。あのレースは、その時点の全部をやりきった上であの結果。なら前を向いて、次を目指すだけ。更に更に、強くなるだけ。グラスちゃんが指摘した私の欠落は、その正体はいまだわからないままだけど。
それでも、大丈夫。
いつも通り、また変わっていけるのだから。
どんな困難も、超えられるに決まっているのだから。きっと、大丈夫。
……だから、そのことについてはひとまずよくて。
それより今のこの瞬間、気になることが一つ。
「……あれ、みんなはどこだろ」
おかしい。誰もいない。私が異変に気づいたのは、小一時間待ってようやくだった。集合時間は過ぎたのだが、待ち合わせ場所たる神社の前には一向に誰一人現れない。トップロードさんを筆頭にしたチームメイトも、あの見た目だけでうるさい気がするトレーナーさんも。うーん? なぜ? 一人ならともかく全員? とはいえそうなる理由を考えても、やっぱりさっぱりピンとこない。どうしようか、このまま帰ってしまおうか。
そうするのも悪くないな、とは思うのだけど。
「まあせっかくですし、一人で初詣しちゃおっかな」
なんて、誰もいないから誰も聞いてないんだけど。一人自分自身に対して言い訳をして、目の前の神社の中へ入っていく。人混みの中へ、一歩ずつ。初詣なんて柄じゃないのに、結局わくわくしてしまっている。私も人並みに、年始を祝うことの喜びは持っているということか。やれやれ、なんだかんだで俗っぽい人間だ。そんなありきたりな楽しみを持てている自分自身も嬉しい気がするのだから、普段アウトローを気取るのはなんなのやら、って感じ。
さて、境内に芦毛の全身を持ち込むなり、服からはみ出す私の尻尾と耳に向けて、周りの視線がちらり、ちらり。いやまさか振袖とか、セイちゃんそこまで目立つ格好はしてないですよ?
ただいつも通りの長袖長ズボンな冬着の私服で、強いていうならコートとマフラーを着けてるくらい。それも安物、色合いも何も考えずに着たというほどではないけど、おしゃれというほどでもない。目に止める理由なんてありませんったら、ねえ?
まあそんな私が注目されてしまう理由があるとしたら、単純明快明白明瞭。ここにいるのがあの「セイウンスカイ」なのは、バレバレだったということである。くそう、チーム合同ならこんなに注目を浴びることもなかったのに。
こっそり歯噛みする私に向けて、いわゆるファンの声が次々と。
「セイウンスカイさん、いつも応援してます!」「これからも頑張ってください!」「セイウンスカイちゃん、あの、私大ファンで……!」
人通りは多い、そして注目の的がある。そうなってしまうと瞬く間に、私の周りに人溜まりができ上がる。ああ、一つずつ応対できるだろうか。……あの有マ記念を終えても、私には皆が期待してくれている。一度の敗北は、私への信頼を損ねたりしない。あのレースは、ちゃんと私らしく走れていた。私を取り囲むこの状況はその証左。だから私は、まだ走っていい。
けれどそれでは一番にはなれなくて、私は投票の結果僅差で「最優秀クラシックウマ娘」の座をエルに明け渡した。クラシック二冠を制したけれど、一番人気には応えられなかったから。
その結果には、そう言われた気がした。
もちろん、エルが選ばれたことに文句なんてつけようもないけど。世界最強を目指すという彼女の言は、世界中のウマ娘が集うジャパンカップを制したことでいよいよ伊達ではなくなってきた。ダービーで一度走ったきりだけど、もう一度戦えたらいいな、と思う。
なにより、このまま負けっぱなしは嫌だから。
「セイちゃーん、こっち向いてー!」
「はいはーい、なんですか〜?」
「うわっ!? ……えーと、ほんとに向いてくれるとは思ってなくて……」
「そんなに驚いてくれたのなら、私もとっても嬉しいかな、なんてね♪」
なーんて、ファンに対しても誑かすようなそぶりばかりのセイちゃんという悪のウマ娘。
そうやって精一杯の笑顔を見せてみるのに、私の心の奥底にはまだしこりが残っていた。有マ記念から学ぶべき、私に必要なもの。もう一度、その先。そこに進むために、必要なもの。グラスちゃんが私に突きつけた、真っ直ぐだけどナイフのようなあの言葉。
(次に戦う時までに、やらなければいけないこと、か)
今までだって、何度も壁にぶつかってきた。だけど、それを乗り越えてきた。もちろん自分だけの力じゃない。チームメイトや、トレーナーさん。私が今ここにいれるのは、周りの人たちのおかげだ。そのことはわかっている。みんながいるなら、私は前に進めるのだ。
けれど、とも思う。今私の目の前にある壁は、朧のように掴めなくて。けれど先は見えなくて、だから前に進むことはできたとしても、そのまま進めば取り返しのつかないことになる。この恐れを壁だとむりやり形容するなら、そんな人を惑わす昏い霧のような形に近いと思った。だから正しく表現するのなら、これは壁ではないのかもしれない。だって私が前に進むことについて、何の障害も感じていないのだから。先を見えなくする、不安だけ。
負けた。けれど折れていない。まだ勝ちは狙える。勝ちを期待してくれる人がいる。そして、次へと歩み始めている。なら、それでいいんじゃないか? そう思ってしまうのは、現状を矮小化したい私の弱さなのだろうか。変化や成長、期待と不安。今の私はそれらを織り込み済みだ。そうやって、強くなれたはずだ。今まであったその苦難を越えたから、ここまで来た。みんなといれば、もう大丈夫。なのに、この先にまだ壁があるのだろうか?
あるいはそんな問いを己に投げかけることこそが、得体の知れない不安の原因かもしれない、そう思う自分もいた。そうだとしても、問うのはやめられない。先を、答えを求めるのは、やめられない。まだまだ周囲から激励の言葉をかけられながら、それでも心に雲が張る。これだけの期待を受けた。いつだってみんなに支えられている。
なのに、沈んでいくような。
たとえ、どれだけ他人の言葉があろうとも。
私の心の内側までは、届かない気がした。
「ではみなさん、これからも末永くセイちゃんをよろしくお願いしますね〜、なんちゃって」
「はい! シニアでも、またあの『逃げ』が見たいです!」
「私も! セイウンスカイさんの走りは、本当に魅力的でっ」
「はいはいそこまで。ご愛顧、誠にありがとうございます」
ファンの人たちをなんとか振り払い、私は境内をひたり、ひたり。もちろん元旦の神社なんてとても人が多いので、そのうちに紛れればなんとか追っ手に区切りをつけることはできた。
出店が立ち並び、人々は行き交う。そんな様を見て、そういやトレセン学園のファン感謝祭もこんな感じだったか、などと思い出す。確か次は春、天皇賞の直前にあるはずだ。ちなみに春の天皇賞と言えば、有マ記念の直後にトレーナーさんから告げられた私の次の目標でもある。つまり今年もイベントは目白押し、というわけだ。やるべきことは、やりたいことはたくさんある。これから先、その先だって。
また次の大一番にだってもちろん備えるし、それなりにわくわくだってしている。なのに、なぜなんだろう。今抱える不安というものの正体は、そもそもどこにあるんだろう。先程から、いやあの有マからずっと、私は何かに取り憑かれている。そこにあるのは形容さえできない、ぶ厚く仄暗い靄だけ。
空はまだ晴れているけれど、空と私の間に何かが挟まっている。
はっきりとは見えないのに、しっかりと視界を覆う何かが。そんなことしかわからなかった。
……さて、そんなことより、だろう。わからないことを考えるより、わかることを見据えた方がいい。前に進むためにも。なぜだか他のみんなは一人たりとて来ていないが、今日はチーム<アルビレオ>の初詣、というイベントのはずである。ならば私が代表して、何かお願い事をしてやらねばならない。やれやれ、手間のかかるチームである。
神社で初詣となれば、流石の私も幼い頃に行った経験がある。
まだ自分は才能に満ち溢れていると思っていた頃の私だ。そんな私だったから、神様にお願いすることだって毎回ちゃんと決まっていた。そしてじいちゃんに手を引かれて連れていかれた先で、一通りの作法を教わったのだ。
(そういやじいちゃん、元気してるかなあ)
昔の記憶の通りに、ゆらりゆらりと歩を進めながら、この瞬間に私が思い出すのはじいちゃんのことだった。一度すべてを諦めた私がトレセン学園に行く、そのきっかけを作ってくれたじいちゃんのこと。じいちゃんも今日は、近所で初詣してるのかな、とか。
まず手水所へ行き、ひしゃくを使って心身を清める。この心、というのが重要らしく、そのためには両手だけでなく口も水で濯がないといけない。これも、じいちゃんが教えてくれたこと。幼い頃の私を、ある日を境にしたあとの私も含めての私を、いつも外に連れ出してくれたのがじいちゃんだった。まあ大体連れ出す先は、釣り場に決まっていたのだが。
ひしゃくで口を隅まで濯ぐ。確か昔の私は、これをすれば神様に褒められるのだ、と小さな手や口を丁寧に水で清めていた。
多分今の私が同じようにしているのも、そうしていた残滓のようなものなのだろう。
新年を迎えても、何年が経とうとも。人は変化しようとも、どこかで過去と繋がっている。
その一つが、やっぱりじいちゃん。今は少し遠くなってしまったのは事実だけど、明確に私の走る理由の一つ。きっとテレビで見ていてくれていて、私の勝利を嬉しそうにご近所さんに報告したりしてくれている。そのつながりは、消えることはない。今でもずっとじいちゃんは、私の大切な人の一人だ。
過去は決して、途切れない。
なら今の私の悩みも、きっと今までのどこかに解決の糸口があるのだろう。そんなことを思いながら、祈りを込めて手水所を後にする。
これまでのことを想った。だから、これからを見遣るために。
そうなれば、あとは拝殿に向かうのみ。初詣に来たのはそれなりに大きな神社で、それなりに大きな拝殿だった。何でも祈れば確かに応えてくれそうな、荘厳な神社。神頼みなんてあんまりしないけど、そう思わせるくらいの迫力はある。
……この瞬間に願うことがもし決まっているのなら、私の抱えるものはどんなにか楽だっただろう。わからない。空を切る感覚だけで、何も掴めない。それなのに、何かがあることだけはわかる。もどかしさだけが存在して、確かに空は広がったまま。
よしんばこの神社に祀られているのが全能の神であっても、知らないことはどうにもできないものだろう。そして全知であるならば、手の届かない場所への歯痒さを感じてしまうものなのだろう。神様も人も結局は同じなのかもしれない。どこまで行っても、理想は自分より高く持ってしまう。神様の気持ちなんて、わからないけどさ。
けれど私は、一歩ずつ拝殿へ歩を進める。集まる人だかりはここまでで一番多くて、少しずつしか賽銭箱の方へは進めない。まったく、どうして私一人でこんな苦労をしなければいけないのだろうか。そんな愚痴をこぼす隙間さえない密集状況。トレーナーさんが恨めしい。あとで文句を言ってやろうか、なんて思いながらずいずいと。それでもそうやって少しずつ歩けば、ようやく賽銭箱の前にたどり着いた。さて、何を願おうか。
幼い頃の私は、初詣の前から願い事を決めていた。「もっともっとすごくなって、トゥインクル・シリーズでデビューする」そんな当時としては現実を知らない大それた願い事を、あけすけに神に祈れていた。
そしてきっと今は、その願いが叶ったといっていいのだろう。あの頃思い描いていた通りの姿なのかは、わからないけれど。人はどうしても成長する。けれど変わらないものもある。そんな何度も反芻した事実を証明するものの一つが、今の私なのだろうとも思う。今の私は変わったけれど、幼い頃の私の先にある。それは、わかる。……でも、だからこそ。
成長を実感し、今の歩みに今までの重みを乗せることができたとしても。あらゆる変化を積み重ね、私の歩みが大人に向けて変わっていっているとしても。
それでも私は、まだどうしようもなく子供なのだろう。無邪気に褒められたいとだけ願っていたあの頃と、何も変わらずに。
わからない。一番わからないのは、そうやって曖昧なままでいいのかどうか。子供と大人の狭間にいる今が、永遠であるはずなんてないのに。
そんな私の思考は、さながら濁流の如く。一瞬で流れるけれど、止まる気配はさらさらない。だから強引に打ち切って、改めて拝殿を眺める。真正面に見えるのは大きな扉だった。
確か神社の建物は私たちが今見ている拝殿の後ろにまだ本殿があって、拝殿はその窓口に過ぎない、だっけ。幼い私にじいちゃんが教えてくれたことは、朧げになりながらもまだ覚えている。やっぱり未来は、過去の先に続いている。それなら。
ちゃりん。お賽銭を投げ入れて、垂れ下がった鈴をちりちりと鳴らして。かつて教えられた通り、二度のお辞儀を深々と重ねて。ちなみにお賽銭は豪勢に百円だ。これくらい入れれば、チームと自分の両方をお願いしても許されるだろう。……おっと、あと一つ。追加で五十円を投入する大奮発で、もう一つだけ唱えることにした。
ぱん、ぱん。私なりに考えて考えて、それでも時にはわからないことはある。
たくさん、数えきれないほどにある。
そういう時に、人は何かに祈るのだろう。人事を尽くして天命を待つ、というやつだ。
声なく空に響かせる、大切な、大切な願い事は。
(これからもたくさん走って、期待に応えられますように)
そんな私の、未来に繋ぐ願い事と。
(いままで通りみんなと、一緒にいられますように)
きっと私たちみんなの、過去から届く願い事。
そして、最後にあとちょっと。願い事じゃないけれど、届いてほしいと思ったから。
(じいちゃんへ。トレセン学園に行けって言ってくれて、ありがとう)
口にも文字にもできない想いを、今だけ神様に代弁してもらうことにした。こうすれば必ず、遠くの人にも想いが伝わる気がしたんだ。
未来は今から描き出すもので、過去は今を作り上げたもの。だから今を生きる人でさえも、離れた時間に想いを馳せることができる。そうやって思考を届かせられるのは、一番最初の瞬間にも。私にとってトレセン学園での生活は、本当に色々な価値を与えてくれるものだから。未来と過去のどちらも、この場所だから、ここにあるつながりだから意味がある。そこへ連れて行ってくれた人に、感謝したいと思ったのだ。照れ臭くて、面と向かってはまだ言えない。だからいつか口にできるのは、きっとこれも未来の話だけど。いつかの終わりに、胸を張って言いたいな。そう自然と、はじまりから続く終わりの時間を思い描いた。
遠く遠くのはじまりの時。それは今の自分自身にも、今からたった一秒でも進んだ先の自分自身にも、深く深く関わるもの。過去と未来が連なっているのは、最初の軸が存在するから。
そしてそれを忘れないから、今この瞬間に過去を想えた。
未来を願えた。
一年の初日からその一年すべてを予見するなんてできっこないけど、このことを願うことそのものに意味があるのだろう。
なんとなく、そう思った。このこともまた新しい発見。たとえば幼い私がいくら初詣に出向いてもわからなかったけれど、今の私ならわかること。それも成長だった。
私はやっぱり、前に進んでいる。
うん、少し気持ちは晴れた気がする。未だ消えない鈍色の霞。昔の私なら、きっとその先に進むのを諦めてしまっていただろう大きな迷い。だけど今の私なら、諦めないという選択ができる。恐怖に瞳が震えても、前を向く顔を逸らさないことができる。
これまでやってきたように。これからも歩みつづけられるように。
人の流れは相変わらずごった返していて、参拝を終えたあとに出ていくのも一苦労だった。ウマ娘として少し大変なのは、そんな人混みで尻尾にうっかり触れられるとびくっとなってしまうことである。いや、痴漢とかじゃありませんよ? それくらい大賑わいで、初詣というものはたくさんの人のお願い事が詰まっているんだなあというだけで。そしてその中の一人として、私も新年の幕開けを祝っているんだなあというだけで。その事実を噛み締めるだけで、ちょっと幸せだった。
そうしてなんとか人混みを抜け出したあと、目の前に何個も立ち並んでいたのはおみくじ屋さん。「屋さん」という表現が正しいのかはわからないが、出店のようなものではあるはず。
参拝して気持ちが神妙になっているところに漬け込んで、気が乗ってる客からおみくじ代を頂戴する。そんな悪徳な出店だ。
なんて罰当たりな冗談は心のうちに留めておいて、私もこつこつとそちらへ歩いて行く。なんとなく気持ちは高揚していて、着て来た冬着も若干汗ばんでいた。いや、さっきの人混みが暑すぎただけかも? まあ、それはともかく。
「すみません、おみくじひとつお願いします」
「はい、ではこちらを振ってください」
というわけで、お金を払い、がしゃがしゃ、がしゃがしゃ。
振って振って、きっと願いや祈りを込めて。
信心深いとかそういうことはかけらもない私だが、こういった行為に儀式的意味合いがあることはわかる。多分お金を払ってはいあなたの運勢はこうです、と言われるのとは違うから、ある程度自分の力が関わるから、普通の占いとは一味違うのだろうけど。
普通の占いがどういうものか知らないけどね。あれはあれで多分意味があるんだろう、フクキタルさんじゃないけど。
……ほどなくして、おみくじの番号を示す棒が出て来た。白いひらひらのついた服を着た巫女さんが、それを確認して番号を読み上げる。そういや巫女さんって、こういうイベントの時だけバイトで募集してるんだっけ。グラスちゃんとか、ひょっとしてどこかの神社でやってたりして。私はいいや、正月から仕事したくないし。
「はい、十七番ですね、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
まあそういうわけで、おみくじをうやうやしくいただいて。少し人の少ないところに移動してから、恐る恐る開いてみる。そりゃそれなりに緊張しますよ、一年の運勢なんて言われたら。えっと……わお。
『大吉』
まさかまさかというか、日頃の行いの賜物というか。私にとって適切な表現がどちらなのかは思い浮かばないが、なんと、大吉だった。いや、素直に喜ばしいことだろう。もちろんそんな運だけの話でで喜びすぎてもいけないのだが、頬が綻んでしまうのも無理はない。
うん、仕方ない。
とはいえやっぱり「大吉」というだけで満足してはいけない。おみくじというものは運勢をただ書いてあるだけのものではなく、多方の行動における指針のようなアドバイスのようなものも書いてある。待ち人とか、失せ物とか、恋愛とか。これも流石に大吉と言った感じで、大体いいことが書いてあった。どこまで信用するかは本人次第なものではあるが、こんなにいいことが書いてあったなら、今年はいい年になってほしいよねえ。
けれど総評として、おみくじに一番大きく書いてあった文言。それが一番、私に勇気をくれた。神社のものなので堅苦しい言葉遣いだったけど、私らしく言い換えてやると、こうだ。
『決して焦らず、今まで通りゆる〜く歩むべし』
……少し砕きすぎただろうか。とはいえそういうことならば、私はやはり、私なりにやるしかない。有マからずっと揺らいでいた気持ちが、何かの支柱を見つけた気がした。これこそ神様のおかげ? なんにせよ、過去と未来を見据えられた。じいちゃんのためにも、みんなのためにも、私はまだ走りたい。応えたいし、それ以上に驚かせたい。その気持ちは、変わっていないとわかった。……そうなってもやはり、グラスちゃんの言葉は気になるけど。
グラスちゃんの人を見る目は、鋭い。私たち同期の中では、一番か二番を争うくらいに。
付け加えておくと対抗バはスペちゃんだ。スペちゃんが感覚的に人を捉えるなら、グラスちゃんは人の些細な違和感を見つけるのに長けている。だからそんなグラスちゃんが私に感じた違和感は、きっと確かに正しいはず。なにせ私自身もずっと感じているものだ。
どこか歪な感覚。取り返しのつかないところまで、ぎりぎりに迫っている感覚。それは、確実に存在した。薄く薄く、青を翳らせていた。
それでも私にできることがあるとすれば、いままで積み重ねて来たものを信じること。期待されたいと願ってトレセン学園に来て、いつか諦めた褒められたいなんて願いまで思い出して。そして今度こそその気持ちを捨てずに積み上げて、クラシックでは二冠を果たした。そして今、そこから先へと走り出している。そう、今だって前に進んでいる。みんなのおかげだ。そして、私自身が打ち立てた成果だ。私とみんなのつながりが生んだ、すべての結晶だ。
境内の人の流れを逆向きに歩いて、ほどほどの時間で私は初詣を終える。神頼みのおかげと言えば身もふたもないのだが、今日で少し何かが見えた気がした。この先に進むための手がかりとなりうる、何かが。未来は刻一刻と迫っている。過去は秒刻みに手元から離れていく。けれど今現在があるから、私たちはそれらを結びつけられる。結び繋げて連ねることができるのなら、私たちはきっとどこまでも舞い上がることができるのだ。
今は、そう信じていた。
目を背けられない恐れになんとか立ち向かうために、そう希っていた。
……ちなみに、なんで初詣に他の誰も来なかったのかというと。
「ええ、トレーナーさん腰痛めたんですか!? いやすみません、全然LANE見てなかったです」
「そうなんです、それで今日はお流れに。……ちなみに一応後日ということになってるんですけど、スカイちゃんは」
「いや、流石に二回も行かないですよ。若干申し訳ないですけど」
と、いうことらしい。行って帰ってチーム部屋でのトップロードさんとのエンカウントで、ようやく気づいた真相であった。流石にお気の毒ですね、トレーナーさん。あとで私も見舞いに行こうかとかそんな気持ちの余裕も生まれていたので、一人でこの寒い中初詣に行かされた恨みつらみを吐くこともなかった。
まだ、余裕はあった。
だから、それでよかった。
「あけましておめでとうございます、セイちゃん」
「アタシもあけおめ、コトヨロデース! 初夢にマンボが出てきました!」
「二人とも、あけましておめでとー。エル、それは実はとんでもない初夢かもよ」
「えっ!? そうなんデスか!?」
「スカイさん、新年早々大嘘を吐かない。……みなさん、あけましておめでとう」
「キングちゃんも、あけましておめでとうございます〜」
正月休みが明けて、トレセン学園も新学期。そうなればクラス中で年明けの挨拶が行われていて、放っておけばその応酬だけで教室が溢れかえってしまいそう。もちろん私たちも類に漏れずといった感じで、いつものメンバーで今年初めてかつ相変わらずの掛け合いをしている。
正確には、一人足りないけど。
「ええ、おめでとう、グラスさん。……私が最後かと思ったけど、一人足りないわね」
「スペちゃんデスね! キングは同じ寮だから、一緒に来るかと思ってました」
「なんで私がそこまで面倒見なきゃいけないのよ。一流には一流の登校というものがあるの」
「なにそれ、キングも適当言ってない? まあ初日から遅刻なら流石に心配だけど……っと、来た来た」
「ええ、来ましたね〜」
というわけで、遅れているのはあそこから走ってくるスペちゃんである。ここからでも、その慌てた表情はよく見える。廊下の外から教室の中へ、チャイムぎりぎりにやってくるその子がよく見える。ギリギリセーフ、だね。
「みなさん、あけましておめでとうございます! 今年もスペシャルウィークをよろしくお願いします!」
そう教室に入るなり思いっきり叫ぶという奇行については、ギリギリアウトかもしれないけど。なんかスペちゃん、今年はますます気合い入ってるなあ。そうなるともちろん、私も負けてられないのだけど。いや、あんなふうに大宣言するところに張り合おうという意味ではないのだけど。
クラシック三冠を獲り合ったライバルとして、スペちゃんと私はこれからも良き仲を継続していきたい。当然スペちゃんもそう思っていてくれたら嬉しいけれど、待っていてくれるわけがない。必死に走って、それでも並んで。そうあるのが、私たちの関係だろう。
……だから私は、このままではダメなんだ。このところフラッシュバックのように、霞の形を視認できる時がある。このままではいけないと、それはわかる時がある。それだけは、わかる。
けれど、それだけだった。暗雲とまではいかない薄雲は、絶えず青空を遮っている。はっきりと捉えられるのは一瞬で、だけど心にかかるのはずっとで。いつか消えるだろうか。膨らみつづけてだけども触れられない、そんな不安は私を決して満たさない。
ただ、抱えてゆくだけ。ようやく鳴り響くチャイムと共に、私たちはそれぞれの席へと帰った。新年を迎えても、私たちは変わらないはず。だからこうやって離れ離れになることも、変わらないはず。自分の席に着く。授業が始まる。そして、私は。
独りに、なった。
新年最初の授業なんてのも、うとうとしていればあっという間に昼休みまで時間は進む。これも、変わらない。私たちの昼食といえば食堂で集まるというのも、やはり年を明けてもそのまま。これも、変わらない。スペちゃんが一人だけこんもりとご飯を盛っているのとか、しばらくぶりに見ると懐かしさも感じられたり。変わらない日常は、年を明けても変わらない。何事も変わるけれど、変わりゆくものの中にあるからこそ日常は得難いのだと思う。
ちなみに新年でも変わらないそんなルーティンの中で唯一法則性のないものといえば、会話を切り出すのが誰からかということ。これもある意味、変わらないことではあるけれど。アトランダムなのがいつも通りだ。
誰から話すか決まってないから、常に楽しいのかも、なんてね。誰が話題を切り出すかによってその日の会話は大きく変わるのも、楽しみの一つなのかもしれない。
では誰がどんな話題を出すのかというと、たとえば私だってたまにはくだらない話題を提供することもあるし、他にはエルもどっちかというとくだらない寄りの話題が多いかな、という感じで。そしてグラスちゃんとキングの話が真面目よりとはいえなかなかノンジャンルなので、私たちの中で切り出す話題が一番実のある話? な子といえば。
「あの、そういえば! みんなにすぐに報告しようと思ってたんだけど、私すっかり忘れちゃってて」
「あらどうしたんですか、スペちゃん」
実は、それはスペちゃんなのである。
こんな感じでスペちゃんは私たちの中でも一番真面目な子なので(ちなみに一番不真面目なのは当然私だ)、スペちゃんが話題を切り出すと真面目な話の展開になることが多い。まあ大前提として、誰がどんな話題を切り出してもそれを嫌がる人がいない、みたいな仲なのはあるんだけどね。我がごとながらいい友人を持ったなあ、と思う。もし私もみんなからいい友人だ、なんて思われているのなら、結構嬉しいかもね。
直接そんなことを聞ける機会なんて滅多なことじゃないだろうから、想像だけどさ。
とはいえ、そんなこんなで。グラスちゃんが促すと、スペちゃんは意気揚々と自分の話したいことを話し始める。跳ねる耳、揺れる毛先。きらきら光る薄紫の瞳。
うん、今年もスペちゃんは元気いっぱいだね。
「実は、<スピカ>で新年会をやったんです! それもスズカさんも一緒に! リハビリが順調で、ギプスも取れて、それで」
「ちょっとスペシャルウィークさん、もう少し落ち着いて喋りなさいな」
「スズカさん、ギプス取れたんデスか!? やっぱりアタシの初夢初マンボ、吉兆デシタね!」
「こらこら、エルも落ち着いて。……でも、チーム<リギル>としても。スズカさんがまた走れるようになるのは、嬉しいことです。スペちゃん、また走れるのを楽しみにしていますと、伝えておいてくれませんか?」
「うん! スズカさん、きっとグラスちゃんがそう言ってたって聞いたら喜ぶと思う!」
「エルもよろしくお願いしマース!」
「うん! 二人ともありがとう!」
なるほどなるほど、スペちゃんの盛り上がりはそういうことか。きっとそのせいで昨日疲れ果てて、今日は寝坊しそうになったに違いない。それだけ楽しかったってことなら、今日の寝坊も何よりだよね。それにしてもスズカさん、相変わらず後輩たちに慕われてるなあ。スペちゃんの話に反応するグラスちゃんにエルを見て、そういうのはやっぱりいいなって思った。順調にリハビリを進めて、また夢や憧れとして光輝くその日まで、みんながスズカさんに期待している。なんて、私はそれを遠巻きに眺めつつ。
「よかったね、スペちゃん」
「……うん、セイちゃんもありがとう」
って、私に言えるのはこれくらいだ。やっぱりスズカさんのことを知らない私に、尽くせる言葉はほとんどないけれど。言葉を尽くして、これが精一杯だけど。
その一言に込めた気持ちは、嘘でも誇張でもない。私の本心。言葉にできないとしても伝えたい、きっと心に秘めたもの。
私はまだ、スズカさんのことをよく知らない。だから、これから先知ることができる。
私たちには、まだ見ぬつながりが待っている。
スズカさんの手で、その奇跡の手綱は掴み取られた。
ならば私も、いつか同じ場所に追いつきたい。夢に近い走りを見せたあの人のように、私だってそうなりたいから。だから私は、これからも走りつづけるんだ。
最強最速の「逃げ」を相手に、私の「逃げ」を見せてみたい。たとえば、そんな動機。あるいは同期のみんなが憧れるその人に、私も親しくなってみたい。たとえば、そんな動機。我ながら柄にもなくミーハーだけど、そういう動機で私はスズカさんのリハビリを応援する。
そして何より、沈黙を超えた栄光を見せてくれた人なのだから。私だってスズカさんのように、己の前に立ち塞がる壁を壊してみせるんだ。
「私はスズカさんのことはあんまり知らないけとさ。スペちゃんがそれだけ大事にしてる憧れなんだってことは、もう十分知ってるから」
あとはもしかしたら、そんな動機。親愛なる君のことだから、友達たる私としてはうまくいってほしい。そんな笑っちゃうくらい単純で、だけど揺るがせないくらい純粋な気持ち。
だから多分、これは今の私の道標になるものだ。
「それに、次の春の天皇賞。スペちゃんも出走考えてるって、聞いちゃったからね」
「うん、トレーナーさんもそう言ってた。……セイちゃんとは、菊花賞以来だね」
「そう。だからそれまでにスペちゃんには、心身共に健康になっててもらわないと。そうじゃなきゃ、張り合いがない」
「……うん。もちろん、だよ」
だから、この気持ちは道標になる。スズカさんのことが心配だったせいで勝てなかったなんて言い訳、スペちゃんにさせるわけにはいかないから。不安を理由に、気持ちの問題で走りを損ねてはいけないから。当然スペちゃんの走りから元気を貰うだろうスズカさんのためにも、闘いの場にて相見える私のためにも。全力のライバルとぶつかりたい、それが私の道標。
もっとも、似たようなことは私にも言えてしまう。不安を抱えて走るわけにはいかないのは、私も同じだ。私もその日までに、霞がかった何かを打ち消さないといけない。私にも、私のやらなきゃいけないことがある。天皇賞(春)は、菊花賞以上の距離を誇るGⅠ随一の長距離レース。すべてを剥き出しにする過酷な戦場で、私だって私の全力を出さなきゃいけない。今まで通り、最高のレースをするために。
……実はこの問題を解決できるかもしれない、一つわかりやすい手はある。シンプルで、直球な一手。私の中の迷いを見出した張本人たるグラスちゃんに、なりふり構わず聞いてしまうこと。たとえばこの場でもいい。あとでもいい。グラスちゃんは多分、まだ私がこの霞を解消できていないと知っている。だから多分、話せば聞いてくれる。そうして力になろうと、彼女なりに尽くしてくれるだろう。
(……いや、これはダメだ)
それでも、私はその手段を選ばなかった。私がそうしない理由は、大きく分けて二つある。
一つはやはり、自分で解決すべきという気持ち。頼るばかりではなく、頼られる私になりたい。
もっと私は、成長したい。その点ではグラスちゃんが上を行っていて、私はまだまだ子供なのだろう。けれど、そこで終わりじゃないはずだ。それを証明するために、私はできる限り自分で何とかしたい。もちろん他人の影響は受けるとしても、そこから答えを見つけ出すのは自分自身がいい。答えをそのまま聞き出してしまうのは、きっと成長とは呼べないから。
そしてもう一つ。それに思考を移すタイミングで、ちょうどグラスちゃんが話題を切り出し
た。昼空に涼しげな陰を落とす静かな茶飲み話として、だけど皆が聞き入る話題として。そんな彼女の態度から、私が導き出すもう一つの理由がある。
「そういえば、今年のウインタードリームトロフィーも素晴らしかったですね。<リギル>からも、多くの先輩方が出走していました。……本当に、素晴らしかった」
グラスちゃんは、何気なしにその話題を切り出す。けれど私には、いやおそらくこの場の全員にわかるのは、彼女のその言葉は憧憬や羨望などではないということだった。
グラスちゃんの視界は、既に遥か高みまで開けている。その目の前にあるものすべてを、見据えている。もしも空に果てがあるのなら、果ての先まで見ようとしている。チーム<リギル>には比類ない成績を収めたウマ娘が数多く所属していて、自分もいずれそこに並び、あるいは追い越そうとしている。それだけ、彼女の理想は高い。一人の少女の持つものとしては、脆さを感じかねないほどに強すぎて。
それが、私がグラスちゃんに聞けないもう一つの理由だ。彼女は既に、あまりにも多くの願いを抱えている。彼女が勝利を願うのは、前回の自分が超えられなかったすべてに対してだ。彼女にとっての勝利とは、不甲斐ないかつての己を赦さない、そのために今の己を肯定する概念。だからこそ、彼女は強く在る。勝利によって、柔らかな素肌にまでやすりをかけるのだ。
スズカさんが故障したあの日、私はグラスちゃんと電話で話をした。あの時決壊したようにとめどなく言葉を流していたのも、きっと紛れもなくグラスちゃんだ。
そんなグラスちゃんを、私は知っている。
グラスちゃんは強いけれど、だからこそぎりぎりまで抱え込んでしまう。強くあろうとするからこそ、他者に優しく自分に厳しい。他の誰かの不調さえ捉えてしまえるその眼は、きっと見ようと思えば何もかもを見えすぎてしまう。それなら、背負うべきでないものまで背負わせられない。私の悩みについて、これ以上は彼女に依存できない。最初に示してくれただけで、十分。それが、私の結論だ。
「ドリーム・シリーズのレースの一つ、新年を祝うウインタードリームトロフィーね。ドリーム・シリーズのレースなんて滅多に観れないものだけど、錚々たるメンツだったわね」
と、グラスちゃんの発言にキングが補足説明を入れる。ドリーム・シリーズとはその名の通り、夢のレースが繰り広げられる舞台。私たちが今競い合うトゥインクル・シリーズで相応の成績を残したウマ娘だけが、秘密裏に招待されるものらしい。
つまりそこにあるのは、世代を代表するウマ娘同士の、世代を超えた勝負。
まさに、夢の舞台。
グラスちゃんは、そこを目指しているんだ。
「はい〜。おかげで<リギル>では、新年会のタイミングが無かったのですが」
「あ、それは私もだよ。<アルビレオ>で初詣に行くって言ってたのに、トレーナーさんが連絡もなしに、腰痛めたからって日程ずらして」
「それはあなたがLANEを見てないからでしょう、おばか」
うわっ、キングが拳を飛ばしてきた。私は彼女の隣に座っていたので、更に隣のエルのところまで思わず逃げる。そうしたらそこまで全力で逃げなくてもいいじゃない、とキングに呆れられた。いや、そんなことない。遺憾だ。あのげんこつはちょっと本気だったでしょ、絶対。
みたいな感じの一瞬のわちゃわちゃのあと、また会話が再開される。また、スペちゃんからだった。今日はいつにも増して元気に見えるね、うん。
「ドリーム・シリーズかあ……。<スピカ>でも新年会で観たんだけど、すごかったなあ……」
「アタシはいつか、あそこで走りますよ! みんなもあれを見て、そう思いませんデシタか!?」
そしてその会話を引き継ぐのはエルだった。そういえばエルの目標は、「世界最強」だったっけ。そうなれば世代の最強としてドリーム・シリーズに名乗りを上げるくらいは、それすらも彼女にとっては通過点なのかも。けれど多分エルのいう通り、ドリーム・シリーズを狙っている子はここには多い。グラスちゃんは当然として、スズカさんと一緒に走りたいスペちゃんも。
ならば。それならば、他にもいておかしくなかった。
「そうね。一流に最も相応しい場があるとしたら、ドリーム・シリーズはそうであってもおかしくない」
ほら、キングも。……そしてみんなが果てのない未来を向くのなら、私の中に生まれるのは、こか置いていかれていく感覚。私だけ、私だけが。私の先にあるものは、どうなんだろう。何気なく日常的に会話を重ねているが、ここに集まるのはジュニアからクラシックまで相当な戦績を収めたハイレベルなウマ娘ばかりだ。恐れ多くも、私含めて。ならばその目標は高め合い、競い合うものであってもおかしくないのだろうけど。それに相応しい舞台があるのなら、その戦場を目指すのも何もおかしくないことだけど。だけど、私は。
……そんなふうに考えていた時だった。キングはまだ、言葉を続ける。その台詞はここまでの流れに反して、されどこれ以上ないくらい自分らしく。キングらしい、言葉で。
「……でも、私はまだまだね。あなたたちと今の段階で同じ目標を持つには、私には積み上げてきたものが足りない」
「キングちゃん、それは」
「慰めは不要よ、スペシャルウィークさん。これはただの事実。たとえば私はあなたより弱いなどと思ってはいないけれど、戦績の上では歴然とした差がある。それだけのこと」
そこにあるのはきっと、言い方次第では弱音になるはずの言葉なのに。キングの告げた意味合いは違った。ただ彼女が見ているものは、他の誰かとは違うということ。そのことだけを、みんなに伝えていた。ライバルたる、みんなに。
たとえばグラスちゃんは目の前すべてを捉えて見ているけれど、キングはその逆だった。彼女はむしろ、自分の視界を極限まで絞っている。一つ一つの物事に、己が全身全霊を割いている。それが、キングの戦い方なのだろう。それが、彼女らしさなのだろう。それはグラスちゃんがさっき見せた強さとは違う。もちろん私とも、違う。
「……なるほど。キングは流石だね」
「スカイさん、あなたも首を洗って待っていることね」
「おお、怖い怖い」
ふと漏れた賞賛に、返されるのは鋭い言葉。けれど彼女はこう言いたいのだろう、「それまでは、私たちはライバルだ」と。グラスちゃんも言っていた言葉だ。私たちはどこまでも、競い合うライバルで。見つめ合う、友達だった。
ならば、やっぱり。私たちはやっぱり、高め合う仲間なんだ。
「さて、そろそろ食器を下げましょうか。スペちゃん、その量一人で持てますか?」
「うわっありがとうグラスちゃん! でも平気、慣れてるから! ……とぉっ!?」
「はい、キャッチ。スペちゃん、無理は禁物だよ」
「ごめんセイちゃん、ありがとう」
「セイちゃん、ナイスキャッチ、デス!」
「まったく、スペシャルウィークさんったら……エルコンドルパサーさんも、見てる暇があったら手伝いなさいな。一人だけ五倍は食べてるんだから、この子」
さて、そうして新年最初の昼休みは終わりを告げる。久しぶりにみんなと話して、少し肩の荷は下りた気がした。初詣の時は一人の時間を有意義に感じたけれど、やっぱり誰かと過ごす時間が必要な時もある。多分、どっちもなくちゃいけない。そのバランスを取ることで、私たちは成り立っているのだろう。
だから、私も一つのバランスを取らなければならない。この先の道を一人で進む時と、誰かと共に進む時。曖昧なのは好きだけれど、時には舵取りをしてどちらかに確定させなければいけない時もある。たとえば次の春の天皇賞までも当然トレーナーさんたちチームのみんなに支えられるだろうけど、最後にものをいうのは私一人の力だ。私が、頑張らなければいけない。
けれどそうしてきたのだって、今まで何度も繰り返して成長してきた証明のはずだ。みんなに頼って支えられて、だけど結末にある答えを見つけ出すのは自分自身。走ることでしかわからないことがあるから、私にしか持てない感覚がある。だから、私にも私らしさがある。……それは、今までならそのままでよかったやり方だ。
つまりやっぱりそれでは、今私に足りないものの解答にはならない。
このやり方では、この先には行けないのだろうか。どうすれば、私は大人になれるのだろうか。
ウインタードリームトロフィーを観た時、私はあのレースを遠くに見てしまっていた。届かない、本当に夢だとしか思えなかった。そのことは今日、みんなには言い出せなかった。「あれはすごいけど、私たちは私たちで頑張ろうね」そう言うことはできなかった。みんなは、もっと違う視点を持っていたから。みんなと同じで私も未来を見ていたはずなのに、どうして同じように「私もあそこで走りたい」と思えなかったのだろう。
それはキングが出した結論と、果たして同じような理由だろうか? 目の前に集中するため。そんな前向きな理由だろうか? 自問自答を繰り返し、その上にまだ存在するものがあるとしたら、ただ歩んだという感覚だけ。その歩みが前に向けてなのか後ろに向けてなのか、そんなのだってわからない。結局その日もどこまでも、得体の知れない不安が残った。不安というのも不適切かもしれないけど、何もわからないからそうとしか形容できなかった。
新年早々のトレーニングも順調にこなせた。
授業の感覚もすぐ取り戻した。
ありふれた日常は、いつものように戻ってきた。
私だけが、どこかへ行っていた。